猫好き令嬢と猫喫茶
柔らかな日差しが王都の街並みを照らす昼下がり。
ベイリーフ侯爵家の馬車は職人街を抜け、少しばかり賑やかな商業区画へと足を踏み入れていた。
先ほどの『キャットウォーク』での買い物を終えたロンドルフとエリザベスは、護衛兼お目付け役のメイドであるアニスを伴って次の目的地へと向かう。
馬車の窓から流れる景色を眺めながら、ロンドルフは少しだけ首を傾げる。
「……変わった店名だな」
彼が視線を向けた先。
通り沿いに建つ小洒落た建物の看板には、丸みを帯びた可愛らしい文字で『猫まっしぐら』と記されていた。
貴族が通うような格式高いサロンや伝統ある喫茶店とは明らかに趣が異なる。
だがエリザベスは自慢げに胸を張り、得意そうな笑みを浮かべて答えた。
「ふふふ、ここはちょっと変わったカフェなんですよ」
馬車が店の前に停車し、ロンドルフのエスコートでエリザベスが優雅に降り立つ。
アニスも後に続き、三人はその『猫まっしぐら』の扉を開けた。
カランカラン、と軽快なベルの音が鳴り響く。
「こ、これは……」
店内に足を踏み入れた瞬間、ロンドルフは思わず言葉を失う。
内装自体は木目を基調とした温かみのある、ごく普通の小洒落たカフェである。
だが、そこに広がっていた光景は彼の想像を大きく超えるものであった。
至る所に猫、猫、猫。
床をのんびりと歩き回る者、窓際の陽だまりで丸くなって眠る者。
キャットタワーと呼ばれる天井まで届く木製の遊具によじ登っている者。
店内には十数匹の様々な毛色や模様の猫たちが、我が物顔でくつろいでいたのだ。
エリザベスはそんな彼の反応を見て誇らしげに宣言する。
「『猫カフェ』というお店です!」
猫を愛でながらお茶や食事を楽しむことができる、王都でも知る人ぞ知る癒しの空間にして猫好きにとってはまさに楽園のような場所。
それがこの『猫まっしぐら』という店であった。
ロンドルフが異様かつ愛らしい光景に圧倒されていると、奥からエプロン姿の店員がにこやかな笑顔で歩み寄ってきた。
「いらっしゃいませ、エリザベス様。本日もいつものお席で?」
店員はエリザベスの顔を見るなり、淀みなく親しげな声で出迎える。
「ええ。いつものを二つお願い。アニスは別の席で休んでいてちょうだい」
「かしこまりました。奥の特等席へご案内いたします」
エリザベスは慣れた手つきでメイドのアニスに別席での待機を指示し、店員の案内に従って迷いなく店内を奥へと進んでいく。
その一切の躊躇がない流れるような所作。
ロンドルフは案内された奥の窓際の席に腰を下ろしながら、向かいに座るエリザベスに思わず尋ねた。
「……ここにはよく来るのか?」
店員に名前を覚えられているばかりか、「いつもの」という注文で通じてしまう関係性。
どう見ても一見客の振る舞いではない。
明らかに手馴れている。
その問いに対し、エリザベスは少しだけ視線を泳がせながら上品に答えた。
「ま、まあ? 友人と一緒に数度くらいでしょうか」
嘘である。
親友のアリアと一緒に訪れたことは当然ある。
だがそれ以上に、彼女がまだ愛猫レベッカを拾う前の社交シーズン中にも猫の温もりを求めて足繁くこの店に通い詰めていたのだ。
領地に帰っている期間を除き、社交シーズン中にしか王都に滞在しないにもかかわらず店員に顔と名前、そしてお気に入りの席とメニューを記憶されるほど通い詰めていたという事実。
それは数度という頻度ではない。
(……これは相当来ているな)
ロンドルフは彼女の少し焦ったような目線と店員の親しげな態度から、容易に真相を察する。
だが、ここで彼女の嘘を追及するような無粋な真似はしない。
貴族令嬢としての体面を保とうとする彼女の可愛らしい見栄を尊重し、あえて指摘しないことに決めた。
「それにしてもなんというか、自由だな」
ロンドルフは話題を変え、店内を見渡して感心したように呟く。
貴族の飼う血統書付きの猫たちは大抵が上品にクッションの上で丸くなり、主人の傍を離れないよう厳しく躾けられているものだ。
だがこの店の猫たちは違う。
客が席に着こうがお茶を飲んでいようがお構いなしだ。
隣のテーブルの空いた椅子で堂々と爆睡しているぶち猫。
壁際のキャットタワーの最上段を巡って、無言の睨み合いを繰り広げている黒猫と白猫。
客の足元をすり抜けて、我が物顔で店内をパトロールする茶トラ。
それぞれが全く自分のペースで気ままに振る舞っている。
その自由奔放な姿にロンドルフは自然と口元を緩め、微笑ましげな視線を向けていた。
「猫、お好きなんですか?」
エリザベスが、ロンドルフのその柔らかな表情を見てそっと尋ねる。
先ほどの店でも感じたが、彼は動物を愛でる時はとても優しい目をしている。
「もう隠しても仕方ないな。その通りだ」
ロンドルフは降参したように両手を軽く広げ、素直に自らの嗜好を認めた。
「表情も好きだが、こうして自由に遊んでいたり、寝ている姿も愛らしくていいと思う」
彼の声には夜会で見せていたような威圧感は欠片もない。
先ほどの店でも見せた無防備な笑顔だ。
エリザベスもまた、先ほどの『ねじれ猫』の置物を思い出しながら楽しげに同調する。
「わかりますわ。箱の中に無理やり入っていたりしていると笑っちゃいますもの」
「狭いと落ち着くのかな、面白いものだ」
二人が猫の不思議な生態について和やかに談笑していると。
ふと、ロンドルフの視界の端で奇妙な光景が繰り広げられているのが見えた。
少し離れた席に座っている一人の客。
その客がテーブルの横で丸くなっている猫のお尻のあたりを、上からポンポンと小刻みに叩き始めたのだ。
「なんだあれ」
ロンドルフは思わず眉をひそめ、身を乗り出した。
力加減は弱そうだが、生き物を叩くという行為自体が彼の目には異様に映る。
(虐めているのか?)
そう思い、止めに入ろうかと店員の方へ鋭い視線を向けた。
だが、その客の行為を見ている店員は咎めるどころか、むしろ嬉しそうに微笑んで眺めているではないか。
「いいのか……?」
ロンドルフの困惑した声に、エリザベスはふふっと口元をほころばせる。
「猫のお尻は神経が集中していて、優しく叩くと心地いいんですよ。ほら、あの子も気持ちよさそうにしているでしょう?」
エリザベスの言葉に従って再び客と猫の様子を観察すると、確かに叩かれている猫は逃げるどころか、自らお尻を高く持ち上げ、喉をゴロゴロと鳴らして気持ちよさそうに目を細めている。
さらには「もっと叩け」とばかりに客の手にすり寄っていく始末だ。
「そ、そうなのか」
ロンドルフは猫の未知なる生態に再び驚かされた。
見渡せば、店内のあちこちで「お尻ポンポン待ち」をしているかのように客の足元に転がってアピールしている猫がちらほらといる。
(……俺も、やってみるか)
少しばかり好奇心が刺激されたロンドルフは席を立ち、近くで寝転がっている一匹の猫へとゆっくり近づいていった。
そっと手を伸ばし、見よう見まねで優しくお尻を叩こうとする。
だが、ロンドルフの手が触れるか触れないかの距離で、猫は警戒したように身を翻し、するりと彼の脇をすり抜けてテーブルの下へと逃げ込んでしまった。
「あれ……」
宙を彷徨う右手を見つめ、ロンドルフは情けない声を漏らす。
拒絶されてしまったらしい。
席からその様子を見ていたエリザベスが優しく声をかける。
「慣れていない人は力加減や触り方がわからないから、猫ちゃんも警戒して逃げるんですね。ロンドルフ様は少し身体が大きくて威圧感があるから、余計に怖がらせてしまったのかもしれませんわ」
猫は警戒心が強い生き物である。
触り方や近づき方に不慣れな人間の気配を敏感に察知して避けてしまうのだ。
「俺も猫に触りたいんだが……」
高位貴族としての威厳も何もあったものではない。
ロンドルフは広い肩を少しだけ落とし、しょんぼりとした様子で自分の席へと戻ってきた。
その落ち込んだ姿がどこか大型犬のようで、エリザベスは内心で「可愛い」と思ってしまう。
そんな和やかな空気が流れるテーブルへ、店員が料理を運んできた。
「お待たせしました。カルボナーラのセットです」
テーブルの中央に置かれたのは、湯気を立てる濃厚なチーズと黒胡椒の香りが食欲をそそるカルボナーラのパスタ。
そして食後の香り高いコーヒーのカップ。
だが、そのセットの横には人間が食べるものではない、見慣れない小皿がもう一つ添えられていた。
「……鳥のササミ?」
ロンドルフが不思議そうにその小皿を覗き込む。
細かくほぐされた茹でた鳥のササミが、上品に盛り付けられている。
「ええ。このお店のセットメニューには、猫ちゃん用のおやつが付いているんです」
エリザベスが自慢げに解説する。
客が猫と触れ合うための心憎いサービスというわけだ。
「へえ」
ロンドルフが感心しながら、そのササミの乗った小皿を手に取って眺めていた、その時。
にゃあ。にゃお。みゃーん。
店内のあちこちから、一斉に猫たちの鳴き声が上がった。
そして先ほどまで自由気ままに寝転がったり遊んだりしていた猫たちが、まるで示し合わせたかのようにロンドルフのテーブルへと大挙して押し寄せてきたのだ。
「うおおおお!? 凄く集まってきたぞ!!」
ロンドルフは予想外の襲来に驚いて仰け反る。
足元にすり寄る者、隣の空いた椅子に飛び乗って熱視線を送る者、果てはロンドルフの膝の上に前足をかけて立ち上がり、小皿に向かって鼻をヒクヒクさせる者までいる。
「ふふふ、おやつをおねだりしにきたんですね!」
「さっきは避けていただろうが! 現金すぎるぞお前ら!」
ロンドルフは先ほど自分から逃げていった猫までが最前列で目を輝かせてササミを要求しているのを見て呆れ半分、嬉しさ半分で声を上げる。
「ほら、順番だぞ。喧嘩するな」
ロンドルフは顔をほころばせ、猫たちに揉みくちゃにされながらも嬉しそうにササミを少しずつほぐして与えていく。
指先から直接おやつを食べる猫の柔らかな舌の感触。
喉を鳴らすゴロゴロという振動。
彼は猫たちに触れ合いながら、心底楽しげな笑顔を浮かべていた。
エリザベスは、そんなロンドルフの姿を向かいの席から静かに見つめていた。
夜会で初めてその姿を見た時は、近寄りがたくて冷たい印象の方だと思っていた。
だが、こうして一緒に過ごしてみると彼はとても動物を愛し、感情豊かでよく笑う人なのだとわかる。
(最初は怖い方だと思ったけど、結構可愛いものがお好きで、表情も良く変わって楽しい方だわ……)
エリザベスの中で、ロンドルフに対する評価が大きく変わりつつあった。
何より、これほどまでに猫好きであるという共通点。
彼となら、きっといつまでも猫の話で盛り上がれる。
自分ととても相性が良いのではないか。
そんな思いが胸の奥に芽生えかけた瞬間、エリザベスはハッとして自身の感情を強く戒めた。
(ダメよ、何を考えているの)
エリザベスはテーブルの下で自身のドレスの布地をきゅっと握りしめる。
(彼には、思い煩うほどに探している『レベッカ』という女性がいるんだもの)
ロンドルフが夜会を巡り歩き、血眼になって探している運命の令嬢。
彼の心の中には、すでにその女性の存在が大きく占められている。
自分がどれほど彼との時間に心地よさを感じようとも、彼と共に並び立つ未来などあり得ないのだ。
(私が彼と共にいる未来はないわ。……私はただの、猫のお店を案内する協力者でしかない)
そう自分に言い聞かせる。
だが、エリザベスの胸の奥にひとつの感情がポツリと雫のように落ちる。
(でも……もし)
もしも、その『レベッカ』という令嬢がこのまま彼の前に現れなかったとしたら。
もし彼がその令嬢を探すことを諦め、自分の隣にずっといてくれることになったとしたら。
この穏やかで楽しい時間が、永遠に続くのではないだろうか。
(……最低だわ、私)
他人の恋路が実らないことを願うような、そんなやましいことを考える自分がひどく嫌になる。
いつからこんなに嫌な女になってしまったのだろうか。
自己嫌悪に陥り、エリザベスが伏し目がちになっていた、その時。
猫たちにおやつを与えていたロンドルフが不思議そうに首を傾げた。
「ん? こいつはササミに反応しないな」
彼の足元で、一匹の美しい長毛の白猫が、他の猫たちのように群がることもなく、ただ静かに座ってそっぽを向いていたのだ。
エリザベスは顔を上げ、その白猫を見て即座に答えた。
「あ、この子は鳥肉よりお魚の方が好きなんです。ササミにはあまり興味を示さないんですよ」
「……何で知っているんだ?」
店にいる猫のうちの一匹の、しかも個別の食の好みまで把握しているとは。
ロンドルフは心底感心したように呟く。
「常連って凄いな……」
その称賛の声に、エリザベスは先ほどまで抱いていた自己嫌悪を心の奥底へと無理やり押し殺す。
「ふふふ。通い詰めると、猫ちゃんたちの顔と性格がみんなわかるようになるんですわ」
複雑な感情を胸に秘めながら、エリザベスはロンドルフに向かって、涼やかで美しい微笑みを返してみせるのであった――。




