猫好き令嬢と猫パーティー
それから一週間後の昼下がり。
王都の喧騒から少し離れた高級住宅街に、ベイリーフ侯爵家の広大な屋敷は静かにその威容を誇っている。
高い石造りの塀に囲まれた敷地は緑豊かで、門前にはすでに何台もの豪奢な馬車が連なり、招待客の到着を告げていた。
エリザベスを乗せたクローニア伯爵家の馬車も、その列に加わりゆっくりと門をくぐる。
馬車が停車して従者が恭しく扉を開け、エリザベスが地面に降り立つ。
今日のエリザベスは趣向を凝らした装いだった。
上品な深い青色のドレスは彼女の透き通るような金髪とよく似合っている。
彼女の顔の上半分は、アニスが王都の仮面専門店で探し出してきた見事な仮面で覆われていた。
黒いベルベット生地をベースに金糸の刺繍が施され、ピンと尖った猫の耳を模した装飾があしらわれた、エレガントでありながら少しだけ遊び心のあるデザインだ。
耳の意匠と目尻が少し上がったデザインは、彼女の涼やかな目元を神秘的に彩っている。
鋭く冷淡に見られがちな彼女の目元を仮面がミステリアスに隠し、口元の美しい輪郭だけが強調されて、なんとも妖艶な雰囲気を醸し出していた。
素性を隠して参加するというルールに従い、事前の準備は万端だ。
彼女の腕の中には、少しばかり緊張した様子の愛猫レベッカがしっかりと抱きかかえられている。
エリザベスは目の前にそびえ立つ壮麗な館を見上げて、思わず感嘆の声を漏らした。
「おっきなお屋敷ねえ、レベッカちゃん」
「にゃーん」
レベッカも主人の声に応えるように短く鳴き、ピンと立てた耳を動かして周囲の様子を窺っている。
王都の一等地に広大な敷地を有し、白亜の壁と美しい装飾が施されたバルコニーが見える。
白亜の壁面には精緻な彫刻が施され、いくつもの尖塔が空を突いており、その規模と格式の高さは王都の貴族社会におけるこの家の権勢を雄弁に物語っているようだ。
クローニア家のタウンハウスも王都の一等地にある立派な屋敷だが、社交シーズン中にしか使用しないため広さはそれほどでもない。
だが、それを差し引いて領地の本邸と比べたとしても、目の前の侯爵邸は遥かに巨大で壮麗な建築物であった。
「さすがは高位の文官を輩出する名門ね。建物の造りからして歴史と格式を感じるわ」
エリザベスはレベッカの背中を優しく撫でながら、改めて気を引き締める。
エントランスへ向かうと、燕尾服に身を包んだ使用人が洗練された所作で出迎えてくれた。
彼らの洗練された所作と丁寧な対応もまた、この家の格調高さを裏付けている。
「クローニア伯爵家のエリザベス様ですね。お待ちしておりました」
使用人は深々と一礼し、柔らかく通る声で案内を始める。
「本日は当家の猫パーティーへようこそお越しくださいました。会場の中庭までご案内いたします」
身分や派閥のしがらみを忘れ、仮面をつけて猫を愛でるという無礼講の趣旨であっても、ここは王都の有力貴族の館。
どこの馬の骨とも知れない者がふらりと飛び入り参加できるような甘い警備体制ではない。
事前に参加申請を出し、主催者である侯爵家が家柄や素行を審査した上で、正式に招待状を送られた者だけがこの門をくぐることを許される。
仮面で素性を隠すとはいえ、最低限の身元の保証は為されているというわけだ。
エリザベスもまた、父レイウッドを通じて正式な手続きを踏み、この場に立っているのである。
「こちらへどうぞ」
使用人の先導に従い、エリザベスはレベッカを腕に抱いたまま磨き上げられた大理石の廊下を歩く。
壁には見事な風景画や歴代当主の肖像画が飾られ、要所に置かれた花瓶からは芳醇な花の香りが漂ってくる。
腕の中のレベッカは初めて見る豪華な内装に興味津々のようで、エリザベスの腕の中から身を乗り出し、きょろきょろと忙しなく首を動かして屋敷の調度品を観察している。
その丸い後頭部とピンと張ったヒゲの愛らしい動きに、エリザベスは思わず口元をほころばせた。
(こんなにおめめを丸くして……うちのレベッカちゃんは何をしてても可愛いわねえ)
などと、心の中で猫バカ全開の感想を垂れ流しながら歩みを進める。
やがて、廊下の突き当たりにあるガラス張りの大きな両開き扉の前に辿り着いた。
使用人が恭しく扉の取っ手に手をかける。
「皆様こちらにお集まりでございます。どうぞ心ゆくまでお楽しみください」
「ありがとう」
エリザベスが優雅に会釈をすると、使用人は静かに扉を開け放った。
扉の向こうに広がっていたのは、手入れの行き届いた広大な中庭であった。
季節を彩る花々が色鮮やかに咲き誇り、中央には清らかな水をたたえる噴水が設置されている。
柔らかな日差しが降り注ぐ中庭には、すでに数十名ほどの参加者が集まっていた。
参加者たちは皆、顔の上半分を覆う様々な意匠の仮面を身に着けている。
豪奢な羽飾りをつけたもの、シンプルな金属製のもの、そしてエリザベスと同じように猫をモチーフにしたものなど、仮面のデザインは多種多様だ。
参加者たちは手にグラスを持ち、あるいは優雅に扇を揺らしながら、穏やかな笑い声を交えて談笑している。
そして彼らの腕の中、あるいは足元の特製のクッションの上には、今日の主役である美しい猫たちが鎮座していた。
白く豊かな長毛を揺らす猫、豹のようにしなやかな斑点模様の猫、宝石のようなオッドアイを持つ猫。
どれもこれも一目で血統書付きの高級猫だとわかる、気品に満ちた姿をしている。
「ふふ、いろんな猫ちゃんがいるわね。でも、うちのレベッカちゃんが一番可愛いわ」
エリザベスはレベッカの鼻先にそっと自分の鼻をすり寄せ、いそいそとその華やかな輪の中へと入っていく。
身分を隠した愛猫家同士の集まり。
きっと、猫の愛らしい仕草や日頃の苦労話、おすすめの猫用玩具の情報交換などで盛り上がっているに違いない。
どんな可愛らしい猫のエピソードが聞けるのかと、彼女の胸は期待で大きく膨らんでいた。
エリザベスはそんな微笑ましい交流を期待して、近くのグループの会話にそっと耳を傾ける。
だが。
そこに飛び込んできたのは、エリザベスが事前に想像していたものとは大きく異なる、生々しくも貴族的な内容の会話であった。
「我が家の猫は『ベルヴェイン』でしてね。この豊かで波打つような長毛と、気品ある顔立ちが素敵でしょう」
優雅な羽付きの仮面を被った貴族の男性が自身の腕の中にいる白い長毛種の猫を撫でながら、誇らしげに語っている声が聞こえてくる。
「この血統は繁殖が難しく、入手にはなかなか骨を折りましてね。王家御用達のブリーダーから直接譲り受けたのですよ」
「まあ、いいですわね」
その言葉に応じるように、黒いレースの仮面を付けた貴族夫人が自身の足元にいる黒猫を見下ろして扇子を揺らす。
彼女の足元には、ベルベットのクッションの上で丸くなる艶やかな黒猫の姿があった。
「私の猫は『ノクシア』という短毛の黒猫ですの。この深みのある漆黒の毛並みを維持するのに、専用のオイルや食事代など、お金がかかって大変ですのよ」
夫人はため息交じりに語るが、その顔は明らかに誇らしげだ。
「我が家には他に『ノクシア』の血統が十匹ほどいるのですが、この子が一番毛並みが美しく、品評会でも優勝したんですの」
今度は若い貴族令嬢が、自身の腕に抱いたふわふわとした毛並みの猫を高く掲げて会話に加わった。
「いいではありませんか。うちの猫も『ミスティベル』という、遠方の小国から取り寄せた珍しい猫種で。この霧を思わせるようなふわふわした毛並みの維持に専属の世話係を何人も雇って気を遣っているんですよ」
令嬢は猫の頭にキスをし、これ見よがしに周囲に視線を配る。
「父様におねだりして、金貨50枚も出していただいたんです。それだけの価値がある美しさでしょう?」
「なるほど、金貨50枚に見合う見事な毛並みですね。僕の猫は『ムーンフェルド』という猫種で、隣国のブリーダーから特別に譲り受けた血統書付きでしてね……」
エリザベスは彼らの会話を耳にして、少しずつ笑顔が引きつっていくのを感じた。
どの貴族も、自分の猫がいかに高価で希少な血統であるか、毛並みの維持にどれほどの費用と手間を掛けているか、家に何匹の高価な猫がいるかという話ばかりをしている。
「うちの子は寝ている時にお腹を出して無防備になるんです」とか「猫じゃらしへの反応が面白くて」といった、猫の可愛さそのものに比重を置いた話題が全く出てこないのだ。
これではまるで希少な絵画や高価な宝飾品を持ち寄り、自身の財力と審美眼を誇示し合う美術品鑑賞会と何ら変わらない。
(……なんだか、思っていたのと違うわね)
エリザベスは少しだけ気分が沈むのを感じながら、レベッカを胸に抱き直す。
気を取り直して別のグループへと歩みを進めるが、状況はどこも似たり寄ったりだ。
珍しい血統や高価な首輪の自慢話が、中庭のあちこちで繰り広げられている。
エリザベスの腕の中で、レベッカが退屈そうに欠伸をした。
その素朴な可愛らしさに癒されつつも、エリザベスは居心地の悪さを感じ始める。
そんな中、仮面をつけた一人の貴族令息がエリザベスの腕に抱かれたレベッカに目を留めて近づいてきた。
「おや、そちらの猫の種類は? 変わった色の毛並みですが、私の知識ではあまり見かけない模様の入り方ですね。遠方の珍しい血統ですか?」
令息の問いかけに、エリザベスは少しだけ言葉に詰まった。
周囲の貴族たちが金貨何十枚もする高級猫を自慢し合っている中で、真実を口にするのは少しばかり勇気がいる。
だが、レベッカの出自を恥じる気持ちは微塵もない。
愛情を込めて育てた彼女にとっては、どんな高価な猫よりも価値のある存在である。
「あ、この子はその……雑種で。領地の庭で雨に打たれていたところを保護した、元野良猫なんです。でも、とっても賢くて甘えん坊で……」
そのままレベッカの可愛らしいエピソードを語ろうとしたエリザベスの言葉は、途中で遮られてしまった。
「ああ、そうなのですね」
先ほどまでの興味ありげな声のトーンが一気に下がり、貼り付けたような愛想笑いが浮かぶ。
「それはそれは。保護猫とは慈悲深い。……では、私はあちらの『ローゼリアン』のブリーダーの方とお話がありますので、これで失礼」
令息はそれ以上レベッカの姿を観察することもなく、そっけない会釈だけを残して足早に立ち去ってしまった。
エリザベスは、その露骨な態度の変化に少しだけ眉をひそめた。
流石に高位の家が主催する洗練された夜会である。
面と向かって「雑種など連れてくるな」と嫌味を言われたり、あからさまに軽蔑されたりすることはない。
仮面で素性を隠している手前、無用なトラブルを避けるという暗黙の了解もあるのだろう。
だが、一言二言言葉を交わして足早に去っていくその背中からは、「血統書もない雑種に興味はない」「美術品としての価値がない」という無言のメッセージが痛いほど伝わってくる。
彼らにとって血統書や高価な価値のない猫は、語るに足らない存在なのだ。
「血統なんてなくてもレベッカちゃんはこんなに可愛いのに、みんな見る目がないのね」
エリザベスはぽつりと呟き、腕の中のレベッカの柔らかな背中を撫でた。
レベッカは主人の声のトーンの変化を感じ取ったのか、少し心配そうに見上げて「にゃあ」と小さく鳴いた。
「大丈夫よ、レベッカちゃん。あなたが一番可愛いんだから、周りの目なんて気にしなくていいのよ」
エリザベスはレベッカの耳の後ろを優しく掻きながら、周囲の喧騒から視線を外した。
もっと、持ち寄った猫の愛くるしい仕草や、日頃のちょっとした失敗談、お気に入りの寝床の話などを皆で「可愛いですね」と笑い合いたかったのだ。
身分を気にせず、ただの猫好きとして。
だが、現実は如何に自分の猫が高価か、掛けた費用がどれほどかという財力とステータスの見せ合いの場。
貴族の集まりらしいといえばらしいのだが、これではただの品評会だ。
自分とレベッカの居場所は、あの華やかな談笑の輪の中にはない。
そう判断し、周囲の喧騒から少し距離を置くことに決めた。
エリザベスは静かに踵を返し、中庭の端に並べられたビュッフェテーブルへと向かう。
そこには人間用の豪華な軽食だけでなく、参加者の愛猫たちのために用意された魚のすり身を固めた団子や、香ばしく焼かれた鳥肉の細切れなど、最高級の魚や肉を使った猫用のおやつが種類豊富に並べられている。
「レベッカちゃん、せっかくだから美味しいものをたくさん食べて帰りましょうね」
エリザベスは小さな銀のお皿に、レベッカが好きそうな白身魚のテリーヌや鶏肉のパテなどをいくつか取り分けた。
そして自慢話に花を咲かせる貴族たちの輪から離れ、中庭の隅にある静かな木陰のベンチへと移動することにしたのだった――。




