猫好き令嬢と侯爵邸での一幕
男爵令嬢のレベッカ視点が混ざる部分は意図的に少し地の文を俗っぽくしてます。
庶民に近い低位貴族なので。
王都の高位貴族街にそびえ立つベイリーフ侯爵邸へ向かう馬車の中。
外の景色が流れる車内で、男爵令嬢レベッカの心は浮ついていた。
(一夜限りと思ってたロンドルフ様が私を探してくれてて。しかも喫茶店で偶然会えるなんて超ラッキー!)
レベッカは柔らかな座席に身を沈めながら、都合のいい方向へと思考が飛躍していく。
彼女は自分の顔がにやけるのを抑えきれていない。
(なんだか最初は人違いだとか誤解してたみたいだけど。こうして本邸に招いてお兄さんを紹介してくれるって言ってたし……これって未来の侯爵夫人って事よね?)
低い身分の男爵家である自分が、王都でも有数の名門であるベイリーフ侯爵家に嫁ぐ。
社交界の頂点に立ち、ドレスも宝石も思いのままに手に入る輝かしい未来。
(いやあ、可愛いと得だわあ。男爵令嬢から一転して侯爵夫人とか、人生楽すぎるわー!)
レベッカは己の美貌と幸運に感謝し、将来の義兄となる侯爵家当主にどうやって愛想良く挨拶をしようかと頭の中で甘い未来図を描いている。
だが、その浮かれた気分が続いたのは侯爵邸の門をくぐるまでのほんの一瞬の出来事だった。
到着からしばらくして案内された広々とした応接室。
部屋の中央、上座のソファに深く腰を下ろしているのは若き当主クロイツ。
そしてその横には弟のロンドルフが険しい顔で立っていた。
「さて。我が弟が未婚の令嬢に手を出した、などという戯けたことを言い出した女性は君だね?」
その言葉の響きに、レベッカの背筋を冷たい汗が伝う。
当主クロイツの言葉と表情は、どう考えてもレベッカを歓迎している人間のそれではなかったからだ。
「ロンドルフの兄にして、ベイリーフ侯爵家当主のクロイツだ。覚えなくとも構わないよ。私も君の名を覚えるつもりはないからね」
クロイツの目は、レベッカを侯爵家の名誉を脅かしかねない人間として値踏みしているようだ。
しかも暗に自己紹介も要らないと言っている。
怖い。
さらに部屋の壁際に控えている無表情なメイドたちの纏う空気も固い。
流石のレベッカも自分の置かれている状況を肌で察知した。
(あ、これ……下手なこと言うと命が無いやつだわ)
状況の全容はよくわからない。
だが自分が歓迎されていないこと、そしてなんだか取り返しのつかないまずい事態に巻き込まれていることだけははっきりとわかる。
頭の中がお花畑のレベッカもこの状況で「侯爵夫人やったー」などとは思えない。
どう考えても尋問のお時間だ。
応接室の重厚な扉の前には二人のメイドが立っており、退路を塞いでいた。
逃げ場はない。
チラリと窓へ視線を向けるとそこにもメイドたちが整列し、外への脱出を無言で牽制している。
こちらも逃げ場はない。
レベッカは途方に暮れて目の前のローテーブルに置かれている、湯気を立てるティーカップへと視線を落とす。
紅茶からは今まで嗅いだことがないような、高貴で複雑な香りが漂ってくる。
危機感を覚えたレベッカは引きつった笑顔を浮かべ、思わずクロイツに尋ねた。
「あの……自白剤とか紅茶に仕込んでないですよね?」
あまりにも不用意で素直すぎる質問。
クロイツはそれを聞いて、フッと短く鼻で笑った。
「ふふ、そんなものを仕込むわけないだろう」
「あ、ですよね」
「今裏社会で流通している自白剤は、創作上のものよりずっと出来が悪くてね。下手に素人に使うと脳に深刻な後遺症が出てしまうんだ。話を聞く限り、君も何者かに騙された被害者側であるし、そのような劇薬を使うことは一旦控えるつもりだ」
クロイツの返答にレベッカの顔から一気に血の気が引いた。
(なんで後遺症が出るって詳しく知ってんのよ……侯爵家こっわ!)
しかも一旦控えるということは、状況次第では使う選択肢もあるということだ。
王都の闇を垣間見たような気がして、レベッカが内心でガタガタと恐怖に震える。
侯爵家ヤバイ。
そんな時ふと、横に控えていた一人のメイドが笑顔を浮かべて歩み寄り、レベッカの右手を両手で優しく包み込んだ。
「クロイツ様は、弟君の素行を心から心配しておられるのです。どうか、心穏やかに、ありのままをお答えくださいね」
メイドの温かい手の感触と柔らかな声音。
冷え切った部屋の中で、唯一の味方を見つけたような気がしてレベッカは少しだけ心を開く。
「あ、ありがとう……」
レベッカがメイドの心遣いに少しだけ落ち着いたところで、クロイツが本題を切り出した。
「それで君の話では……先日の仮面舞踏会でロンドルフが君に手を出したという話だが。それは事実かな?」
「本当よ! 恥ずかしかったけど……初めてを奪われる前に、あの人『自分はベイリーフ侯爵家のロンドルフだ。今日はこっそり遊びに来てるんだ』って、はっきり耳元で言ってたもの!」
彼女の言葉に嘘はない。
それを信じたからこそ己の純潔を捧げても良いかと思ったのだ。
あとから思い返して「ちょっとまずかったかしら」とも考えたが。
その主張を聞いたクロイツは、チラリとレベッカの手を取っているメイドの方へと視線を送る。
すると、メイドは穏やかな笑顔を崩さないまま静かに首を縦に振った。
「脈拍に乱れや発汗の異常な変化はありません。ご本人の認識としては事実を語っていると思われます」
「そうか」
クロイツが短く応じる。
そのやり取りを見て、レベッカはポカンと口を開けた。
(え、なに? このメイド……私を落ち着かせるための親切心で手を握ったんじゃなくて脈拍で真偽判定できるの? さりげなく私がでまかせ言ってるかどうか調べられてたってこと? ……侯爵家こっわ!!)
二度目の戦慄。
高位貴族の恐ろしさを身をもって体験し、レベッカは自分がとんでもない館に足を踏み入れてしまったことを悟る。
高位貴族ヤバイ。
真偽を聞いたクロイツは一つ息を吐き出し、レベッカに静かに告げた。
「君の話が君にとっての真実だとして。残念だが、こちらでは弟がそのような夜会に参加したという事実は確認できない」
「いや、そりゃ隠すでしょう普通。名門の次男がそんな夜会に行くなんて。きっとロンドルフ様は内密に、こっそりとパーティーに……」
レベッカは食い下がるが、クロイツはそれを即座に否定する。
「侯爵家宛てに届く手紙や招待状は全て一度私が受け取り、中身を確認して管理している。その中に君の言うような、いかがわしい仮面舞踏会の招待状など一枚も存在しない」
「えっ」
「さらに言えばロンドルフが私の目を盗んで私的に王都で手紙や誘いを受けることもない。なぜなら今シーズンの社交界が始まる直前まで、彼はしばらく王都を離れて我が領地の視察をして回っていたからだ」
ロンドルフも兄の言葉を肯定するように静かに頷く。
二人のアリバイ証明を聞いてレベッカは思わず言葉に詰まった。
全部の手紙を当主が管理してるって、プライベートというものが無いのか高位貴族は、という感想も含まれている。
高位貴族本当にヤバいな。
「社交シーズンくらいは顔を出して繋がりを作れと私が命じて、ようやく渋々王都へ帰って来たくらいだからな。君の言う日程で彼が王都の夜会で遊び歩く手段は無い」
「で、でも……背の高さとか髪の色とか、それっぽかったですし……」
「髪の色を染める薬など王都にはいくらでもあるぞ? 君の言う仮面の男は本当に弟と同じ髪の色だったと断言できるか?」
クロイツの追求に、レベッカの記憶が少しずつ揺らぎ始める。
「言われてみれば……夜会の薄暗いランプの光に照らされてた色と、今見る色はなんか違うような気も……」
そもそも相手はずっと仮面をつけていたのだ。
素顔をしっかりと確認したわけではない。
徐々に自分の記憶に自信が持てなくなってきたレベッカはふと、ある決定的な身体的特徴を思い出した。
「……あ! 手の甲の火傷!」
「なに?」
「あの時のロンドルフ様は右手の甲にひどい火傷の跡があったわ! ドレスを脱がされる時に気づいて、どうしたんですかって聞いたら、『少し前に怒った相手から熱い紅茶をかけられてしまった』って言ってたの! もし今のロンドルフ様の右手に火傷の跡があれば、それが証明に……」
レベッカの言葉を聞いてロンドルフは無言のまま、自身の右手をレベッカの目の前へと差し出した。
白く滑らかな肌。
訓練でできた微かな剣ダコはあるものの、火傷の跡などどこにも存在しない。
貴族らしい綺麗な右手である。
「あれ……?」
レベッカは思わず目が点になる。
話を聞いたクロイツが顎に手を当てて思案した。
「火傷の跡、か……。どこかで聞いたような話だな」
クロイツがそう呟くと、部屋の隅で静かに控えていた老執事が恭しく一歩前に進み出た。
「クロイツ様。確か少し前のことになりますが、へイングラフ伯爵家の三男のランデル様がクローニア伯爵家での縁談がご自身の不手際で白紙になったことで、激怒した父親から熱い紅茶を浴びせかけられたという噂を伺っております。もしや……」
「そうそう、そんな話だったな」
クローニア家の資産を当てにしていたのに、自身の浅はかな吹聴で婚約解消になったという伯爵家三男。
その男が腹いせと気晴らしに、あまり夜会に出ないロンドルフの名を騙って最近王都で増えている仮面付きの夜会で遊び歩いていたというわけだ。
「そんな……」
自分の初めてを捧げた甘く情熱的な一夜の相手。
侯爵家の次男だと言っていた相手の正体が。
縁談をダメにして家から見放された挙句、他人の名前を騙って女を騙す詐欺師紛いのクズ男だったなんて。
「じゃあ結局、最初から責任取る気なんてこれっぽっちも無かったんじゃないの! あのクズ男ォ!!」
レベッカの怒りの叫びが応接室に響き渡る。
騙された彼女の境遇に周囲のメイドたちも少しばかり同情的な空気を漂わせた。
まあ、ホイホイ釣られた彼女も迂闊すぎるのではあるが。
そんな彼女が怒りに身を震わせていると。
老執事が再び、今度は少しだけ声のトーンを落として言葉を継いだ。
「クロイツ様。少々お耳に入れたいお話がございます」
「なんだ」
「最近、そのランデル様が……クローニア伯爵家のタウンハウス周辺に頻繁に姿を見せているとの情報を得ております」
老執事の言葉に思わずロンドルフも耳をそばだてる。
「我々も初めは解消された縁談の件で未練がましく様子を窺っているだけかと思っておりましたが……。他人の名を騙って女性を騙すような卑劣な男となれば、もしやクローニア家に対して何かよからぬことを企んでいるのでは……」
その言葉を聞いた瞬間。
ロンドルフの顔色が一変した。
(しまった……!)
今日、エリザベスは侯爵家の馬車に乗って王都の猫関連の店を案内してくれた。
そして帰りは馬車へ乗せる間もなく、メイドのアニスを連れて徒歩で歩いて行ってしまったのだ。
護衛のメイドがついているとはいえ、もしその道中に逆恨みをした男が待ち伏せをしていたら。
「エリザベス嬢が危ない!」
「おい、ロンドルフ!」
兄クロイツの制止の声が響くがロンドルフはそれに答えることなく、弾かれたように応接室の扉へ向かって駆け出していた。
扉の前にいたメイドたちが慌てて道を譲ると彼は扉を乱暴に開け放ち、そのまま侯爵邸の廊下を全速力で駆け抜けていく。
彼女にもしものことがあれば一生悔やんでも悔やみきれない。
焦燥感に急き立てられながら、ロンドルフは愛しの令嬢の元へと急ぐのであった――。
男爵令嬢のレベッカさんはエリザベスへの悪意は特にありません。
迂闊すぎるご令嬢なだけで。
あとロンドルフと会うタイミングが絶妙に悪かっただけ。




