『孤児院の十歳が銀貨三枚を稼ぎに来た結果、教会の不正会計が丸裸になった』 ~悪くなかった、の一言で三年分が溶けた話~ ep-8
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本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。
銀貨三枚。孤児院の子供が一人で稼げる金額じゃない。だからハンスは、稼ぎに行くことにした。
十歳の判断力で考えた結果がそれだった。
孤児院の院長シスター・マルガレーテは、今朝から頭を抱えている。
理由は二つだ。
一つ目。先週から子供たちの間で噂が広まっている。
「路地裏にすごい飯屋がある」
「黄金色の肉が、銀貨三枚で食べられるらしい」
「食べた大人が全員泣くらしい」
二つ目。今月も孤児院の食費が足りない。
王都教会から孤児院への賜付金は、毎月金貨二枚と決まっている。だが実際に届くのは、いつも銀貨八枚だ。
そして今朝、ハンスが言った。
「稼いでくる」
シスター・マルガレーテが止める間もなく、ハンスは走り去った。
◇
揚太郎の店の暖簾の前で、ハンスは立ち止まった。
路地裏は薄暗い。暖簾の奥から、信じられない匂いがしている。
腹が、盛大に鳴った。
暖簾をくぐった。
カウンターの端に、地味な事務服の令嬢が書類を広げながら定食を食べていた。几帳面な手つきで、箸を置くたびに手帳に何かを書き込んでいる。数字を見る目だ、とハンスは思った。
カウンターの奥で、男が振り向かずに言った。
「いらっしゃい。ロースかつ定食だけです」
「あの」
「なんだ」
「お金がないんですけど、働いたら食べさせてもらえますか」
沈黙。
揚太郎が振り向いた。
十歳の子供が、背筋を伸ばして立っている。目が真剣だ。
「何ができる」
「なんでもします」
「皿洗いは?」
「できます」
「床掃除は?」
「できます」
「重い荷物運びは?」
「……できます、たぶん」
「たぶん、はいらない」
「できます」
揚太郎は三秒、ハンスを見た。
「名前は」
「ハンスです。孤児院から来ました」
「何歳だ」
「十歳です」
「銀貨三枚分働けるか」
「働けます」
揚太郎は布巾を一枚、カウンターに置いた。
「まず皿を洗え。終わったら飯を出す」
ハンスの目が、輝いた。
「はいっ」
◇
問題が発生したのは、五分後だった。
ガシャン。
「……す、すみませんっ」
皿が一枚、床に落ちていた。
割れていなかった。
揚太郎が覗いた。
「怪我は?」
「ないです」
「拾え」
「はいっ」
ハンスが皿を拾おうとして、桶を蹴った。
ザバァッ。
洗い水が床に広がった。
「……す、すみませんっ」
揚太郎が無言で雑巾を投げた。
「拭け」
「はいっ」
ハンスが雑巾で床を拭きながら、涙目になっていた。
泣くな、と思った。泣いたら負けだ。銀貨三枚分、絶対に働くと決めた。
そのとき、店の奥から声がした。
「あら、お客さんですか?」
リーネだ。
仕込みの途中で顔を出したリーネが、床を拭いているハンスを見て、目を丸くした。
「子供!? かわいい! 何してるんですか!?」
「皿洗いしてます」
「えっ、お手伝いさんですか!?」
「銀貨三枚分働いたら、とんかつを食べさせてもらえることになりました」
リーネの目が、みるみる潤んだ。
「えらい……! すごくえらい……!」
「リーネ、仕込みを続けろ」と揚太郎が言った。
「でもお兄さん、この子えらいじゃないですか!」
「仕込みを続けろ」
「はいっ……でもえらい……」
リーネが厨房に戻りながら、何度もハンスを振り返った。
アル爺が奥から顔を出した。
「なんだ、子供か」
「孤児院から来ました。働いてます」
「ほう」
アル爺はハンスの手元を一瞥した。
「雑巾の絞り方が甘い。こうやるんだ」
アル爺が雑巾を受け取り、力強く絞った。水がバシャバシャと流れた。
「見たか」
「はいっ」
「やってみろ」
ハンスが絞った。水が少し出た。
「まだ甘い。もう一回」
「はいっ」
揚太郎が厨房から言った。
「爺さん、仕込みを続けろ」
「教育も仕込みのうちだ」
「違う」
「似たようなもんだ」
◇
昼時になった。
客が来始めた。
ハンスは皿洗いを終えて、床を掃いていた。
揚太郎が肉を揚げ始めた。
ジュワァァァ……バチバチバチッ。
匂いが、店中に広がった。
ハンスの手が、止まった。
腹が、また盛大に鳴った。
今度は客にも聞こえた。
客がハンスを見た。
ハンスは真っ赤になって、猛烈に箒を動かした。
客が笑った。
カウンターの端でシルヴィアが、手帳から目を上げてハンスを見た。
一瞬だけ。
それからまた手帳に視線を戻した。
その頃、店の外から声がした。
「ハンス! ハンス、いるか!?」
暖簾をがばっと開けたのは、孤児院の子供が三人だった。
七歳のグレタ、八歳のペーター、九歳のマックスだ。
「ハンス、シスターが心配してた! どこ行ったんだって!」
「ここで働いてる」
「働いてる!?」
三人が店内を見回した。
匂いが、三人の鼻を直撃した。
三人の腹が、同時に鳴った。
客がまた笑った。
揚太郎が振り向いた。
「何人だ」
「え?」
「お前の仲間、何人いる」
ハンスは固まった。
「……四人、今日来てるのは」
「孤児院に何人いる」
「……十二人です」
揚太郎は鍋を火から下ろした。
「全員呼んでこい」
「え?」
「全員来い。飯を出す」
ハンスの目が、見開かれた。
「……で、でも、銀貨三枚、十二人分は——」
「今日は別の話だ」
揚太郎は布巾で手を拭いた。
「お前は今日、銀貨三枚分以上働いた。皿洗いと床掃除と、洗い水をこぼしてちゃんと拭いた。全部仕事だ」
ハンスの喉が、ぐっと鳴った。
「……ありがとう、ございます」
「礼はいい。仲間を呼んでこい」
◇
三十分後。
揚太郎の店に、十二人の子供が並んでいた。
カウンターには座りきれないので、外にも椅子を並べた。
アル爺が「なんだこの騒ぎは」と言いながら、蒸籠の手を止めなかった。
リーネが「わあわあ」と言いながら、味噌汁の碗を十二個並べた。
途中で碗が足りなくなって、リーネが「お兄さん碗がないです」と言い、揚太郎が「棚の一番上」と言い、リーネが「届かないです」と言い、アル爺が「どけ」と言って取った。
揚太郎は無言で、十二枚のとんかつを揚げ続けた。
ジュワァァァ……バチバチバチッ。
ドォン、ドォン。
重低音が路地裏に響いた。
子供たちが、揚げ物の匂いに圧倒されて黙っている。
皿が、一枚ずつ出てきた。
黄金色の衣。湯気。白い米。味噌汁。
七歳のグレタが、一口食べた瞬間、固まった。
「……おいしい」
それだけ言って、泣き始めた。
隣のペーターが「なんで泣くんだよ」と言いながら、自分も泣いていた。
マックスが「泣くなよ」と言いながら、盛大に鼻をすすった。
十二人全員が、泣きながら食べていた。
ハンスだけが、泣かなかった。
泣くと負けだと思っていたから。
だが目の奥が、じわりと熱くなった。
カウンターの端で、シルヴィアが静かに手帳を閉じた。
◇
その夜。
シスター・マルガレーテが、揚太郎の店の暖簾をくぐった。
「子供たちが大変お世話になったようで。銀貨を——」
「要りません」
「ですが——」
「ハンスが今日、銀貨三枚分働きました。それで清算済みです」
シスター・マルガレーテは、しばらく揚太郎を見た。
それから、目を伏せた。
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
声が、少し掠れた。
揚太郎は何も言わなかった。
シスターが帰り際、振り返った。
「あの子は、今日初めて泣きました。孤児院に来て三年間、一度も泣かなかったのに」
「……そうか」
「ハンスの両親は、二年前に流行り病で亡くなりました。あの子はそれ以来、泣くことを自分に許していなかったんです」
揚太郎は鍋に出汁を足した。
ぐつぐつという音だけがした。
シスターが出口に向かいかけたとき、カウンターの端から声がした。
「少しよろしいですか」
シルヴィアだった。
まだいたのか、とシスターが驚いた顔をした。
「先ほどから気になっていたのですが」
シルヴィアは手帳を開いた。
「孤児院への王都教会からの賜付金、毎月いくら届いていますか」
シスターの顔が、一瞬強張った。
「……銀貨、八枚です」
「規定では金貨二枚のはずです。差額の銀貨十二枚、どこへ消えているかご存知ですか」
シスターが黙った。
「……わかっては、いるのですが、教会に対して何も言える立場では」
「わかりました」
シルヴィアは手帳に何かを書き込んだ。
「正式な調査が必要ですね。賜付金の支出記録と、孤児院への着金記録、両方を照合すれば差額の流れが特定できます。教会の会計記録は公文書ですので、開示請求が可能です」
「そ、そんなことができるのですか」
「私の本業です」
シルヴィアは眼鏡を押し上げた。
「一週間ほどお時間をください。調査と書類の準備が整い次第、ご連絡します」
シスターの目が、潤んだ。
「……どうして、こんなに」
「業務効率化です。子供たちが銀貨三枚のために働かなくて済む社会の方が、私の手帳の仕事も減ります」
揚太郎が鍋を火から下ろす音がした。
シスターが深々と頭を下げて、店を出た。
◇
一週間後。
王都教会の会計担当司祭、フリードリヒ神父が執務室で書類を広げていたとき、扉がノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、地味な事務服の令嬢だった。
手には分厚い書類の束。
「フリードリヒ神父様ですね」
「そうだが、貴女は?」
「シルヴィア・ヴェルナーと申します。元王太子妃で、現在は財務コンサルタントです」
「……なんの御用かな」
シルヴィアは書類を一枚、神父の机に置いた。
「こちらは過去五年間における、王都内孤児院十三施設への賜付金支出記録と、各施設への実際の着金記録の照合表です」
神父の顔が、少し強張った。
「差額の総計は、金貨三百八十二枚と銀貨六枚です」
「……それは」
「神父様の個人口座への入金記録とも照合済みです。こちらが証拠書類の写しになります」
書類をもう一枚、置いた。
「王都教区の監査委員会への報告書は、明朝提出します。その前に神父様から自主申告していただければ、手続きが簡略化できますが、いかがですか」
神父の額に、汗が浮いた。
「き、君は一体——」
「元王太子妃と申し上げました」
ここに一行足します。
「き、君は一体——」
「元王太子妃と申し上げました」
「……そんな方が、なぜこのような案件に」
「孤児院の子供が、銀貨三枚を稼ぎに路地裏へ行ったからです」
神父が黙った。
「それだけです」
「……わ、わかった。自主申告する」
「ありがとうございます。では署名をこちらにお願いします」
書類を三枚、静かに差し出した。
「なお、今後の賜付金は各施設への直接振込に変更します。手続き書類はこちらです」
「……それも持ってきたのか」
「当然です。解決と同時に再発防止まで済ませるのが私の流儀ですので」
◇
翌週。
孤児院に、初めて金貨二枚が届いた。
シスター・マルガレーテは封筒を開けたまま、しばらく動けなかった。
その夜、シスターは子供たちに言った。
「今月は少しだけ、いいものが食べられます」
子供たちが歓声を上げた。
ハンスだけが静かに言った。
「シスター、揚太郎の店に行っていいですか」
「もちろんです」
「銀貨三枚、今度は自分で払います」
シスターは微笑んだ。
「来週からハンスが仕込みを覚えに来ます、と店主さんに言われています。その時に払えばいいですよ」
ハンスの目が、少しだけ丸くなった。
「……覚えに来ていいって言ってくれたんですか」
「ええ」
ハンスは窓の外を見た。
路地裏の方角だ。
「……行きます」
それだけ言って、また泣きそうな顔をした。
今度は、泣いていいと思った。
(完)
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