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完璧な都市再編

 三月二日、未の刻――昼下がり、太陽が西に傾き始めた午後二時過ぎのことである。

 御府内の空は、雲一つ無いほどに澄み渡っていたがその青さはどこか不気味なほどに冴え返っていた。吹き抜ける北風は、皮膚を裂くような鋭さを増し、家々の屋根は乾いた音を立てて震えている。数日前から続く異常な乾燥により、空気は微細な塵が舞っているかのように喉を焼き、眼球を刺した。

  

 本郷の高台に位置する本妙寺へと向かう坂道は、異様な熱気に包まれていた。呪いの振袖が燃やされるという噂を聞きつけた数千の群衆が、境内に押し寄せている。

 群衆のざわめきは低い地鳴りのように響いていた。

 「……おい、押すなよ!」

 「見ろよ、あの薪の山。あんなに積んで……。」

 「焼けちまえばいい。あの忌まわしい紫を見ただけで、俺あ鳥肌が止まらねえんだ。」

 人々の瞳には、恐怖と娯楽が混じり合った暗い興奮が宿っていた。八百八町を包む空気そのものが、発火のきっかけを飢えた獣のように待っていた。

 その喧騒から遠く離れた寺の裏手。松井は、鬱蒼と生い茂る竹林の影から音もなく滑り出した。

 番人の意識が群衆に向いている今が好機。庫裏くりの板敷きを、影のように渡る。

(殿の御覚悟、この松井が必ずや形にして見せましょう。)

 松井は主・保科を心底敬愛している。民のために自らの手を汚し、徳川の礎いしずえを焼き直すという苛烈な策。その孤独な正義の唯一の理解者である自負が、彼の足を一歩も揺るがせなかった。

 

 奥の間、衣桁にかけられた紫色の振袖が、死人のように垂れ下がっていた。

 松井は即座に膝をつき、懐から特製の薬種を取り出す。長崎の出島経由で極秘に調達された純度の高い硝石と、保科自らが調合した可燃粉末の混合物。保科が言う科学の理を、迷いなく振袖の裾へと刷り込んでいく。指先の動きに澱みはない。

 その時、パチリ、と指先に痺れが走った。

 「……っ。」

 静電気だ。だが、その衝撃は非常に重く、芯から腕を痺れさせた。絹の繊維がチリチリと音を立て、彼の指を吸い付けるように逆立つ。

(……この乾き、殿の計算通りだ。日中の最も風が強まるこの刻限こそ、火を御するには最適の舞台。ここ本郷から放たれた火は、烈風に乗って風下の神田、日本橋へと一気に突き抜ける……。)

 自分に言い聞かせながら、裏地の縫い目に沿って火薬を伏せていく。武士としての情が痛まぬはずはない。だが、保科が背負う業を半分背負う。それが松井の忠義だった。


 しかし、異変は起きた。

 刷り込んだ白い粉が、紫の絹地に触れた途端、まるで最初からそこにあったかのように馴染んで消えていく。まるで、乾ききった衣がその毒を、喉を鳴らして求めていたかのような。

 ふと、部屋の隅に置かれた水桶に目をやった。

 風もないのに、水面が細かく波打っている。

 いや、震えているのは水ではなく、この寺の建物そのもの。数千の群衆が放つ殺気立った熱が、建物の軋みとなって伝わっているのだ。

 「……まだか!早く火を付けてくれ!」

 障子を隔てた境内の罵声が、建物を揺らす。

 保科の科学的な計画が人々の得体の知れない熱狂に包囲されていくような、奇妙な眩暈を覚えた。 

 「松井様、まもなくでございます。」

 障子越しに声をかけたのは、数年前から会津藩が寺へ潜り込ませていた手の者である。松井は即座に立ち上がり、最後にもう一度だけ振袖を見上げた。

 保科の計算によれば、この火は一定の範囲を焼いたあと、あらかじめ用意した火除地で止まる。完璧な都市再編の図面。

 だが、鼻腔をくすぐるのは硝石の匂いだけではない。古い紙が焦げるような、あるいは、幼子の髪が焼けるような――あの不吉な噂が、冷たい風に乗って耳元を掠めた気がした。

(……殿の計算に狂いはない。あるはずがないのだ)

 松井は己の迷いを断ち切り、衣から離れた。

 自分の仕事は終わった。あとはこれを天の災いとして放つだけだ。証拠はすべて、これから起きる火炎が飲み込んでくれる。

 山門の方から、法螺貝の音が地響きのように轟いた。

 松井は屋根の上へと身を躍らせ、護摩壇を取り囲む赤い欲望の海を見下ろした。

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