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猫好き令嬢のすれ違い恋愛模様  作者: 万年亀


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番外編:レベッカちゃんと侯爵家当主

昼の柔らかな光が差し込むベイリーフ侯爵邸の執務室。

重厚な木製机に向かっていた若き当主クロイツの口から、突如として低く鋭い声が響き渡った。


「……なんだと!?」


クロイツは手にした一通の書状を睨みつけ、苛立ちも露わに机に叩きつけた。

そのただならぬ様子に、部屋の隅で静かに控えていた右腕である老執事が思わず声をかける。


「如何されました、クロイツ様」


クロイツは深く息を吐き出し、眉間に寄せた皺を指で揉みほぐす。


「ああ、すまんな。少し苛立った。……平たく言うと、王家から『王家直轄地で起こっている治安問題をベイリーフ侯爵家に任せる』とあったのだ」


「それは……」


老執事も言葉を詰まらせる。

王家直轄地での問題解決を他家の貴族に委ねるというのは、一見すれば名誉なことのように聞こえるかもしれない。

だが、その裏の意図は当然異なる。


「表向きは『直轄地の治安強化問題責任者に任ずる』とあったがな。実際はただ王家で面倒がられた厄介事の押し付けだろう」


クロイツは忌々しそうに書状を指で弾く。


「……名誉ある任、ねえ。私は王家のこういうところが嫌いだよ。予算も人員も自分たちで割きたくないからと、何でも力のある下の貴族に押し付ければいいと思っている」


「しかし王家からの命であれば、受けざるを得ますまい」


いくらベイリーフ侯爵家が力を持っていようとも、表立って王家の命令を拒絶することは家門への反逆と見なされかねない。


「わかっている。嫌だからと断る気はないさ。あまりの理不尽さに少々愚痴っただけだ」


クロイツは背もたれに深く寄りかかり、天井を仰ぎ見た。


「はー、これから投入する人員の選別やら、予算の確保、計画の立案、それに現地民との無用な衝突リスクと……考えることが一気に増えるな……」


「心中お察しいたします」


「ありがとう。っと……」


クロイツが視線を動かし、壁に掛けられた立派な振り子時計を見た。

針はすでに正午を回り、昼下がりへと差し掛かろうとしている。

厄介な書状のせいで、すっかり時間を忘れていたらしい。


「いかんな、もうこんな時間か。昼食を取ることにしよう」


「承知いたしました」


老執事が恭しく一礼し、すぐさま手配に移ろうとした。


「……そういえば現在、食堂で昼食を済ませられたエリザベス様とロンドルフ様が和やかに談笑なさっておいでです。食堂へ向かわれるのであれば、先触れを出しますか?」


「ん、今日は彼女が来る日であったか」


弟のロンドルフと婚約したクローニア伯爵家のエリザベスは、今やこの屋敷にそれなりの頻度で顔を見せる大切なお客様である。

二人の仲睦まじい様子を見るのは兄としても喜ばしいことだ。


だが。


「いや、食堂へ行くのはやめよう。こんな景気の悪い顔を弟の婚約者に見せたくはない」


クロイツはゆっくりと首を横に振る。

せっかくの二人の楽しい時間を自分の苛立ちで台無しにしたくはなかった。


「たまには外の空気でも吸いながら花でも見て食べるか。庭に行くので昼食をバスケットに詰めてくれ。気分転換に一人でのんびりと食べたい」


「かしこまりました。厨房に至急連絡を入れます」


老執事が部屋を退出し、クロイツも執務室の重苦しい空気から逃れるように立ち上がった。


しばらく後。

クロイツはメイドから受け取った籐編みのバスケットを手に、広大な庭園へと足を踏み入れた。


綺麗に手入れされた庭園を歩くだけで、凝り固まっていた思考が少しずつ解れていくのを感じる。

クロイツは庭園の奥に設えられた、白い大理石のガゼボへと向かって歩みを進めた。


「ん?」


ガゼボの中に入ろうとしたクロイツは、ふと足を止めた。

視線の先、ガゼボの長椅子の隅に見慣れない小さな木箱が置かれている。

内側には柔らかそうな布が敷き詰められ、居心地の良さそうな空間が作られていた。


そして、その木箱の中にはすでに先客の姿があった。


「……レベッカ?」


クロイツは思わずその名を口にする。

木箱の中で丸くなっていたのは、エリザベスがいつも連れてくる毛並みが美しい彼女の愛猫レベッカであった。


「そういえばエリザベス嬢が、邸内にレベッカの休憩用の木箱をいくつか置きたいと言っていたな。ここにもひとつ置いてあったのか」


エリザベスの猫への溺愛ぶりは、この屋敷の者なら誰もが知っている。

ロンドルフは彼女の要望を当主であるクロイツに進言し、許可の後に屋敷のあちこちに猫用の快適なスペースを作らせていたのだ。


クロイツがガゼボの中に足を踏み入れても、レベッカは全く反応を示さない。

柔らかな日差しを浴びて、どうやら深い眠りに落ちているようだ。


クロイツは音を立てないように静かに近づき、その寝姿をまじまじと観察した。


「……しかし、猫というのは本当にこんな寝姿をしているものなんだな」


木箱の中のレベッカは前足と後ろ足が複雑に絡み合い、身体をあり得ない角度でねじれさせている。

さらには頭をぐるりと反らせて、自分のお腹にくっつけるようにして丸まっていたのだ。


その姿は、少し前に弟のロンドルフが意気揚々と買い込んできた『ねじれ猫シリーズ』という奇妙な猫の置物と瓜二つ。

当時のクロイツはあの置物を見て「なんとも珍妙な姿だ。こんな寝姿をするわけないだろう」と内心呆れていたのだが、まさか現実の猫が本当にあのような寝方をするとは思ってもみなかった。


人間の骨格からすれば、どう見ても寝にくくて身体を痛めそうにしか見えない。

だが、以前エリザベスが「猫からすればこれが一番リラックスできる快適な寝姿なんだそうですのよ」と誇らしげに語っていたのを思い出す。

生き物の生態とは不思議なものだ。


クロイツはそんな興味深い光景を横目で見ながら、昼食の準備に取り掛かる。


ガゼボに備え付けられた白い円形のテーブルの上に、バスケットの中身を次々と広げていく。

厨房の料理長が気を利かせてくれたのだろう、昼食は手軽につまめるがボリューム満点のサンドイッチの盛り合わせだ。

ローストビーフを挟んだものや、新鮮な野菜とチーズのサンドイッチ。

彩り豊かなちょっとしたサラダも添えられている。


そして飲み物は、保温性の高い特別なポットに入れられた紅茶である。

これなら外の空気の中でも、しばらくは淹れたてと同じ熱い温度と香りを楽しめる。


クロイツは椅子に腰を下ろし、ローストビーフのサンドイッチを一つ手に取って大きく齧り付いた。

肉の旨味とパンの甘みが口の中に広がり、ようやく空腹が満たされていくのを感じる。


その時。

静かなガゼボ内に聞き覚えのない奇妙な音が響いた。


――ぐごご。


「……なんだ?」


クロイツは咀嚼の手を止め、周囲を見回す。

庭師がどこかで作業をしている音だろうか。

だが、その音はもっと近くから聞こえてくるようだ。


クロイツが耳を澄ませて音の出処を探ると、どうやら先客であるレベッカのいる木箱の方から聞こえているらしい。


――ふごご。


再び規則的な低い音が鳴る。

昼食を食べながらレベッカをじっと見つめていたクロイツは、ついにその音の正体に気が付いた。


「……いびき、か?」


なんと、あの優雅な毛並みを持つレベッカが、熟睡のあまり低いいびきをかいているのだ。


貴族の令嬢に飼われている気品ある猫のイメージとは程遠い、あまりにも無防備な姿。

クロイツは少しばかり呆気にとられながらも、サンドイッチを口に運ぶ。


すると次いで、レベッカの口からまた別の音が漏れ聞こえてきた。


――くきゅうん。くぅん。


今度はいびきではなく何かを訴えるような、あるいは甘えるような高くか細い声。

見れば、レベッカは目を固く閉じたまま、ピンと立った耳とヒゲの生えた口元をピクピクと忙しなくひくつかせている。


すぐにクロイツはその音の正体を察した。


「……寝言?」


猫も夢を見るのだろうか。

じっと観察していると耳や口元だけでなく、折りたたまれた前足や後ろ足も何やら走るような仕草でビクビクと小さく動いている。


夢の中でネズミでも追いかけているのか、それとも大好きなエリザベスにじゃれついているのか。


クロイツがサンドイッチを食べながら、その滑稽で愛らしい様子を静かに見守っていた時。

レベッカが突然今までで一番大きく、はっきりとした寝言を発した。


――ふにゃあん。


そして、その直後。


「ンハッ!?」


レベッカが弾かれたように目をひん剥いて、木箱の中で勢いよく飛び起きたのだ。

全身の毛が微かに逆立ち、耳がピンと横に張っている。


突然の事態にレベッカは慌てて周囲をキョロキョロと見回し、そして。

すぐ目の前でサンドイッチを片手に様子を見ていたクロイツと、バッチリと目が合った。


人間と猫の間で、無言の視線が交差する。

クロイツはレベッカの身に起きた事態を察した。


(……まさか、こいつ。自分のあまりにも大きな寝言に自分で驚いて飛び起きたのか!?)


なんという間抜けな話だろうか。

威厳も気品もあったものではない。


そのあまりにも滑稽な様子にクロイツは昼食の手を止め、こらえきれずに肩を震わせて笑い出す。

声を出して笑うのははしたないと思い、必死に口を真一文字に結んで堪えているのだが、腹の底から込み上げてくる笑いの波はどうしても抑えきれない。

クククッ、と押し殺した笑い声が漏れる。


対するレベッカは座ったままじっとクロイツを見つめていた。


その丸い瞳には「あなたが何か大きな音を出して、私を起こしたのね?」とでも言いたげな、理不尽な不満と疑念の色がはっきりと浮かんでいる。

どうやら彼女は、自分が起きたあの騒音の犯人は目の前で怪しく笑っているこの男だと思い込んでいるらしい。


自分が犯人扱いされているらしいと知って、クロイツはさらにツボに入ってしまい、再び声を抑えながら肩を揺らして笑い続けた。


しばらくの間クロイツの不審な笑いを見ていたレベッカは、やがて呆れたようにプイッと顔を背ける。


「にゃあ」


レベッカは「こんなうるさい場所で安眠なんてしていられないわ!」とでも言うように、木箱からすっと抜け出す。


そして芝生の上で一度グーンと身体を伸ばして伸びをすると、振り返ることもなく悠然とした足取りでガゼボを立ち去っていった。

まさか自分が犯人だとも知らずに、もっと静かな寝床を探しに行くのだろう。


クロイツはその後ろ姿を見送りながら、深く息を吐き出して笑いを収めた。


「……なるほど、猫というのは見ているだけでもこれほど面白い生き物なのか」


弟のロンドルフが、あそこまでこの猫とエリザベスに惚れ込む理由が、今なら少しだけわかるような気がした。


クロイツは先ほどまでの陰鬱な気分とは打って変わって、すっかり機嫌良くサンドイッチの残りを平らげた。

温かい紅茶で喉を潤し、彼は満足げにガゼボを後にする。


その後、空になったバスケットを手にして執務室へと戻ってきたクロイツを老執事が出迎えた。


「お戻りなさいませ。何やら大変楽しそうなご様子ですね。よい気分転換になりましたか?」


クロイツはバスケットを机に置き、老執事に向かって穏やかな笑みを浮かべて答えた。


「ああ。思いがけない珍客のおかげで、なかなか楽しめたよ」


そう言って彼は再び机に向かい、王家からの書状を手に取る。


その顔にはもう迷いや苛立ちはない。

ベイリーフ侯爵家当主としての頼もしい顔つきに戻っていたという――。

クロイツは思ったよりおもしれー男になったので結構好きです。

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