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臨界点

「――火を。災厄を、浄土へ送らん。」

 導師の震える声が、冬の凍てつく静寂を切り裂いた。

 本郷・本妙寺の広大な境内を埋め尽くした数千の群衆が、一斉に息を呑む。彼らの視線の先、中央に高く組まれた護摩壇の頂には、一枚の振袖が掲げられていた。かつて三人の娘を黄泉路へと誘ったとされる、呪いの紫。その絹地は、異常乾燥によって湿り気を失い、乾いた冬の風に弄ばれて、まるで死人が藻掻いているかのように見えた。

 本尊を祀る本堂の屋根の陰。瓦の熱を膝に感じながら、松井は冷徹な眼差しでその光景を見下ろしていた。彼の懐には、保科から授かった設計図がある。それは火災の規模、延焼の速度、そして風向きによる煙の流動までを緻密に算出した、冷徹なる統治者のための記録だ。

(……準備は整った。すべては殿の、江戸三百年の計のために。)

 松井は、振袖の裏地に自身の手で刷り込んだ仕掛けを思い出す。それは、本来ならじわじわと燃え広がるはずの絹地を、一瞬にして天を灼く業火へと変える劇薬であった。

 導師の手から、赤々と燃える松明たいまつが放たれた。

 放物線を描いて飛ぶ火の玉は、湿度が十パーセント台まで落ち込んだ、ひび割れた大気の中を吸い込まれるように落ちていく。松明が振袖の裾に触れた、その瞬間だった。

 ――ッゴォォォォン!!

 それは、薪が爆ぜる音ではなかった。

 大気が一瞬にして真空へと変じたかのような衝撃波が、松井の鼓膜を叩く。眼下で、保科が定義した理が牙を剥いた。

 絹地に伏せられた硝石が火を喰らった瞬間、爆発的な速度で酸素を貪り、白熱した火柱となって夜の帳を突き破ったのだ。数千の群衆が凝視する中、本妙寺の境内は一瞬にして巨大な溶鉱炉へと変貌した。

「ひっ……! ぎゃああああっ!!」

 地鳴りのような悲鳴が境内に伝播する。屋根の上で凝視していた松井の顔から、血の気が引いた。あまりの放射熱に、彼が足場にしていた瓦が、パチン、パチンと小気味よい音を立てて弾け飛ぶ。

(……早すぎる。圧が、殿の計算を遥かに上回っている!)

 松井は懐の書状を握りしめた。保科の設計では、火は緩やかに上昇し、上空の風に乗って北東の不燃空地へと流れるはずだった。だが、この異常な燃焼は、閉鎖された境内の中に想定外の怪物を生み出した。

 上昇気流が巨大な竜巻と化し、周囲の空気を中心部へと猛烈に引き込む。吸い込まれた空気はさらに火力を研ぎ澄ませ、巨大な火の渦が生まれた。

 それはもはや怪異ではない。本郷の高台という地形、密集した寺院群の構造、そして保科が仕込んだ高純度化学物質が、最悪の形で噛み合った結果生まれた物理の暴走であった。

 渦を巻く焔は、龍が鎌首をもたげたかのようにうねり、光り輝く螺旋となって空を噛んだ。

 だが、その暴力は、平伏していた群衆を無慈悲に粉砕した。

「火だ! 火が跳んできたぞ!」

「出口へ急げ! 押すな、押し潰される!」

 パニックは一瞬で連鎖した。

 隣の男の背中が、熱波を浴びただけで発火する。逃げ惑う人波は、死に物狂いでのたうつ一つの塊と化していた。最前列で転倒した老人が、悲鳴を上げる間もなく後続の足に踏みにじられる。その上をさらに何十人もの人間が、我先にと乗り越えていく。骨の砕ける生々しい音が、轟々と鳴り響く火音の隙間を埋めた。

「お母ちゃん! どこ!?」

「痛い、熱い、助けてくれ!」

 子供の泣き声、男たちの罵声。境内の放生池に飛び込む者もいたが、それこそが死への最短距離であった。あまりの熱風に池の水面は白く泡立ち、湯気を上げて沸騰を始める。水中に逃げた者たちは、煮え立つ水による火傷と、炎に奪い尽くされた酸素の欠乏に喘ぎ、力尽きて沈んでいく。

 その時、爆ぜる火の粉の音が、ひときわ高い音色を奏でた。

 松井の耳には、それが一瞬だけ、かつてこの振袖に執着した娘たちの笑い声のように聞こえた――気がした。

(……いや、これは爆ぜた硝石の音だ。気のせいに過ぎぬ。殿の計算に、怨念などという変数は存在せぬのだ!)

 松井は必死に正気を繋ぎ止める。だが、頬を流れる汗が、顎から落ちる前に蒸発していく。彼は理解した。保科が江戸を救うために用意したこの火は、すでに統治の範疇を超えたのだと。

 燃え上がる振袖の破片が、強烈な上昇気流に乗って次々と空へ舞い上がる。

 それはもはや布の端切れではない。保科が仕込んだ揮発性の薬種を芯に含んだ、死を運ぶ礫つぶてだ。高台にある本妙寺から放たれた無数の火の種は、光り輝く渡り鳥の群れのように、江戸の空へと解き放たれた。

「……不味い。風向きが変わるぞ。」

 松井は見た。火災自体が作り出す巨大な気圧差によって、北風が異常な偏向を見せ始めた。

 炎の種は、密集した町家の板屋根へと次々に着弾していく。パチパチ、という乾いた音が、江戸八百八町の終焉を告げる秒読みのように響いた。

 ミシリ、と巨大な断裂音がした。本堂を支えてきた樹齢数百年の欅の太柱が、焔の牙に噛み砕かれたのだ。本尊を祀る屋根が、そのまま火だるまとなって崩落する。その衝撃で、さらなる火の粉が爆風とともに境内の隅々にまで撒き散らされた。

 松井は熱風で喉を焼きながら、瓦の上を駆け出した。足の裏から伝わる熱は、すでに草鞋の底を焦がし始めている。逃げても逃げても、自らが刷り込んだ硝石の匂いが、逃げる背中を執拗に追いかけてくる。それは己が解き放った業そのものであった。

「報告せねば……。これは、もう、人の制御できる規模ではございませぬ!」

 走りながら背後を振り返った。

 本妙寺の本堂が完全に瓦解したその瞬間、炎は更なる勢いを得て、天を衝くほどの巨体となった。保科が都市の過密という病を治癒するために打った劇薬は、江戸という巨大な火薬庫に火をつけ、想像を絶する爆発を引き起こしたのだ。

 眼下では、逃げ惑う群衆が、巨大な火の渦に飲み込まれていく。人々の影が炎に照らされ、長く、歪に揺れていた。それは、かつて保科が図面の上に引いた、整然とした区画整理の線などを嘲笑うかのように、すべてを無差別に蹂躙していく。

 松井は主君の待つ、安全なはずのこちら側へ走る。

 だが、彼の背後で、本郷の丘は巨大な松明となり、御府内の街を紫がかった不気味な赤色に染め上げていた。

 

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