猫好き令嬢とお出かけ
王都の空は薄い雲のベールを纏い、柔らかな陽光が街並みを優しく照らし出している。
クローニア伯爵家のタウンハウスの前は朝の静寂に包まれていた。
そこに一台の豪奢な馬車が石畳の道を静かに進み、門前にピタリと停車する。
漆黒の車体に金色の装飾が施されたその馬車は、王都の誰もが目を引かれるベイリーフ侯爵家のものだ。
車内から降り立ったのは、仕立ての良い濃灰色のフロックコートを纏った長身の青年。
ベイリーフ侯爵家次男、ロンドルフである。
(少し早いが、大体時間通りだな。では門番に話を通して屋敷へ――)
ロンドルフは懐中時計を確認し、エントランスへ向けて歩みを進めようとした。
だが彼が視線を上げたその先で、タウンハウスの重厚な扉が内側から勢いよく開け放たれる。
「ロンドルフ様! おはようございます!」
弾むような明るい声と共に、一人の令嬢が小走りでこちらへ向かってきた。
淡い水色のお出かけ用ドレスを身に包んだエリザベスだ。
その後ろには側付きのメイドであるアニスが、主人の勢いに遅れまいと小走りで付き従っている。
「エリザベス嬢! 早いな!」
ロンドルフは少し驚いたように声を上げた。
貴族の令嬢というものは、出掛ける前の身支度に時間がかかるものだ。
迎えの者が到着してから、さらに小一時間ほど待たされることなど社交界では日常茶飯事である。
それが約束の時間よりも前に、自らエントランスを飛び出してくるとは。
「ええ! 今日は猫スポット巡りだと思うと、なかなか眠れなくて!」
エリザベスは悪びれる様子もなく、目を輝かせて答えた。
その言葉を聞いて、ロンドルフの口元から思わず低い笑い声が漏れる。
(……この令嬢は本当に面白いな)
自分のような侯爵家の次男との逢瀬が楽しみで眠れなかったのではなく、ただ純粋に「猫スポット巡り」が楽しみで早起きしてしまったというのだ。
夜会のバルコニーで語った「少しばかり猫が好き」という言葉は、大いなる謙遜であったらしい。
類は友を呼ぶというが、自分と同じように実は彼女も相当な猫好きなのではないかと思うと、その飾り気のない素直さがなんだか可笑しく、そしてとても好ましく思えた。
「ロンドルフ様?」
不意に笑い出したロンドルフを見て、エリザベスが不思議そうに小首を傾げる。
「いや、すまない。なんでもないんだ。では馬車へどうぞ。そちらのメイドもな」
ロンドルフは優雅な所作で馬車の扉を示し、エスコートの姿勢をとる。
「恐れ入ります」
アニスは恭しく頭を下げ、エリザベスの後に続いて馬車へと乗り込んでいく。
ロンドルフはアニスが同行することに対して、内心で安堵と感謝を覚えていた。
婚約者でもない若い男女が二人きりで街を出歩くなど、社交界においては格好のゴシップの的となる。
クローニア伯爵家からの護衛兼お目付け役としてメイドが同乗するのは、貴族の令嬢として当然の嗜みだ。
ロンドルフ自身も『レベッカ』を探すという明確な目的がある以上、エリザベスとの間に二人きりでデートをしているなどという無用な醜聞が立つことは何としても避けたい。
お目付け役の存在は、まさに渡りに船であった。
ちなみにロンドルフ側からも、侯爵家の優秀な密偵が目立たないように護衛として追走する手筈となっている。
王都の喧騒の中でどのような不測の事態が起こるかわからない。
令嬢の安全を守るための備えは万全だ。
全員が馬車に乗り込み、柔らかなクッションの効いた座席に向かい合って腰を下ろすと、馬車がゆっくりと動き出す。
「それで、まずはどこに行くんだ? 場所を教えてくれれば、この馬車で直接向かえるぞ」
ロンドルフが尋ねると、エリザベスとアニスは互いに顔を見合わせて小さく頷き合った。
アニスが手提げ鞄から王都の精緻な地図を取り出し、馬車の中で広げる。
そこにはいくつもの赤い印が書き込まれていた。
「まずは大通りのここですね。様々な小物を取り扱う商店で、店の名前は――」
エリザベスは地図の一点を白魚のような指先で示し、楽しげに店の名前を告げた。
馬車は王都のメインストリートを滑るように進み、やがて華やかな商店が立ち並ぶ一角で静かに停車した。
三人が馬車を降りて辿り着いたのは、レンガ造りの洒落た外観を持つ店舗だ。
入り口には愛らしい猫のシルエットが描かれた看板が掲げられている。
店の名は『キャットウォーク』。
多種多様な猫をモチーフにした雑貨や装飾品を専門に取り扱う、王都でも知る人ぞ知る名店である。
ショーウィンドウには精巧なガラス細工の猫や、美しい猫の刺繍が施されたクッションが飾られ、道行く人々の目を引いている。
「ここです! ここが王都で一番の品揃えと言われる猫の小物を取り扱う商店です!」
「ほほう」
馬車を降りるなり、エリザベスは店構えを見上げて弾んだ声を上げ、ロンドルフも感心したように相槌を打つ。
「私、こうやって直接このお店を訪れてみたかったんですよね」
エリザベスが目を輝かせながら店の入り口へと足を踏み入れ、ロンドルフとアニスも後に続く。
「確かに直接足を運ぶのはあまり無い経験かもな。我々高位貴族は普通、贔屓の商人の方から屋敷へ御用聞きに来させるものだから」
貴族の買い物といえば、贔屓の商人を屋敷に呼び寄せ、カタログや見本を見ながら注文するのが一般的だ。
自ら店に足を運ぶのは、お忍びの外出か特別な理由がある時に限られる。
アニスの事前調査によると、この店は職人のこだわりからか御用聞きとして貴族の邸宅へ訪れることはなく、専ら店頭販売のみを貫いているらしい。
だからこそ社交シーズン中になると、地方から上京してきた貴族の客もわざわざこの店まで足を運ぶ姿が多く見られるという話だ。
店内は外観から想像するよりもずっと広く、奥深くまで続いている。
壁際の棚から中央の展示台に至るまで、ありとあらゆる猫の雑貨が所狭しと並べられていた。
木彫りの素朴な置物から、銀細工のアクセサリー、猫のシルエットが描かれた高級なティーセットまで、その種類は多岐にわたる。
ロンドルフはさりげなく店内の客層へと視線を巡らせると、当然ながら客のほとんどは女性であり、色とりどりのドレス姿の令嬢たちが商品を手に取って談笑していた。
だが、その中に金髪の姿はほとんど見受けられない。
(まあ、そうそういるはずもないか)
こんなに簡単に『レベッカ』が見つかるはずもないだろう。
ロンドルフはすぐに諦めをつけ、小さく息を吐いた。
今日はエリザベスからの情報提供と、彼女自身が買い物を楽しむための時間だ。
彼自身も店内に並ぶ猫の品々に少なからず興味を惹かれている。
ひとまず令嬢探しのことは頭の片隅に置き、エリザベスのエスコートに集中することに決めた。
店内をゆっくりと見て回る。
美しい刺繍が施されたハンカチ、上質な革を使った財布、便箋などの実用品。
そのどれもに、さりげなく、あるいは大胆に猫のモチーフがあしらわれている。
実用性だけでなく、芸術品のような精巧な作りの置物なども多数展示されていた。
「まあ! この猫の置物、とっても可愛いわ!」
エリザベスがパッと顔を輝かせ、ある展示棚の前に駆け寄った。
ロンドルフも彼女の後を追い、その視線の先にある商品を覗き込む。
「どれどれ」
ロンドルフも隣に歩み寄り、その置物を覗き込むと、それは陶器や木彫りで作られたいくつもの小さな猫の置物だった。
だが、その造形を見て彼は少しばかり言葉に詰まる。
見事にねじれて眠っている猫の姿がそこにあった。
前足と後ろ足がどういう構造になっているのかわからないほど複雑に絡み合い、頭は背中の方へ向かって反り返っている。
まるでうねっているかのような、物理法則を無視したかのようなポーズだ。
他にもねじれ具合は様々である。
自分の身体よりも明らかに小さな丸い箱に、無理やり収まってはみ出しているもの。
背骨が折れているのではないかと思うような折れ曲がった姿勢で熟睡しているもの。
上半身と下半身が逆の方向を向いている奇妙な姿勢で熟睡しているもの。
棚のプレートには可愛らしい字体で『ねじれ猫シリーズ』と銘打たれていた。
「……猫とは、このような不可解な寝方で落ち着く生き物なのか?」
ロンドルフは困惑気味に尋ねた。
犬や馬など他の動物がこんな姿勢で眠っていれば、間違いなく大怪我をしていると判断するだろう。
だが、エリザベスは置物を手に取り、愛おしそうに眺めながら答える。
「割とスタンダードだと思いますが」
彼女自身、愛しのレベッカちゃんが屋敷のソファや絨毯の上で、身体の構造を無視したような物凄い寝相で爆睡しているのを毎日のように目撃している。
ある時は無理やり小さな小箱に収まった状態でいびきをかき、またある時は前足で顔を覆い隠して丸くなり、ある時は仰向けになってバンザイの姿勢で熟睡している。
猫の身体の柔軟性は、人間の想像を遥かに超えるものであると彼女は日々の生活から学んでいる。
「なんと……」
猫を実際に飼った経験のないロンドルフからすれば、それは驚愕の一言であった。
彼は棚に並ぶ他の置物にも目を向ける。
「こちらは直立不動で仰向けになって寝ているな。これも実際にあり得るのか?」
ロンドルフは別の置物を指差す。
それは人間がベッドで寝るように、綺麗に仰向けになって両前足を胸の前に揃えて眠る猫の姿だった。
エリザベスは自分の愛猫の姿を重ね合わせているのか、たまらないといった様子で微笑む。
「ありますね! 無防備にお腹を見せて寝る姿なんて、ふふふ、本当に可愛いですよね!」
「猫とは丸くなって寝るばかりではないのだな……とても可愛い」
ロンドルフは置物をまじまじと見つめながら、しみじみと感嘆の声を漏らした。
その無防備で素直な感想を聞いて、エリザベスは嬉しさのあまり、つい口を挟む。
「あら、ロンドルフ様も猫がお好きで?」
「え? ええ、まあ。それなりには」
ロンドルフはハッとして我に返り、慌てて咳払いをして取り繕おうとする。
彼は自身の「可愛いもの好き」という嗜好を周囲に隠している身だ。
そんな彼は探るように、恐る恐るエリザベスに尋ねた。
「……その、俺のような男がこういうものを好きというのはどうなんだろう。変ではないだろうか」
彼は不安げな視線をエリザベスへと向ける。
貴族の男性たるもの、武芸や政治、あるいは狩猟といった猛々しい趣味を持つのが良しとされる。
小さくて愛らしい小動物の小物を熱心に眺める姿は、軟弱だと嘲笑されるのではないか。
そんな長年の思い込みが彼の言葉を重くしていた。
だが、エリザベスは少しも迷うことなく、明るい声で即答する。
「まあ、何故ですか? 私は趣味のお話が合って、大変よろしいと思いますわ」
その言葉には裏表のない、からりとした肯定が含まれていた。
男だから、女だからという固定観念に縛られず、ただ共通の趣味を持つ相手として歓迎している。
「そうか? ……そうかもな」
ロンドルフの胸の奥で小さく張り詰めていた緊張の糸がふっと緩む。
彼女の飾らない言葉が、彼が長年抱えていたコンプレックスを優しく溶かしてくれたような気がした。
「ええ。例のレベッカ様も、きっとあなたのそういうところを喜ぶと思いますし」
「え? ああ、そうだな」
だが、その名前が出た瞬間。
ロンドルフは己の気持ちに衝撃を受けた。
寝ても覚めても頭から離れず、血眼になって探し求めていた愛しの令嬢『レベッカ』の存在。
それが今、ほんの一瞬ではあるがすっかりと頭の中から抜け落ちていた。
猫の置物を前にしたエリザベスとの他愛のない会話が楽しすぎたせいだろう。
自分が他の女性との交流にこれほど没頭し、本来の目的を忘却してしまっていた事実に、強い衝撃を受けていたのだ。
目の前の金髪の令嬢との会話が、それほどまでに心地よく、自然であったということか。
「どうかなさいましたか?」
急に黙り込んだロンドルフを見て、エリザベスが首を傾げる。
ロンドルフは己の動揺を隠すように提案した。
「いや。せっかくだし、この置物を買っていこうか。払いは俺が持とう」
「え、よろしいのですか?」
「俺が猫の店を教えてもらっている側だからな。ここは男として恰好を付けさせてほしい」
ロンドルフは少しだけ得意げに微笑む。
情報提供の対価であり、エスコートする男性としての矜持である。
そう言われてしまえば、エリザベスもこれ以上固辞するわけにはいかない。
「……では、お言葉に甘えて」
エリザベスも素直に好意を受け取ることにした。
そして内心では(このシリーズ全部、私の部屋に飾ってみようかしら!)と、猫バカの魂が歓喜しているのだが、それは表には出さない。
「決まりだ。そこの君」
ロンドルフは満足げに頷き、近くで待機していた店員を手招きして呼び寄せる。
「この『ねじれ猫シリーズ』を一式、ベイリーフ侯爵家とクローニア伯爵家へそれぞれ送ってくれ。代金は全てベイリーフ侯爵家への請求で構わない」
「か、かしこまりました!」
店員は侯爵家の名前に驚きつつも、大口の注文に顔を輝かせて深々と頭を下げる。
エリザベスの分だけでなく、しっかりと自分の分も購入しているあたり、ロンドルフもこの少しだけ不気味で可愛い置物がすっかり気に入ってしまったらしい。
二人で同じシリーズの置物を持つというのも、良い記念になりそうだ。
買い物を済ませた二人は満足げな足取りで『キャットウォーク』を後にする。
「次はどちらへ向かいますか? まだまだお勧めの店はたくさんありますわよ」
「ああ。君の案内に任せよう」
探している令嬢の影を追い求めながらも、目の前の不思議な縁で結ばれた令嬢との時間に心地よさを感じ始める青年。
そして猫への愛情を語り合える同好の士を得て、純粋に外出を楽しむ令嬢。
互いの胸の内に少しずつ変化の兆しを抱えながら。
こうして二人はお付きのメイドを伴い、王都に点在する猫関連店を次々と巡っていくのであった――。




