猫好き令嬢と夜会出席
王都の喧騒から少し離れた閑静な区画。
新興の子爵家が主催するささやかな夜会の会場には、柔らかな光が満ちていた。
招待客はおよそ三十名ほど。
王都で開催される夜会としては規模の小さい部類に入る。
広大なホールで何百人もの貴族が踊る大夜会とは趣が異なり、音楽は控えめでダンスなども行われるわけではない。
細やかな装飾が施されたこぢんまりとしたサロンで、親交を深めるための場となっている。
主催する子爵家は代替わりしたばかりであり、新しい人脈作りに熱を入れているらしい。
会場の入り口から重厚な扉が開かれる音が響く。
入場の順番は厳格な爵位順に従う。
高位の爵位を持つ者が後から入場するのが貴族社会の常識だ。
子爵家が主催するこの場において、伯爵家は上位の賓客として扱われる。
案内役の声が高らかに響き渡った。
「クローニア伯爵、ならびにエリザベス様、ご入場です」
その名乗りと共に会場の視線が一斉に入り口へと集まる。
父レイウッドのエスコートを受けて足を踏み入れたエリザベスは、涼やかな美貌を静かに保っていた。
今日の彼女は深い夜空を思わせる濃紺のドレスを身に纏っている。
透き通るような金糸の髪がシャンデリアの光を反射して輝く。
感情を排した切れ長で美しい瞳は、周囲の貴族たちに近寄りがたい威厳を感じさせていた。
堂々たる足取りで会場を進む彼女に、あちこちから感嘆の吐息が漏れる。
クローニア家は確かな財力を持つ名門だ。
そしてエリザベス自身も先日の婚約解消騒動を見事に乗り越え、いささかも瑕疵のない令嬢としてその価値を証明している。
彼女は周囲の好奇と賞賛の視線を浴びながらも、一切の動揺を見せずに歩みを進めた。
(アリア様もそろそろ到着される頃かしら)
エリザベスは優雅な笑みを浮かべたまま、内心で友人の姿を探す。
フィレンツィア伯爵家もクローニア家と同格の爵位を持つ。
ゆえに自分たちとそう変わらない時間帯に入場してくるはずだ。
広間の中ほどまで進み、父からそっと手を離して歓談の輪に入る準備を整える。
「エリザベス様!」
背後から弾むような明るい声が掛かった。
声の方向へと視線を向けると、淡い桃色のドレスを着た少女が小走りでこちらへ向かってくる。
フィレンツィア伯爵令嬢のアリアである。
彼女もまた自身の父であるフィレンツィア伯爵のエスコートで入場を済ませ、親友の姿を見つけていち早く駆け寄ってきたのだ。
「まあアリア様。お久しぶり……でもないですわね」
エリザベスは氷のような令嬢の仮面をそっと下ろし、年相応の柔らかな笑顔を咲かせる。
アリアもまた扇で口元を隠しながら楽しげに笑い声を漏らした。
「ええ。先日のお茶会でお会いしたばかりですからね」
二人は顔を見合わせてくすくすと笑い合う。
社交界の荒波を共に泳ぐ大切な友人であり、同時に誰よりも話の合う猫好き仲間でもある。
アリアは少しだけ身を乗り出し、周囲に聞こえない程度の声で尋ねてきた。
「流石に今日はレベッカちゃんを連れてきてはいないですよね?」
「そりゃあそうですわ。このドレスに猫の毛がたくさん付いてしまいますし……」
エリザベスは少しだけ名残惜しそうに答える。
愛猫のレベッカはタウンハウスでお留守番だ。
愛らしい猫の抜け毛は猫を飼っている以上仕方のないことであるが、公の場にそれを持ち込むわけにはいかない。
エリザベスの脳裏には、数時間前にタウンハウスを出発する際の壮絶なひと悶着が鮮明に蘇っていた。
そう、家を出る際にひと騒動あったのだ。
◆◆◆◆
夕刻のタウンハウス。
エリザベスが私室で夜会用のドレスに着替え、アニスに髪を整えてもらっていた時のことである。
部屋の片隅で丸くなっていたレベッカが、不意にそわそわと落ち着きのない様子を見せ始めたのだ。
レベッカはとても賢い猫だ。
主人が夕方に華やかな衣装へ着替える時は、これからしばらくの間家を空けてしまうのだと、きちんと理解している。
ドレスの着付けが終わり、エリザベスが部屋を出ようと扉へ向かったその瞬間。
レベッカが短い足を精一杯伸ばしてエリザベスの足元へとすがりついてきたのである。
「ふにゃああああん!」
この世の終わりのような、切なく悲しげな鳴き声。
普段の可愛らしい鳴き声とは違う、飼い主の胸を鋭く締め付ける悲痛な叫び。
その声を聞いた瞬間、エリザベスの足が床に縫い付けられたように止まる。
落ち着いた令嬢の仮面は一瞬で吹き飛び、彼女の顔は悲劇のヒロインそのものへと変貌した。
「レベッカちゃん……! レベッカちゃああああん!!」
エリザベスはドレスの裾が崩れるのも構わず、その場に崩れ落ちそうになる。
だがここでドレスを汚すわけにはいかない。
背後に控えていたメイドのアニスが素早く動き、床のレベッカをしっかりと両手で確保して抱き上げた。
暴れるわけではないが、レベッカはアニスの腕の中からエリザベスに向かって前足を必死に伸ばしている。
エリザベスもまた、玄関へ向かって後ろ髪を引かれるように歩みを進めながら、レベッカに向かって両手を伸ばす。
メイドに引き離される愛しい存在と、泣く泣く別れを告げる主人。
それはまるで悲恋を描いた舞台演劇のクライマックスシーンさながらである。
もっとも引き裂かれている双方ともに性別は女性であり、片方は人間ですらないのだが。
エントランスで娘の到着を待っていた父レイウッドは、階段を降りてくるその過剰な寸劇を見て呆れたように息を漏らした。
「エリザベス、どうしてお前は毎回夜会の度にそれをやるのだね」
父の的確な指摘に対し、エリザベスは涙ぐんだ顔で猛烈に抗議する。
「だってお父様……きゃわゆいレベッカちゃんとの別離ですよ!? これに涙しないはずがありません!!」
レイウッドはこめかみを揉み解しながら冷静に事実を指摘した。
「たった数時間の別れを別離とは言わん。日が変わる前にはまた顔を合わせられるだろう」
「じゃあお父様はレベッカちゃんを見ても何とも思わないのですか!?」
エリザベスは父を非難するような目を向ける。
その言葉にレイウッドは一瞬言葉に詰まった。
「む……」
レイウッドの視線がアニスの腕の中にいるレベッカへと向かう。
レベッカはアニスに抱かれたまま、その大きな丸い瞳をたっぷりと潤ませ、レイウッドの顔をじっと見つめていた。
耳を少しだけ後ろに伏せ、か弱く心細げな声で「にゃあ」と鳴く。
それは自分の可愛さを十二分に理解している生き物だけが放つことのできる、必殺の泣き落とし。
獲物を確実に仕留める、恐るべき愛らしさの暴力だ。
「ぐ……」
その破壊力抜群の眼差しを正面から受けたレイウッドは、心臓を射抜かれたように強く胸を押さえた。
厳格な伯爵当主の顔が苦悶に歪む。
レイウッドはこれ以上あの瞳を見つめ続ければ、夜会を欠席して屋敷に留まってしまうという己の弱さを悟った。
彼は強引にエリザベスの手を取り、馬車が待つエントランスの扉へと向かって叫びながら踵を返したのだ。
「許してくれ……許してくれええええ!!」
「レベッカちゃああああん!!」
「にゃあああああん!!」
悲痛な叫び声が三つ交錯し、重厚な扉がバタンと閉ざされる。
残されたエントランスには静寂が戻った。
(レベッカ様を迎え入れてから、以前にも増して面白くなったなこの家)
アニスは心の中でそう呟き、主人たちの過剰な愛情表現を思い返して口元を綻ばせた。
厳格な当主も近寄りがたく見える令嬢も、この小さな毛玉の前ではただの猫バカでしかない。
この風変わりで愛情深い職場で働けることに、アニスは密かな幸運を感じていたのであった。
◆◆◆◆
「ということがありましたわ」
エリザベスは扇で口元を隠しながら、つい先ほどの出来事をアリアに語って聞かせた。
アリアは堪えきれない様子で楽しげな笑い声を上げる。
「ふふふ。いつも聞くたびに新しいエピソードがあって大変楽しゅうございますわ」
アリアの中でクローニア伯爵家は、厳格な貴族のイメージとはかけ離れたいつも賑やかで楽しい家という認識であった。
その認識は何も間違ってはいない。
ひとしきり笑い合った後、エリザベスはアリアの胸元へと視線を移した。
「ちゃんとブローチ着けてきてくれているのね」
「もちろんです。エリザベス様との友情の証ですもの」
アリアが嬉しそうに胸元を指し示す。
エリザベスの濃紺のドレスとアリアの桃色のドレス。
その二人の胸元には、全く同じデザインの銀細工のブローチが輝いていた。
それは見事な意匠で作られた猫型のブローチ。
流れるような曲線でしなやかな猫のシルエットが描かれ、目は小さなサファイアがはめ込まれている。
可愛らしくも気品があり、貴族の夜会に着けていくアクセサリーとして申し分のない品である。
だがこれは市販されているただの猫型ブローチではない。
エリザベスの愛猫であるレベッカの姿をモチーフにして作らせた、世界に二つしかない特注品なのだ。
以前、王都で名のある銀細工の職人を屋敷に招いた時のことだ。
職人に「お好きな型で何でもお作りしますよ」と言われた瞬間、エリザベスの脳内には愛するレベッカの姿しか浮かばなかった。
彼女は職人にレベッカの特徴を細かく伝え、何度もデッサンを修正させてこのデザインを完成させたのである。
これを二つ作り上げ、親友であり猫友達でもあるアリアに一つを贈った。
そして二人で夜会や茶会に出席する時には、必ず揃いでこのブローチを着けようと約束を交わしているのだ。
猫を飼えないアリアにとっても、この美しいブローチは特別な宝物だ。
アリアはこの提案を心から喜び、それ以来二人で行動する際は欠かさず胸元に猫の姿を輝かせているのである。
二人の令嬢が楽しげに猫談義に花を咲かせている少し離れた場所で。
エスコートの役目を終えた父親二人もまた、グラスを片手に和やかな会話を交わしていた。
「やあやあフィレンツィア伯爵。お元気そうで何よりです」
レイウッドが朗らかな声で挨拶を向ける。
隣の領地を治める盟友であり、同じ年頃の娘を持つ父親としての親近感もある。
「やあクローニア伯爵。相変わらず楽しい家だね」
フィレンツィア伯爵もまたグラスを軽く掲げて応じる。
「今日はうちの娘が一緒の夜会に誘ったそうで。色々と無理を言っていなかっただろうか」
フィレンツィア伯爵が少しだけ申し訳なさを滲ませて尋ねる。
本来ならエリザベスのような美貌と財力を持つ令嬢は、もっと格式の高い夜会に顔を出すべきだろう。
レイウッドは気にする様子もなく鷹揚に頷いた。
「いやいや。娘も喜んでおりますしね。それに最近は娘自身が出席する夜会を選んでいるので、私はただエスコートするだけのことも多くなってきましてな」
レイウッドの言葉にフィレンツィア伯爵は深く感心したように息を漏らす。
「ほほう。昔は親が出席する場を全て決めている家がほとんどでしたが。最近は子供自身に裁量を持たせて決めさせる家も増えてきているとか。自分の足で社交界を学ぶ良い機会になりますからね。いやはや時代ですねえ」
父親同士はグラスを合わせ、貴族社会の移り変わりについて語り合う。
会場が和やかな歓談の空気に包まれていた、その時。
入り口に立つ案内役のひときわ高い声が広間に響き渡った。
「ベイリーフ侯爵子息、ロンドルフ様ご入場です」
その名が読み上げられた瞬間、会場の空気がわずかに引き締まった。
高位の爵位を持つ侯爵家、しかも最近王都の社交界で最も注目を集めている人物の登場だ。
「あら、いらっしゃいましたね」
アリアが扇越しに小さく囁く。
エリザベスもまた、歓談の輪から少しだけ視線をずらして入り口の方へと目を向けた。
「ええ。……彼がロンドルフ様なのね」
エリザベスの瞳に、一人の長身の男性の姿が映る。
上質な仕立てのダークネイビーの夜会服を隙なく着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばして歩みを進めてくる。
切れ長で鋭い目つきと、彫りの深い整った顔立ち。
表情には一切の感情が浮かんでおらず、周囲を威圧するような怜悧で冷たい印象を受ける青年だ。
彼は広間に入場するなり、鋭い目で会場全体をぐるりと見渡した。
誰かに挨拶をするわけでもなく、ただ何かを探索するように視線を鋭く巡らせている。
おそらく、噂に聞くお目当ての令嬢『レベッカ』を血眼になって探しているのだろう。
その冷たい空気を纏う立ち振る舞いを見て、ふとエリザベスの心の中に奇妙な感覚が湧き上がった。
(……? どこかでお会いしたような)
エリザベスは軽く首を傾げた。
彼の顔を見るのはこれが初めてのはずだ。
王都の社交界でもこれほど冷たい容貌の男性と面識があれば、記憶に残っていないはずがない。
だが、あの背の高いシルエットと、周囲から少し浮いたような独特の静かな雰囲気。
それが誰かに似ているような気がしてならないのだ。
(誰だったかしら……)
エリザベスが記憶の糸を懸命に手繰り寄せようとした時、隣に立つアリアが小声で話しかけてきた。
「エリザベス様。ロンドルフ様が主催の子爵様と話し終わるのを、さりげなく近くで観察してみませんか。もしかしたら近くでお話しするチャンスがあるかもしれませんわ」
アリアの目は好奇心でキラキラと輝いている。
話題の渦中にある人物を間近で観察したいという、貴族令嬢らしい無邪気な提案。
「え? ええ、そうね」
突然の呼びかけに、エリザベスの思考はふっと途切れてしまった。
頭の片隅に引っ掛かっていた僅かな既視感は、アリアの声によって霧のように散って消え去っていく。
(……まあ気のせいよね、きっと)
エリザベスは一人でそう結論を出し、深く追求することをやめた。
すぐ思い出せないのならば、きっと気のせいだろう。
「行きましょうか、アリア様」
エリザベスはドレスの裾を優雅に翻し、親友の後に続いて広間の奥へと歩みを進める。
真実の答えはすぐ目の前にあるというのに、二人の距離はまだ見えない壁に隔てられたまま。
すれ違う運命の糸が、華やかな夜会の喧騒の中で静かに絡み合い始めていくのだった――。




