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一人目

 出来上がった振袖を衣桁から外したとき、徳兵衛はその重みに微かな違和感を覚えた。絹の柔らかさはあるものの、抱き上げた腕にはまるで生き物と触れ合っているような、なま暖かい温度が伝わってきた。 

 

 お菊の寝床は静まり返っていた。 

 外は冬の寒気が厳しいはずだが、その部屋だけは異様に乾いた熱がこもっている。柱の漆が熱に耐え兼ねて浮き上がり、畳の青みが失われて白く粉を吹いている。その中心に座るお菊はもはや自力で身体を起こすのが精一杯という有様だったが、父の腕にある紫を見た瞬間、その瞳に異様な光が宿った。 


「さあ、お菊。待たせたね、約束のものだ。」

 

徳兵衛の声は、乾燥した喉の奥で掠れた。

 お兼の手を借り、お菊のすっかり細くなってしまった腕を袖へと導く。腕が紫の布に飲み込まれた瞬間、お菊は小さく息をのんだ。それは苦痛というよりは、あまりに強い快感に触れたような鋭い吐息だった。

 袖を通した瞬間に起きたのは、劇的な変化ではなかった。

 ただ、お菊の身体から、水分と生気が目に見えて失われていった。頬の赤みが消え、肌が枯れ葉のように白く変色していく。一方で、彼女が纏っている振袖の紫は、お菊の生命を吸い上げるたびに、より鮮やかに、より深く、その輝きを増していく。銀糸の波文様は光を反射して飛沫をあげているかのように見えた。

「ああ……温かい。やっと、一つになれましたわ。」

 お菊は立ち上がり、鏡の前でゆっくりと袖を振った。その動きは驚くほど軽やかで、病床にいた者とは思えないほどだった。だが、彼女が舞うたびに、隅に置かれた水差しの中身が目に見えて減っていく。


 そして、お菊は不意に糸が切れたように崩れ落ちた。


 徳兵衛が駆け寄り、その肩を抱こうとしたが、彼の指先が触れたのは、瑞々しい愛娘の身体ではなかった。

 絹の重みの下にあったのは、湿り気をすべて奪われ、触れたそばから脆く崩れていく、骨と皮ばかりの抜け殻であった。お菊は、たった一度の袖通しの間にその全存在を振袖へと写し取られてしまったのだ。成田屋に残されたのは、あまりに美しい紫の振袖と、もはや娘であったことさえ判別できないほどの渇き果てた遺骨だけであった。

 数日後、廃人のようになった徳兵衛の手で葬儀が営まれた。棺を担いだ奉公人たちはその異様な軽さに顔を見合わせた。一人の娘が入っているはずの棺は、まるで空の木箱を運んでいるかのようで、担ぎ棒を握る肩に重みが一切かからない。 

 「本当にお嬢様はなかにおられるのか。」

 と誰かが小さく呟いたが、答える者はなかった。葬列が本妙寺へ向かう道中、焼香の煙は冬空へ高く昇ることを拒み、地を這うようにして成田屋の屋敷の方へと戻ろうとしていた。参列者たちは、その煙が足首に絡みつくたびに季節外れの乾燥した熱気を感じて襟を正した。

 振袖は、江戸の習わしに従って上野の本妙寺へと奉納された。

 だが、寺の経蔵に置かれたその振袖は、周囲の空気を変質させ続けた。寺の僧侶たちは、その部屋に入るたびに肌を刺すような熱気を感じ、一夜にして蔵の床板が数十年を経たかのように白く渇き、ひび割れる様を目の当たりにした。さらに、夜な夜な経蔵の中から火打ち石を叩くようなカチ、カチという音が響き、他の寄進物にまで熱が移り始めた。

 「この衣をここに留めておけば、いずれ寺そのものが燃え尽きる。」

 恐怖に駆られた若い僧は、これを衣が新たな主を求めて暴れていると解釈した。彼は寺を守るための厄介払いとして、出入りの古着商へとその振袖を安値で売り飛ばした。

 数日後、日本橋の古着市。 

 雑多な着物が並ぶ中で、その紫だけが、冷徹なまでの存在感を放っていた。冬の薄暗い日差しの中で、そこだけが鮮烈な色彩を放ち、通行人の視線を吸い寄せていた。 

 

 「……お父様、あれ。私、あのお着物がいいわ。」


 足を止めたのは、上野の大きな紙問屋の娘、ふじであった。

 彼女が振袖の襟元にそっと指を触れた瞬間、周囲の喧騒は遠のき、厳しい冬の寒さは消え失せた。ふじにとって、それは春の柔らかな陽だまりに包まれたような、抗いがたい心地よさであった。 

 「なんて温かいの。まるで誰かが私を抱きしめてくれているみたい。」 

 傍らに立つ父親には、その振袖が放つ異常な渇きや、触れた瞬間に火花が散るような不穏さは見えていなかった。ただ、愛しい娘の瞳がこれまでにないほど輝いているのを見て、快く財布の紐を緩めた。

 

 振袖は、代金と引き換えに新たな主の元へと渡った。お菊の情念をその繊維に閉じ込めたまま、美しい紫の布は次の熱を吸い取る準備を整える。

 新たな主となったふじが振袖を抱えて歩き出すと、彼女の歩幅に合わせて、江戸の家々の隙間を冷たく乾いた風が、音もなく滑り抜けていった。その風は、どこかで誰かが火を焚いたような、微かな焦げ臭さを孕んでいた。

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