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振袖

江戸八百八町が、不気味なほどに乾ききっていた。

 例年ならば正月の終わりには湿った雪が舞い、路地裏に湿り気をもたらすはずが、この年は空から一切の水分が根こそぎ奪い去られたかのように、ただ土埃の舞う烈風が吹き荒れている。火の用心を呼びかける夜警の拍子木の音が、凍てつく夜気にどこまでも鋭く、まるで骨を叩くような乾いた響きで江戸の闇を切り裂いていた。

 その乾燥の震源地は日本橋の商家、成田屋であった。

 お菊の部屋の障子紙は、いまや内側からの熱で焦げ茶色に変色し、指で触れれば灰のように音もなく崩れ落ちるまでになっていた。彼女をこの世に繋ぎ止めているのは、もはや生命の理ではない。振袖への渇望だけが彼女の背骨を支える芯となり、枯れ木のような肉体を内側から燃やす燃料となっているのだ。

 主の徳兵衛は、江戸随一の呉服問屋越後屋の奥の間で、店主の三右衛門と対峙していた。

「……できぬ、とは言わせぬぞ」

 徳兵衛の形相は、もはや正気の沙汰ではなかった。目の下にはどす黒い隈が落ち、頬は不自然にこけている。畳の上に叩きつけられた千両箱からは、大判小判が溢れ出して鈍い光を放っていた。それは商いの対価ではなく、呪いを買うための供物のようであった。

「金ならいくらでも積む。越後屋の看板にかけて、あの紫を、あの銀の波を再現しろと言っているんだ」

 三右衛門は、額に脂汗を浮かべて首を振った。

「徳兵衛殿、無理を仰いますな。職人どもを十人、不眠不休で染場に張り付かせましたが、どうしても『あの色』が出ないのです。紫という色は高貴ゆえに気難しく、わずかな火加減、水の質で死んでしまう。お嬢様が仰る色など、この世の染料では……」

「ならば、あの世からでも持ってこい!」

 徳兵衛が叫んだ。その声は、壁の向こうで控える奉公人たちの背筋を凍らせた。

「娘は死にかけている。いや、あの振袖を待つためだけに、無理やり命を引き延ばしているんだ。あれが届かなければ、お菊は、成田屋は……。」

 徳兵衛の執念に圧された三右衛門は、ついに越後屋で最高齢の染物師、源蔵を呼び寄せた。源蔵はかつて将軍家の衣服さえ手がけた伝説的な男であったが、その男ですら、徳兵衛の持ち込んだお菊の記憶を具現化することに難儀していた。

 水が凍るような真冬の夜、染め場だけは煮え返る釜の蒸気で地獄のような熱気に包まれていた。職人たちの汗は畳に落ちた瞬間に蒸発して消え、男たちの肌は熱に焼かれて赤黒く変色している。源蔵は、何十枚という最高級の白絹を無駄にし、眉間に深い皺を刻んで釜を睨みつけていた。

「旦那、あれは色の深さじゃねぇ……。光を吸い込んで、別の何かを吐き出しているような色だ。命を削らなきゃ、届かねぇ色だ」

 そして、運命の夜が訪れる。

 源蔵は、極限の疲労の中で最後の一反を染め上げようとしていた。意識は朦朧とし、視界の端には現実ではない陽炎がゆらめいている。その時、風に煽られた戸がガシャリと不吉な音を立てて開き、冷たい乾風が染め場になだれ込んだ。

「……ちっ」

 手元が狂った。染料を撹拌していた長い櫂が不自然な角度で跳ね、源蔵の枯れ木のような指先を鋭く切り裂いた。

 鮮血が、一筋。

 それは、今まさに紫の染料に浸されようとしていた真っ白な絹の上に、音もなく落ちた。

 普通、血がつけばその反物は汚れ、使い物にならなくなる。源蔵が声を上げる暇もなかった。だが、そこで呪いが産声を上げた。

 白布に落ちた血の赤が、染料の紫と混ざり合った瞬間、布地が生き物のように「脈動」したのだ。

 じゅわり、という、肉を直接焼くような嫌な音が響く。

 血を吸い込んだ箇所から、紫の色が猛烈な勢いで広がっていく。それはこれまでに源蔵が見たどの色よりも深く、鋭く――そして、腐りかけた茄子の肌が放つ、あの一瞬の不気味な艶を湛えていた。

「……これだ。これだったのか。」

 源蔵の瞳から正気が消えた。彼は吸い寄せられるように、自らの指をさらに強く絞り、傷口を無理やり広げた。止まらない血を嬉々として釜に注ぎ続け、染料がどす黒く変質していくのを恍惚とした表情で見つめている。

「色じゃねぇ……これは、命だ。お嬢様の命が、この布を呼んでいるんだ」

 源蔵の顔からは急速に血色が失われ、肌はまるで死んだ蚯蚓のように干からびていく。それでも彼は笑いながら、自分の生命を紫の液体に溶かし込み続けた。

 完成した反物は、深夜の染め場において、それ自体が呼吸しているかのように見えた。源蔵は反物を抱きしめたまま事切れるように倒れ込み、二度と意識を取り戻すことはなかった。彼が最後に作り上げたのは、もはや衣ではない。人の血と執念を吸って産声を上げた、一枚の皮膚であった。

 翌朝、その反物は大急ぎで成田屋へと運び込まれた。

 仕立ての職人たちは、その布に触れるのを本能的に拒絶した。

「この布は熱い。まるで生きている人間の肌に針を刺しているようだ」

 針が布を通るたびに、カチ、カチ、という、お菊が鳴らしていたあの音が、布の繊維から響いてくるのだ。職人の一人は指先に走る異様な熱に耐えかね、発狂して逃げ出した。

 それでも徳兵衛は、抜いた刀を畳に突き立て、残った職人たちを脅して縫い続けさせた。

「縫え。一針でも止めれば、その指を切り落とす。お菊が待っておるのだ!」

 成田屋の奥で、不気味な針の音が続く中、異変は街へと漏れ出し始めていた。成田屋の周囲では、真冬だというのに「髪の毛を焼いたような、焦げ臭い花の匂い」が漂い、近隣の住人たちは喉の渇きを訴えて夜も眠れずにいた。

 ついに、最後の結びが成された。

 衣桁に掛けられた振袖は、風もないのにふわりと袖が動き、銀の波が飛沫を上げるような錯覚を周囲に振りまいた。徳兵衛は、その禍々しくも美しい紫を抱え、娘の部屋へと走り出した。

「お菊! できたぞ、お前の望んだ、あの振袖だ!」

 襖を開けた瞬間、徳兵衛は鼻を突く「死の匂い」に顔をしかめた。それは古い寺の饐えた匂いと、何かが焦げる悪臭が混ざったものだった。

 しかし、お菊は違った。彼女は恍惚とした表情で、その振袖を愛おしげに見つめた。

「……ああ、なんていい匂い。あの方の、あの少年の匂いがいたしますわ」

 お菊の手が、熱に震えながら振袖に伸びる。

 彼女には見えていたのだ。その紫の布の向こう側で、あの少年が冷たく、しかし優しく微笑みながら、自分を招いている姿が。

 お菊がその袖に腕を通そうとした瞬間、成田屋の屋根の上を、これまでで最も激しい一陣の乾風が吹き抜けた。

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