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連鎖の火種

 上野の紙問屋伊勢屋のひとり娘・ふじの手元に、あの紫の振袖が渡ったのは、寒の入りを過ぎた頃であった。

 日本橋の古着市でひと目惚れしたその紫を、ふじは宝物のように抱えて帰った。かつて成田屋のお菊という娘を死に至らしめたいわくなど、紙の山に囲まれて暮らす商家の娘には届かない。彼女にとってそれは、冬の重苦しい空を鮮やかに切り裂く、至高の美を纏った衣に過ぎなかった。

 だが、振袖が伊勢屋の敷居を跨いだ瞬間から、屋敷の音が変わった。

 伊勢屋は、江戸でも有数の和紙を扱う大店である。本来、紙問屋にとって湿気は天敵であり、適度な乾燥は蔵の在庫を守る味方であるはずだった。しかし、この振袖がもたらした乾燥は、商売を助ける類のものではなかった。

 振袖が置かれた奥座敷に隣接する第一の蔵。そこに積まれた何万枚という最高級の奉書紙や美濃紙が、一夜にして変質した。紙が水分を失うのを通り越し、油分までもが根こそぎ奪われたのだ。奉公人が在庫を確認しようと指を滑らせた瞬間、紙の端が剃刀のような鋭利な刃物と化し、その指先を深く切り裂いた。

「……なんだ、この紙は。まるで石を薄く削いだようではないか。」

 蔵の中で紙同士が擦れ合う音は、もはや柔らかな衣擦れではない。それは乾いた骨を研ぐような、あるいは砂を噛むような不気味な軋みへと変わっていった。

 異変は、ふじの肉体をも確実に蝕んでいた。

「ふじ、その振袖はどうした。……少し、色がどぎつすぎはしないか。」

 父である伊勢屋の主は、娘の部屋から漂う微かな焦げ臭さに鼻を突いた。それは炭が燃える匂いではなく、古い紙が日光に晒されて、今にも発火しそうな時に放つ、特有の乾いた臭いだった。

 ふじは、うっとりとした表情で鏡に向かっていた。彼女の肌は、数日前までの健康的な赤みを失い、磨き上げられた陶器のように白く、そして不自然なほどに乾燥していた。彼女が首を動かすたびに、襟足の肌が障子紙のようにカサカサと微かな音を立て、白く剥がれ落ちる。

「いいえ、お父様。この紫こそが、私に相応しいのです。袖を通すたびに、背中がじんわりと温かくなって、まるで誰かに抱かれているような心地がいたしますの。」

 ふじは、日ごとに食事を摂らなくなった。代わりに求めたのは、驚くほどの量の水だった。

「喉が、焼けるのです。水を。もっと冷たい水を…。」

 朝に汲み上げたばかりの桶の水が、ふじが部屋に持ち込むそばから、音もなく目減りしていく。彼女はそれを貪るように飲むが、その水が胃に落ち、喉を鳴らす音は一切聞こえない。まるで、水が彼女の喉を通過する瞬間に、内側からの熱で蒸発して消えていくかのようだった。飲めば飲むほど、彼女の躰は潤うどころか、ますます白く、軽く、薄くなっていった。

 そして、ふじが振袖を手に入れてから二十日目の夜。

 伊勢屋の奥座敷で、誰かが火打ち石を叩くようなカチ、カチ、カチという音が、狂ったように鳴り響いた。駆けつけた主が見たのは、鏡の前で踊るように倒れているふじの姿だった。

 主が娘を抱き起こそうとした瞬間、思わず手が止まった。

 振袖の中にあったのは、もはや立体的な人間の肉体ではなかった。ふじの身体は、骨も肉も等しく漉かれ、一枚の厚手の和紙のように平坦に押し潰されていたのだ。顔も手足も、精密に描かれた絵草紙のように二次元的な質感へと変貌し、重さは羽毛ほどもない。彼女が求めていた大量の水は、彼女の命をふやかし、振袖という型に流し込み、薄く引き伸ばすために消費されたのだ。

 驚くべきことに、その紙のような死体の表面には、振袖と同じ紫の銀糸の波紋が、血管のように浮かび上がっていた。

「火だ……。火が、内側に……。」

 最後に遺されたその掠れ声が消えるとともに、彼女の遺体は、風もないのにパサリと乾いた音を立てて畳に張り付いた。

 ふじの死から、わずか二週間後のことであった。

 呪いの連鎖は、下谷の武家屋敷へと飛び火した。三人目の犠牲者は、旗本の末娘・うめ。

 本妙寺に返されたはずの紫の振袖は、まるで意志を持つ伏兵のように、今度はうめの手元へと流れ着いていた。

 うめの最期は、先の二人よりもさらに苛烈であった。

 彼女の身体からは水分だけでなく、生きるための脂までもが奪い尽くされた。彼女が息を引き取ったとき、その肉体はもはや人のそれではなく、火を点ければ一瞬で燃え上がる乾いた薪そのものと化していたのだ。

 

 お菊、ふじ、そしてうめ。

 季節外れの乾燥に晒された江戸の町で、若く美しい三人の娘が立て続けに変死を遂げたという報せは、瞬く間に八百八町を駆け抜けた。

「振袖が、娘たちの命を吸って火を呼ぼうとしている」

 この噂は、冬の北風よりも速く、人々の心に恐怖という名の消えない火を灯した。

 その噂の奔流を、江戸城の一角で静かに受け止めている男がいた。

 大君の懐刀、保科正之である。

 

 保科の前には、江戸の精密な地図が広げられていた。

 密集し、軒を連ねる木造建築の海。これほどまでに密集した都は、世界にも類を見ない。だが、それは同時に、ひとたび火が出れば逃げ場を失い、数万、数十万の命を奪う巨大な火床であることも意味していた。

 保科は、この過密な都を一度解体し、広小路という巨大な火除け地を作る計画を長年練っていた。だが、立ち退きに伴う商人の反発や、幕府内の保守派の反対は、理屈だけでは到底ねじ伏せられぬほど強固な壁であった。

「三人の供物、か。民草は実に、凄惨な物語を完成させたものだ。」

 保科は、密偵からの三人の娘の死に纏わる報告書を、慈しむように、しかし冷徹な手つきで撫でた。

 彼は知っていた。今の防備のままでは、来たるべき本物の火災という大軍を前に、江戸は救いようもなく落城することを。

「今の江戸は、すでに敵に包囲された死地だ。一度陣を払い、焦土と化して再編せねば、江戸という国そのものが潰える。」

 保科は、娘たちの死を悼むように目を閉じた。しかし、その瞳を再び開いたとき、そこには稀代の軍略家としての冷厳な光しかなかった。

 彼は合理主義者である。振袖が娘を殺すという怪異を露ほども信じてはいない。だが、民衆の間に広がる振袖の呪いという物語が持つ膨大な負の熱量。これを天秤にかけ、彼は決断した。

 この呪いの振袖という恐怖を、江戸を焼き直し、再構築するための、天下無双の免罪符へと昇華させる。

「民は理屈では動かぬが、恐怖という軍令にならば従う。娘たちよ……お前たちの死を無駄にはせぬ。お前たちが撒いたその恐怖の種を開戦の合図とし、私は江戸を、数百年続く安寧の要塞に作り変えてみせる。」

 保科は、地図の本妙寺の地点を静かに指で叩いた。

 盤面は整った。

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