猫好き令嬢と招待状選別
王都の社交シーズンは華やかなだけではない。
水面下では各家の思惑が複雑に絡み合い、情報が目まぐるしく飛び交う戦場でもある。
クローニア伯爵家のタウンハウス。
日差しが差し込む明るい自室のデスクに向かい、エリザベスは山のように積まれた封筒の束と格闘していた。
銀製のペーパーナイフが滑らかな手つきで封蝋を切り開いていく。
背後には側付きのメイドであるアニスが控え、開封された手紙を整理するための新しいトレイを用意している。
「ええっと、こちらの家の招待は……」
エリザベスは取り出した羊皮紙の便箋にサッと目を通し、その内容と差出人の家名を頭の中で素早く照合する。
彼女の涼やかな瞳に鋭い光が宿った。
「この前不祥事があったところね。避けましょうか」
横領疑惑で貴族院の調査が入ったという噂が流れている伯爵家だ。
火の粉が飛んでくるような場所にわざわざ自ら出向く必要はない。
エリザベスは迷うことなくその招待状を欠席のトレイへと放り投げた。
「こちらは家格が下だけど情報通の令嬢が集まると有名よね。参加するとして日取りは……っと」
次に手に取ったのは新興の子爵家からの茶会の誘いだ。
歴史は浅いが当主が手広く商売を行っており、集まる顔ぶれも多彩で面白い情報が手に入りやすい。
エリザベスは手帳を開き、自身のスケジュールと照らし合わせながら参加のトレイへと招待状を振り分ける。
夜会や茶会の招待状の選別。
それは大抵の家において当主や夫人が行う重要な職務である。
未婚の令嬢は親が選んだ安全な会にのみ顔を出し、指定された相手と優雅に微笑み合うのが一般的だ。
だがエリザベスはその慣習に甘んじることを良しとしなかった。
彼女は父レイウッドに強く頼み込み、自身に宛てられた招待状の選別の一部を自らの裁量で行わせてもらっているのである。
「ま、嫁入りなんてまだ先でしょうけど」
エリザベスは次の封筒に手を伸ばしながら、ぽつりと呟いた。
「今からやっておくに越したことはないわよね」
クローニア家は商売で成功を収めている堅実な家だ。
いずれエリザベスもどこかの貴族の家へと嫁ぐ日が来るだろう。
その時になって相手の家の交友関係や、社交界の勢力図を全く把握していない世間知らずな嫁だと思われるのは彼女のプライドが許さなかった。
貴族社会において「知らぬこと」は罪であり致命的な弱点となる。
友人の令嬢同士で頻繁に連絡を取り合い、一緒に夜会へ赴いて交友関係を広げていく。
どこの家が誰と繋がりがあり、どんな裏事情を抱えているのか。
そういった地道な努力の積み重ねが、巡り巡って自身の強固な情報網構築へと繋がっていくのだ。
そんな風に頭をフル回転させて社交界の力学に思いを巡らせていた時である。
部屋の重厚な扉の下部から、カタリと小さな音が響いた。
特注で取り付けられた猫用の小さな出入り口。
そこから美しい毛並みを持つ一匹の猫が、トコトコと優雅な足取りで部屋の中へ入ってきた。
「にゃーん?」
レベッカである。
愛らしい声で鳴きながら、デスクに向かう主人を見上げて首を傾げた。
丸い瞳が「何してるの?」と問いかけているかのようだ。
その姿を目にした瞬間、エリザベスの顔から社交界を生き抜く怜悧な令嬢の仮面が音を立てて崩れ落ちた。
涼やかな目元がとろけるように下がり、口元がだらしなく緩む。
「あら~♡ レベッカちゃんちょっと待っててね~♡」
デスクに置かれたペーパーナイフを放り出し、エリザベスは椅子から身を乗り出して赤ちゃん言葉全開で語りかける。
先ほどまでの貴族社会のしがらみなど、愛猫の可愛さの前では塵芥に等しい。
「今キリのいいところまで片付けてから遊んであげまちゅからねえ~♡」
すっかり猫バカの顔になった主人の様子を見て、背後に控えていたアニスがすかさず動いた。
彼女はエプロンのポケットから、先端に鮮やかな羽根飾りのついた猫じゃらしを素早く取り出す。
「レベッカ様、あちらで私と少し遊んでいましょうね」
アニスが床にしゃがみ込み、猫じゃらしを小刻みに振って誘いをかける。
レベッカの瞳孔がキュッと丸く広がり、ピンと立った耳が前方へと向いた。
しなやかな身体を低く沈め、獲物を狙う狩人の姿勢になる。
そして弾かれたように床を蹴り、宙を舞う羽根飾りへと見事な跳躍を見せて飛び掛かっていった。
「にゃっ!」
楽しそうに遊ぶ一人と一匹。
アニスの巧みな手捌きに翻弄されながらも、レベッカは短い前足を器用に伸ばして羽根を捕まえようと奮闘している。
そんな微笑ましい光景を横目で見つめながら、エリザベスは口元に柔らかな笑みを浮かべて再びデスクの上の招待状へと向き直った。
早く終わらせて自分もあの魅惑のもふもふに顔を埋めなければならない。
残りの手紙を素早く仕分けしていると、ふと見慣れた美しい封蝋が目に入った。
青い蝋に刻印された繊細な百合の紋章。
「あら、アリア様からのお手紙だわ」
隣の領地を治めるフィレンツィア伯爵家の令嬢であり、エリザベスの親友でもあるアリアからの私信だ。
先日、お茶会で語り合った話題がまだ記憶に新しい。
エリザベスはペーパーナイフでさっと封を切り、中に折り畳まれた便箋を取り出した。
ふわりと上品な香水の匂いが漂う。
流麗な筆記体で綴られた手紙の内容を、エリザベスは静かに読み進めていった。
手紙の冒頭には時候の挨拶と、レベッカへの溢れんばかりの愛の言葉が並べられている。
相変わらずの猫好きぶりにエリザベスも思わず頬を緩ませる。
だが文章の中盤から、話題は少しばかり興味深いゴシップへと移り変わっていた。
ざっくりと要約すると、アリアの手紙には以下のようなことが書かれていたのだ。
――エリザベス様。突然のお手紙申し訳ありません。
実は面白い情報を手に入れまして、急ぎ筆を執った次第です。
なんと、とある子爵家が主催する小さな夜会に、以前お話ししたベイリーフ侯爵家次男のロンドルフ様がいらっしゃるのだとか。
あのような身分の高い方がこんな小さな夜会にも参加するなんて、まだ恋慕するご令嬢が見つかっておられないようですね。
エリザベス様はまだロンドルフ様を直にご覧になっておられないでしょう?
もしよろしければ、一緒に参加してみませんか?
小さな夜会ですし、お話しする機会があるかもしれません。
その子爵家の名前は――
手紙を読み終え、エリザベスは便箋をデスクの上にそっと置いた。
ロンドルフ・ベイリーフ。
あの猫パーティーを主催した侯爵家の次男であり、最近王都の社交界を騒がせている人物だ。
女性嫌いで有名だった彼が、今シーズンは人が変わったように夜会を巡り歩いている。
そして『レベッカ』という名の令嬢を血眼になって探し求めているという噂は、エリザベスもアリアからのお茶会で聞いて知っていた。
自分の愛猫と同じ名前の令嬢を探す奇行。
その不思議な偶然にエリザベスは少なからず興味を抱いていた。
(ロンドルフ様、か。確か冷たい容貌の方だと噂に聞くけれど)
どんな顔をして、どんな風に令嬢を探し回っているのだろうか。
少しばかり好奇心が刺激される。
アリアが手紙に記していた子爵家の名前。
エリザベスは記憶の糸を手繰り寄せ、デスクの上に積まれた招待状の山に視線を向けた。
「ええっと、招待の手紙は……あったわ」
未分類のまま保留にしていた手紙の束から、一枚の飾り気のない封筒を抜き取る。
差出人の名を確認すると、手紙にあった子爵家のものと一致した。
(この子爵家は最近代替わりをしたばかりの家ね)
積極的に参加して大きな利益を得られるような家柄ではない。
しかし、さりとて無下にして関係を悪化させるほど悪い噂があるわけでもない。
無難だが少し物足りないため保留扱いにして、後で父に相談しようと考えていたところだ。
だがアリアからの誘いがあり、話題のロンドルフの姿を一目見る機会があるというのなら話は別だ。
ちょっとした余興と情報収集を兼ねて赴くのも悪くない。
エリザベスは参加のトレイへとその招待状をふわりと落とし、決断を下した。
アリアと一緒に参加すれば退屈することもないだろう。
「よし、決まりね」
エリザベスは引き出しから真っ白な上質の便箋を取り出し、羽ペンにインクを含ませた。
流麗で美しい文字が白紙の上に滑るように綴られていく。
アリアへのお礼と、夜会に喜んで同行するという旨を丁寧に記す。
当日のドレスの色合わせや、待ち合わせの段取りなども簡潔に添えておく。
手際よく手紙を書き終え、エリザベスはふうっと息を吐き出して筆を置いた。
これで今日の面倒な机仕事はすべて終了だ。
大きく伸びをして凝り固まった肩の筋肉をほぐす。
そして待ちに待った癒しの時間とばかりに、エリザベスはウキウキとした顔で椅子を回転させた。
「レベッカちゃーん、お待たせしまちたねえ~」
愛猫の名前を甘ったるい声で呼びながら部屋の奥へと視線を向ける。
だが、そこに広がっていた光景はエリザベスの予想を遥かに超える、激しい躍動感に満ちたものであった。
「そりゃっ! こちらですレベッカ様!」
「にゃあぁぁっ!」
部屋の絨毯の上で、レベッカとアニスによる熾烈な戦いが繰り広げられていたのだ。
アニスの手にある猫じゃらしは、もはやただのおもちゃではない。
彼女の巧みな手首のスナップによって生き物のように不規則な軌道を描き、空を切り裂くような鋭い動きを見せている。
メイドの端正な顔つきは真剣そのものであり、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
対するレベッカも負けてはいない。
美しい毛並みを逆立て、野生の本能を呼び覚ましたかのような鋭い眼光を放っている。
床を蹴る音を響かせ、壁を蹴って三角飛びを決め、宙を舞う羽根飾りに向かって前足を連続で繰り出す。
バシッ、バシッという肉球が空を切る音が室内に響き渡る。
ドタバタと駆け回り、毛足の長い絨毯の上がちょっとした戦場と化していた。
いったい何をしているのだろうか。
他家の人間が見れば眉を顰める光景である。
「ちょっと! 何をしてるの!」
エリザベスは呆気にとられ、思わず素のトーンで声を張り上げた。
令嬢の私室でメイドと猫が本気の死闘を繰り広げているなど、誰が見ても驚愕する光景だ。
そう、他家の人間が見れば眉を顰める光景ではあるが。
ここに今、他家の人間などいないのだ。
高ぶる好奇心と、愛猫と遊びたいという強い欲求。
エリザベスは呆れた顔から一転して楽しそうな笑顔を浮かべ、ドレスの裾を少しだけ持ち上げて早足で駆け寄った。
「私も混ぜなさい!」
令嬢としての振る舞いなど、この部屋の中では関係ない。
エリザベスは絨毯の上にしゃがみ込み、レベッカの視線をこちらへ引きつけるように両手をパタパタと動かす。
「レベッカちゃん、こっちでちゅよー!」
主人の新たな動きに反応し、レベッカが標的を変えてエリザベスの方へと猛然とダッシュしてくる。
アニスも負けじと猫じゃらしを振りかざし、三つ巴の乱戦が幕を開けた。
「おっと、レベッカ様! 私の羽根からは逃れられませんよ!」
「にゃあっ!」
「きゃあ! レベッカちゃん速いわあ!」
追加の人員のエントリーによって、熾烈な戦いはさらに激しさを増していく。
王都の社交界の複雑な思惑も、謎の青年ロンドルフの噂話も、今は全てこの部屋の外の出来事だ。
エリザベスの私室には愛らしい猫の鳴き声と、主従の楽しげな笑い声だけがいつまでも響き渡るのであった――。




