猫好き令嬢と協力関係
ロンドルフが二人の令嬢から離れてすぐ。
アリアが扇の陰からそっと息を漏らした。
「怖い方かと思ったけど、結構普通に優しいお方でしたね」
アリアが扇で口元を隠しながら、弾んだ声で印象を語る。
その言葉の通り、噂に聞く女性嫌いで近寄りがたい青年という印象は薄かった。
エリザベスもまた、小さく頷いて友人の言葉に同意を示す。
「ええ、そうね」
だが、彼女の心の奥底には先ほどの既視感が再び湧き上がっていた。
(お会いするのは初めてのはずなんだけど、どこかで会った気もするのよね……)
王都の社交界で、これほど特徴的な人物を忘れるはずはないのだが。
もしかすると幼い頃にどこかの夜会ですれ違っていたのだろうか。
エリザベスが記憶の糸を懸命に手繰り寄せようとしていた時である。
不意に恰幅の良い紳士が二人の輪に加わってきた。
「アリア。ここにいたか」
「お父様」
アリアの父であるフィレンツィア伯爵だ。
彼は娘の姿を認めて親しげな笑みを浮かべつつも、少しばかり急いだ様子を見せている。
「向こうの取引先の方がご令嬢を連れてきているようだ。お前を紹介したいので来ておくれ」
どうやら領地の経営に関わる重要な顔合わせのようだ。
貴族の夜会は華やかな交流の場であると同時に、実利を伴う商談の場でもある。
令嬢同士の繋がりを深めることもまた、家を支える大切な役目だ。
アリアは即座に状況を理解し、優雅に頷いた。
「わかりましたわ。ではエリザベス様、また後程」
「ええ、また後程」
エリザベスは微笑んで親友を送り出す。
フィレンツィア伯爵に付き従い、アリアの桃色のドレスが人混みの中へと消えていく。
一人残されたエリザベスは、広間を見渡して自分の父親の姿を探す。
少し離れた壁際で、父レイウッドは年配の貴族とグラスを交えながら何やら楽しげに話し込んでいる。
領地の特産品の話か、あるいは王都の最新の政局についてか。
どちらにせよ大人の男同士の会話に娘が割り込むのは野暮というものだ。
特に自分の出番はなさそうだとエリザベスは判断するが、一人でポツンと立っているのも令嬢としては少しばかり体裁が悪い。
(手持無沙汰になってしまったわ)
エリザベスは小さく息を吐き出して思考を切り替える。
この夜会は小規模なものであり、ダンスの時間は設けられていない。
知人との歓談がメインの静かな催しである。
話し相手がいなければ、ただ立っているだけでも時間を持て余してしまう。
壁際に用意されたビュッフェテーブルには、彩り豊かな軽食が並べられていた。
美しい細工が施された銀の皿に盛られたカナッペや、季節の果実を使った色鮮やかなタルト。
少しばかり喉も渇いたし、何か冷たい飲み物と甘いお菓子でもつまみに行こうか。
そう考えてドレスの裾を翻そうとした時。
ふと、開け放たれたガラス扉の向こうに視線が引き寄せられた。
薄いレースのカーテンが揺れるバルコニー。
その薄暗い空間に、一人の長身のシルエットが浮かび上がっている。
月明かりに照らされたその背中は、周囲の喧騒から隔絶されたような空気を纏っていた。
(あの後ろ姿は……)
間違いない。
先ほど挨拶を交わしたばかりのベイリーフ侯爵家次男、ロンドルフだ。
真っ直ぐに伸びた背筋と、夜の闇に溶け込むようなダークネイビーの夜会服。
彼もまたこの華やかな広間に居場所を見出せず、夜風に当たって涼んでいるのだろうか。
声をかけるべきか迷うところだ。
だが、このまま広間で一人手持ち無沙汰にしているよりは、彼と言葉を交わす方が有意義かもしれない。
エリザベスは周囲の貴族たちに気づかれないよう、静かな足取りでバルコニーへと向かう。
揺れるレースのカーテンをそっと押し除け、彼女は夜の空気の中へと足を踏み入れた。
夜風が冷たく頬を撫でていく。
ロンドルフはバルコニーの石造りの手すりに両手を預け、見上げる夜空に浮かぶ月を眺めていた。
広間から漏れ聞こえる四重奏の調べも、ここでは遠い別世界の音のように感じられる。
「レベッカ……」
静寂の中、彼の口からぽつりと一つの名前がこぼれ落ちる。
あの猫パーティーのベンチで過ごした穏やかな時間。
ただ純朴に一つの命を愛おしむ彼女の真っ直ぐな言葉。
彼女の温かな声が今もロンドルフの耳の奥に残っている。
どこを探しても彼女の姿は見当たらない。
焦りと落胆が入り交じる中で記憶の中の令嬢を想い、無意識のうちに声に出てしまったのだろう。
その時、カチャリと背後でガラス扉が開く微かな音がした。
誰かがバルコニーへ出てきた気配を感じ、ロンドルフは鋭く振り返る。
「誰だ?」
警戒を含んだ低い声が漏れる。
暗がりから姿を現したのは、先ほど広間で言葉を交わしたばかりの令嬢だった。
「あ……先ほどぶりですね、ベイリーフ侯爵子息様」
エリザベスは淑女の礼を取りながら穏やかな声で答える。
ロンドルフは不意を突かれたように言葉を失い、やがて少しだけ表情を和らげた。
「君は、クローニア伯爵令嬢? 何故ここに。友人のご令嬢は?」
「アリア様は伯爵様に連れられてご挨拶に。私の父も別の方と談笑中で手持無沙汰になりまして……どうしたものかと考えていたら、バルコニーに人影が見えたもので」
尋ねる彼に対し、エリザベスは事の経緯を素直に説明する。
「なるほどな」
ロンドルフは緊張を解き、再び手すりへと向き直る。
二人きりのバルコニーには夜風の音だけが静かに流れていた。
エリザベスは先ほど耳にしてしまった彼の呟きについて、どう触れるべきか少しだけ迷う。
しかし彼女の持ち前の好奇心と、彼に対する奇妙な親近感が言葉を後押しした。
「えっと、差し出がましいとは思いますが、先ほど呟いたお名前が例の……」
「聞かれていたか。気恥ずかしいな」
遠慮がちに言葉を濁すエリザベスに対し、ロンドルフは隠すことなく素直に肯定した。
「社交界でも噂になっているだろう。素性の知れぬ令嬢に惹かれ、探していると。様々な会を渡り歩いているのだが、どうにも手掛かりが少なくてね」
ロンドルフは夜空を見上げたまま言葉を紡ぐ。
「女性からすれば女々しい男だと思うだろうか」
名門侯爵家の次男が、顔も素性もはっきりしない一人の女性を血眼になって探し求めている。
その姿は貴族社会の常識からすれば滑稽であり、未練がましいと笑われるかもしれない。
だがエリザベスの反応は彼の予想を大きく裏切るものだった。
「いいえ。大変情熱的でよろしいかと」
はっきりとした力強い肯定。
その声に迷いやお世辞の色はない。
「想ってもらえて嬉しくない女性などおりませんわ。もしいたら教えてくださいませ。引っぱたいて差し上げますわ!」
凛とした美貌からは想像もつかない、力強く気丈な言葉。
扇を握る手に少しだけ力がこもっている。
ロンドルフは呆気にとられたような表情で彼女の顔を見つめた。
令嬢の口から「引っぱたく」などという物騒な単語が飛び出すとは思いもしなかったのだ。
数秒の空白の後。
ロンドルフの口から思わず低い笑い声がこぼれ落ちた。
「ふふ、すまない。思ったより気性が激しい女性なんだな、君は」
先ほどまでの冷ややかな威圧感はすっかり鳴りを潜め、年相応の青年の素顔がそこにあった。
その柔らかな笑顔を見た瞬間、エリザベスの心臓がトクリと跳ねる。
そして己の言葉を思い返し、エリザベスは自分の失言に気づいた。
侯爵子息に向かってなんというはしたない言葉を使ってしまったのか。
「少しはしたなかったでしょうか……?」
エリザベスは気まずそうに視線を逸らす。
だがロンドルフは優しく首を横に振り、彼女の言葉を温かく受け入れる。
「いいや。猫を被って当たり障りのない返事をされるより好ましいよ」
そしてロンドルフはふと、彼女のドレスの胸元に輝くアクセサリーを思い出した。
「猫を被る、といえば」
「どうかなさいましたか?」
「いや……先ほど広間で見たその猫のブローチは、どこで購入したのだろうか」
ロンドルフの視線がエリザベスの胸元へ向けられる。
「このブローチですか?」
エリザベスは指先で銀細工の猫にそっと触れる。
これは親友とお揃いの特別な宝物。
愛猫レベッカをモデルにして作らせた世界に二つだけの特注品だ。
しかし初対面の男性に「自分の飼い猫をモデルに作らせた」などと得意げに語るのは、少しばかり気恥ずかしい。
一方のロンドルフの頭の中で思考が高速で回転していた。
彼が探し求める『レベッカ』の最大の特徴は、重度の猫好きであるということだ。
であれば、猫のモチーフを用いたグッズやアクセサリーを買い漁っている可能性は極めて高い。
この精巧な猫のブローチを作った職人や売っている店を辿れば、彼女に繋がる何らかの手掛かりが得られるかもしれない。
だが、目の前のエリザベスにそんな情報を与えるわけにはいかない。
「猫好きの令嬢を探している」という情報がどこから広まるかわからないからだ。
もしその噂が社交界に広まれば、猫を抱えた偽の令嬢たちが大挙して押し寄せてくることになりかねない。
ゆえに彼は、それらしい理由をこの場ででっちあげることにした。
「いや、女性であれば猫のような可愛いものを好むだろうと思い、そこから当たってみるのも悪くはないと思ってね」
令嬢への贈り物を選ぶため、あるいは好感を得るための話題作りのため。
そう受け取れるような無難な言い訳を口にする。
その言葉を聞いてエリザベスの頭の中にもある打算が閃いた。
(もし、その探していらっしゃる『レベッカ』というご令嬢が本当に猫好きであれば……新しい猫友達ができるかもしれないわ!)
アリア以外にも猫の可愛さを分かち合える同好の士が増えるのは大歓迎だ。
それにロンドルフは侯爵家の次男という高位の身分。
彼の恋の手助けをして恩を売っておけば、今後の社交においてクローニア家にとって決して悪いことにはならないはずだ。
まさに一石二鳥の名案。
それに何より、猫に関する話題であれば彼女の得意分野だ。
「で、あれば。猫の関連するお店を私と巡るのはいかがでしょう」
エリザベスは令嬢の仮面の下に隠された猫バカの魂を抑え込みつつ、優雅な笑みを浮かべて提案した。
ロンドルフは予想外の申し出に少し驚いた表情を見せる。
「なんと。いいのか?」
「ええ。私も少しばかり猫が好きでして。多少お力になれるのではないでしょうか」
少しばかりどころの話ではない。
エリザベスは自宅にいる愛猫レベッカを溺愛する重度の猫マニアである。
友人のアリアとまめに情報交換を行い、王都に点在する猫モチーフの雑貨店からレベッカのために美味しい猫用おやつを扱う店まで、隅々まで調べ上げているのだ。
王都の猫関連スポットについて、彼女の右に出る令嬢はいないだろう。
だが、それをそこまで親しいわけではない目の前の男性に熱弁するわけにはいかない。
令嬢としての品格を保つためにも、あくまで「趣味の一つ」として控えめに振る舞う必要があるのだ。
ロンドルフは力強く頷いた。
彼にとっても王都に点在する猫関連店に詳しい令嬢の案内は願ってもない幸運だ。
これで『レベッカ』に繋がる手がかりが得られるかもしれないのだから。
「それは助かるな。では後程手紙で日程を決めよう」
「ええ。承知いたしましたわ、ベイリーフ侯爵子息様」
エリザベスが恭しく頭を下げると、ロンドルフは少しだけ声のトーンを和らげた。
「ロンドルフで良い。君は大事な協力者だからな」
堅苦しい爵位での呼び方をやめ、名前で呼ぶことを許す。
それは彼がエリザベスに対して明確な信頼と親愛を示した証拠である。
エリザベスもまた、その申し出を素直に受け入れた。
「では私のこともエリザベスと。改めてよろしくお願いいたします、ロンドルフ様」
「ああ。よろしく頼む、エリザベス嬢」
夜風が吹き抜けるバルコニーで、二人は静かに言葉を交わし合う。
それは奇妙な協力関係の始まりであった。
その後、ロンドルフは広間へと戻りながら自身の胸の高鳴りを感じていた。
今度こそ『レベッカ』への手掛かりが手に入るかもしれないという期待。
そして何より、可愛いもの好きの彼がエリザベスの案内で可愛い猫関連店を巡るという未知の体験への興味で胸がいっぱいになっているのだ。
一方のエリザベスは涼しげな微笑みを保ちながらも、内心では次のお出かけの計画で頭がいっぱいになっていた。
(どんなお店を紹介しようかしら。前々から行ってみたかった新しいお店に行くのもいいかしら)
猫のモチーフを扱うアンティークショップや可愛らしい小物が並ぶブティック。
頭の中で次々とお店の候補をリストアップし、彼を案内する計画を練り始める。
自分の大好きな猫の世界を共有できる喜びが彼女の心を弾ませていた。
こうして探している令嬢の正体が目の前の人物であるとは夢にも思わぬまま。
二人のすれ違った目的と思惑は、猫という共通のキーワードによって見事に合致したのである――。
正直、ギリギリのラインで勘違いする様を書くの楽しいです。




