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救国の焦土

江戸城本丸、大廊下の突き当りにある松の廊下は底冷えのする薄暗がりに包まれていた。

 三月二日。暦の上では春とはいえ、江戸の風は依然として冬の鋭さを残している。数日前から一滴の雨も降らぬ異常乾燥に見舞われ、場内の強固な柱や鴨居さえもが、目に見えぬ力に絞り上げられるように、時折パキリと乾いた悲鳴を上げていた。


 保科は板敷きの冷たさを膝に感じながら、一人静かに控えていた。視線の先にある奥の間では、第四代将軍・徳川家綱が、側近たちと論語の講義を受けている。 

 家綱、十七歳。 

 若き将軍の横顔には、亡き兄・家光のような峻厳さはまだない。水墨画から抜け出してきたような、繊細で心優しい少年としての面影が色濃く残っている。保科は、その若き主君の姿を、真っ直ぐに伸びようとする気高い若木を支える支柱のような、痛切なまでの眼差しで見つめていた。

 講義が一段落したのか、家綱がふと顔を上げ、開かれた障子の隙間から見える叔父の姿に気づいて微笑んだ。

 「肥後守ひごのかみ、其方が控えていてくれると、余は安心して学問に励むことが出来る。……だが、あまり無理せずとも良いのだぞ。叔父上。」 

 保科正之。将軍後見職として幕政の頂点に立ち、官位である肥後守の名で畏怖される男。だが、家綱がそう呼ぶとき、そこには血を分けた甥としての深い信頼が籠っていた。

 家綱は、手元に生けられた一輪の寒椿を愛おしそうに眺めていたが、ふとその指先で、わずかにしおれかけた花びらを躊躇なく摘み取った。その一瞬の動作に徳川の血が持つ冷徹な選別の片鱗が見えた。

「肥後守、民が健やかにこの一年を過ごせるよう、この乾いた風が止むまで、火の用心にはくれぐれも気を配ってくれ。余は一人の犠牲も出したくないのだ。」

 その言葉が、今の保科には自らの内なる影を際立たせる刃となって突き刺さる。

 (上様……。私は、亡き兄上からあなたという徳川の希望を託されました。この命を削ってでもあなたの納めるこの江戸を不朽の都としてみせます。)

 万人の明日を救うために、今は千の家を灰にする。この救国の焦土を現出させるのは、徳川の影の盾たる自分の役目。この汚れ、この業、すべては冥府まで持っていく。それが叔父として、後見職としての、歪んだ、しかし純粋な忠誠であった。


 自室に戻った保科を待っていたのは、腹心の側近、松井であった。

 部屋の行灯は極限まで絞られ、二人の影が壁に巨大な怪物のように揺れている。保科は無言で机の上に広げられた江戸の精密な地図を指し示した。

 「松井、例の振袖、本妙寺の様子はどうだ。」

 「はっ。……本日、山門前で大規模な供養の焚き上げを行い、この不吉を焼き払う手はず。江戸中の野次馬がその行く末を見守るでしょう。」

 松井の声が珍しいことにわずかに揺れたのだった。

 「……されど殿。本妙寺の周囲、何やら風の匂いが妙にございます。ただの乾燥した冬風ではござらぬ。あれは内側から爆ぜるような……何かに熱を奪われているような、不気味な気配が漂っております。」

 保科は地図の上の一点、本妙寺を冷然と見つめた。

 「……恐れるな。民の恐怖が昂じているだけだ。松井、あの振袖に一細工施せ。ただの布として燃えさせてはならぬ。」

 保科は懐から小さな包みを取り出した。西国より取り寄せた硝石に、乾燥を極限まで高める薬草を調合した特製の火薬である。

 「これを振袖の裏地に刷り込め。熱が触れた瞬間に焔は天まで舞い上がる。狙いは、本妙寺から風下――江戸の再建を阻む屋敷と、密集しすぎた長屋の一部だ。この呪いの名を借りた焔で、江戸の不全を一度、浄化する。」

 松井は沈黙した。その沈黙は保科の合理に対する、説明のつかぬ本能てきな拒絶であった。

 「……御公儀の命ではなく、あくまで呪いによる災いでございますか。なれど殿、天を謀たばかる策は、時に思わぬ返り血を浴びますぞ。」

 「承知の上だ。民は幕府を恨んではならぬ。彼らが恨むべきは、魔物と化した呪いの振袖だ。三人の死、そして怪異の噂。これらすべては今日起きる厄災を、天の定めとして受け入れさせるための悲しい布石なのだ。」

 保科は立ち上がり窓の外を見つめた。

 吹き抜ける風が窓をガタガタと震わせる。その音は、嘆きのようでもあり、新しい時代を呼ぶ産声のようでもあった。

 「松井。私は破壊を望んでいるのではない。この国を、この先三百年壊れぬ強固なものに作り替えたいのだ。千の民を失うことになろうが、それは未来の十万の命を、大過から守るための避けられぬ対価だ。」

 保科は、家綱から賜った扇を、愛しむように強く握りしめた。だがその指先は微かに震えていた。

 「行け、松井。この烈風を再生を告げる禊の風に変えろ。……しくじるなよ。私の計算を超えぬよう、細工は精密に行え。」

 松井は無言で平伏し、煙のように消えた。

 保科は机に向かい、都市計画を記した書状を認めようと筆を執った。

 だが、その時、異変が起きた。

 硯すずりで当たったばかりの墨が、紙に落とす前にみるみる乾いていく。保科が無意識に力を込めたその時、パキリという乾いた音が室内に響いた。

 乾燥に耐えかねたのか、あるいは……。

 筆の軸が、あろうことか真っ二つに割れていた。

 異常な乾燥。いや、これはもはや自然の理を超えている。部屋の中にあった生け花の鉢に目を向けると、先ほどまで瑞々しさを保っていた葉が茶褐色に変色している。

 保科の背筋に、初めて経験する冷たい戦慄が走った。

 懐に忍ばせていた特製の薬種の包みから微かにチリ、チリという、目に見えぬ火花がはじけるような音が聞こえてくる。熱源などどこにもないはずなのに、室内には、あの三人の娘の死体の傍らに漂っていたという古い紙が焦げるような臭いが充満していた。

 保科が窓を開けると、江戸の夜空は不気味なほど澄み渡り、北風が狂ったように咆哮していた。本妙寺の方向。まだなにも起きていないはずのその空が、薄らと紫色の光を帯びて揺れているように見えた。

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