愛することはできなくとも敬うことはできそうだった
口髭が笑いのために片方へ傾いていた。その笑いには怒りも驚きもなかった。ただ面白い見ものに出くわしたとでもいうような笑いだった。
戚喜はそのまま固まった。片手は枝の上に、片手は宙に、足は木を踏んで上りかけた格好のまま。婚礼衣装の裾は脚に絡みつき、蓋頭は捲れ上がって白い顔をさらけ出していた。
「大王、わたくしは……」
声が震えた。次に続ける言葉が浮かんでこない。道に迷ったうえ退屈で木登りでもしていたとでも言おうか? 話にならなかった。
「わたくしは、その、それは……」
言い訳でもしなければならなかった。だが、その言い訳すら出てこなかった。
戚喜は口をつぐんだ。唇がぶるぶると震えた。沈黙が流れた。
劉邦がゆっくりと近づいてきた。一歩二歩。相変わらずにやりと笑ったままだった。戚喜は木の上で固まったまま劉邦の歩みを見下ろした。
終わった。その思いだけが頭に満ちていた。
劉邦は木の下までやって来ると手を上へ差し伸べた。
「降りてこい」
声は柔らかかった。
戚喜はしばし躊躇った末その手に自分の手を重ねた。劉邦の手は分厚く、ごつごつとしていた。彼は戚喜の手をそっと引き下ろした。足が木の幹から離れた。戚喜の体が一度揺れて地に降り立った。婚礼衣装の裾が枝に引っかかっていた。
劉邦はもう一歩近づいて裾をほどいてやった。戚喜の顔を見ると捲れ上がった蓋頭をもう一度かぶせ直してやった。それから、また手を取った。
戚喜は蓋頭越しに劉邦の顔を見上げた。彼は笑みを消さなかった。その笑みに怒りがないことがかえって恐ろしかった。
劉邦がゆっくりと歩き出した。
「行こう」
戚喜は引かれるように彼の傍らに並んだ。劉邦は戚喜の手を握ったまま離れ屋のほうへ足を運んだ。戚喜は一歩遅れてその後に従った。
裏塀の角を曲がり、離れ屋の陰を過ぎるあいだ劉邦は口を開かなかった。戚喜もまた口を開けなかった。男の手に握られた自分の手がいよいよ冷たくなっていくのが感じられた。頭の中でありうる結末が一つひとつ思い描かれた。劉邦が自分を廃すること。自分を生家へ送り返すこと。罰を下すか処刑すること。よい結末は何一つなかった。
離れ屋を過ぎ、中庭へ入る道の角で漢王が口を開いた。
「落胆したか」
笑いを含んだ声だった。戚喜が顔を上げた。
「は?」
「このような老いぼれで落胆したか。察してはおった。馬車から降りるときからな」
戚喜の頭の中が再び真っ白になった。
この男は今自分が逃げ出そうとしたことを彼に落胆した新妻が幼い心で起こした振る舞いとして受け取っている。誤解だった。だが、その誤解こそがむしろ生きる道だった。
戚喜は慌てて口を開いた。
「そ、そのようなことではございませぬ。大王、妾がどうして大王に落胆など……」
言葉が速くなった。劉邦はその言葉が終わるのを待たず、手を振った。
「よい、よい」
彼は戚喜の手をもう一度軽く握り直した。
「お前は十八と聞いた。寡人がその歳の頃何をしておったか。豊邑の街で友どもとつるんで酒でも食らっておったろうよ。その歳で面識もない老いぼれの側室として上がる心持ちがどんなものかこの寡人にわからぬとでも思うか」
物言いが柔らかかった。彼の言葉の一つひとつが戚喜の頭の中に一拍ずつ遅れて届いた。
自分の逃亡の企てを劉邦は怒っていなかった。それどころか、自分の心を汲み取っていた。
冷えきっていた指先にぬくもりが巡った。
劉邦は歩を進めながら再び口を開いた。
「何が気がかりなのだ」
戚喜はもう一度問い返した。
「は?」
「何が気がかりで塀を越えようとした。怒りはせぬゆえ申してみよ」
戚喜の頭がめまぐるしく回った。人彘にされる未来が恐ろしくて逃げ出そうとしたなどと言えるはずもない。呂后を口に出すこともできない。自分が転生したことなどなおさらだった。
だが、劉邦は答えを待っていた。彼は問うておきながら答えを聞かずにすませる男ではなかった。
戚喜は口ごもりながら口を開いた。
「妾は……溷廁が恐ろしゅうございます」
嘘ではなかった。少なくとも半分の真実ではあった。
劉邦の足が止まった。そして、豪快に笑い声を弾けさせた。
「はっはっは!」
その笑い声が中庭に響き渡った。あまりに大きな笑いだったので遠くから聞こえていた宴の音が一瞬かき消えた。
戚喜は蓋頭越しに漢王の顔をじっと見上げた。漢王の口髭が笑うたびに一度ずつ揺れた。浅黒い顔に小皺がいっそう深くなった。笑いが静まった。
「はは、溷廁が恐ろしいと申したか。寡人が約束しよう。お前が寡人の正式な夫人となったならお前だけのための厠を別に建ててやろう。豚もおらず、囲いもない、小ぎれいで清らかな厠をな。どうだ」
彼は戚喜の手を軽く叩きながら言った。言葉の終わりに笑いが満ちていた。
その言葉に戚喜も笑わずにはいられなかった。抑える間もなくこぼれ出た。鈴を転がすような笑いが蓋頭を越えて広がった。
「そうして笑うとよい顔だ」
劉邦が明るく言った。
戚喜は彼の顔をもう一度見上げた。自分は馬車に揺られて来るあいだ何を願っていたか。いずれ夫となる者が側室の髪をつかんで振り回すような無道な者でないことだけを願っていた。
そして、自分の夫となった男は側室が逃げ出そうとしたのを知りながら側室の恐れを受け止め、幼い側室の笑いをよい顔だと褒めてくれる男だった。
二人の歩みは再び離れ屋の庭へと入った。廊下を抜け、奥の間の前に至った。
劉邦が握っていた手を放した。
「のちほどな」
彼はひと言だけを残すと軽快な足取りで宴の場のほうへと去っていった。その後ろ姿を見送りながら戚喜はしばらく立ち尽くしていた。
遠くの宴の場で漢王を迎える男たちの挨拶がひとしきり賑やかに上がった。戚喜はそこでようやく奥の間の戸を開けて中へ入った。
戸が開くなり禾児が駆け寄ってきた。
「お嬢様! どちらへ行っておられたのです、お出になってから一刻は経った気がしますのに……」
「夫人。ご無事のお戻り何よりにございます」
綵瑩の落ち着いたひと言が続いた。戚喜は蓋頭越しに綵瑩をじっと見やった。劉邦がはたして当てもなく独り歩いていて自分を見つけたのだろうか。そんなはずはない。おそらくこの者が劉邦に知らせたのだろう。
「少し道に迷っただけ。何事もなかったわ」
戚喜は禾児を安心させた。そして自分の席へ戻ろうとして脚から力が抜け、崩れるように座り込んだ。禾児が驚いて慌てて駆け寄った。綵瑩が背を支えた。
「お嬢様!」
「よい。脚の力が抜けただけだから」
戚喜は綵瑩の手を払いのけながら言った。綵瑩は退いてわずかに頭を下げると寝台を整え始めた。禾児は温かい茶を支度しているようだった。
戚喜は絹の褥の上に座り、蓋頭を整えながら思った。
漢王劉邦。
彼を愛することはできなくとも敬うことはできそうだった。
目を閉じた。夜が近づいていた。
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