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戯曲の家

 宮崎侑と話したって、ほんと?

「……」

 手元のメモ用紙を、仁科は無言で見つめた。

 そして、こんなものを勉強中の自分に投げつけてきたのは誰か、と背後を振り返って軽く見回す。そんな行動を取る仁科の顔が、険のあるものかそうでないかは、見る者によっては見破る事ができただろう。だが周囲には仁科の表情はいつもと同じように映るらしく、こちらを訝しげに見る者はいなかった。

 ただ、一人の生徒とは目が合った。クラスのリーダー格の女子生徒だ。名前、なんだっけ。ぼんやり考えたが、思い出せそうになかった。

 女子生徒は、にこっと歯を見せて仁科へ笑いかけてくる。その笑みから下卑た好奇心の欠片を拾った仁科は、何の反応も少女に返すことなく黒板へと向き直った。ひそひそと、そんな仁科の態度を非難しているらしい囁き声が聞こえたが、あまり気にはならなかった。「そりゃあ、仁科君にちょっかいかけたあんたが悪いって」と別の友人が彼女を諌める声まで聞こえたので、仁科は溜息を吐く。

 分かりきってはいるが、こういう時、自分がクラスの皆に一目置かれるくらいの変わり者で、問題児なのだと実感せざるを得なかった。ともあれそれ以上気にするのは止めにして、仁科は黒板の内容をさらさらとノートに書き写した。その周りに社会科教師が喋った内容から重要と思われる部分も抜粋して、ぽつぽつと書き足していく。休み時間に教科書を斜め読みしていたので、仁科にとってこの行為は「テスト前の暗記用ノート作り」というよりも、「確認作業」の方が近い。

 少しの時間でも、集中して取り組む。小学生の頃からそれをやって、当たり前のようにそれが出来た。それは出来ない者に対する皮肉などではなく、仁科には本当に大した事ではなかったのだ。

 社会科教師の話が脱線して自分の一人娘の話になってしまったので、仁科は小さく鼻を鳴らした。こうなるとこの教師は長いのだと、経験上知っている。握っていたシャーペンを軽く放るように転がすと、シャーペンはノートの上で弾み、開いたノートの溝へと緩やかに転がり落ちて、止まった。仁科はだらしなく頬杖をつき、やはり溜息を吐いた。そしてさっきのメモの内容を、反芻している自分に気づく。

 ――宮崎侑と話したって、ほんと?

 ふぅん、と仁科は思う。

 やはりあの女子生徒は、有名人だったのだ。

 仁科は、自分に人が寄り付かないのを自覚している。自分から壁を作っているのだから当前だ。そんな仁科にそれでも話しかける物好きなど、能天気な塩谷か先程の女子生徒のような、好奇心に駆られた人間くらいのものだ。

 そんな自分に、好戦的とも取れる態度でぶつかってきた変人、宮崎侑。

 全くもってどうでもいい事だ、と。欠伸を堪えながら仁科は思った。

 ――話してみたかったの。

 また、声を思い出す。甲高い、少女の声。教師の話が社会の話に戻っているのに気づいた仁科はくだらない思索を打ち切って、再び授業に集中した。

 よって仁科は、この日の放課後に起こる事をまだ知らなかった。

 宮崎侑という女子生徒の存在は仁科に強い印象を残したものの、そんな午前中の奇妙な体験は、昼休みを挟み、授業を二時間分受けている間に薄れたのだ。元々、他者への興味は希薄だ。

 まさか、もう一度侑と話す事になろうとは、この時は思ってもみなかった。


     *


左奈田(さなだ)さんから、宮崎さんのこと訊かれたりしなかった?」

 放課後に塩谷からそう訊かれ、仁科は沈黙した。

 教科書を鞄に詰める手も止まり、またもや仁科の席へ寄ってきた塩谷を緩慢に見返す。塩谷は「何見てんのさ仁科」と居心地悪そうに身を引いた。

「ああ、悪い」

 仁科は軽く詫びると何事もなかったかのようにひょいひょいと鞄にノートを詰め、塩谷がそこに立ったままだという事を忘れかけた。

「ちょっと、仁科ってば!」

「あー。そういやいたな、お前」

 のらりくらりとした仁科の態度に、塩谷ががっくりと肩を落とす。「仁科と話してると疲れるよ」などとぼやき始めたので、仁科は呆れた。

 勝手な事を言っている。ならば話す必要などないだろうに。

「で? なんか用?」

「用件なら最初に言ったんだけどなぁ。仁科、社会の時間に左奈田さんからメモ受け取ってたでしょ?」

 あれは受け取ったのではなく投げつけられたのだと、そう言ってやりたい気持ちに駆られたが、わざわざそんな主張をするのも大人気ない気がして、黙る。

 ともかく、あの女子は左奈田というらしい。

「物好きもいるもんだな」

「え?」

「俺なんかに、わざわざ話しかける奴。そんなのが、お前以外にもまだいるっていうのがおかしい」

 午前の邂逅を回想しながら、仁科は嘯く。あの変人さえ現れなければ、左奈田という女子生徒が自分にメモを投げつける事もなかったのだ。宮崎侑の存在が及ぼす波紋に複雑な気持ちになっていると、塩谷の顔に呆れめいた笑みが浮かぶ。

「そりゃ、クラスメイトなんだからさ。話しかけられるくらいで何言ってんの」

「左奈田のメモが何?」

 遮るように、仁科は言った。塩谷がこれ以上、仁科に言わせれば生ぬるいとしか思えない言葉を連ねる前に、会話を打ち切りたかった。すっぱりと糸を切るかのような仁科の言葉に、塩谷は困ったような顔をした。

「宮崎さんの名前、メモに書いてたり、しなかった?」

 また、宮崎。仁科はそっぽを向いて「だったら何なんだ」と言ってやった。ジジッと鞄のチャックを引いて閉め、席を立つ。

「クラスの女子が騒いでるの、聞いたから」

「……だから、何なんだ」

 仁科は内心で少しずつだが、思い切った話の進め方をしない塩谷に苛立ち始めていた。声に、態度に、自然と威圧が滲む。

「仁科、宮崎さんと今日階段で話してたって事、今すごく有名になってるよ」

 すっと、頭が冷えた。

「なんでそれ、知ってんの」

「もっと周り気にしなよ。ギャラリーは結構いたはずなんだけどな。学年中で騒いでるんだよ。あの仁科と宮崎が、って」

「俺らが、何なんだってんだ。妙な想像してるんだったら今すぐやめろ。あんな奴、もう話す事もないはずだ」

「いや、そんなの僕はしないけど」

 塩屋は困惑気味の表情で周囲にちらと目をやると、声を潜めるようにして「でも周りはそうは取らないかも」と囁いた。

「美男美女カップルって女子が騒いでる。左奈田さんとかも面白がってるって」

「お前、なんでそんな事をわざわざ俺に教えてくれんの?」

 善人も行き過ぎると不快なだけだ。塩谷の話した内容は、仁科からすれば聞こうが聞くまいが同じなのだ。自分がどんな風にクラスの人間に見られていても、学年中で噂になっていても、そんなものに興味はない。

 仁科は知らないみたいだから、教えてあげたんだよ、ねえ僕ってほら親切でしょ?

 反吐が出る。

 大した正義感だと皮肉ろうとしたところで、「だって、仁科」と塩谷が抗議の声を上げた。

「また家の手伝いするんでしょ? 左奈田さんみたいにちょっかいかけてくる人は少ないとは思うけど、何かと時間取られそうじゃん。まあ、一応言うだけ言っとこうって思って」

「……あっそ」

 本当に、余計なお世話だ。その本音を声に出さない代わりに、別れの挨拶もしなかった。鞄を掴んで教室を出た仁科は、そのまま家に帰りつくまで、背後を振り返らなかった。

 刺すような視線だけを、周囲から感じた。


     *


「要平、手を休めるな」

 突如飛んできた低い声に、仁科は「はいはい」と適当に返事をする。少しサボったらすぐこれだ。モップをタイルの床へ滑らせると長い黒髪が絡んだので、靴で踏んで引き剥がした。それらを回収して袋に纏めた所で、吐息をつく。

「終わったよ。親父」

 声を掛けると、振り返る長身痩躯。

 細身ながら引き締まった身体付きは、同じ長身でも全く自分と似ていない。

「じゃあ、夕飯にするか。要平、母さんを手伝ってこい」

 寡黙そうに引き結んだ口元を、もそりと無愛想に動かして――仁科健吾(けんご)、つまり仁科の親父である男は、閉店準備を開始した。

 今日の営業終了を実感として得るのはいつも、親父が後片付けを見た時だ。仁科はモップを片付けながら、親父の背中に言った。

「俺、別に飯いいよ」

「母さんの作った飯を見てから言え」

 親父は仁科を叱るような事は言わず、ただそれだけを背中を向けたまま言った。仁科は嘆息しつつもとりあえず頷き、狭い店舗の隅にある扉を開けて、中へ入る。吊られた暖簾を手で軽く払うと、そこはもう見慣れた我が家のリビングだ。靴を脱いで家に上がると、香辛料の匂いがした。今日の夕飯はカレーのようだ。忘れていた空腹を思い出す。客のパーマを手伝っている時も、親父が切った客の髪を掃いて捨てている時も、レジに立っている時でさえそんなものは忘れていたのに、自分はやっぱり育ち盛りなんだな、と他人事のように思った。

 仁科は真っ直ぐに台所へ向かい、棚から箸を取り出した。自分と両親の三人分だ。コップも同様に三人分出した所で、母が台所にやってきた。

「あら、要平。おかえり」

 夕飯の支度を手伝い始めた息子を見て、母は嬉しそうに笑った。

「ご飯、どっかで食べてきたりしてないわよね?」

「食べてない」

 仁科は短く答えながら、冷蔵庫を開けて茶の入った瓶を取り出す。沸かした茶はまだ冷まし始めて間もないのか、ほんの少しぬるかった。隣で母がカレーを盛りながら、軽く振り返って訊いてきた。

「今日、お客さんどれくらい来たの?」

「少し。キャンセルもあったし」

「……」

「でも、昨日よりは多い」

 母は仁科の言葉に落胆したのか、苦いものでも噛み締めたような顔をしている。仁科は内心で、大きく肩を竦めた。

 仁科の家は、商店街を抜けた先の、寂れた路地の一角にある。

『コーディーリア』

 それが仁科の小さな家が掲げた看板。親父の営む美容院の名前だ。

 コーディーリアとは、シェイクスピア悲劇『リア王』に出てくるリアという名の王様の、三女にあたる娘の名だ。仁科がそれを知ったのも、実はつい最近の事だった。

 店舗は極めて狭く、設備も充分には整っていない。美容院によっては染髪の待ち時間等にドリンクや菓子を振舞うサービスがあるようだが、当然そんなサービスは『コーディーリア』には存在しない。古き良き時代の床屋を連想させるような、前世紀の遺物のような佇まいの店なのだ。たかが小さな美容院に、意味の分からないカタカナの店名。大した稼ぎもないのに何だか仰々しい気がした。レトロな字体も相まって昭和の香りもする。コーディーリアなど、まるで似合っていない。完璧に名前負けをしていた。

 ――親父、シェイクスピア好きなのかな。

 少し気になったが訊くのが面倒で、まだ一度も訊ねていない。

 仁科がテーブルへ茶を運んでいると、カレーを盆に載せた母もやってきた。すると間もなく、親父がのっそりと現れた。店の片付けが終わったらしい。

「おかえりなさい。健吾さん」

 母がそう言うのが、いつしか「いただきます」の代わりとなった。仁科はカレーをスプーンで掬い、黙々と口に運び始めた。

 親父がつけたテレビが、夜のニュースを喋り始める。その声は母が親父に話しかける声と交じり合い、仁科の耳を右から左へ抜けていく。時折顔を上げて、思い出したようにテレビ画面へ目を向けた。随分古い型のテレビで、側面が分厚い。画質の悪いテレビに映るのは、殺人事件の報道だ。仁科はそれを、ぼんやり眺める。快楽バラバラ殺人。犯人の自宅からかなり遠いゴミステーションから見つかった遺体は、若い女性のものらしい。目まぐるしく画面が切り替わっていき、人相の悪い容疑者の顔が映る。冴えない表情をしていたが、きっと普段は普通の顔で、周辺の歩道なんかを歩いているに違いない。このニュースを見ている不特定多数のうち何人かはこの男と、必ずすれ違っている。目の前でくるくると移り変わっていくニュースに目を向けて、仁科は無為な考察をするのだった。

「情死か……怖いわねぇ」

 ニュースの一つを拾った母が、溜息を吐きながらそう言った。ジョウシ、と仁科は声には出さずに呟く。言葉の意味を自分の子は知らないと思っているのだろうか。その程度の言葉など、本から既に拾っている。「心中」よりも「情死」の方が、何だか艶っぽい気がした。

 スプーンを置いて、立ち上がる。母がサラダを出し忘れている事に気がついたので、カレーのおかわりを盛るついでに冷蔵庫から取り出して、三人分を黙ってテーブルに並べた。「あら、忘れてたわ」と驚く母を尻目に、皿にかけてあったラップを自分の分だけ剥がして、ミニトマトを口へ放る。親父はこちらへ頷いただけで何も言わず、それきりテレビ画面へ向き直ってしまった。

 仁科は、カレーを平らげる事に専念する。さっさと二杯目のカレーを胃に落とし、さらにおかわりをするか考え込む。今しっかり食べておかなければ、あとでお腹が空く気がした。全く、さっき何故親父へ夕飯はいらないと言ったのか、自分でもよく分からない。何が自分に夕飯を拒絶させたのだろう。何だか、馬鹿みたいだった。

 結局サラダをおかわりする事にして、仁科はカレー皿を流し台に持って行く。まだ母も親父も食べ終わっておらず、自分の分だけを水に漬けた。そして流し台の前に一度立ってしまうと、サラダをおかわりする気が失せた。

 ざああ、と蛇口を捻って降り注ぐシャワー状の水音に、母がはっと振り返った。

「ああ、要平!」

 少しぎょっとする。洗剤を乗せたスポンジを、素手で握った所だった。以前に「手が荒れる」という理由でゴム手袋をつけるよう、叱られた事があったのだ。だが母は仁科の手元を一瞥しただけで、予想と異なる言葉を言った。

「牛乳切らしちゃってたの。買ってきてくれない? それ洗っとくから」

 そう言って立ち上がると、リビングの隅に放ってあった鞄をごそごそと弄る。そして財布を探し当てると、五百円玉を取り出した。

「俺、やる事あるんだけど。……勉強とか?」

 小さな抵抗を試みるが、母は硬貨をキッチンとリビングを仕切るカウンターにことりと置いた。

「家であんた、勉強なんてした事ないじゃない」

 返す言葉が出てこない。仁科はただ肩を竦めた。まあいいか、と思う。

 スポンジを置いて手を水で濯ぎ、布巾で水滴を拭い、五百円硬貨を学生服のポケットに滑り込ませた。

「要平、着替えてなかったのか」

 気づけば親父がこちらを見ていて、出かけようとした仁科へ声を掛けた。

「そりゃ、学校から帰って仕事手伝い終わって、そのまま飯だったから」

 そもそも同じ場所で働いていたのに、何故気づかないのか。妙な所で抜けている自分の父に仁科は呆れながら、今度こそ出よう、と踵を返す。

 帰宅したら、さっさと部屋でCDを聴こう。買ったばかりで全く聴いていないものがある。昨日は本と向き合っていたので、そちらはショップ袋に入ったままだ。思案しながら玄関へ向かう仁科を、母の声が呼び止めた。

「要平」

「何?」

「あんたは男の子だからあんまりうるさく言わないけど、ちゃんとゴム手袋しなさいよ」

 今度は返事をせずに、仁科は履き潰し気味の運動靴を足に引っ掛けた。


     *


「みぃつけた」

 甘ったるく間延びしたその声を、仁科は最初、自分に向けられたものとは思わなかった。

 その声は少女というより女性のもので、制服を着た自分には明らかに無縁だろうものだった。甘く湿っていて、どこか暗い。

 ただの雑音に気を取られる事はないので、仁科は雑踏の中をぐんぐん歩いた。

「ねえ、ちょっと、聞こえてないの?」

 声がまた聞こえた。女の声には微かな苛立ちが混じっていて、仁科はようやく首を捻った。聞き覚えを感じたのだ。気まぐれに機嫌の良し悪しが変わる声を。さっきは女だと思ったのに、怒りという感情が声に通った所為か、分かった。

 この声は、もっと幼い少女の声。

 そこでつい足を止めてしまったのが、仁科の運の尽きだった。

「みぃつけたっ」

 苛立ちがぱっと霧散して、声にべたついた甘みが戻る。仁科は振り返り、げっと呻いた。

「やっぱり、仁科だった!」

 息を弾ませながら、小走りでやって来た少女――宮崎侑は、仁科の前で両足を可愛く揃えて立ち止まると、にや、とチェシャ猫のような顔で笑った。

 夜の暗さと化粧、それに校則違反の髪色の所為だろうか。間近に迫ったスーパーの明かりに照らされた侑は、同い年のはずなのに高校生に見えた。そんな侑の纏う雰囲気に、仁科はたじろぎ、引いた。

 だが侑は、仁科へ嬉しそうに笑いかけた。

「私の事、ちゃんと覚えてくれてる? 名前とかさ」

 いっそ清々しいほどに、こちらの問いは無視された。

「用がないなら、もう行く」

 埒が明かないので、仁科は歩き出した。早く帰ってCDを聴きたいのだ。ズボンのポケットの中でたった一枚の硬貨が、ちゃり、と音を立てた。

「あ、待って」

 だが、声と足音は追ってきた。雑踏に紛れながらも確かに自分を追う音に、仁科は舌打ちしたくなると同時に、酷い脱力感を覚えた。これでは学校で出会った時とおんなじだ。そうなれば堂々巡りになってしまう。仁科は歩幅を大きくした。買い出しのおつりはいつも母から駄賃として貰えるので、家から近いコンビニを選ばずここまで足を延ばしたのだ。店の手伝いで給料は得ていたが、本やCDが必要な仁科にとって、これは大事な収入だ。それでもコンビニで済ませば良かったと心の底から後悔しながら、仁科は歩く事に専念する。

「もう、待ってったら!」

 それでも、侑はついてきた。仁科は、頭を抱えたくなった。

 本当に、追って来たのだ。

「なんで逃げるのよ」

 侑は仁科の前へ回り込むと、きっ、と睨み付けてきた。かと思いきや仁科が足を留めた途端、ぱっと非難の目をやめてにやにやと笑っている。

 何だか、かなり不気味なものと対峙している。腕に鳥肌が立ってきた。

「昼にも言ったと思うが、退いてくれ」

「嫌よ」

 構わず歩き出すと、侑が仁科の腕をがしっと掴んだ。あまりに粘着質なその態度に、さしもの仁科もぎょっとした。

「何なんだ、お前はっ」

 堪らず叫ぶと、揉める中学生の二人組を、行き過ぎる人達が振り返った。街の灯りの届く歩道で、二人は睨み合うように見つめ合った。この時仁科はおそらく初めて、侑という少女の容姿を、しっかり認識したと思う。

 す、と侑の目が細くなった。

「……〝おまえ〟?」

 薄く化粧をした顔が、こちらを真っ直ぐ睨み据える。

 その表情は、やはり息を呑むほど大人びていた。そこに込められた感情は確かに子供のもののはずなのに、顔付きだけは、大人に見えた。

 それともそれを、糊塗しているのか。

「私、名乗ったわよ。何? 〝お前〟って。名前覚えてくれなかったわけ?」

「はっ……?」

 突然の激昂に、仁科の方もかちんときた。何を手前勝手に怒っているのだ。あの邂逅からずっと怒りたいのはこちらの方だ。仁科は「忘れた」と言ってやった。これで侑は、さらに怒り出すだろう。ほら、怒れよ。怖くなんてない。だが、そうはならなかった。

「仁科」

 目に厳しさを湛えたまま、侑が口を利いた。

「忘れてても、私の事をお前だなんてこれから絶対呼ばないで。もう一度名乗るわ。今度は覚えててよね。私は宮崎侑。侑は、にんべんに、有るっていう字で侑。……いい? もう二度と、私の事をお前呼ばわりしないで」

 仁科は、唖然とした。

 たかが「お前」と呼んだくらいで、これほど説教されるとは思わなかった。

「……なんで、俺に構う?」

 学校でも感じた疑問が、再び仁科の中で膨れ上がった。侑は仁科に声をかけられたのが嬉しかったのか、表情を機嫌の良いものへころりと変えた。

「私はずっと、仁科と話がしてみたかったの」

「それはもう聞いた」

 またこちらの問いを無視された。仁科が呆れていると、侑は胸を張って言った。

「あなた私と似てるもの」

 仁科は、動きを止めた。

 侑は、へらと笑った。

 夜の甘く冷えた空気が、至近距離で立つ二人の、身体の間を抜けていった。

「仁科は私と似てる。だから話してみたかったの。似てるって思っても、話してみたらきっと全然違うはずよ。でもやっぱり似てるかもしれない。そんな仁科の存在は、私にとってすごく面白いの」

 笑う侑の茶色の髪が、夜風に柔らかに踊っている。マスカラを乗せた睫毛の向こう、琥珀の瞳に映る自分は、能面のような無表情。その口が、やがて動く。

「あほらし。くだらないな」

「くだらなくないわよ」

「似てるって何なんだ。全然似てなんかないから」

「そうかしら」

 吐き捨てる仁科に、侑は不敵に笑った。

「仲良くしようよ、仁科。ねえ、早速訊きたい事があるわ。仁科は私の事を知らなかったのよね?」

 もうこんな狂人は放置して行こうと思ったが、また追いかけられても厄介なので「ああ。お前なんて知らなかったよ」と仁科はおざなりに答えた。侑は「またお前って言った」と恨みがましい目で言ったが、今はそこに拘泥する気はないらしい。続けてこう言った。

「なんで仁科は、私が有名だって思ったの?」

「は?」

「仁科、言ったじゃない。お前も有名なのか、って。確かに私は有名だわ。知らない人の方が稀なくらい。仁科が私を知らないって事にも驚いたのよ。でも知らなくたって別におかしくないわ。だって同じ学年でもクラスは違うし、共通の友達もいないしね。それにお互い、友達なんていないしね」

「……」

 少しタイミングを外しただけで寡黙になるのは仁科の性分なので仕方がないが、今回ばかりは口を挟むべきだっただろう。

 侑の言っている事はいっそ清々しいほどに真実で、だからこそ仁科の癇に障った。分かりきっている事を他人の口から聞かされる事ほど、鬱陶しくて時間の無駄な事はない。それとも塩谷の名前でも突き付けてやればよかっただろうか。だがもうそれさえ面倒臭かった。

「でも、仁科は私に言ったわ。お前も有名なのかってね。私の事、知らないはずなのに。だから私はますます仁科を面白いって思ったの」

 そこで侑は、じっと仁科を見てきた。ここで目を逸らしたら負ける気がして、仁科は無表情に侑の瞳を見返した。侑も、目を逸らさなかった。

 仁科の表情がもっと温和なものであれば、夜の歩道で見つめ合う自分達は恋人同士のように見えたかもしれない。塩谷の告げ口を回想しながら、漠然と考えた。そして思う。冗談ではない。

「どうして私を有名だと思ったのか。まずそこから知りたいなって」

「……何となく」

 失言を痛感しながら、仁科は何でもない風を装って言った。侑は当然、この答えでは不満だろう。仁科は来るべき追及に備え、身構えた。

 だが。

「……ふぅん」

 侑は小さく鼻を鳴らして、それから一人で頷いた。納得してくれたかどうかは怪しいが、追求はどうやらなさそうだ。侑の気まぐれに救われたと安堵しながら、「俺、もう行くから」と仁科は言って、馴れ馴れしい同級生の手を、自分から引き剥がす為に掴んだ。

 その時だった。侑が逆に、仁科の手を握ってきたのは。

「……何やってんの?」

「えへへ」

 にやにやと侑は笑った。その笑顔に、仁科は嫌な予感がした。

「その気持ち悪い笑い方、やめろ。俺急いでるんだけど」

「そんなの、私の知った事じゃないわよ」

「はあ?」

 突然、ふらっと景色が揺れた。強く手が引かれたのだ。伸ばし気味の髪が、遅れて身体と共に振れる。

「!」

 走っていた。仁科は走り出していた。侑に手を引かれて走らされていると脳が理解するのに数秒を要し、そしてはっと我に返った。

「おい……!」

「付き合ってよ、仁科!」

 走ったまま、侑がぱっと振り返った。セミロングの髪が大きく揺れ、毛先が仁科のブレザーを掠めていく。今仁科と走っているのが楽しくて堪らないのか、生き生きと輝く瞳に、街の光が瞬いた。

「あのなぁ!」

 仁科はまた言おうとした。自分は、忙しいのだと。だが、言っても無駄な気もした。どうせ聞きやしないのだ。自分の言いたい事だけを言って、こちらの主張は完全無視。それが今日一日の会話の中で、仁科が知った宮崎侑だ。

 街灯の下をいくつも抜け、人の波を掻い潜る。通り過ぎる光と人が段々と目に入らなくなっていき、視界がどんどん狭まっていく。本来の目的地であったはずのスーパーも通り過ぎてしまった。牛乳を買う為に家を出たはずなのに、何故こんな目に遭っているのか。制服を翻しながら手を取り合って走る自分達は、青春という言葉に酔いしれた痛々しい輩に思えて、走らされながら、仁科は呻いた。

「女子が、男子誘拐してどうすんだ」

「あら、逆ならいいの?」

 いけしゃあしゃあと言われ、もう何も言うまいと心に決めた。侑との会話は疲れる。どこかでその言葉を自分も人に言わせた気がする。そんな共通の認識さえも、何だか酷く疎ましい。

 もうどうにでもなれ。

 街のネオンの中へ一目散に駆けながら、仁科は投げやりに思った。


     *


 侑の足取りはしっかりとしていて、迷いのないものだった。

 最初こそ侑に手を引かれていた仁科だが、今は手など繋いでいない。絶対に逃げないという条件で離してもらったのだ。侑の我儘に振り回されている仁科がそんな提案をするのも妙だが、拘束が解けるなら何でもよかった。

 侑は、わざとではないかと疑わしくなるような内股で、ふらりふらりと仁科の前を歩いている。一見危なっかしい足取りだが、目的地を持った歩き方だと仁科は既に見抜いていた。その証拠に、あちこちの路地を抜け、複雑で物騒な細道を度々通るものの、寄り道をしているわけではなさそうだ。それにこういった場所は普通、女子は怖がったり不潔がったりして、近寄りたがらないものだろう。

 緩く弧を描く細道は、どこに続いているのか見当もつかないほど暗かった。ここには、街の光が少ししか届かない。

 無言で付き従う仁科へ侑は時折話しかけてきたが、その内容は「晩御飯なんだった?」や、「仁科ってなんで男子なのに髪切らないの?」など、どれも他愛のないものばかりで、仁科は無視するか、適当に流す事に徹していた。

 今、何時だろう。ふとそれを思ったが、確かめる術がなかった。

「今、何時か分かるか?」

 仕方がないから侑に訊いた。返事が見当違いのものでも害はない。そう判断しての問いだったが、侑は律儀に答えてくれた。

「八時十二分……あ、今十三分になったわ」

 暗闇の中に、ぽうっと薄青い光が浮かび上がる。路地裏に灯った小さな光が、侑の白い指を照らした。へえ、と仁科は思う。

「携帯、持ってんのか」

「……そうよ。珍しい?」

 ぱしん、と携帯を畳んだ侑が、こちらをぎろりと睨む。

「そりゃ、まあ中学生だから。一応、校則違反だし」

 やたらと感情の起伏が激しい侑に、段々と仁科は慣れ始めていた。「不細工に見えんぞ。やめとけ」とあしらうと、侑は仁科から顔を背けて、ずんずんと路地を闊歩した。胸が少しすっとした。

「なあ……」

 俺、もう帰ってもいい? 自然とそう言いかけて、はたと気づいて口を閉じる。逃げないという約束だった。

「帰っていいか、って言おうとしたでしょ」

 振り向かないまま侑が言った。別に偽る必要もないと思い、仁科は素直に言う。

「そうだけど。帰りたい」

「仁科ってひどい。年頃の女の子をこんな物騒なとこに一人でほっぽっていいって思ってるの?」

「誰が年頃だ」

 マセガキもいいところだ。仁科は躓いて転びそうな程に脱力する。くすくすと忍び笑いが聞こえてきたので、からかわれたと遅れて知る。何度目か分からない溜息を、仁科は重く吐き出した。

「年頃の女の子はこんな物騒な所に、年頃の男の子連れ込んだりしないから」

「年頃? 仁科が? あはははっ、年頃だってぇ」

「……疲れる」

「もうへばったの? 男子のくせに情けないわね」

「足が、じゃなくて、お前に」

「お前ってまた言った」

 仁科は眩暈を覚え、額に思わず手をやった。侑との会話が、面白いくらいに噛み合わない。自分が億劫に思って避けた人付き合い。そのツケがこれなのか。だとするなら避けた代償はあまりに大きい。そう後悔してやまないほどに、侑とのやり取りは仁科の体力を削っていた。

 それに、どうにも調子が狂うのだ。侑と話していると、仁科は普段より饒舌になっている気がする。いや、それは最早明らかだ。

 侑のペースに、引き摺られている。それが仁科には気に入らなかった。

「仁科。この辺に今まで来た事ある?」

「ないけど」

 くるりと振り返って訊く侑に、仁科は返事も面倒だと言わんばかりの雑さで答えた。普段から感情を表に出さない性質なので、自分が今不機嫌なのだと誇示するような態度は我ながらわざとらしく、格好悪い気さえした。そんなこちらの葛藤に侑は気付かなかったのか、「そっか」と頷いて薄く笑う。

「私もね、ここら辺は初めて」

「嘘だな」

「どうして?」

 仁科は言おうとして、躊躇う。自分の発言を侑に誘導されているような、そんな気がしたのだ。被害妄想だと己を自嘲し、冷めた一瞥を侑に向ける。

「どう見ても、初めてっていう足取りじゃない」

「それは仁科の妄想でしょ」

 あっさりと侑は返してきた。それも、仁科の痛い所を突いてくる。侑が再び踊るように進路を変えると、赤いスカートが闇の中で揺れた。

 侑と仁科の歩く先が、仄かに光り始めていた。それはピンクであり、黄色であり、青でもあり、赤くもあった。クリスマスツリーの電飾のような華やかさを遠目に見ながら、何度も着古したシャツのような、疲れて爛れた雰囲気を、仁科は肌で感じていた。疲労と悲哀を織り交ぜて、それらに電飾を巻いて光らせて見れば、とりあえず体裁くらいは整うだろう。誰かのそんな意図が見え隠れするような、綺麗で、だがどことなく穢れを放つネオンの洪水に瞳が順応し始めた時、ついに路地の終わりに到着した。

 視界が開けた刹那、仁科は呼吸も忘れて立ち尽くす。

 自分の住んでいる地域から、だいぶ離れた所へ来た。その実感が込み上げる。路地の終着点を見据えて歩いた道すがら、抱いた印象が一気にこの場で濃縮されて、弾けたような感覚があった。

 音だ。それに、人だ。たくさんの人の声が、仁科の聴覚を満たした。ざわざわと波のような喧騒が、人と共に道を流れる。揚げ物の香ばしい匂いも一緒に漂ってきたが、それよりもこの場に立ち込めた煙草とアルコール臭が鼻をついた。突っ立った仁科の肩が、誰かの肩とぶつかった。仁科はふらつく程度で済んだが、相手は転倒寸前にまで身体が傾いだ。若い女性だった。ちっ、と舌打ちしたその女性は、毒々しい程に赤い紅の唇を歪ませ、仁科を罵倒しながら立ち去った。

「わあ、こわぁ」

 くすくすと笑われ、振り返った。侑だ。仁科は、無言で侑を見下ろした。

 この場所について、話には聞いた事があった。少し歩くだけで簡単に行けてしまう。危険なので興味本位で近づくなと、学校のHRで教師から注意を受けていた。ここが自分達中学生には相応しくない、いわゆる歓楽街と呼ばれる場所だと、仁科はすぐに気づいていた。

「綺麗なとこね」

 侑との距離は、かなり近い。文字通り仁科の目の前に立った侑は、艶然と笑った。学生服を着た自分がこの場所に不釣合いだと感じたのに対し、同じ学生服に身を包んだ侑は、仁科とは違っていた。

 この場所に、似合っていたのだ。

 そしてそんな侑を、仁科は綺麗だと思った。

 元々、仁科はそういった感覚に疎い方だ。クラスの誰かが他者の容貌をほめそやしても、仁科自身がそう感じる事は稀だ。客観的な「可愛い」や「美人」に理解がないわけではないが、主観的な意見を仁科は持たない事が多い。

 侑の容姿に関しても同様だ。塩谷が「美男美女カップル」という言葉を使っていたが、己の事はさておき、仁科自身も侑の事は美貌の持ち主だと認めている。だがそれは塩谷を始めとするクラスメイト達の意見に沿ったものだ。己の本心は、侑に二度目にあった時点でも不明のままだった。

 それが今、初めて、自分自身の確かな実感として、侑を綺麗だと思った。

 ネオンのけばけばしいピンクの明かりが、侑の白い頬を照らしている。少女ではなく大人の貌で、侑は綺麗に笑っている。やはり、化粧の所為かもしれない。それでも仁科は、本当にそう思った。

 だが、それはあくまで容姿の感想のみだった。

 たったそれだけの、一つの感慨に過ぎなかった。

「……付き合えって言った場所、ここか?」

 仁科は、口を開いた。

「そうよ」

 侑は、衒いなくそう言った。

 仁科はそれに呼応するように、短く言った。

「付き合ってられるか」

 元来た道を強引に引き返すつもりで、路地へ足を向けた。

「仁科と一緒に来たかったの」

「俺と?」

 仁科は振り返り、鼻で笑った。ひどく温度のない笑みだと、自覚があった。

「俺とどこへ行こうって? お前、俺を襲う気なのか?」

 そう言って、侑の背後を見やった。通りの細道には人の流れができている。路地付近に立つ仁科と侑の間にも、幾人かが通過した。饐えた匂い。停滞した空気の淀み。笑い声に、それから罵声。ここがどれだけ治安の悪い場所か、仁科には感覚的にだが分かっていた。そしてどれだけ誘惑の多い場所であるかも分かっていた。ただ、それが誘惑なのだと、自分が感じないだけだった。仁科は思う。ここは危険だ。ここにいるのは間違いだ。

 侑は、仁科の目が自分を見ていないと察したらしい。わざとらしく後ろを振り返り、それからくすりと笑う。視線の先、細道の暗がり。ホテルの看板を縁取るネオンが、侑の横顔をちかちかと照らした。その時侑が浮かべた笑みは、ひどく品のないものに見えた。

 看板から先に目を逸らしたのは、仁科の方かもしれない。だがどちらが先かなんて分からなかった。気付いたら二人とも、看板を見てはいなかった。

 侑がこちらを振り返り、にやにやと笑った。

「私、仁科に言ったよね? 付き合ってって」

「何言ってんだか」

 仁科が、動揺する事はなかった。

「付き合う、ってそういう意味で言ったのか? 違うだろ」

「仁科ってば、つまんない。愛の告白じゃない」

「嘘つけよ」

 纏わりつくような言葉を一蹴して、仁科は敵対の姿勢を見せる。少なくとも仁科は「敵対」のつもりだが、侑からすればそれはもしかすると「お喋り」に過ぎないかもしれない。同級生の余裕の笑みが、尚更仁科を苛つかせた。

「そんなに冷たいと、もう女の子にモテなくなるわよ? きっとみんな仁科に幻滅しちゃうわ。いいの?」

「へえ、俺ってモテてんだ。知った事じゃないけど」

「じゃあ、仁科は意気地なしなのね」

 侑は断定的に言った。かなり分かりやすい挑発の文句だった。

 仁科は大きく、溜息を吐く。馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。

 路地の暗がりに身体を向けて、足を一歩踏み出す。「仁科」と背後で侑が呼んだ。

「追っかけてくんなよ」

 振り返らないまま、辛辣に言った。女子一人をこんな場所へ放置するのが、道徳的に間違いなのは分かっている。普段であれば、途中まで一緒に帰るくらいの甲斐性は見せられただろう。だがそんな事すらどうでもいいと思うほどに、仁科は疲れ、呆れ、何より苛立っていた。ホテルへ行こうと迫ってきた上に、言うに事欠いて意気地なし。仁科の苛立ちは正当なものと言えた。ここへ自分を連れてきたのは侑なのだ。この後どうするかは侑の好きにすればいい。

 ただ、自分がわけの分からないそれに付き合わされるのは御免だった。

「仁科」

 侑が背後で、仁科を再び呼んだ。仁科は侑が追ってくる事を予想していたが、声は先程よりも遠くから聞こえた。振り返ると、仁科が歩いた分の距離が、仁科と侑との間にあった。

 少し、意外に思う。侑は追いかけてくるという予想は、この時完全に裏切られた。

「ばいばい。仁科。また明日ね」

 侑は、今までと変わらない笑顔で、軽く手を振ってきた。

 それはあまりにあっさりとした、仁科への解放宣言だった。

 仁科は拍子抜けしたが、すぐさま踵を返して歩き出した。

 ――何なんだ、あいつは。

 一日の中で、何度そう思ったか分からない。だが、何度でも思う。何なんだ、あいつは。背後が少し気になった。振り向けばまだこちらを見ている気がした。うっかり目が合う事を恐れて、もう振り返るまいと思いながら、仁科は暗い路地へと身を沈め、元来た道を辿っていった。

 宮崎侑と仁科要平のファーストコンタクトは、ストーカーとその被害者という図式に近い。

 そしてその図式は、この日以降も続いていく事になるのだろうと、仁科は帰路につく途中、薄らと予感していた。

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