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隠し事

「仁科、否定しないの?」

「何が?」

 主語の抜けた塩谷の言葉に、仁科はとぼけた返事をした。正直、聞き飽きていたからだ。案の定塩谷は「宮崎さんの事だよ」と言った。

「最近そればっかだな」

「何さ、心配してんのに」

「俺がお節介だって言ったの、もう忘れたのか?」

 納得がいかない様子の塩谷へ「勉強の邪魔」と言ってやると、仁科は机の上から筆記用具を片付け始めて、教室を出る準備をする。

「あれ? 仁科、なんで片付け?」

「図書室行く。授業始まるまで」

 素っ気なく言うと、塩谷はばつの悪そうな顔をした。自分が煩く話しかけた所為で、仁科が場所を変えたと思っているのだ。実際その通りだったが消沈されると罪悪感を覚えてしまい、胸の奥が小波立った。

「仁科、噂とかされてなんで平気なわけ?」

「興味ないから」

「……強いなぁ」

 塩谷はまるで眩しいものでも見るかのように、仁科の顔を見上げている。そんな視線を遮るように、仁科は塩谷に背を向けた。

「でも、宮崎さんも、仁科みたいに強いって言えるの?」

 その言葉に、仁科は振り返った。

 奇妙な気分に、させられたのだ。

「お前、宮崎はヤバいって俺に散々言ってただろ。どういう心境の変化だ?」

 何だか今の塩谷の台詞は、他の生徒達とは違っていた。侑に好意的ではないにしろ、同情的な気がしたのだ。「同情」という言葉では不適切な気もするが、それ以上どう言えばいいのか分からない。塩谷は、照れ臭そうにはにかんだ。

「僕、周囲の評判だけで、宮崎さんって駄目な人って思ってたんだけど、昨日間近に見てちょっと考え変えたんだ」

「昨日見ただけで? そりゃあ、随分とまあ変わりやすいんだな」

「そう言われたら言葉がないけどさ。ただ、関わりたくないとは思ってるけどね。自分まで一緒に噂になったり、悪口言われるのヤだし」

 素直な告白に、仁科は声が出なかった。

 その台詞が塩谷の口から出たことが、ほんの少しだけ意外だった。

「……腹の底ではそう思ってる、とは思ってた。けど、お前がそこまで言うとは思わなかった」

「そんな大げさな。僕はこういう奴だよ? 大体さ、それくらいの器でないと、こんな変人の友達やってらんないって」

 こんな変人、か。塩谷へ投げかけた件の問いを、仁科は思い出していた。

 ――お前、俺の友達なのか?

「ふぅん」

「何?」

「さっきのさ、言い過ぎなくらいの発言、いい。気に入った」

「え?」

「お前はもっと、臆病だと思ってた」

「……仁科さ、ちょっと変わったねって思ったけど、違ったんだね」

「?」

「僕は宮崎さんについて詳しいわけじゃないけどさ、何となく思うよ。――仁科と宮崎さんって、少し似てる」


     *


 茜色に染まった校舎を歩く仁科は、ふと下駄箱付近で足を止めた。

 珍しく、今日は侑と一度も会っていない。それに気付いたからだった。

 あの出会いから一週間以上経っていたが、その間、毎日顔を合わせていた。それは大概、侑が朝や放課後に仁科に付き纏うという極めてストーカー的なものだったが、今日はまだそれがない。

 とはいえ、仁科の下校時間はいつもばらばらだ。大抵は家業の手伝いでそそくさと帰るが、一週間のうち二日は学校の図書室に居残っている。家業での予約が少ない日などがそうだ。それを考えると侑が放課後の仁科を捕まえられたのはまぐれに近い。

 大したストーカーぶりに、仁科は自然と苦笑した。慣れとは恐ろしいものだと思う。いつも元気で、どこか高飛車な響きの声。それが無い日常から、随分自分は離れてしまっていた。

 そして高飛車という言葉から、ふと連想するものがあった。

 ――『不思議の国のアリス』

 主人公の少女アリスが、頭の中に浮かんだのだ。

 何故だろうと考えてみて、すぐ理由に気が付いた。

 簡単な事だった。あの物語の主人公に対して抱いた感想がそれなのだ。

 実は仁科は先日初めて、小説版の『不思議の国のアリス』を読んでいた。侑のことを『チェシャ猫』と評したことで、懐かしさを覚えたからだ。

 そしてアリスという少女の行動力に慄き、大いに呆れ果てる事になったのだ。

 好奇心をきっかけに不思議の国へ迷い込んだ、幼い少女アリス。

 だがアリスが取った行動の数々は、勇猛果敢と言うより猪突猛進という風に仁科の目には映っていた。

 得体の知れない薬物をほいほいと口に含み、巨大化した身体でもって他人の家をぶち壊し、非礼への謝罪もないままに行く先々でトラブルを起こす。そのくせ自分に対して絶対の自信を持っているような言動は常に強気のものであり、足取りにも躊躇いがまるで感じられない。こうやって列挙してみると、好奇心に満ち溢れた少女というより、剛速球で接近する大型台風のように思えてくる。勿論、偏見だと自覚はしていた。

 おしゃまで、高飛車。それに行動的。

 ああ、と仁科は納得した。

 これでは、まるで侑だからだ。突飛で向う見ずな行動。初対面の相手への不躾な態度。小説の中の登場人物のように侑は行動し、歌うように言葉を紡ぐ。それはさながら、演劇のように。どことなく芝居がかった調子の喋り方にも既視感を覚え、もう一度仁科は納得した。

 道理で、変だと思ったわけだ。そんなものが現実に紛れ込めば、異物になるのは当然だ。

 仁科は無為な思索を打ち切って、下駄箱へ向かって歩き出したが――飴色に輝く景色の中に、ふと、歪なものを一つ見つけた。

 前方の下駄箱から廊下へ向かって、影が真っ直ぐ伸びている。人の影だ。形から想像する限り、恐らく簀子の上でしゃがんでいる。すすり泣きまで聞こえてきたので、仁科は内心でぎょっとした。

 上ずった泣き声は、その人物が女子であることを示している。しかも尚悪いことに、その泣き声の主のいる場所は仁科の靴箱に近かった。そこを通らないわけにはいかないのだ。泣いている女子には悪いが辟易する仁科の前で、髪形の影が揺れていた。

 少し長い、緩く波打った髪だった。

「……」

 影を見つめた仁科は、やがてそっと歩き出す。

 みるみる下駄箱が近づいて、仁科は少女の影を踏んだ。

「あ」

 少女は涙に濡れた顔を上げて、突然の闖入者を見上げてきた。仁科は、吸い込んだ息を吐き出した。やはりか、と呆れてしまう。結局、今日も出会ってしまった。

「何やってんの? お前」

 不思議と驚きはなく、涙を意外にも思わなかった。感情の起伏の激しい相手だ。簡単に怒るように、簡単に悲しむ。そんな事もあるだろう。

 だが、仁科のぞんざいな声かけに、侑は涙を拭いもせずに、仁科を、じっと見上げてから――笑った。

「仁科だ」

 その声に、何故か息が詰まってしまった。

 泣いている女は、苦手だ。できる事なら、関わりたくない。だがこいつなら平気かもしれない。そう思って近づいた。軽い気持ちだったのだ。

 それが、裏切られた気がした。

 まるでチェシャ猫のように、ずる賢そうな笑い方。こんな時でさえそんな顔ができる侑に、仁科は内心で大きな衝撃を受けていた。

 ――何故、自分なのか。

 ずっと感じていた疑問が、また頭をもたげていた。


 *


「私、パフェがいい」

 メニューから顔を上げた侑が、隣のカウンター席に座る仁科を見つめてきた。

「好きにすれば」

 仁科は、メニューを一瞥する。水だけ飲む気でいたのだが、やはり何も頼まないわけにはいかない。コーヒーにしようと決めてメニューを閉じた。

「え、仁科ってばいいの? パフェよ? 高いわよ」

「どうしてお前は、俺がさも奢るような言い方してるかな」

「女子が喫茶店入ろうって言ったら、男子は奢るものでしょ? あ、割り勘とかやめてよね」

「とんでもない奴だな。割り勘なんかにしたら俺のコーヒーの値段が跳ね上がるだろうが」

「けち」

 仁科は黙殺すると、メニューをもう一度見直す侑を仏頂面で待った。

 どうして自分が、侑と喫茶店にいるのか。考えるだけで頭が痛い。だがメニューを見る侑の目が赤いのを見てしまうと、それ以上不平を述べるのを躊躇ってしまう。仁科は、諦めの溜息を吐いた。

 早く家に帰りたいとは、どうにも言いにくくなってしまった。


 *


 時間は、少しだけ遡る。

 体操座りでこちらを見上げる侑に、仁科は声を掛けた。

「……お前さ。なんで、こんなとこで泣いてんの?」

 それを聞いた侑は、やはりまた笑った。他者への侮蔑があからさまな、いつも通りの笑みだった。

「なんでだと思う?」

「分かんないから訊いてる。どうでもいいけど」

 気怠く返すと、侑は愉快そうに笑い出した。顎先から伝った涙が抱えられた膝で跳ねたが、既に泣き止んでいるようだった。

「仁科、勉強はできるのにねぇ。ねえ、なんでか分かる? 苛められたとか、先生に叱られたからじゃないわよ。そんなくっだらない理由じゃないんだから」

「じゃあ、どんな理由だ」

 侑は、不意に笑うのをやめた。代わりに、どこか神妙な声音で言う。

「仁科を、待ってたって言ったら?」

「嘘だな」

 切り捨てると、きっ、と侑が睨んできた。

「どうして、すぐ否定するのよ」

「だってお前、平気で嘘つくから。でも今のはかなり下手だな。なんで俺を待つ為に泣く必要があるんだ」

 仁科は靴を履き替えるべく侑の元へ近づいたが、侑の背中は完全に、仁科の下駄箱を塞いでいた。「ちょっと退いて」と声をかけると、侑は不服そうな顔をした。

「なんでよ」

「なんでって、俺今から帰るし。お前邪魔だから。靴取れないじゃん」

「ひどい、仁科。邪魔って何? 泣いてる女の子ほっぽって帰るなんて」

「……」

 嘘泣きの可能性を疑った。

「あ、後ろ、仁科の下駄箱?」

 そう言って侑は背後を確認したが、すぐに興味を失くしたのか、体勢をもぞもぞと元に戻した。

 つまり、また下駄箱を塞ぐように、背中をもたれかけさせた。

「……分かったから」

 大仰に、溜息を吐き出した。

 仁科達がここで鉢合わせたのは偶然で、これは待ち伏せではないのは分かった。それに侑がはぐらかしてばかりで何も話そうとしない以上、仁科としても侑に訊ねる事などない。最初から、好奇心で訊いたわけでもないのだ。

「……ほら、帰るぞ。それでいいだろ。だからそこを退け」

 妥協の姿勢を見せたが、侑は何故か笑顔を曇らせると、顔を俯かせて膝につけた。仁科には、その行動の意図が分からない。いくら考えても分からなさそうな領域なので「俺、なんかまずいこと言った?」とストレートに訊くと、侑は上目遣いで仁科を見た。

「仁科。帰り、ちょっとだけ付き合ってよ」

「は?」

「デート。デートしよ」

 予期せぬ言葉に、頓狂な声が出た。

 突然ふて腐れたと思ったら、いきなり何を言い出すのだ。

「あ、大丈夫。今回はプラトニックにいこうよ。でないと仁科、また途中で逃げちゃうし。いいでしょ?」

「あのなぁ……」

 まだ人を意気地なし呼ばわりしている。文句を言いかけたが、呑み込んだ。

「……人質は、俺の靴か」

「決まりね」

 しゃがんだ侑へ、仁科は手を差し伸べる。

 その手を掴んで、侑はようやく立ち上がった。


 *


 そんな経緯があって仁科は駅近くの喫茶店に来たが、何故こんな事になったのか、仁科自身全く分からないままだった。これでは、完全に侑のペースだ。

 こうして喫茶店にいるのだって、本音を言えば落ち着かないのだ。静かな空間は好感が持てるし、ジャズの流れる店内も居心地がいいかに思われる。だが中学校の制服は、明らかにこの空間から浮いていた。

 仁科も侑もどんなに風貌が大人びていようが秀逸であろうが所詮中二レベルの話であって、明るさを絞った照明が、コーヒーの苦い香りが、店内の全ての人間達が、仁科と侑とを拒絶している。お前たちはどう足掻いても子供だと、四方八方からじわじわと圧迫されている気がした。

 場違いだ。認識している。中学生が放課後に、気軽に寄る所ではない。先に運ばれてきた珈琲に口を付けると、侑が仁科を見上げてきた。

「何」

「仁科ってブラックで飲むんだ、って思って」

「はあ、そう」

 仁科は疲れを感じたが、侑の方は楽しそうだ。さっきは泣いていたくせに、ころりと表情が変わっている。喫茶店に入る必要などなかったのではと思えてくる。「何だ、気持ち悪い」と言ってやると、侑は嬉しそうに「へへ」と笑った。

「だって仁科、最初は私を避けたじゃない。でも今は放課後に付き合ってくれるでしょ?」

「それがどうしたんだ」

「別に」

 つまらない事を言い合っていると、パフェが侑の前に運ばれてきた。二段に盛られたストロベリーアイスと生クリームの山を見て、仁科は心底呆れ果てた。奢らないと断言したのに、結局パフェを選ぶのか。女子のやる事は分からない。夕飯前にそんなに糖分を摂取するなど、狂気の沙汰もいいところだ。

「質問いいか?」

 アイスに刺さったクッキーを兎のように齧る侑へ、仁科は訊いた。

「どうぞ?」

「お前、なんで俺に近づいたんだ?」

 途中で言い方のまずさに気付き、「俺と話がしたかった、って答えは却下」と付け足すと、侑はスプーンを口に咥えて考え込んだ。

「んー……そういう言い方されたら、困るわよ」

「は? お前が困る? 困らされてきたのはこっちだ」

「だって仁科と話がしたかったっていうのは、別に嘘じゃないもの。……あ、じゃあ仁科。私と仁科が似てると思ったから。それが答えじゃ駄目?」

 仁科は、コーヒーカップをソーサーに戻す。かちゃん、と陶器の触れ合う澄んだ音がした。

 最近誰かに、同じ事を言われていた。すぐに思い出す。塩谷だ。

「なんだ、それは」

「んー、説明できない。でも、私達って結構似てるでしょ? 境遇とか。周りに対する見方とか?」

「周りに対する見方? 俺がどんな風に周り見てると思ってんだか」

「馬鹿ばっかり。くっだらない」

 侑はあっさりとそう言った。

 そして何が可笑しかったのか、けたけたと声を立てて笑い出した。

 言い返したい気持ちにもなったが、仁科は何も言わなかった。

 今の発言が誤解なのか本気なのか、それとも仁科への挑発なのか、判断できなかった所為もある。そして反応の遅れは沈黙にすり替わり、仁科から返答のタイミングを奪った。そうなると今更弁解するのも馬鹿らしくなってしまい、ただ気怠く目を逸らした。これでは肯定のようだと我ながら思うが、否定も肯定も、どうでもいい気がした。

「俗っぽい言い方すれば、アレでしょ。〝友達になりたい〟。言葉にしたら、なんだかすごく安っぽく聞こえちゃうから嫌なのに」

「安っぽい以前に恥ずかしい、それ」

 仁科はおざなりに答えながら、侑の態度に微かな疑問を感じていた。

 何故、侑が泣いていたのか。それは仁科が深入りしていい問題ではないだろうし、深入りする気もない。

 ただ、あの時に見た表情が、仁科の頭から消えないのだ。

 怒りや悲しみを煮詰めた気持ちに心が置いてけぼりにされたような、悔しささえ感じられる反面、諦めが浮き彫りになったあの顔を、仁科は確かに目撃した。

 そして、仁科に見られたと気づいた侑の顔が、すぐに切り替わったのだ。

 泣くほどの感情で乱れた心をすぐ宥められるほど、仁科が侑にとっての重要人物だとは思えない。そこまで自惚れられるほどの付き合いをしていない上に、侑と仁科の関係はストーカーとその被害者という図式から、さして変わっていないのだ。

 きっとこの関係は、最大限にいい言葉で表現して「友達」だ。だがそれさえもピンとこないし疑わしい。やはりストーカーとその被害者の方が適切だと仁科は思う。

「ねえ。私も質問していい?」

 侑が、フレークをスプーンで混ぜ返しながら訊いてきた。

「……どうぞ」

「仁科はどうして、そんなに勉強がんばるの?」

 意外な質問だった。

「どうして、って」

「いつも、成績トップで廊下に貼り出されてるじゃない。どうして?」

 しばらくの間沈黙して、仁科は「別に」と濁した。

 狡い逃げ方だった。侑は仁科の質問に一応だが答えたのだ。それを思うと、この返答はフェアではない。侑からの数々の迷惑が頭を過ったが、それらを天秤にかけて己を正当化しようとする心の動きを感じてしまい、仁科は胸が悪くなる。

 だが、侑は「そっか」と答えただけだった。

 それからフレークを頬張って「仁科はコーヒーだけでいいの?」と訊いてきたので、仁科は首を縦に振って、まだ熱いコーヒーを啜る。

 すると突然、にゅっと目の前に侑の手が伸びてきた。

「!」

 指先が頬を掠め、驚いた仁科は身を引いた。コーヒーカップの中身が大きく揺れて、黒い液体がカウンターに飛び散った。

「あー、何やってんの仁科ってば」

「こっちが言いたい。何するんだ」

「髪、食べそうになってたから。払おうとしただけよ」

 そう言って、もう一度手を伸ばしてくる。仁科は手で制して自分で払った。

「仁科、男子のわりには髪長いわよ」

「ほっとけ」

 あしらって会話を断つと、店内に流れている音楽に意識が自然と向いた。確か、ENGLISH MAN IN NEW YORKだ。聴き入るうちに、買ったまま放置し続けたCDの存在を思い出す。少しだけ、焦る。早く、聴かなくてはいけない。

 その沈黙の最中に、侑がぽつりと言った。

「髪。染めようとか考えた事ない?」

 仁科は、侑を見る。

 スプーンを置いた侑と、目が合った。

 その髪色は、色素が薄いという言い訳が通用しないほど明るい。

「……そういや、お前、染めてたな。教師がうるさいだろ、そのなりじゃあ」

「どうでもいい事よ。そんなのは」

 侑はどこ吹く風といった様子でにたりと笑い、何食わぬ顔でパフェを一口頬張った。不機嫌をバネにして笑顔を引き出しているような、どこか昏い笑みだった。こういう所にも宮崎侑が有名人たる由縁が、顕著に現れている気がした。

「俺は教師とこれ以上揉めようとは思ってないさ。ただでさえ遅刻で目を付けられてるんだ」

「ねえ、どうして遅刻多いの?」

「お前に言って、納得してもらえるとは思ってない」

 仁科の放浪癖の理由など、仁科自身曖昧にしか捉えられていないのだ。自身でさえ理解できないものを、どうして誰かに説明できるだろう。

 突き放すような言い方をした仁科を、侑は黙って見ていた。その目線をふっと逸らすと、侑はごく自然に言った。

「外」

「は?」

「外が好きなんでしょ? 仁科は。外って、単純に室外って意味とは少し違って……家とか、学校とか、そういう普段の場所とは違う場所。相手の顔色窺うとか、私の事どう思ってるんだろうとか、好きでいてくれてるのかなとか、必要としてくれてるのかな、とか、本当は要らないんじゃないかな、とか。そんな面倒なものが何もない、排気ガスとかでごみごみしてても、なんかまっさらな感じで、鮮やかなの。――そういう場所にいると、落ち着くんでしょ。開放感とか、そういうの。あんまり好きな言葉じゃないけどね。自分のこと、可哀そうって思ってる子供みたいで。でも今は、そういう言葉しか思いつかないから。……ね、仁科はそういうのが好きだから、つい遅れちゃうんでしょ?」

「……」

 仁科は、何も言えなかった。

 何故だか、声にならないのだ。侑の言葉の重さが、仁科に返答を許さない。何故それを重いと思ったのかさえ分からなかった。コーヒーを口に運び、早くも冷め始めていた苦い味の液体を、喉へ機械的に流し込む。そのカップをかちゃんと置くと、「さあな」と、適当な返事で言葉を濁した。やはり、濁してしまった。

 侑もまた、そんな仁科をやはり見ていた。時間にして三秒か、五秒か、もっと長いかもしれない。

 そして、仁科から視線を外し、「そっか」と言って笑った。

 綺麗に、笑った。それだけだ。だが侑の見せたその笑顔に、仁科はまたしてもはっとした。

 以前にも、こんな事があった。仁科が以前、初対面の侑に対して口を滑らせたのがきっかけだった。

 ――お前も有名なのか?

 仁科は、侑にそう訊いた。その理由を侑に追及された時、仁科は返答を避けてしまった。そんな仁科へ、侑は更なる追及をしなかった。

 侑なら、絶対に食い下がると思っていた。仁科の見せた隙を見逃さずに、絶対に突かれると思っていた。人の物真似をしてけらけら笑う侑には、そんな悪趣味さが多分にあった。

 そんな侑が、仁科の隙を見逃している事に今気づいた。

 以前に侑に見逃された時、仁科はそれを幸運だと思った。侑の気まぐれで、追求を免れたと思った。飄々と笑う侑を見ると、今でもそう思いかけてしまう。

 だが、それは違うかもしれない。

 再び見逃された今、初めてその可能性を意識した。

 侑は、仁科が答えを避けたものを、全て見透かしていたのかもしれない。それは宮崎侑にひどく似合わない言葉に思えたが、侑の仁科への、配慮と優しさかもしれなかった。

 さっき見せた、綺麗な笑顔。侮蔑は、ない。ないように、見えた。

 だが、それを信じていいのか分からない。確証はなかった。全て、自分の妄想かもしれない。侑の台詞が蘇る。それは仁科の妄想でしょ。

「あ。音楽、また変わったわ」

 侑が、不意にそう言った。先程まで流れていたFLY ME TO THE MOONのピアノアレンジが終わり、また別の曲のイントロがかかった。仁科も「あ」と声を上げた。「知ってるの?」と侑に訊かれ、浅く頷いて曲名を告げる。

「KILLING ME SOFTLY WITH HIS SONG」

「知ってるのね!」

 わ、と歓声を上げた侑が、嬉しそうに身を乗り出した。

「あんまり知ってる人っていないの。曲聴いたら分かるけど、タイトルは知らないとかね。名曲だと思うんだけどな」

「名曲だから、テレビのCMにも使われるんだろ。大人に訊けば、それなりに知ってる人数がいるはずだ」

「寂しい事だわ。でも音楽って、それに聞き惚れる人の心しか動かせないものよね。だから、好きだって思った人が愛でればいい。でも、やっぱり寂しい事ね」

 侑が嘆かわしそうに、反面どうでもよさそうに、肩を竦めた。

「綺麗な歌なのに」

 柔らかな旋律に耳を傾けながら、仁科は侑の言葉を反芻した。

 綺麗。好き。愛でる。好き嫌いのはっきりした奴だと思う。

 そしてその分、綺麗でなく、好きでもない、愛せないものへの態度は、一体、如何ほどのものなのか。

 仁科は、頭を振って思考をリセットする。無為でしかない思索だった。何故こんな事を考えたのか、自分でも不明だった。

「洋楽って、いいわよね」

 侑が、呟く。仁科は少し意外に感じた。そんなものには、毛ほどの興味もない奴だと思っていた。

「仁科、洋楽って普段聴く?」

「英語の授業で聴くくらい」

「何それ、つまんない」

 侑は頬を膨らませたが、気を取り直したように笑うと、「じゃあさ」と続けた。

「何かさ、訳とか意味とか理解しながら聴く曲ってある? 英語の授業以外で」

「英語の授業で習った歌の訳くらい。他はどうでも」

 仁科の雑な回答にも、侑は「そうなの?」と何故か嬉しそうな顔をした。

「だからさ。お前、なんでそう変なとこで喜んだり笑ったりするわけ? 気持ち悪いんだけど」

「普通女子に気持ち悪いとか言う? 仁科サイテー」

「女子には言わない。お前は女子じゃなくて俺のストーカーだ」

 辛辣に言い放ったが、侑がこれしきの言葉でへこたれないのは分かっていた。案の定、侑はにやりと笑った。

「だって、思わない?」

「何が」

「わけ分からないって、いい事よね、って」

「はあ?」

「英語だから。何言ってるのか全然分からないじゃない。そこが洋楽のいい所だと思うの」

「……正気かよ」

 仁科は吐き捨てた。つまり、ただ曲調が好みだったと、そう言いたいのか。

「違うわよ、仁科の考えてるようなのとは」

 だが侑は、そんな仁科へ反論した。まるでこちらの落胆を見透かしたような物言いに、仁科はむっとなる。

「何が違うんだか。お前、歌詞の意味わけ分かんないとか、そう思いながら聴いてるんだろ?」

「そうよ」

 侑は断言した。

「歌詞が分からないから、好き勝手に意訳できるじゃない。好きって言ってるようにも、死ねって言ってるようにも!」

 しん、と場に沈黙が降りた。

 死ねという言葉が、静かな店内へ響き渡る。

 真っ直ぐに仁科へ向けられた言葉の重みが、空虚に座る自分をすり抜けて、無為に空気を震わせる。その残響が、ジャズの音色と混じり合った。

 店内の誰もが、仁科達に注目した。店のマスターもカウンター越しに、こちらをちらりと窺った。その視線を受けて、仁科は無言で席を立つ。

 今の侑の放った言葉が、どんな感情だったのか。仁科には分からない。初めて触れる、感情だった。

 だが、大よその検討はついていた。

「……俺、もう帰るから」

 仁科は、静かに言った。

 別に、侑を責めるつもりはない。だが自分達はやはり、ここには不釣り合いだった。この辺りが潮時だ。

 侑は空のガラス容器にスプーンを置くと、仁科へ無邪気に笑いかけた。

「仁科、明日はちゃんと朝から学校に来るの?」

 唐突な台詞だったが、侑のこんな態度には慣れ始めていた。仁科がさして気に留めずに「気が向いたら」と答えると、侑はきちんとこちらへ向き直った。

「仁科。今日は、付き合ってくれてありがと」

 その台詞に、はっと仁科は振り返った。

 四人掛けの席が並ぶ硝子窓に、店内のオレンジ色の照明が反射する。カウンター席の中学生を鏡のように映した向こうに、外の雑踏が透けて見えた。すっかり夜の風景だ。店内の時計を見れば時刻は七時半だった。しまった、と思う。

 夕飯が遅れる事を、家に連絡するのを忘れていた。

「おうちの門限とか? 仁科、いい子だね」

 侑は察したのか、揶揄の言葉が飛んできた。仁科は胡乱げな目で侑を振り返ったが、途端に目の前へ携帯を突き出されて鼻白む。ファンシーな携帯ストラップが、じゃらじゃらと目の前で揺れた。

「……なんのつもりだ?」

「家に連絡したいんじゃないの? ほら」

 目の前で、携帯が軽く振られる。仁科は考え込んだが「いい」と断った。今から帰れば問題ないのだ。侑は、くすりと笑ってきた。

「仁科ってば、見かけに寄らず真面目よね。あの時も職員室にちゃんと行こうとしてたもの」

「俺、帰るから。まだここに残るか?」

 隣席に置いていた鞄を開けながら、仁科は訊く。財布を探すが嵩張る教材が邪魔をして、なかなか探し当てられない。侑が首を横に振り、「私も帰る」と、立ち上がった時だった。

 財布を引き抜くと藁半紙が一枚一緒にくっ付いてきて、ふわりと舞い上がった。

 咄嗟に掴もうとしたが追いつかず、それは店内の空調の風に乗ってひらひらと飛び、侑の足元へ落ちた。その正体に理解が及び、「ああ」と仁科は呟いた。

 その藁半紙は、放課後に仁科が職員室付近で拾ったものだ。

 本来なら廊下の掲示板に貼られていたはずのそれは、画鋲が外れたのか床に落ちていた。それを仁科が気まぐれに拾い、つい読みながら歩いた所為で、鞄に収める羽目となった。

 普段ならそんな馬鹿げた行動は取らないが、この新聞記事のスクラップについては塩谷との雑談で聞いていて、珍しく興味を引いたのだ。

 記事は、御崎第二中学に通う二年の男子生徒について書かれていた。

 その生徒が万引き犯逮捕に協力したという事で、やや大げさに取り上げられたのだ。

 中学二年。つまり、仁科と同い年の学生だ。同じ市内の中学生として、こういう事があったのを知っておけ、と。要するにそれが、学校側の意図だろう。

 だがそこに写った吉野泰介という少年の容姿は、かなり酷い有様だった。

 頬には漫画のように大きなガーゼが貼られていて、手の甲にも多数の擦り傷が窺えた。その上見事な坊主頭ときているので、クラスメイトの反応は塩谷いわく賞賛半分、呆れ半分といった所だそうだ。可哀そうに、と本気で思う。仁科ならこんな写真を撮られたら、おそらく表を歩けない。

 そして同時に、馬鹿だとも思った。正義感だけを振りかざして、無事で済まなかったらどうする気だったのだ。相手が喧嘩慣れしていなかったから助かったようなものだ。仁科は心の中で、今後会う事もないだろう吉野泰介へ合掌した。何にせよ、この写真はあまりに酷い。

 ともかく、この記事のスクラップは、明日学校に返さなくてはならない。要らない拾い物をしたことを、仁科は内心で後悔した。

「落ちたわよ」

 侑がしゃがみ込み、仁科の落し物を拾った。プリントは逆さを向いていて、薄茶色の紙はぼんやりと、裏面の記事を透かせていた。侑がそれを、裏返す。白黒写真の吉野泰介の顔が、表を向いた。

「ああ、悪い」

 仁科は、侑へ手を伸ばした。

 だが。

「…………」

 侑は、顔を上げなかった。

 蹲ったまま、じっとプリントに視線を落としている。店内のオレンジ色の照明が明るく染めた侑の髪を、より鮮やかに見せている。侑の表情は、窺えない。

「? おい、どうした」

 十秒ほどの時が過ぎても、侑は立ち上がらなかった。さすがに不審に思って声を掛けたが、その声にも答えない。店内の視線が、ちくりと肌に突き刺さる。マスターを始め店の客までこちらの様子を窺い出して、仁科は少し、苛立った。

「おい。宮崎」

「こいつ嫌い」

 侑が、言った。

 淡々と、静かに、そう言った。

「……は?」

 状況が呑み込めない仁科を顧みることなく、藁半紙を両手で握りしめた侑は、もう一度言った。

「こいつ、嫌い。大嫌いよ」

 藁半紙が、音を立てて皺になる。侑の手が震え出し、仁科の目の前で歪んでいく。ぐしゃりと一際大きな音を立てて撓んだ時、思わず仁科は叫んだ。

「おい……!」

 その呼びかけは、けして大きなものではなかった。店内の視線を気に掛けながらの、ひっそりとした声だった。

 だがそんな声でも、侑の手は止まった。

 ジャズが空虚に、両者の間を流れていく。空調の音さえ聞き分けられそうな沈黙の中で、口火を切ったのは侑だった。

「……ごめんね仁科、プリント皺になっちゃった」

 何事もなかったかのように立ち上がった侑は、藁半紙をぴんと伸ばして軽く埃を叩いた。そして「はい」と仁科へ差し出して、綺麗な顔で微笑んだ。

「……ああ」

 仁科は表情もなく、それを受け取った。

 何が、とか。誰が、とか。どうして、とか。疑問はいくらでもあるはずなのに、そのどれもが言葉にならない。藁半紙に走った亀裂は引っ掻き傷のように人体を生々しく横断し、憎悪の爪痕を残していた。ただの皺に過ぎないと、仁科は自分に言い聞かせる。

 ただ、思った。この店内で二度も見せつけられた感情を、胸に焼き付けながら、ただ思った。

 侑の狂気を、見た気がした。


     *


 喫茶店を出ると、雑踏の中を仁科と侑は歩いた。

 冬に近い今、イルミネーションが街を煌びやかに彩っている。駅前の広場の方まで足を伸ばせば、早過ぎるクリスマスツリーを拝めるだろう。

 季節が、確実に移り変わっていく。それを仁科は意識した。ブレザーの下にセーターを着た侑は温かそうだが、手元が冷えるのか裾を引っ張って握っている。クラスメイト達が冷やかすのも無理がないかもしれないと、他人事のように思った。これでは本当にデートだ。

 不思議な気分だった。数日前まで仁科は、この変人から躍起になって逃げたのだ。それなのに今は、侑とこうして歩いている。日常が乱されるのをあれほど仁科は嫌ったのに、実際に変化してみると、それは思ったほど不快ではなかった。

 これはまだ、日常ではない。だが非日常と呼ぶにはすっかりスリルが薄れていた。それは仁科とってやはり、不思議としか言いようのない感慨だった。

 新聞記事の一件は、まだ頭に引っかかっていた。だが侑は何事もなかったかのように笑っていて、仁科としても蒸し返す気はなかった。

 蒸し返せば、と、考えてもみた。

 あの新聞記事をもう一度突き付けて、理由を問い質したならば。きっとあの瞬間の侑に、もう一度会えるだろう。

 だがそんなくだらない事をする意味などなかったし、理由にも興味が湧かなかった。少し、疲れてしまったのかもしれない。

「――今日はここで」

 侑は唐突に、そう言った。

「珍しいな。ストーカーのお前が俺を野放しにするなんて」

「ストーカーじゃないってば。今日は用事があるの」

 鞄を肩にかけ直しながら侑は笑い、仁科へ軽く手を振った。

「ばいばい、仁科!」

 そしてこちらを振り返らずに、軽快に走り出す。

 仁科はその背中を見送った。足音と後ろ姿はあっという間に遠ざかり、街の光が煌々と瞬く中へ消えていく。きっと買い物でもするのだろう。仁科はそう結論付けて踵を返した。

 夜風が、冷たい。家を目指して歩く足が、自然と大股になる。

 頭が少しぼうっとしていた。考える事や考えた事、それらが頭の中で飽和している。交友関係が狭いのだから当前だが、仁科の口数は多くない。最近は侑の所為で会話の機会が増えていたが、今日ほど長く話したのは久々だ。疲れなのか達成感なのか、よく分からない余韻が残る。

 侑は結局、何故仁科を付き合わせたのだろう。泣いていた侑と出会ったのは偶然なのだ。喫茶店へ行く事になったのは、あの出会いがあったからこそ得られた結果に過ぎない。

 では、何故侑はあの時泣いていたのだろう。

 そこで、気づいた。

 仁科は一度、それを侑に訊いている。だが侑が答えないと分かると、それ以上は訊かなかった。訊く気も、元々あまりなかった。

 そんなものかもしれない、と。仁科は妙に納得した。

 何という事はない。仁科も侑を見逃していたのだ。仁科と侑は似ているらしいが、二人の述べた意見の尻尾を、ようやく掴めた気がした。

 漠然とそんな思考を巡らしながら、ふと、仁科は立ち止まった。

 母に頼まれていた買い出しを、今思い出したのだ。

 内心で、胸を撫で下ろす。帰宅前に思い出せて良かった。いつものスーパーと場所は違うが、この近辺で買って帰った方が早い。母から頼まれたのは食パンと卵。食パンはともかく卵は夕飯に必要だったのかもしれない。だとしても後の祭りなので極力考えないよう努めながら、仁科は街へ引き返した。


 そして仁科は、一度別れた侑の姿を、もう一度目撃することになる。


     *


 翌朝、久しぶりに遅刻をした。

 遅刻の方が多いはずだった仁科の日常は、今ではすっかり変わっていた。久しぶりに遅刻をして初めて、仁科はそれが久しぶりだと思い至った。


     *


「何かあったか」

 そう親父が声を掛けてきた時、仁科は商品の品出しをしていた。店で使う整髪料が切れかけていたので、その仕入れだ。段ボール箱に貼りついたガムテープを剥がす途中だった仁科には、その声が聞き取りにくかった。「何?」ともう一度訊くと、寡黙な父は返事を面倒臭がった。

「何かあったか、って思っただけだ」

「別に」

 短く答えた仁科は、ビニールとガムテープをぐちゃぐちゃに纏めて、ゴミ箱の方へ向かう。自然と親父に、背を向ける形になった。

 今は閉店一時間前。だがこんな時間に来る客はいない。事実上最後の客は、五分前に店のドアから出て行った。残る作業は片付けだけだ。そうやって閉店準備をしながら、思う。

 そんなにも、顔に出ていただろうか。

 だとするなら、どんな表情が?

 仁科はモップを持ったまま、鏡の前に立つ。ブレザーの上にエプロンを引っ掛けていてもだらしなく見えるのは、やはり髪と、着崩した制服の所為だろうか。

 そこに映った自分は、いつも通りに見えた。何にも興味を感じていないような味気ない顔は、ある程度整っている自覚はあったが、それだけだ。ぼうっとした瞳には店内の白い照明が、唯一の光のように映っている。

 白けた、いつもの顔だ。

「サボるなよ」

 親父がすかさず檄を飛ばす。仁科はモップを動かしながら、言い返した。

「なんで俺に、何かあったって思うわけ?」

 親父は、沈黙した。言葉を探しているように見えるし、仁科の質問を理解していないようにも見える。しばしの後に、親父は感情の読めない声で言った。

「何もないなら、いい」

 答えになっていない。仁科はがっくりと肩を落とした。これでは質問した自分が馬鹿みたいだ。髪を掻き揚げていると、ふと整髪料に目がいった。

 さっき仁科が、段ボール箱から取り出したものだ。

「……。親父」

「なんだ」

 鋏をホルダーにしまいながら、親父が訊き返す。

「俺、髪の毛染めたら怒る?」

「どうしたんだ、突然」

 言葉とは裏腹に、親父は冷静だった。仁科はその反応を半ば予測していたが、いざそういう態度を取られると、どう説明すべきか困ってしまう。

「別に。特に理由はない」

「じゃあ、やめとけ。せめて高校行ってからにしろ」

「ふぅん」

「要平」

「何?」

「今日はもういいぞ」

「……は? なんで?」

「後はもう俺がやる。さっさとあがれ」

 唐突な言葉に、仁科は少し慌てた。

「定時までは働く。俺のバイト代かかってんだからな」

「今日はもういいって言ってる」

 そこまで言われては、黙るしかなかった。

 どうやら、変に気遣ってくれているらしい。そんなにも息子が元気を失くしているように見えるのだろうか。仁科自身は、そんなつもりはないのだが。モップをしまった仁科は仕方なく、自室にあがることにした。

 部屋に行けば、まだ開封すらしていないCDがある。やる事は、他にもあるのだ。

 二階への階段を上がり、足早に自室へ入ると扉を固く閉ざした。机へ直行し、そこに乗った青いショップ袋を逆さにする。ごとん、と重い音がした。真新しく分厚い本が、仁科の目の前に現れる。

 高校受験対策の、英語の参考書。

 真っ先に一番後ろのページを捲ると、シュリンクに包まれた英語のCDを剥ぎ取った。そのままろくに検めもせずに、コンポの中へ突っ込む。人差し指で、再生スイッチを押した。

 カチ。スイッチが押し込まれる金属質な音が、狭い部屋に反響する。ぴこぴことチープな響きの効果音が鳴ってから、流暢な英語が男性の声で流れ出す。

 仁科は、席に着いた。机に向かい、英語の参考書へ目を落とす。デスクランプに手を伸ばし、明かりを点けた。

「……」

 慣れていた。容易かった。これで、このまま向こうへ消えられる。

 読書と同じだ。集中して、呑まれて、意識が攫われる。目の前にあるそれ以外、何も考えられなくなる機械と同じだ。無機質で、ただただ生産性があるだけの、温度のない何か。

 逃避だと、蔑まれても構わなかった。

 何故なら逃避は、何処にも行けないわけではないからだ。前進する事を、放棄したわけではないからだ。

 足掻く姿はきっと、みっともないだろう。

 だが、それが仁科だった。仁科は己を知っている。格好悪い己の姿を、誰よりも一番知っている。

 だからこそ。

 見透かされるような目は、もう御免だった。

 もう二度と、自分を暴かれたくはなかった。決して、誰にも、心の深い部分を見せたくないのだ。他人の心の深い部分も、決して、自分は見ないから。

 自分はきっとこれからも、こういう生き方で世間と対峙していくのだろう。そのスタンスが誰にどう思われようと構わなかった。

 なのに。

 何故こんなにも、見られる事を恐れるのだろう。

 ここまで分かっていながら、捨てられないプライド。その安さに、反吐が出る。

 分かっていた。分かっている。分かっているのに。

 狭い部屋の中で、音量を抑えた英語の音声だけが無機質に流れる。デスクランプに照らされた仁科の顔から、いつしか感情は消えていた。

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