2話 おはようございます
6/25 本文を一部改稿しています。一部の表現を変えただけで内容は全く変わっていません。
お見苦しくてすみません。
(あ、雨……)
朝、出勤しようと玄関のドアを開けて、春名智美は立ち止まった。
忙しく朝の支度をしていた彼女は気づかなかったが、外では昨夜からのそぼ降る雨が続いていた。
彼女は思わず肩から掛けているバッグを握りしめる。その中には昨夜、辻村真平から借りた折り畳み傘と、可愛いクローバーの絵柄の紙袋に入った『ある物』が入っていた。
智美はバッグの中身を思い出し、くすぐったいような思いに襲われる。
照れ臭げに顔を赤らめると、家の車庫に停めてある愛車へと小走りに駆け寄った。
智美は昨夜、同僚の真平と初めてまともな会話をした。
それまでの彼女は、彼の存在を知っているだけーーという、お寒い状態だったのだ。
でもそれはある意味、仕方のないことだった。
彼女の会社は積極的で派手な印象の社員が多い。彼は外見だけでなく性格も物静かでおとなしいため、知らず知らず他の社員の影に隠れてしまう、存在感の薄い地味な人だったのだ。
そんなこともあり、彼女にとって真平は、ただの同僚でしかなかった。
そんな彼と、会話をすることになった切っ掛けは『時間』だった。
昨夜職場の同僚達との親睦会があり、帰りに二人は駅で偶然一緒になった。乗る電車も同じで、四十分という待ち時間も一緒。
長すぎる空き時間をもて余していた智美に、彼は一緒にその時間を潰そうと誘ってきたのである。
智美は、何の気なしに承諾したのだったが…。
その結果……
車に乗った智美はバッグを助手席に置く。
ハンドルを握ると、いつもの癖で備え付けの時計を見た。時計の針は、七時を少し過ぎたところを差している。
彼女の会社の始業時刻は午前九時。八時半にタイムカードを押しても早いくらいだ。智美はいつもその頃に着くよう家を出ていた。 会社までは車で二十分程。八時を回って出ても充分間に合う。それなのに七時過ぎ…。
今朝の彼女は、自宅を出るのが早すぎるのだ。
智美は欠伸を一つすると、エンジンを掛けた。雨の中を、彼女のブルーの愛車が勢いよく走り出す。
夕べは興奮して眠れなかった。理由はわからない、いや本当はわかっている。
眠れない原因は一つしかない…。
昨夜帰宅したあと、智美は真平に借りた傘を玄関の軒先に拡げたまま掛けた。濡れた傘を乾かすためだ。
それから、彼女はおもむろにキッチンで料理を始める。
時刻は午前零時がこようとしていた。母が一度眠そうな声で「こんな時分に何してるの?」と声を掛けたが、彼女は曖昧に笑って料理を続けた。
そして約一時間かけて出来上がったのが、バッグに真平の傘と共に入っている『ある物』、つまりクッキーだった。
車の中に甘い匂いが立ち込める。
(辻村さんは、喜んでくれるかな…?)
真平は甘いものが好きだと言っていた。だから、きっと喜んでくれるはず。この傘を返す時にさりげなく渡せば、抵抗なく受け取ってくれるだろう。
「ありがとうございました。助かりました」と、こんな感じで勢いよく言って事を済ませば、仮に真平が「ん? 何か変だな?」と考えたとしても、ただの親しい同僚の枠を越えているとは言えない。
うん、どこにも不自然なとこはない。
智美はクッキーを作ってからというもの、ずっと考えていた渡す時のシュミレーションを、念入りにチェックしていく。
そして、はあ〜とため息をついた。
昨夜のたった四十分、電車に乗ってからを入れると一時間ちょっと。たったそれだけの時間なのに…。
その時間が、全てを変えてしまったのだろうか。
智美の中で真平は、ただの同僚ではなくなっていた。
車が、会社の駐車場に着いた。
時刻は、まだ七時二十分前だ。当然、駐車場はガラガラに空いている。
今朝の智美が、いつもより一時間も前に家を出たのには理由があった。
それは、誰よりも早く職場に入り、出勤して来た真平にこっそりクッキーを渡したかったからだ。
いくら真平本人には同僚からのお礼にしか見えないとしても、他の面子はそうはいかない。
彼らはとんでもなくお祭り好きなのである。勝手にあれこれ推理して、面白おかしく話を広げるのが得意なのだ。
これをネタに、訳のわからない親睦会でも開催されたら大変である。
だから、彼らには間違っても見られたくないのだ。
智美は車を降りて職場へと向かった。早すぎるので鍵が開いているかは不明だったが、取り敢えず職場である小さなビルに向かうことにした。
果たして、鍵は開いていた。
智美はホッとしてビルの中へ入る。
だけど開いているということは、彼女が一番ではない、ということではないか?
智美はそうっと中の様子を窺った。
通路からではよくはわからないが、誰かが既に仕事をしているのか、フロアから人の気配が感じられる。
当然だ、鍵が開いているのだから。
多分課長がもう出勤して、仕事をしているに違いない。
智美は更衣室で着替えて荷物を片付けると、ガッカリしながら机のある職場へと足を向けた。
(どうやって渡そう…)
通路を歩いていると、何かが聞こえてくる。耳に心地よい音色のようなものだ。職場が近付くと段々大きくなってきた。
不思議に思いながら部屋に入ると、音がピタリと止んだ。
「…あ、おはよう。春名さん」
彼女に声をかけてきたのは真平だった。
彼は慌てたように机を移動して椅子に躓いている。
「おはようございます…」
智美はぼんやりとして、真平を見ていた。
真平は躓きながらも隣の机にたどり着くと、その上を雑巾で拭きはじめる。そこが済むとまたその隣と、次々横へ移動しながら続けていく。
「何してるんですか?」
智美の質問に彼は振り向いた。
「掃除だけど?」
「え? 辻村さんが?」
「僕がしてたらおかしいか?」
真平は顔を赤らめて横を向く。
「いえ、違います!」
(そうじゃなくて…)
智美は掃除道具をしまってあるロッカーへと走った。
「わたしも手伝います!」
「辻村さんが、いつも清掃してくれていたんですか?」
智美は真平と逆方向から机の雑巾がけを進めていた。
「まいったな。知られたくなかったんだけど…」
真平は気まずげにぼやいている。
「さっきの…、何て歌ですか? 綺麗な音色ですね」
智美が意地悪く聞くと、彼の背中が大げさなほど揺れた。
「聞こえてたのか?」
真平は固まったまま、動かない。いや、動けないのか?
智美はじっとしている真平に近づく。いつの間にか、彼をからかうのが楽しくなっている。真平と二人の時間は、どうしてこんなに楽しいのだろう。
「教えてください、タイトル。わたしも覚えたいです」
彼女は覗き込むように彼の顔を見た。自分でも信じられないくらい、大胆な行動である。
今まで生きてきた中で、こんなに異性に近づいたことがあっただろうか、しかも自分から。
真平は真っ赤な顔をしていた。彼は智美を睨むように視線を寄越すと、低い声で唸るように言い捨てた。
「嫌だ」
そしてまた、前を向くと黙々と机拭きを再開する。
そんな彼の仕草が、まるで中学生ぐらいの少年のようで、智美も知らず知らず真っ赤になっていた。
「春名さんは、今日は早いね」
机の雑巾がけが終わり、二人で給湯室にあるポットでお茶をしていると、真平が何気なく聞いてくる。
「何かあったのか?」
彼は能天気な顔で彼女を見ていた。
智美は思わずお茶を吹き出しそうになって慌てる。
「えっと…」
チャンスだ! 今渡せばいいじゃないか!
ちょうど二人きりだし…。
頭の中ではわかっている。だけど声に出すことが出来ない。
意識してしまうと、どうしても駄目なのだ。智美は自分が情けなくて仕方なかった。
「今日は、ありがとう」
真平がお茶で眼鏡を曇らせながらお礼を言ってくる。
「助かったよ」
彼は曇った眼鏡を外して彼女に微笑みかけた。
白い肌に薄茶色に見える瞳が映えてーーー、思わずハッとするほど魅力的な笑顔だった。
「何か、お礼をした方がいいかな?」
智美が茫然と彼の顔を見ていると、冗談まじりな笑いを含んだ声が聞こえてくる。
真平はいつの間にか彼女から視線を外し、自分の眼鏡を拭くのに必死になっていた。
「…なんてね」
そう言いながら眼鏡を掛けて振り向く。
「行きましょう!」
智美は思わず大声で叫んでいた。
「えっ?」
彼はキョトンとしている。
「だから、お礼。…でも辻村さんじゃなくて、わたしにさせて下さい! 昨日の傘のお礼です」
奇跡だった。
あんなに躊躇って言えなかった言葉がスラスラ出てくる。
「昨日、話したケーキの美味しいお店! ご招待します、一緒に行きましょう」
まるで不思議な力に操られているようだ。恋に奥手な自分とは思えない。
「あ、ああ…」
気がつけば、智美の勢いに押されたように答える真平の、掠れた声が聞こえてきた。