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灰の雪

 本郷の高台、本妙寺から放たれた無数の火の粉は、漆黒の煙の柱とともに江戸の空を覆い尽くした。

 それはもはや火事という言葉で片付けられる規模ではなかった。烈風に煽られた火種は、空中でさらに分裂し、光り輝く灰の雪となって、風下の神田、日本橋の密集した屋根へと降り注ぐ。空は濁った朱色に染まり、太陽はその光を失って、煤けた銅鏡のようにぼんやりと浮かんでいる。

 神田連雀町の裏店うらだなに住む左官職人の源次は、喉を刺すような異臭と、地鳴りのような咆哮で目を覚ました。

 「……なんだ、この匂いは…。」

 障子を開けた瞬間、源次は言葉を失った。真昼のはずの空が、煤すすけた赤黒い闇に塗りつぶされている。異常な乾燥のせいで、家を支える柱も畳も、触れれば爆ぜそうなほどに干からびていた。微細な灰が室内まで入り込み、呼吸をするたびに肺の奥が石を飲んだかのようにざらつく。

 「父ちゃん、お外が赤いの。雪が降ってるよ!」

 五歳になる娘のお小夜が、無邪気に指を差した。空から舞い降りてきたのは、雪ではない。保科が仕込んだ薬種を芯に宿し、いまだ猛烈な熱を放つ絹の燃えさしだ。

 その一欠片が、隣家の乾ききった藁屋根に着地した、その瞬間――シュ、と、音も立てずに火が走った。水を含まぬ家屋は、巨大な松明と化すのに十秒も要さなかった。

 「逃げろ! 荷物なんかいい、お小夜を抱えろ!」

 源次は妻の腕を掴み、路地へと飛び出した。だが、そこにはすでに冷たい狂気に支配された人波があった。人々は家財を積んだ大八車を無理やり押し通そうとし、狭い路地で車輪が噛み合い、動けなくなる。そこへ後方から火に追われた人々が、獣のような叫びを上げて突っ込んでくる。

路地には、持ち出しきれずに捨てられた布団や漆器、主を失った下駄が散乱し、それらすべてが火を吸って足元から牙を剥いた。

 「どけ! 死にたいのか!」

 「通してくれ、子供がいるんだ!」

 罵声と、赤ん坊の泣き声。火はもはや家々を伝うのではない。爆風が燃える板切れを数百メートル先まで放り投げ、数箇所で同時に火の手が上がる飛火とびひによって、退路が次々と断たれていく。

 源次は娘を肩車し、必死に人波を掻き分けた。目指すは神田川だ。だが、たどり着いた川沿いの光景は、地獄そのものであった。

 「川だ! 水の中なら……!」

 妻が叫んだその時、上空から爆音とともに火の塊が降ってきた。それは燃焼を終えた灰ではなく、いまだ猛烈な化学反応を続ける火のつぶてだ。飛散した油のような火薬が、源次の妻の着物に吸い付いた。

 「……あ。」

 悲鳴さえなかった。乾燥しきった絹と綿は、源次の指先が触れるより早く、彼女の輪郭を奪うほどの勢いで火を噴いた。一瞬にして燃え上がる人型の焔。

 「おかっつぁん!」

 源次が手を伸ばすが、その指に触れたのは妻の温もりではなく、肉の焼ける悍ましい熱風だけだった。背後から押し寄せる狂乱した人波は、立ち尽くす源次を突き飛ばし、燃える妻を容赦なく踏みつけ、前方へと突き進む。源次の視界から愛する者の姿が、朱い渦の中に泥となり掻き消えていった。

 「父ちゃん、熱い……熱いよぉ……。」

 肩の上でお小夜が震えている。源次は泣く暇さえ与えられない。神田川の岸辺は、すでに飛び込んだ人々の頭で埋め尽くされていた。しかし、対岸から吹き付ける熱風が、川面の息吹さえも奪い去っていた。

 「お小夜、しっかり捕まってろ……!」

 源次は娘を抱き締め、水の中へと飛び込んだ。冷たいはずの水は、周囲の猛火に炙られ、ぬるま湯のように濁っている。

 ふと、源次は気づいた。空の色がおかしい。

 上空を流れる煙が、不自然な螺旋らせんを描いている。風向きが、保科が想定した北西から、不気味な意思を持つかのように捻れ、円を描き始めたのだ。

 熱波で真っ白に濁った視界の向こう、何千もの人々がひしめき合う橋の上を、一本の巨大な火の柱が、意志を持って歩くかのように横切っていった。

 

 轟々と鳴り響く火の音の中で、源次は腕の中にある重みが、ふと消えたような感覚を覚えた。

 「お小夜? お小夜!」

 娘の顔は、熱に灼かれた空気の中、眠るように目を閉じていた。火があらゆる気を吸い尽くしたのか、彼女は一度ももがくことなく、ただ静かに、喉の奥を詰まらせて事切れていた。小さな命を包むのは、もはや父の腕ではなく、逃れようのない死の熱気だけであった。

 絶望さえも蒸発させるほどの熱。源次は娘の亡骸を抱いたまま、ただ真っ赤な空を仰いだ。そこには、自分が信じていたお上の慈悲も世の条理も、欠片ほども残っていなかった。

 

その頃、松井は焼けつく喉を抑え、保科の待つ待機所へとたどり着いた。

 報告を口にしようとした松井は、保科の背中を見て凍りついた。

 保科は、卓上の図面を見ていなかった。大きく開け放たれた窓から吹き込む熱風が、部屋の中の書物を撒き散らし、高価な漆の文箱を熱でひび割れさせている。保科はその破壊の渦中で、荒れ狂う江戸の空を、見たこともないほど険しい眼差しで見つめていた。

 「……松井。風が、笑っているな。」

 保科の声は、冷徹な統治者のそれではなく、未知の深淵を覗き込んだ者のように震えていた。

 「私の計算では、この刻限、風は南東へ抜けるはずだった。だが……見ろ。火が、自ら風を産んでいる。空気そのものが火に喰われ、風となって舞い戻っている。これはもう、道理の振る舞いではない。」

 保科の手の中にある設計図が、激しい突風に煽られ、松井の刷り込んだ硝石と同じ匂いをさせて、端から黒く焦げていった。

 神田、日本橋を飲み込んだ炎は、今、保科がもっとも恐れていた形を成そうとしていた。保科の理知は、ここで完全に敗北を喫したのである。

 江戸を救うための火は、今、江戸を滅ぼすための咆哮を上げ始めた。

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