陽炎
正月も半ばを過ぎる頃、日本橋の端に店を構える商家、成田屋の奥座敷は凍りつくような静寂に支配されていた。主である徳兵衛と妻のお兼は、火鉢の炭が白く爆ぜる音にさえ肩を震わせ、ただならぬ面持ちで娘の寝所の襖を見つめていた。
お菊が寝込むようになってから、今日で十日が経った。
初めは、上野での人酔いか、あるいは不慣れな寒風に当てられただけだと思っていた。だが、娘の変容は、その程度の理屈では説明がつかなくなっていた。
「……お菊、白湯を持ってきたよ。少しでも喉を潤しておくれ」
お兼が声を震わせながら襖を開けると、部屋の空気が一変した。
冬の朝だというのに、そこだけが真夏のような熱を孕んでいる。お菊は薄い寝巻き一枚で床に伏していた。かつては瑞々しかった頬はこけ、浮き出た鎖骨は刃物のように鋭い。
何より異様なのは、その肌の質感だった。
初めに会った少年の白さを、内側から写し取っているかのようだ。だが、その白さは清廉なものではなく、まるで骨を焼いた灰を塗りたくったような、乾いた死の気配を帯びている。
「あの方……あの方の、あの紫が……」
お菊の唇から漏れるのは、もはや言葉ではなかった。
それは、喉の奥で小枝が折れるような、あるいは乾いた古布が擦れるような、微かな摩擦音にすぎない。彼女の瞳は開いているが、そこには母の姿も、天井も映っていない。
ただ、瞼を閉じるたびに、あの銀糸の波が網膜を焦がし、脳髄を蹂躙しているのだ。
徳兵衛は江戸でも名高い医者を呼び寄せ、幾度も診察をさせた。
しかし、老練な医者は、お菊の脈を診るなり、忌まわしいものに触れたかのように指を引っ込めた。
「……旦那様、これは。ただの恋患いではございませぬ」
「どういうことだ。熱があるのか、それとも毒でも盛られたと?」
「熱は……ございます。ですが、これは外からの病ではなく、このお嬢様の情念そのものが火種となり、内側から肉を焼いている。あな恐ろしや、水を与えても、瞬く間に蒸発してしまい、躰が灰に変わろうとしておる。私のような凡夫の手には負えませぬ。」
医者はそう言い残し、薬も処方せずに逃げるように去っていった。
実際、お菊の傍らに置かれた生け花は、生け直して半刻も経たぬうちに、まるで砂漠に晒されたかのように茶色く縮れ、カサカサという音を立てて崩れ落ちていた。
徳兵衛は力なく膝をついた。娘を救う手立てが、もはやこの世の理にはないことを突きつけられた心地だった。お兼は畳に突っ伏して、声を殺して泣き続けている。成田屋の奉公人たちは、お嬢様の部屋から漏れ出る陽炎に怯え、近寄る者さえいなくなっていた。
だが、その絶望の淵で、徳兵衛は最後の賭けに出た。全財産を注ぎ、怪異を招くか。愛娘の死を座して待つか。徳兵衛の理性が、親の情愛に焼き切られた。
彼は娘の枕元に這い寄り、その干からびた手を、自らの震える両手で包み込んだ。
「お菊、よくお聞き。お前が焦がれているあの少年の……あの紫の振袖。父が、必ず作らせてやる。江戸中の最高級の絹を集め、腕利きの職人を呼び寄せ、あの日のお前が見た通りのものを、この部屋に届けてやる」
その瞬間だった。
死を待つばかりだったお菊の指先が、ぴくりと跳ねた。
濁っていた瞳に、急速に鮮烈な光が宿る。それは生命の輝きというよりは、暗闇で灯された鬼火に近い、おぞましいまでの輝きだった。
お菊は、支えもなしに上身をガバと起こした。その動きは、病人のそれではなく、操り人形が糸で吊り上げられたかのように、不自然なほど滑らかだった。
「……作って、くださるの?」
声が、先ほどまでの掠れ声とは打って変わって、鈴を転がすような、若々しく艶やかな響きを湛えていた。
お菊は満面の笑みを浮かべた。頬には、死人のような白さを突き破って、毒々しいまでの赤みが差している。そのあまりの豹変ぶりに、お兼は腰を抜かし、徳兵衛さえも言葉を失った。
「ああ。紫の、鹿の子絞りに、銀の波。あの日のお方が纏っていた、あの美しい袖……」
お菊は恍惚とした表情で、虚空に向かって手を伸ばした。
その細い指先は、あたかもそこに「存在しない少年の袖」があるかのように、愛おしげに空を撫でている。
彼女はクスクスと、少女のような無邪気さで笑い始めた。だがその瞳は一切笑っておらず、ただ一つの執念だけを見据えている。
「あの方が、いらっしゃる。それを着れば、あの方が私を迎えに来てくださるわ」
お菊の全身から発せられる熱が、一段と高まった。
部屋の障子紙が、目に見えてじわりと茶褐色に黄ばみ始める。
徳兵衛は恐怖した。
目の前にいるのは、自分の愛娘なのか。それとも、振袖という名の呪いをこの世に引きずり出すための、依代に過ぎないのか。
だが、彼はもう引き返せなかった。娘を救う唯一の道が、この禍々しい完成にあるのだと信じるしかなかった。
「……ああ、必ずだ。明日には職人を手配する。お菊、だから、それまでは生きておくれ」
お菊は、父親の言葉などもう聞いていなかった。
ただ、見えぬ袖を抱きしめるようにして、狂気的なまでの生気を全身から放ち続けている。その姿は、枯れ木が一瞬だけ花を咲かせる、最後の狂乱のようでもあった。
成田屋の屋根の上を、一陣の不気味な乾風が吹き抜けた。




