猫好き令嬢と婚約解消
今回は魔法もチートもなしで猫を主軸に物語を作っていきます。
猫も特殊な力は無く、ごく普通の猫です。
王都に居を構えるクローニア伯爵家のタウンハウス。
豪奢な装飾こそ控えめだが、磨き抜かれた調度品や手入れの行き届いた庭園が堅実な財力を物語る邸宅だ。
社交の季節が訪れるたびに緑豊かな領地から王都へとやってくるクローニア伯爵家の一家が滞在するための壮麗な館。
この屋敷の一室でクローニア伯爵家当主である壮年男性、レイウッドが深い息を吐き出した。
「これで婚約は解消だ。すまなかったな、エリザベス」
重苦しい空気の中、レイウッドの低く沈んだ声が響く。
向かいの豪奢なソファに腰を下ろしているのは、彼の愛娘であるエリザベス・クローニア。
透き通るような金糸の髪と、凛とした冷ややかな美貌を持つ令嬢だ。
彼女は父の謝罪に対し、表情を崩すことなく静かに首を横に振った。
「いえ。むしろ本格的な婚約に至る前に、あの方の本性が知れてよかったですわ」
エリザベスの言葉は強がりではなく、心からの本音。
彼女は感情を波立たせることのない涼やかな声で婚約解消に応じる。
「すまんな。あちらの当主である伯爵はまともな御仁なのだが……子息があれではな。末の息子だからと甘やかされて育ったとは聞いていたが、とんだボンクラだった」
レイウッドは渋い顔で手元の羊皮紙の書類をパサリと机に放り投げた。
書類には両家の合意の下で結ばれた婚約解消の取り決めが記されている。
クローニア家は歴史ある中堅の伯爵家でありながら、領地での特産品の開発や独自の商売ルートの開拓が大きな成功を収めており、手堅い商会運営によって莫大な富を築き上げた資産家として知られている。
その潤沢な資金力を当て込んで、歴史はあるが近頃資金繰りが悪化していたヘイングラフ伯爵家から縁談が持ち込まれたのだ。
相手はヘイングラフ家の三男、ランデル・へイングラフ。
クローニア家はヘイングラフ家の王都での古き良き人脈を重宝し、ヘイングラフ家はクローニア家の豊富な資金力を必要としていた。
家格の釣り合いも良く、政略結婚としては悪くない話だとレイウッドも当初は考えていた。
だが、当のランデル本人が致命的な愚か者であった。
彼はクローニア家からの多額の持参金を当てにしている自家の窮状を棚に上げ、夜な夜な王都の社交場や酒場で「自分は金のために売られた哀れな男だ」「悪役顔の令嬢の下へ婿に行く身売りのようなものさ」などと、悲劇の主人公を気取って吹聴して回っていたのだ。
クローニア家の威信を傷つけ、娘の誇りを泥で汚すような風評被害を許すほど父レイウッドは甘い男ではない。
激怒したレイウッドは即座にヘイングラフ伯爵家へ抗議の書状を送りつけ、この度の縁談を白紙に戻すことを通告した。
向こうから持ち掛けてきた縁談を、先方の有責で一方的に解消する形となったのだ。
資金援助の道が絶たれたばかりか、クローニア家への風評被害に対する多額の慰謝料まで請求されることになり、ヘイングラフ伯爵家の経営は今後さらに傾くことになるだろう。
「当分の間は、縁談のことは忘れてゆっくり休むといい」
「お気遣い痛み入ります、お父様」
エリザベスは父に一礼すると席を立ち、穏やかな様子で執務室の扉を開く。
扉の向こうにはエリザベス付きの侍女アニスが控えており、エリザベスは彼女を伴って自室へと戻っていくのだった。
◆◆◆◆
父レイウッドとの短い面会を終え、エリザベスは側付きのメイドであるアニスを伴って自身の私室へと戻ってきた。
厚手の絨毯が敷かれた室内は、豪奢な天蓋付きのベッドと趣味の良いアンティーク家具で整えられた見慣れた空間だ。
静かな自室に入った途端、エリザベスは先ほどまでの凛とした態度を崩し、ふう、と小さく息を吐き出す。
そして、豪奢な天蓋付きの寝台の横に置かれた、身の丈ほどもある大きな姿見の前に立った。
鏡の中には流れるような金髪と、切れ長で涼しげな瞳を持つ隙のない美しさを持った令嬢が映っている。
エリザベスは鏡の中の自分をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……私って、そんなに悪役顔かしら」
「そのようなことは決してございません」
控えていたアニスが、淀みなくきっぱりと否定する。
「ありがとう、アニス。でも、実際にそう言われるとねえ……少し気になってしまうわ」
エリザベスは自身の目元を指先でそっと撫でる。
今回の婚約解消自体に、ショックは全く受けていない。
ランデルとは幼馴染というわけでもなく、顔を合わせたのも両家の顔合わせでの数回のみ。
本格的な婚約の儀式を交わす前であり、解消の理由も一部の隙もなく相手側の有責であるため、エリザベスの令嬢としての価値や名前に傷がつくようなことはない。
むしろ、良識ある貴族たちはクローニア家の素早い決断を支持するだろう。
ただ、あの愚かな男が酒場で吐き捨てていたという言葉だけが、棘のように心に引っかかっていた。
『僕はあの悪役顔の令嬢の下に婿に行くんだ。実質、身売りのようなものさ』
そう、悪役顔。
確かに彼女の目つきは少しきつめで、黙っていると冷淡で威圧的な印象を与えがちであることは自覚している。
だが、いくらなんでも「悪役顔」というのは酷い言われようではないか。
最近の王都の社交界では、身分違いの純愛をテーマにした舞台劇や小説が大流行している。
そうした物語の中で愛が芽生えた可憐な令嬢と、高貴な令息が結ばれるのを意地悪く阻止しようとする権力者の娘。
そこで登場するのが高慢で意地悪な「悪役令嬢」という存在だ。
高位貴族は高慢で意地悪というイメージが付きやすいのか、そういう存在がすっかり定着してしまっている。
ある意味こちらも風評被害だが、例のバカ子息と違ってこちらは一般認識。
誰に訴えることもできないのが少々困りものだ。
「悪役令嬢を演じる舞台女優さんとか、確かに私みたいに目つきがきつくて冷たい印象の方が多いものねえ……」
エリザベスは鏡に向かって色々な角度から自分の顔を観察し始めるが、アニスは主人の背中を見つめながら、はっきりと断言する。
「ああいう舞台の主人公は庇護欲をそそるような可愛らしくて愛嬌のある方が多いですから、その対比でしょう。ですが、エリザベス様は誰もが認めるお美しいお顔立ちです。ご自身をそのように卑下なさる必要はどこにもございません」
アニスの言葉は主を慰めるための嘘や建前ではない。
あの愚かなランデルは、エリザベスの真の魅力を全く理解していなかったのだ。
外見こそ近寄りがたいクール系の美人だが、その内面は家族や身内に対してとても情に厚く、そして何より――。
ふと聞こえてくる、柔らかな絨毯を踏む微かな足音。
部屋の重厚な扉の下部に、特注で取り付けられた小さな木製の小窓。
そこを器用に鼻先で押し開けて、一匹の猫がふらりと部屋の中へ入ってきた。
「にゃーん」
血統書付きの名猫ではない、どこにでもいる雑種の猫だ。
だが、その身体は毛艶が良くふっくらとしており、大切に愛情を注がれて育てられていることが一目でわかる。
猫の姿を認めた瞬間。
エリザベスの顔から先ほどまでの冷たい令嬢の仮面が跡形もなく崩れ去り、とろけるような満面の笑顔が花開いた。
「あら~。レベッカちゃ~ん♡」
エリザベスはドレスの裾が床に擦れるのも構わずしゃがみ込み、その猫を愛おしそうに両手で抱き上げた。
そして、自分の目線の高さまで持ち上げ、鼻先を擦り合わせるようにして語りかける。
「どうちたんでちゅか~? 寂しかったんでちゅか~? 帰ってきてすぐにご挨拶できなくて、ごめんね~」
「にゃーん」
レベッカと呼ばれた猫が短く鳴いて尻尾をパタパタと動かした。
エリザベスの冷淡に見られがちな目尻がだらしなく下がり、口元が思わず綻ぶ。
「ああん、もう。レベッカちゃん、きゃわゆいわあ~。きゃわいい、きゃわいい!」
エリザベスは令嬢としての矜持をどこかへ放り投げたように、猫の額に自分の額をすり寄せる。
そしてレベッカの柔らかいお腹に顔を思い切り埋め、スゥーッ、ハァーッと深呼吸を繰り返す。
顔を包む、もふもふとした毛の感触と日向のような温かい匂いがエリザベスの胸と心を満たしていく。
レベッカは猫であるため表情を変えることはないが、主人の過剰な愛情表現に身を委ねながらも心なしか困っているように見えるなと、アニスは内心で密かに思っていた。
そう、彼女には何物にも代えがたい究極の癒しが存在していた。
愛猫のレベッカちゃんである。
レベッカは昨年の秋、エリザベスが領地の屋敷の広大な庭園で偶然拾った元野良猫だ。
当時は雨に濡れて泥だらけになり、ガリガリに痩せ細って今にも命の火が消えそうな哀れな子猫であった。
警戒心も強く、最初はシャーッと威嚇して近寄らせてくれなかった。
だが、エリザベスが根気よく温かいミルクを与え、夜通し付きっ切りで看病し、溢れんばかりの愛情を注いでお世話をした結果。
血統こそ雑種ではあるが最高級の食事と、エリザベスが専属の獣医を呼び寄せて徹底的なケアを行ったことで今では毛並みもツヤツヤになり、大変健康的な猫ちゃんとなったのである。
本来、猫は過度なスキンシップを嫌がる生き物だとされている。
だがレベッカはエリザベスに命を救われた恩義を感じているのか、いつも彼女の足元に擦り寄り、どこへ行くにもべったりとくっついて離れない甘えん坊へと変貌したのだ。
エリザベス自身が元々大の動物好きだったこともあり、レベッカへの溺愛ぶりは留まるところを知らない。
誰もいない私室では常に赤ちゃん言葉で話しかけ、一日に何度もこうして顔を埋めて「猫吸い」の儀式を行うほどである。
今回の社交シーズンに向けて領地から王都のタウンハウスへ移動する際も、当初は長旅の負担を考慮してレベッカを領地の屋敷に残していく予定だった。
だが、いざ出発の日が近づくとエリザベスが「レベッカちゃんと離れるなんて絶対に無理!」と涙ながらに駄々をこね始めたのだ。
さらにレベッカの方も主人が長期間不在にすることを鋭く察知したのか、馬車に積まれるトランクに無理やり入り込もうとしたり、エリザベスのドレスの裾を噛んで引っ張ったりと激しく暴れ出した。
その相思相愛ぶりと執念に根負けした父レイウッドが、最終的に特例としてレベッカの同行を許可したのである。
今や二人は、片時も離れられない最高の仲良しコンビだ。
ちなみにレベッカはメス猫である。
元々猫好きだったエリザベスの趣味嗜好も、レベッカの影響で更に重篤化した。
部屋の小物や茶器、手紙の封蝋に至るまで、可愛らしい猫のモチーフがあしらわれたグッズを見つけると嬉々として買い集めるほどだ。
「にゃーん」
レベッカが、エリザベスの腕の中で短く鳴いた。
「え? エリザベスは悪役顔なんかじゃないよ、って言ってくれてるの? ありがとね、レベッカちゃ~ん♡ チュッ、チュッ!」
レベッカは人間の言葉を話せないが、エリザベスの脳内フィルターを通すと、常に自身を全肯定してくれる最高の理解者としての都合の良い翻訳がなされるらしい。
まあレベッカ自身もエリザベスにべったりなので、そう外れてもいないだろう。
アニスは、そんな幸せの絶頂にいる主人の様子を見て、ふっと安堵の息を漏らす。
婚約解消という貴族の令嬢にとって少なからず心労を伴う出来事の直後だったが、これなら全く心配はいらないだろう。
そしてアニスはふと、先ほど他のメイド仲間から小耳に挟んだ、ある興味深い噂話を思い出した。
「そういえば、エリザベス様。少しよろしいでしょうか」
「ん? なあに、アニス」
エリザベスはレベッカを優しく撫でながら、ご機嫌な声で振り返る。
「実は、近々ベイリーフ侯爵家の主催で、愛猫家による猫パーティーなる催しが開催されるらしいですよ」
「ベイリーフ侯爵家?」
エリザベスは撫でる手を止め、少し不思議そうに首を傾げた。
名前には聞き覚えがある。
武門の家系ではなく、高位の文官や学者を何人も輩出している、王都でも歴史と格式のある名門だ。
現在は若い当主が家を継ぎ、その手腕でさらに勢いを増していると父レイウッドが語っていた記憶がある。
「猫パーティーというのも、また随分と珍しい趣向の催しね」
貴族のパーティーといえば、きらびやかなドレスを身に纏ってダンスを踊り、政治的な思惑や縁談の探り合いをするのが常である。
「ええ。ですが、意外と王都の貴族の家で猫を飼われている方は多いらしいですね。単純に愛らしいペットとして可愛がるだけでなく、珍しい猫を飼育していることで、それだけ生活に余裕のある豊かな家だという暗黙のアピールにも繋がるとかなんとか」
「珍しい猫というのはわからないけど、可愛いから飼うというはわかるわ」
アニスの仕入れてきた話に、エリザベスは深く納得したように頷いた。
「お父様も普段はあんなに厳格な顔をしているのに、レベッカちゃんに餌をあげる時だけはデレデレに顔を緩ませているところを見たことがあるもの」
ちなみにレイウッド本人はあくまで「当主としての威厳を保ちつつ、厳格に餌を与えている」つもりらしい。
手ずから猫に餌を与え、その頭を優しく撫でている時点で十分にデレデレなのだが、本人は自分の表情がだらしなく崩壊していることに全く気付いていないようだ。
アニスは内心で「あの伯爵様もなかなかの親バカならぬ猫バカですね」と思いつつ説明を続ける。
「このパーティーは『猫』がメインの主役となりますので、参加者同士は互いの素性がわからないように配慮されているそうです」
「素性がわからないように?」
「はい。自慢の愛猫を持ち寄り、参加者は全員、顔の上半分を覆う仮面をつけて参加するのがルールなんだそうです。純粋に猫について語り合い、交流を深めるための場ですので、猫を口実にして他家の令嬢や令息に言い寄ったり、政治的な話を持ち掛けたりするのはマナー違反として厳しく禁じられているとのことですよ」
「まあ!」
エリザベスの目が、パァッと明るく輝いた。
「それなら面倒な身分や派閥のしがらみや煩わしい縁談の探り合いも気にせず、気楽に参加できそうね! レベッカちゃんの可愛さを思う存分皆さんに自慢できる絶好の機会だわ!」
エリザベスはレベッカを高く掲げ、クルクルと楽しげに回り始める。
「にゃあ」
レベッカも主人の上機嫌が伝わったのか、短く応えるように鳴く。
そして、ふとエリザベスが動きを止め、少しだけ困ったような顔で振り向いた。
「でも、仮面はどうやって調達すればいいのかしら? うちには夜会用の扇くらいしかないわよ」
「その点もご安心ください」
アニスはそつなく答える。
「王都には、素性を隠して参加する『仮面舞踏会』という催しが社交シーズン中に何度か開かれるそうです。ですので、そういった用途の精巧な仮面を取り扱う専門店がいくつかある、と聞いております」
「流石はアニスね、頼りになるわ! じゃあ、明日にでも私に似合いそうな素敵な仮面を見繕ってきてくれないかしら」
「かしこまりました。では、せっかくの機会ですし、猫の顔をモチーフにした少し遊び心のあるデザインの仮面を探してまいりましょうか」
「いいわね、それ! きっと素敵なものが見つかるわ! 今回の王都滞在の、とても良い思い出になりそう!」
エリザベスは再びレベッカを胸に抱き寄せ、嬉しそうに頬ずりをする。
「レベッカちゃんが一番可愛いって、みんなの人気者になっちゃったらどうしましょう。ふふふ、おめかしして行かなくちゃね」
先ほどまでの婚約破棄の憂鬱などすっかりどこかへ吹き飛び、エリザベスの心は早くも未知の猫パーティーへの期待で大きく膨らんでいるのであった――。




