猫好き令嬢と友人令嬢
猫パーティーの賑やかな喧騒からおよそ二週間が経過したクローニア伯爵家のタウンハウス。
手入れの行き届いた前庭に一台の馬車が到着し、紋章の刻まれた扉が開かれる。
「エリザベス様! お久しぶりです!」
弾むような明るい声と共に馬車から降り立ったのは、華やかな桃色のドレスに身を包んだ一人の令嬢。
フィレンツィア伯爵家の令嬢アリアである。
彼女はエリザベスの古くからの友人であり、互いに手紙のやり取りを欠かさない大切なペンフレンドでもあった。
「アリア様! お待ちしておりましたわ!」
エントランスで出迎えたエリザベスが、顔をほころばせて駆け寄る。
そして彼女の足元からは、主人の後を追うようにトコトコと可愛らしい猫が姿を現した。
「にゃーん」
「ほら、レベッカちゃんもいらっしゃいと言ってますわ」
エリザベスが足元の愛猫を優しく抱き上げると、アリアの瞳がパァッと輝いた。
「きゃああ~! レベッカちゃんも久しぶり~。前に会った時よりお綺麗になりましたね!」
アリアは嬉しそうに両手を合わせ、エリザベスの腕の中にいるレベッカを覗き込む。
艶やかな毛並みと少しふっくらとした健康的な身体つき。
それはエリザベスの注ぐ愛情の深さを何よりも雄弁に物語っている。
「うふふ、そうでしょうそうでしょう。アリア様はわかっておりますわね」
愛する家族を褒められ、エリザベスは自慢げに胸を張る。
彼女の表情はいつもの令嬢のそれではなく、ただの猫バカ全開の笑顔だ。
アリアはエリザベスに抱かれたレベッカの顔に自分の顔を近づけ、そして迷うことなくそのもふもふのお腹へと顔をうずめた。
すーはーと深く息を吸い込む音が聞こえる。
エリザベスが毎日行っている儀式を彼女もまた堪能しているのだ。
レベッカはされるがままになっており、心なしかまたしても困ったような顔をしているように見える。
フィレンツィア伯爵領はクローニア伯爵領のすぐ隣に位置している。
当主同士の仲も良好であり、娘であるエリザベスとアリアも幼い頃から交流を深めてきた。
しかし社交界シーズン中となるとお互いの家は夜会や茶会の準備、そして様々な付き合いで忙殺される。
王都のタウンハウスに滞在している間は同じ街にいながらも直接会う機会は限られてしまうのが実情だ。
今回はたまたま互いの予定が合ったため、エリザベスがアリアをタウンハウスへと招待したのである。
その際、アリアからの返信の手紙にはレベッカが来ていると知って「是が非にでも向かいます!」と、力強い文字が躍っていた。
アリアもまたエリザベスに負けず劣らずの筋金入りの猫好きなのである。
ただ、残念なことに彼女の母親が軽度の猫アレルギー体質を持っている。
そのためフィレンツィア家では猫を飼うことができず、エリザベスがレベッカを連れてあちらのタウンハウスへ遊びに行くことも叶わない。
だからこそアリアにとってクローニア家を訪れてレベッカを愛でる時間は、何にも代えがたい至福のひと時となる。
「さあ、庭園でお茶の用意ができておりますわ」
エリザベスが促すと、アリアはほくほくとした満面の笑顔でレベッカを自身の胸に抱き直した。
二人と一匹は陽光が優しく降り注ぐ、緑豊かな中庭へと歩みを進める。
白亜のガゼボの下に設置されたテーブルには純白のクロスが掛けられ、美しいティーセットが並べられていた。
そして中央の銀のタワーには、側付きのメイドであるアニスが腕によりをかけて焼き上げた特製の猫型クッキーが山のように積まれている。
エリザベスとアリアが向かい合って席に着くと、アニスが静かな手つきで芳醇な香りのダージリンをティーカップに注いでいく。
レベッカもまたテーブルの横に置かれた専用のクッションの上に丸くなり、アニスが用意した細かく刻んだ極上のジャーキーを美味しそうに食べ始めている。
アリアが猫型クッキーの耳の部分をサクッと齧り、嬉しそうに目を細める。
「本当に美味しいですわ、このクッキー」
「アニスのお手製ですの。見た目も愛らしいでしょう」
「ええ、食べるのがもったいないくらい。でも美味しいから食べちゃいますけど」
二人は紅茶の香りを楽しみながら、最近の社交界の話題や領地での出来事など、他愛のないおしゃべりに花を咲かせる。
気の置けない友人同士の茶会は、堅苦しい夜会とは違う穏やかな時間が流れていた。
ふと、アリアが思い出したようにティーカップを置き、少しだけ声を潜めた。
「そういえば、エリザベス様はご存じ? ベイリーフ侯爵家の次男ロンドルフ様がとある令嬢に恋慕しているとか」
「あら、素敵なお話ね」
エリザベスはクッキーに手を伸ばしながら、微笑ましい話題として相槌を打つ。
ベイリーフ侯爵家といえば、先日エリザベスが参加したあの少し残念な猫パーティーの主催家である。
高位の文官を輩出する名門であり、王都の社交界でも常に注目を集める存在だ。
その次男が特定の令嬢に恋をしているという噂は、退屈な貴族社会において格好のゴシップとなるだろう。
「ロンドルフ様といえば女性嫌いで、夜会やお茶会にあまりお顔を見せなかったようなのですけど……。今シーズンは随分と精力的にあちこちの会に顔を出しており、恋慕している令嬢を探し回っているんですって」
アリアはどこから仕入れてきたのか、まるで見てきたかのように詳細な情報を語る。
「探している令嬢の特徴や身分もわからず、ただひたすらに夜会を巡っているらしいですわ。社交界の令嬢たちの間では、その幸運な女性は一体誰なのかと持ち切りですのよ」
「それは情熱的ですこと。普段は冷たい印象の方がそこまで一途に想いを寄せるなんて、まるで恋愛小説のようですわね」
「それでね、ここからが面白いのですけれど」
アリアはさらに身を乗り出し、声を一段と落とす。
そしてニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そのご令嬢の名前は『レベッカ』というらしいんです。偶然ですね~」
「あら、本当? それは偶然ね~」
エリザベスは驚きの声を上げ、そして足元でジャーキーを食べ終えて毛繕いを始めている愛猫を見下ろした。
「聞いた? レベッカちゃん。侯爵家の方がレベッカちゃんのことが大好きなんですって。よかったわね~」
エリザベスは冗談めかして笑いながら、レベッカの背中を優しく撫でる。
無防備に寝転がるこの小さな家族が、名門侯爵家の次男から熱烈なアプローチを受けている姿を想像し、なんとも滑稽で微笑ましい気持ちになった。
「にゃーん?」
レベッカは自分の名前を呼ばれたことに反応し、不思議そうな顔で首を傾げて鳴く。
その姿がまた愛らしくて、エリザベスの目尻がだらしなく下がる。
「まあ、エリザベス様。こっちのレベッカちゃんは猫ちゃんですよ? ロンドルフ様がお探しなのは人間のご令嬢ですわ!」
アリアがコロコロと笑い声を上げる。
いくら動物好きの貴族でも、猫を探して夜会を巡るなどあるはずがない。
探し求めているのは間違いなく、同じ名を持つ美しい令嬢であろう。
「まあ、わからないわよ」
エリザベスはティーカップを手に取り、わざとらしく意味深な表情を作る。
「ひょっとしたらレベッカちゃんは夜になると人間の姿になって、こっそりロンドルフ様にお会いして二人は恋に落ちちゃったのかも……」
「ええ~? レベッカちゃん人間になれるの~?」
アリアはエリザベスの冗談に乗っかり、レベッカの顔を覗き込む。
「じゃあ言葉喋ってみてくださる? こんにちは~!」
アリアが明るい声で語りかけると、レベッカはピンと耳を立て、アリアの顔をじっと見つめ返した。
「にゃーん」
短く、だがはっきりとした声で鳴き返す。
まるで本当に挨拶に答えているかのようなタイミングであった。
「ふふふ、猫ちゃんの言葉でお返事してくれたわ! 賢いわねレベッカちゃん~」
「本当! 賢くて可愛い~」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに大きな笑い声を上げた。
昼下がり、緑豊かな中庭に響く令嬢たちの明るい笑い声。
お茶会は終始和やかで、平和な空気に包まれている。
二人は知らない。
目の前で呑気に毛繕いをしているこの雑種の猫が、ある意味で本当にベイリーフ侯爵家の次男が血眼になって探し求めている『レベッカ』の正体であることを。
そして、エリザベス自身があの猫パーティーのベンチでロンドルフと語り合った張本人であり、すべての勘違いの元凶であるという事実を。
二人と一匹はそんな運命の悪戯などつゆ知らず、ただ甘いお菓子と紅茶、そして猫の愛らしさに満たされる至福のお茶会を心ゆくまで楽しむのであった。
◆◆◆◆
同じ頃。
王都の高級住宅街にそびえ立つベイリーフ侯爵家の本邸。
豪華な調度品が並ぶ執務室の中で、一人の青年が頭を抱えていた。
ベイリーフ侯爵家次男、ロンドルフである。
「どこを探してもいない……」
ロンドルフは机の上に散乱する紙の束を見つめ、低い声で呻く。
その紙束は、先日の猫パーティーに招待された全令嬢のリストであり、彼がこの二週間、夜会や茶会で探し回った結果を記したメモであった。
執務机の向かい側には、若き当主である兄のクロイツが立っている。
クロイツは弟のその惨憺たる様子を見て、呆れたような、しかし同情するような視線を向けていた。
ロンドルフが顔を上げ、すがるような目で兄を見る。
「兄上。リストに漏れは無いのですか」
「間違いないぞ。参加者の名前は家名から令嬢の名までしっかりと記載があり、先方からの記録も残っている。漏れは無いな」
クロイツは即座に否定し、腕を組んでリストの一部を指差した。
彼ら主催者側は誰がどの仮面を付けていたかまでは把握していない。
だが、その日確実に屋敷の門をくぐった者の名簿はしっかりと管理されているのだ。
「ああ、レベッカ……あなたはどこにいるんだ……」
ロンドルフは再び頭を抱え、深いため息を漏らす。
あの日、中庭のベンチで出会った美しい金髪の令嬢。
猫への深い愛情と、命を尊ぶ真っ直ぐな心を持った彼女。
名前は『レベッカ』だと、本人の口から確かに聞いたはずなのに。
「お前のことがバレた時用に『猫を口実に言い寄るのは禁止』とルールに定めていたからなあ……。面倒事を避けるために偽名を使われたか?」
クロイツが顎を撫でながら推測を述べる。
ロンドルフが「可愛いもの好き」であることを隠すためのルールが、結果として彼自身の恋路を強烈に阻む障壁となってしまっているのは皮肉な話だ。
「一応、60代のご婦人に『レヴェッカ』という方はいたが」
「彼女はもっと若かった! いくら何でもそこまで年齢を見間違えるはずがない!」
クロイツの指摘にロンドルフは即座に噛みついた。
声の張りや所作、そして仮面から覗く肌の艶。
どう見ても自分と同じか、少し年下の若い令嬢であったことは間違いない。
「それはそうだな……ちなみにその家はご婦人単独での参加だった。娘や孫娘が同行してその名を騙ったという線も無いな」
クロイツは冷静にリストの記載事項を確認し、その可能性を切り捨てる。
「あとあり得るのが友人の名を騙った、とかか? そうだとしたら辿るのは無理だぞ。伯爵家を中心に子爵家まで含めると、あの日の参加者は100名近い。その全ての交友関係を漁るのは不可能だ」
「地道に夜会で探すしかないでしょうか……」
ロンドルフの声はすっかり弱々しくなっている。
女性嫌いと公言して夜会を避けてきた彼が、ここ数日は血眼になって会場を巡っているのだ。
だが成果は全く得られていない。
「仮面パーティーだったからな……素顔を見てわかるのか?」
クロイツの鋭い指摘がロンドルフの胸に突き刺さる。
「うっ……」
ロンドルフは言葉に詰まった。
仮面越しの瞳と金色の髪、そして美しい口元の輪郭は記憶に焼き付いている。
だが、それだけで大勢の令嬢の中から彼女一人を見つけ出すのは至難の業だ。
ましてや彼女が偽名を使っているとすれば、探す手立ては非常に少ない。
「一応注意しておくが『重度の猫好き』という情報は伏せろよ? 数少ない手掛かりをお前の嫁入り目当てに攪乱されでもしたら、それこそ探し当てるのは絶望的だ」
クロイツが釘を刺す。
ベイリーフ侯爵家の次男が特定の令嬢を探しているという噂は、すでに社交界に広まりつつある。
もし「猫好きの金髪令嬢を探している」という情報が漏れれば、我こそはと猫を抱えた偽者が大量に押し寄せてくるだろう。
そうなれば真実を見抜くことは不可能に近くなる。
「『金髪』『レベッカという名前』『重度の猫好き』。それがヒントの全てだ。慎重に動け」
「わ、わかりました……」
ロンドルフは力なく頷き、再び机の上のリストへと視線を落とす。
(ロンドルフがここまで一人の令嬢に入れ込むとは。だが時間が無いな)
クロイツは弟の必死な姿を見つめながら、内心で焦りを感じていた。
王都の社交シーズンは永遠に続くわけではない。
あと二ヶ月近く経てば多くの貴族たちは領地へと帰っていく。
(社交シーズン中に探し当てないと領地に帰られてしまう。そうなったら次のチャンスは一年後。あまりのんびりもしていられんか……)
一年も経てば、例の令嬢が別の誰かと婚約してしまう可能性は十分にある。
特に相手が魅力的な令嬢であれば、その危険性は高いだろう。
限られた時間の中で、少ない手がかりを頼りに彼女を見つけ出さなければならないのだ。
クロイツはまだ見ぬ大事な弟の婚約相手を思い、どうにかして力になってやりたいと深く考える。
だが現状では有効な手立てが見つからない。
なお、ベイリーフ侯爵家の兄弟が頭を悩ませている間にも、彼らが探している「レベッカ」の主であるエリザベスは、まさか自分が探されているなど全く思わず、すぐ隣の区画のタウンハウスで優雅にお茶会を楽しんでいる。
互いの距離はすぐそこにあるというのに、認識のすれ違いという見えない壁が彼らの運命を分厚く隔てているのだ。
ロンドルフの苦難の恋探しは、まだ始まったばかりである。
彼が真実に辿り着く日は来るのか、それともこのまま幻の令嬢として記憶の彼方へ消え去ってしまうのか。
強い風が窓を揺らす中、ロンドルフの思考は再びリストの海へと沈み込んでいくのであった――。




