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あなたの言う通り、愛人をつくりました

作者: 蝉時雨


「私の愛するルシオ・バルティダ様ですよ」


 イネスの言葉にパブロは激怒した。


「愛人だと?! ふざけるな!」

「あら? あなたの言う通りにしたつもりですけど?」

「それを真に受ける馬鹿がどこにいるか!」


 まあ!顔を真っ赤にしちゃって。


 私はこんな男に恋をしていたなんて。過去の私が可哀想でなりません。



 * * *


「イネス、君の婚約者のパブロ・アルボス君だよ」


 父に連れられて彼に会ったのは六歳の時。王弟である父を持つ私の結婚は、生まれた時から決められていた。相手はアルボス公爵の子息、パブロ・アルボス。第一印象は“かっこいい”。イネスは六歳で恋におちた。


「イネス!一緒に遊ぼう!」


 親の計らいで、イネスは幼い頃からパブロと一緒に過ごしていた。パブロは内気であまり人と馴染むことが得意でない私を連れ出し、孤立しないように配慮してくれる優しい人だった。


 ソルデビラ王国の貴族たちは十三歳から十八歳まで寮制のオンローサ学院に入学するのが一般的だ。私もパブロもそれに従った。

 そして、学年で二人ずつ選出される監督生の役目を賜った。もちろんパブロと。二人の姿は学生としても恋人としても理想であり、憧れであった。学院行事はもちろん、廊下ですれ違うだけでも、その些細な視線のやり取りでさえすぐに生徒たちの話の種となった。




 第五学年の始業式。式の締めくくりには、今年の監督生が発表される。これまでの四年間、その地位は揺るがなかった。だから今年も——誰もがそう思っていた。


「第五学年 監督生 イネス・ファルケ」


 名を呼ばれ、壇上へ上がる。

 もう1人の監督生が呼ばれるのを待ちながら、当然その名を予想していた。もちろん、それは——


「第五学年 監督生 ルシオ・バルティダ」

「……え?」


 思わず声が溢れた。パブロではないなんて。驚いたのはイネスだけではない。当のパブロ自身も、信じられないといった表情をしているのが目に入る。

 その間に新たに監督生となったルシオが壇上へ上がった。


「よろしく、イネス」


 ニコッと爽やかに笑う彼に、「こちらこそ」と返すのが精一杯だった。


 * * *


「パブロ!」


 式が終わると同時に足早に会場を飛び出したパブロを探した。彼は学業の成績も優秀で、これまで一度も問題を起こしたことはない。彼が監督生に選ばれないなんて、ルシオがそれほど優秀なのか。


 監督生室の部屋を開けると、イネスの予想通りパブロがいた。

 ただ黙々と机周りを片付けている。

 すでに四年も務めたのだ。今年もそうだろうと皆が予想したように、彼もそう予想していた。

 無造作に私物を箱に投げ入れている彼にイネスはなんと声をかけたらいいのかわからなかった。


「パブロ……」

「……イネス、今年も頑張れよ」


 大きな箱いっぱいに詰められた品々は彼がここで過ごした四年間の痕跡だった。それらは寂しく寮の部屋へと戻っていく。

 パブロが部屋を出ようとした時、扉が開いた。荷物を抱えたルシオが入って来る。


「……やあ」


 気まずそうなルシオの挨拶にパブロは答えることなく部屋を後にした。


「イネス、改めてよろしくね」

「こちらこそよろしくお願いします」


 ルシオ・バルティダ。

 ソルデビラ王国と隣接するバルティダ帝国の皇太子。彼は昨年、異母妹である皇女のモニカ・バルティダとともに留学生として編入してきた。

 亡き皇后の子であるルシオと現皇妃の子であるモニカは対立関係にあるはずだったが、二人揃っての編入は周囲を驚かせた。

 そのときも女子生徒たちは「眉目秀麗」と大騒ぎだった。性格も評判が良く、さらに監督生の任を新たに授かったのだから、しばらくは彼は注目を集めるだろう。



 それからは必然的にパブロと過ごす時間は減っていった。忙しい時期でも週に一回は会議で顔を合わせていたが、それもなくなり、彼の顔を久しく見ていない気がする。

 高学年にもなれば責任とともに割り振られる仕事も増え、暇がなくなっていく。学業も疎かにはできない上に、新たに監督生となったルシオをサポートする必要があった。

 しかし、そんな苦労もすぐに終わった。

 パブロを押し退けただけあってルシオは優秀で器用であった。ずっとパブロと関わっていたイネスは新しいパートナーとの時間を楽しむようになった。

 決して恋心ではない。婚約者という人生と責任が伴う関係とは違う、“友情”の関係は心地が良かった。



 優秀で評判も良かったパブロは、すっかり変わってしまった。

 公爵家の子息として常に“上”の立場にいた彼が初めて経験した挫折だった。“自分だけ”が選ばれなかった。その事実もまた、彼を苛んだのだろう。

 人々からの同情の眼差しが、今まで意識する必要もなかったプライドが、彼を余計に惨めにした。

 次第に授業をサボるようになり、成績はみるみる落ちていった。

 パブロは天才ではなかった。

 着実に努力をしていく秀才であった。

 だからこそ、歯車が狂えば転落も早い。

 生徒たちは落ちぶれていく彼を好奇の目で見ていた。手に届かない位置にいた人が落ちていくその様を。


 そんな彼に、貪欲な女子生徒が近づくのも時間の問題だった。いくら成績が悪かろうと、素行が乱れていようと、彼は公爵家の子息。生まれながらに保障された道を歩む存在だ。玉の輿を狙う女子は多い。

 今までは監督生であること、そしてイネスが隣にいたことが牽制になっていた。それが消えた今、彼に群がる者たちは積極的になっていった。



 * * * * *


「イネス……君には魅力がないな」


 そんなことを言われたのは新学期が始まって三ヶ月が過ぎた頃だった。六歳の頃から続けてきた、月に一度のデートの日。その約束の日だった。


「……どういう意味よ」


 すでにイネスの耳には、パブロの火遊びの話が届いていた。学院では噂程度だが、十代のこの時期にそのような噂が広がるのはあっという間だ。家に届くのも時間の問題だろう。兄が聞いたらなんと言うか。


「そのままの意味さ。君には女としての魅力がない。もっと俺を誘惑する努力をしたらどうだ?」


(……呆れた)


 パブロに対する恋心は、とっくに家族愛や、人生をともに歩む仲間への親愛へと変わっていた。

 卒業後に結婚するのはすでに決まっている。だからこそ、学生のうちの気の迷いくらい、目を瞑ってやろうと思っていたのに。


「余計なお世話よ」

「俺が困るんだ。君に飽きて愛人をつくってしまったらどうするんだい?」


(……何よ。すでに遊んでいるくせに。白々しい)


 その日を境に、イネスはパブロと距離を取るようになった。これから生涯を共にするというのに、パブロのことを嫌いになってしまいそうだからだ。


 イネスの家庭は温かかった。

 貴族には珍しい恋愛結婚で結ばれた両親。その両親に有り余るほどの愛を注がれて育った兄妹。そんな環境で育ったイネスが愛のある結婚を夢見るのは当然のことだろう。王弟である父には様々な縁談が持ち込まれたが、父は初恋を貫いた。幸運なことに、母の家柄は父にふさわしかった。だからこそ、二人は結ばれることができたのだ。イネスもそんな結婚をしたいと、思っていたが難しいかもしれない……


 * * * * * 


 イネスのパブロに対する思いが断ち切られたのは突然のことだった。


 授業にほとんど出席しなくなったパブロは、教師の呼び出しにも応じない。公爵の子息という立場に教師たちは強く出られなかった。暴走する彼を止められないのは、そのせいでもあった。

 監督生として。婚約者として。

 同じ公爵位の貴族として。

 イネスはパブロの寮を訪れた。


 オンローサ学院は共学ではあるものの、寮は男女で分かれている。理由は明白。問題を起こさないためだ。だから普段、異性の出入りは許していない。だが、今回は教師の許可証がある。


(……気乗りはしないけれど)


 寮母から聞いた部屋は、最上階の角部屋。

 イネスの部屋も女子寮棟の同じ場所にある。

 階段を上がり、長い廊下を歩く。一番奥の扉を目指した。

 パブロの部屋の前で一呼吸。

 ノックをしようとした時、胸騒ぎがした。

 これが所謂、女の勘ってものなのかもしれない。伸ばした手の行き先をドアノブへと移す。

 開けてすぐに乱れた靴が——二足。


 男物と女物。


 イネスはすぐに次のドアノブに手を掛ける。

 この先は——寝室。


 だが、その必要はなかった。

 扉を一枚挟んでも聞こえる男女の密会の様子。

 引き返そうと一歩戻した足を止める。

 クズな男とその男を選ぶ馬鹿な女を見てみようと思ったのだ。


(もう、どうにでもなれ)


 ——バンッ


 勢いよく開けた扉は大きな音を立てた。


「キャァアアア!」


 みっともない姿のまま、女が声を上げる。


(こんなクズなんてくれてやる………)


「……モニカ……皇女?」


(嘘……でしょ?)


 まさか相手が帝国の皇女だなんて。

 純潔だったかはわからないけど、結婚前で?

 留学中で?……いや、大問題よ。


「……パブロ……あなた……」

「勝手に入ってくるなよ! ふざけてるのか?!」


 ベッドの隅でブランケットに包まる皇女を横目に、イネスはパブロに詰め寄った。


「あなた、なにしてるの? 大問題よ、これ」

「部屋から出て行け!」

「皇女に手を出して……万が一、子供でもできたら……どうなるか想像もできないわ」

「急に部屋に入ってきたかと思ったら、グチグチ、グチグチ……嫉妬か?」

「……はあ。呆れた……」


 嫉妬?こんなところで盛っているのを見て嫉妬してるのかですって?信じられない。


「……私は何も見なかった。パブロ、今日のあなたは風邪で寝込んでいたせいで、私の訪問に応じなかった。だから、モニカ殿下……私とあなたは会わなかった。以上」


 吐き捨てるように言い、一切後ろを振り返ることなく寮を後にした。


 寮に戻ろうと思ったが、あの部屋と構造が同じであることを恨んだ。噂は聞いていたし、嘘だとは思わなかった。だけど、目の当たりにすると結構心にくる。

 気づけば監督生室へ向かっていた。部屋には誰もいない。都合が良かった。


「もう知らない…………どうしよぅ……」


 ソファに横になり、うずくまる。

 淑女らしからぬ姿。けれど、そんなことを考える余裕もなかった。

 万が一のことがあれば、パブロの婚約者であるイネスが巻き込まれる可能性は十分にある。最悪の場合ソルデビラ王国とバルティダ帝国、二国間での問題に発展するかもしれない。


「婚約破棄……できないかなぁ」


 ファルケ公爵家を巻き込まないためには問題が明らかになる前に婚約破棄をしたい。

 けれど、理由がない。

 パブロの不貞を理由にするのならモニカ皇女との関係を公にしなければならない。それでは、本末転倒だ。

 涙がにじむ。

 パブロに対する恋心はとうになくなったと思っていたのに。

 ……まだ少しだけ、少しだけ残っていたのかもしれない。



 泣き疲れて眠ってしまったイネスは初めて学校で一夜を明かした。

 朝日が差し込み、眩しさで目を覚ます。体にはブランケットが掛けられていた。


「……申し訳ないな」


 ここに出入りできるのは監督生のみ。

 ルシオの優しさがすごく温かくて、また泣きそうになってしまう。


「イネス・ファルケ。しっかりして」


 パンッと頬を叩き、気持ちを切り替えた。


 * * * *


 まさか、彼の方から現れるとは思わなかった。


「……ちょっといいか?」


 お昼時、パブロに呼び出された。

 よくもまあ私に話しかけられるわね。


「……昨日のことは悪かったよ。ちょっとおかしかったみたいだ。忘れてくれ」


 目も合わせず、気まずそうにパブロは言った。


「もうどうでもいいわ。好きにして。ただ、私や私の家族を巻き込まないでくれたらいい」


 じゃあ、と言って背を向けかけたイネスの腕をパブロは掴んだ。


「……気にしないのか?」 


 驚いた、というような表情をしていた。


「あなたが誰と何をしていても、私には関係ない。気にしないわ。……いっそのこと問題が起こる前に皇女と結婚したら?そっちの方が何かあった時まだマシじゃない?腐っても公爵の子息でしょ」


 腕を振り解くと、再び強く掴まれた。


「離し——」

「嫉妬してるのか。嫉妬してるならそうと言ってくれればいいものを」

「はあ?何を言っ——」

「モニカの名前を出すのはそういうことだ」

「しょうもない事言わないで」

「じゃあ、こうしよう。君も愛人をつくればいい。そしたらお互い様だ。……それに君は愛人から色々学んで、俺を誘惑できるようになれば——」


 ——バシッ


 裏庭に乾いた音が響く。

 イネスは初めて人をぶった。 


「……最低」


 手のひらは痛く、胸も苦しかった。

 少しも気分は晴れなかった。



 ◇ ◆ ◇ ◆


 近づいたのは計画的だった。


 編入した時からモニカはパブロ・アルボスに熱を上げていた。

 だから彼女がやらかすのなら相手はパブロであるだろう——そう睨んで彼を観察し続けた。


 モニカには“やらかして”もらわないといけない。しかし、監督生の地位にいる彼に、帝国の皇女であろうと簡単に接触することはできなかった。年に三回開かれる舞踏会でも、監督生は主催側で忙しない。生徒がダンスで盛り上がっている時も彼らはトラブルの対処や救護に追われ、一度も踊っている姿を見ることはなかった。同僚たちに尋ねても同じ答えだった。入学以来、彼らが舞踏会を楽しんだことはないのだろう。


 これでは困る。卒業後は国に戻る。

 この留学は、この先、二度とない唯一の自由な時間。後腐れのない関係を持ってもいいのかもしれないと思ったが、リスクの方が大きい。ならば、自分の青春を捧げてでも、国を統べる地位に就く前に、将来の懸念を取り除くべきだと判断したのだ。


 監督生になるのは簡単だった。仕事はすでに把握している。彼らを観察していたからだ。週に一度は会議、学院行事の企画や主催、準備から後片付けまで。

 最初は慣れなくて戸惑ったこともあったが、彼女は優秀だった。一度で理解できるように教えてくれるし、なにより気が利く。舞踏会の最中に女子生徒をチラチラと見ていたパブロと違って、彼女は責務を完璧に果たしていた。

 予想通り、パブロは落ちぶれ、モニカと接触するようになった。あとは証拠を掴めれば——そう思っていた。


 あの日。

 監督生室のソファで寝ている彼女を見つけた。起こしても目を覚さない。仕方なくブランケットを掛けようとした時、彼女の涙の跡に気がついた。おそらくパブロの事だろう。頭の良い彼女ならすでに気がついているだろう。……巻き込んでしまって、申し訳ない。


「……僕にすればいいのに」


 不意に言葉が溢れた。自分の発言に驚いた。


 ——え……いつから?


 僕はいつから彼女のことを意識していた?いや、そんなはずはない。彼女には婚約者がいる。クズだけど。ずっとあのクズの隣で……。


 ずっとパブロを見張っているつもりでいた。だが、それは大きな勘違いだったようだ。


「参ったな」


 僕はずっと彼女を、イネス・ファルケを追っていたようだ。僕はいつのまにか彼女に恋をしていた。


 ◇ ◆ ◇ ◆


「アリシア……どうしよう」


 夏の長期休暇。公爵邸に戻ったイネスは、ほとんどの時間を部屋に篭って過ごした。十年以上続けてきたパブロとのデートもしなくなり、外出する気力も湧かなかった。

 そんなイネスを心配した兄のイバンは従姉妹である王女のアリシアの元へイネスを連れ出した。幼い頃から仲が良く、なんでも相談し合っていた相手にイネスは事のすべてを打ち明けた。


「……愛人、つくればいいじゃん」


 一通り聞き終えたアリシアが、さらりと無責任に言い放った。


「本気で言ってるの?」

「ちょっとだけイネスの品格が傷つくけどね」

「愛人をつくってもメリットがないわ。私はやり返したいわけじゃないの。ただ、家族が巻き込まれたくないだけ」

「だから愛人をつくって、アルボス家から婚約破棄を言い出させればいいじゃない。国家間の争いに巻き込まれるよりもずっと楽でしょ?」

「……たしかに」


 だが、問題は相手だ。


「だけど、相手がいないじゃない」

「いっそのこと、運命の相手を見つけちゃえば? もうパブロとはやっていけないでしょ」


 アリシアは絶賛恋愛中。学院時代の同級生であるリノ・ガルシア小公爵と婚約したばかりだ。もちろん、国王陛下も承認している。


「アリシアが特別なだけで、運命の相手なんて簡単に見つからないのよ。私だって、この間まではパブロがそうだと思っていたんだから」

「でしたら、僕が運命の相手に立候補しても?」


 突然の低い声に、イネスは飛び上がった。


「あっ……ルシオ殿下」

「はじめまして。アリシア殿下。ルシオ・バルティダです」


 アリシアとルシオが挨拶を交わす。


「久しぶりだね、イネス」

「……は、話聞いてたの?」

「盗み聞きするつもりはなかったんだ。ただ、随分と盛り上がっていたからね」


 人が近くを通った時すぐに気がつくように、この開けた宮庭で話していたにも関わらず、ルシオに気が付かなかった。


「あの……どこから?」

「僕は愛人でも構いませんよ? そこから運命の相手になればいいだけですから」

「え? いや、結構……です」

「遠慮ならいりません。アリシア殿下、私はイネスにふさわしいと思いませんか?」

「私はいいと思いまーす」

「ちょっ、アリシア!」

「どうですか? 僕もパブロに負けないほどの美形だと自負していますが?」

「うう……」

「ここで誓います。僕は一途です。自分でも驚くほどに」

「いけいけ! イネスとルシオ殿下お似合いジャーン!」


アリシアが横から茶々を入れる。


「……わかりました」


 ——うまく丸め込まれた気がする……まあ、いいか。


 * * * * *


 長期休暇明け。

 あと学院生活も一年と半年。結婚の件がどうなるかわからないけど、残り少ない時間を精一杯過ごさなきゃ。

 そう思っていたのに——なぜかルシオと会う機会がやけに多い。一学期は違うクラスだったはずなのに、気づけばすぐ隣に居る。


「……なぜ?」

「ん?どうしたの?」

「あなた、隣のクラスでしょう? 戻りなさいよ」

「……このクラスだよ?」

「戻って」


 結局、ルシオを探しに来た同僚たちに連れてかれてなんとか事なきを得た。こんなやりとりを毎日するほどに、イネスとルシオの距離は縮まっていた。


 昼食の時間、監督生という立場から畏れられることの方が多いイネスは、数少ない友達と会議のない日は一緒に食堂へ行く。はずであったが。


「ごめんね。ちょっとイネス、借りるねー」


 またもや現れたルシオに連れられ、向かったのは監督生室。


「一緒にご飯食べよう。もう用意してあるんだ」


 強引な人だ。けれど、彼なりに“愛人”として務めを果たそうとしているのかもしれない。


「君と食べるご飯は、とても美味しいね」


 そんなことを、あの綺麗な笑顔で言うのだから。

 週に三回は会議の日も含めて、昼食を共にするようになった。それからはルシオと過ごす時間が増えていった。買い出しも、勉強も、気づけばいつも二人一緒。

 そんな日々が当たり前になってしまったせいで、週に一度だけルシオの用事で会えない日が寂しく感じるほどだった。

 一方で、パブロの噂は相変わらずだった。ここまで広がっているのならファルケ公爵家に伝わっていてもおかしくないのに、不思議とそのような話はなかった。送られてくる手紙にも不審な点はない。



 そして、あっという間に時間は過ぎ、冬の休暇が始まろうとしていた。学期末に行われる舞踏会に向けて、監督生たちが一段と忙しくなるこの時期。イネスは一度もまともに参加したことのない舞踏会に期待もしていなかった。婚約者が居ることは公然の事実であったし、ダンスに誘われることもなかった。だから。


「イネス、私と踊っていただけますか?」


 まさかルシオから誘われるなんて。


「いや、でも……私は」

「私と踊ったくらいでどうということはありませんよ。さあ」


 強引に、だけど優しく手を引かれる。

 初めてパブロではない男性の手を取った。

 背が高く、筋力もあるルシオは、辿々しいイネスを華麗にリードしていく。


「パブロとの婚約……破棄できるなら望みますか?」


 突然、ルシオが問いかけた。


「……そうね。できるのなら、そうしたいですね」

「では、婚約破棄が叶った後は?」

「後?」

「ええ。気になるお相手などいらっしゃいますか?」


(気になるお相手ねぇ……)


 今までパブロと結婚するものだと思って生きてきたから、他の殿方をそのような目で見たことないのよねぇ、なんて思いながらたった一人だけ思い浮かんだ人物。

 無意識のうちに視線が動き、ルシオと目が合う。


「……僕ですか?」


 悪戯っぽく笑ったその顔に、心臓が跳ねた。


「僕は一途です。そして、真面目です」

「そうね、あなたは真面目よ。行動の全てが計算尽くされてて……少し肩の力を抜いた方がいいくらい」

「……一途でもあります」

「そう……ね?」

「イネス。僕は好意のない方の愛人になろうとはしません。あなたがおっしゃるように無計画なことはしない。賢いあなたなら、もうお分かりでしょう?」

「……あなたは皇太子でしょう?」

「僕は、無計画なことしません」


 気づけば二曲目に入っていた。一般的に二曲連続で踊るのは家族や恋人などの親しい関係だけだ。


「全て僕に任せてください。悪いようにはしませんから。……ちょっと失礼するよ」


 二曲目が終わると同時に、ルシオはイネスを抱きかかえ、会場を後にした。


「ちょっと!まだ仕事があるじゃない」

「すでに教師や下級生と話は付けてるさ」


 * * *


 馬車に乗り込み、向かった先はソルデビラ宮殿。


「さあ、行こう」


 手を引かれて辿り着いた先で、イネスは驚いた。

 そこには、ファルケ公爵夫妻と兄のイバン、アルボス公爵とパブロ。さらに、ソルデビラ王家からは国王陛下と王女のアリシア。そしてバルティダ皇家から皇帝陛下と皇女のモニカ、さらにその母カルラ皇妃までが顔を揃えていた。


「遅くなってすみません」


 ルシオの言葉に、国王が頷く。


「揃ったな。さあ、はじめようか」


 その一言で、重苦しい空気がさらに沈んだ。モニカとカルラ皇妃は震え上がり、パブロは背筋を伸ばすが冷や汗が止まらない。


「まずは……パブロ・アルボスとイネス・ファルケの婚約は無効とする」

「え?」

「この婚約破棄でファルケ公爵家が不利益を被ることはない。良いな、イネス」


 国王の言葉にイネスは頷いた。


「さて、次に本題だ。ファルケ公爵家とアルボス公爵家の共同事業である鉱業。二家間の機密情報がバルティダ帝国のマルティン侯爵家へ流れた件について——言い訳はあるか、パブロ、モニカ皇女、カルラ皇妃よ」


 国王の声は低く、抑えた怒気を孕んでいた。


(初耳ね……マルティン侯爵家はカルラ皇妃の生家じゃない。そこへ情報が流れたのなら犯人は……)


「俺は脅されたんだ! モニカに! 大事にして欲しくなければ情報を渡せとな!」

「信じられない! 人のせいにしないでよ! あなたが情報を渡すから黙ってくれって言ったじゃないの!」

「よく言うよ! 結局、子供ができたって話も嘘だったじゃないか!」

「私はあなたに襲われたのよ! 大体ね、イネスだったかしら? 婚約者の手綱くらいしっかり握っときなさいよ!」


 モニカの怒声に、イバンがすごい形相で睨みつける。


「みっともない!」


 この部屋に、いや、王宮中に響き渡るほどの声量で叫んだのは皇帝陛下だった。


「全ての証拠は揃ってるんだ。ルシオとアリシア殿下、イバン卿がきっちりとな。懺悔の機会を与えたが、このザマだ。モニカ、カルラ。お前たちは皇家から追放だ」


 冷たい声は、刃のように鋭かった。


「そんな!私が何をしたって言うのですか!」


 カルラ皇妃が皇帝に縋り付いた。


「マルティン家に流しただろう?それにモニカの出生だって——」

「それは!」

「お母様?! どういうことですか?!」


(わあ……ここにきて皇女の出生まで怪しいなんて)



 国王と皇帝による話し合いの末、パブロとパブロに情報を渡したアルボス公爵はソルデビラ王国の法に則って裁かれることに。モニカとカルラは裁判が終わるまで拘束され、速やかに送還されることになった。

 イネスが到着してから一時間余り——事はあっという間に片付いた。


 去り際に、パブロはなおも醜く噛みついた。


「イネス! 私を助けてはくれないのか! 婚約者じゃないか! ずっと一緒に過ごしてきただろ!」

「……婚約はなかったことに」

「あれだけ良くしてやったのにその結果がこれか! 大体、その男はなんなんだ! なぜ一緒にいる!」


 確かに、昔のあなたは優しかった。だが、それもすでに過去のこと。

 イネスはルシオに視線を向ける。ルシオはそれに応えるように、イネスに優しく微笑んだ。イネスはそっとルシオに寄り添い、パブロに向かって言った。


「私の愛するルシオ・バルティダ様ですよ」


 イネスの言葉にパブロは激怒した。


「愛人だと?!ふざけるな!」

「あら? あなたの言う通りにしたつもりですけど?」

「それを真に受ける馬鹿がどこにいるか!」


 まあ!顔を真っ赤にしちゃって。


 騒がしい者たちが去り、一気に静まり返る部屋。最初に口を開いたのはアリシアだった。


「それで?お二人さんはどうするの?」


 イネスとルシオの二人を指す。

 ルシオはイネスの手を取った。


「イネス、僕と結婚してほしい。君を愛してる」


 ルシオの目はまっすぐにイネスに向けられた。


「……はい」


 その一言に、公爵の口元がわずかに緩む。公爵夫人もまた、深く頷いた。イネスは優しく微笑んだ。


「ありがとう。君を幸せにするよ」


 公爵夫妻、イバン、アリシア、国王陛下、皇帝陛下が二人の婚約を祝福した。



 * * * * *



「あ〜イネス、バルティダに行っちゃうなんて」


 その日の夜。国王陛下がイネスとルシオの婚約を祝して小さな饗宴を開いてくださった。その席で酒に任せてイバンは泣いていた。


「イバンと賭けをしたのよ。私はイネスがルシオ殿下の告白を受ける。イバンは『イネスが俺の元を離れるわけない』って。私の勝ちね、今度何かお願いしなきゃ」


 アリシアは楽しそうに笑っていた。


「運命の人がいて良かったわね。“愛する”ルシオ・バルティダ様ですって?」

「……そんなこと言った? 私?」

「あら? 無意識だったの? こりゃイバンも泣くわ」

「まだ一年はあるわよ」

「彼からしたらもう一年しかないのよ」

「……そうね」


 少しだけ寂しくなった。少しだけ。


「ねぇ?」

「なぁに? 愛するイネスちゃん?」

「もう……そろそろ教えてくれてもいいんじゃない? いつからこの事を知っていたのか。私が話した時にはもう知っていたんでしょ?」


 どうかしら、とアリシアは首を傾げた。


「アリシア〜」

「……あなたが長期休暇に入ってすぐ、ルシオ殿下が王宮に来たの。それでね。そこから証拠を掴むために、少しだけ彼らを泳がしてね」

「やっぱり」

「パブロのことを知ったイバンの剣幕ときたら。あなた、愛されてるわよ。イバンからも、ルシオ殿下からも。あんなに緻密な計画書、見たことないわ! 証拠からこれからの展開まで、事細かに綴られていてね」


 あの時のアリシアとルシオは初対面にしては親しい気がしたのだ。だか、まさかここまでとは。


「ルシオ殿下、イネスを泣かせたら帝国だろうとソルデビラは容赦しないですからね!」

「もちろん。泣かせるつもりなんて毛頭ありません!」


 アリシアもすっかり酔っているようだ。


 ルシオに「必ず公爵邸までイネスを送る」と約束させて、公爵夫妻は酔い潰れてしまったイバンを連れて帰った。アリシアもガルシア小公爵に介抱されながら部屋へと戻る。


「イネス、我々の利己的な計画に君を巻き込んで申し訳ない」

「いいえ、お気になさらず」

「でも、君から婚約者を奪ってしまった。途中で辛い思いもさせただろう。本当に申し訳ない」


 皇帝陛下とルシオがイネスに頭を下げる。


「……パブロ本人も知らなかった彼の本性が明らかになっただけです。もし、あのまま結婚していたらもっと大変な思いをしたかもしれません。私は感謝してます」


 皇后陛下はルシオ殿下がまだ幼い頃に病気で亡くなった。元々体が弱い方だったそうだ。皇后を亡くしてすぐにカルラ皇妃を迎え入れたが、それは政治の色が濃い婚姻だったそう。当時、妻を亡くして憔悴いた時期にカルラ皇妃が懐妊。皇帝の子でないことは明らかだったが、上手く対処することが出来ず、ここまで時間が掛かってしまったと。


「すまない……私が不甲斐ないばかりに」

「ルシオ殿下と出会えたので、私は幸せですよ」


 皇帝陛下は若い頃、戦争で活躍したと聞いていたせいで勝手にもう少し怖い人かと思っていたが、とても情に厚い人のようだ。


「ルシオ!」

「はい」

「イネスを少しでも泣かせてみろ、お前も追放してやるぞ。彼女を幸せにする覚悟は出来てるのか!」

「もちろんです」


 ルシオがイネスの方へ向き直る。


「イネス、これでようやく君の隣で堂々といられる。ずっと」


 イネスは照れながら、小さく頷く。

 ——二人の新しい物語が、静かに始まった。


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