なぜ君は命を擲った?
どこか、清いところからゆっくりと沈みゆくように、彼は意識を失い始めていた。
それは、核発電によって生み出された汚染された冷却水の中で、頭上に迫り来る炎の熱から逃れるために、潜水していくような沈鬱さを孕んでいた。
あるいはそれは、彼らの今後の未来を、暗示しているようでもあった。
まだ時刻は正午を回る前で、本日は快晴。しかし、彼は見上げた空に、一筋の陽光どころか、ささやかな木漏れ日すら見出すことはできなかった。
太陽は厚い雲に姿を隠し、決して短くはない時間無重力を彷徨った光子は、地球という未知の惑星の地表に辿り着く前に暗雲に絡め取られる。
「コリル……!なぜ、そんな賭けに出るんだ……君も、ここに残って、最後まで……平穏に暮らしたらいい」
「……静かにしてろよ兄弟。シェルターの位置がバレたら、奪い合いになる。」
「なら、君もここに残るんだ。」
「いいや。俺はまだ、やらなければならないことがある。
ここでお別れだ。」
血と煤に塗れ、筋肉質なその身体を傷だらけにした男、コリルは、ボロ切れのようになってしまったブランド物の服を地面に打ち捨てて、彼の頬を優しく叩いた。
「俺たちは絶えない。いつか、俺たちの子供達が、また俺たちを巡り合わせる。」
「希望的観測だ。こんな状況で、生物が子孫を残せるわけがないだろう。もう、君には会えないんだろう?」
「なぁ兄弟。それでも俺たちは信じるしかないんだ。」
コリルはマンホールによく似た蓋を軽々と動かして、彼が残るシェルターの入り口に嵌めようとしていた。
「俺たちの今の行動が、子供達のためになる。」
「どうしてそこまでするんだ。君も私も、最期の矜持すら保てずに死んでいくというのに!」
シェルターは、コリルの手によって完全に隔離されようとしてた。後生最後の彼の問いかけに、コリルは「そんなの決まってるだろ、兄弟。」と前置いてシェルターを閉じた。
くぐもった声だけで、彼はコリルの表情を推し量るしかなく、頭の中で必死に彼の顔を思い描いた。
⭐︎
「なんだか先生って、いろんな物が人からの貰い物になってますよね。」
私のためにわざわざコーヒーを挽いたフォーティアは、どこか不満気にそう言った。
「と言うと……?」
「そのステータスタグとか、トゥリオビーテも、アトライア様から貰ったんですよね。」
私が襟元に垂らしたステータスタグと、首から下げたトゥリオビーテを、フォーティアは揶揄した。
確かに思い返してみれば、このステータスタグは死に際のフォトンマンに投げ渡されたものだし、トゥリオビーテはアトライアと交換した。なにより、そのトゥリオビーテの中には彼女の象徴ともいえる魔法すら授かっている。
「私にも、何か贈らせてください。」
ソファに手をつくほど前のめりに、フォーティアは私に言った。その仕草は、もはや要望というより抗議に近いほど熱烈だ。
「といわれてもな。私が必要とするものは、……」
魔素波動力単位のミクロな領域で魔法プログラムの試行を行う機材と、その値段を思い描いた。
「経費で落とした方が経済的だ。」
「そ……れは、……そうですけどぉ」
技研の経理に通じているフォーティアには、技研で稼働している研究機材にかかる莫大なイニシャルコストについて理解がある。
それに、そんなものをプレゼントされても、あまり贈り物という感じはしないんじゃなかろうか。
「そういえば、なんですが。」
先ほどの激情をすっかりと収めて、フォーティアは私に聞いた。
「トゥリオビーテ、って、一体どういう意味なのですか……?」
本気でわからないのだろう、その疑問は彼女に冷静さをもたらすほど深いに違いない。といっても、そう難しいことではなかった。その上で、彼女が知り得るはずもないとも思った。
「この世界の生物史上、初めて、自らの手で、新たな感覚を手に入れた生物の名前だ。」
「新たな感覚……」
「視覚だ。二度目の世界は、勃興してから大戦が起こった。そのせいで実在を確信できるほどの学術的根拠はないが、存在した、という流派が主流だな。」
推定一万年前、トゥライオビーテという海棲生物がいた。彼らは、巨大な河川の流れが、暖かな海水とぶつかる地点で誕生し、硬い外骨格と肺呼吸を有していた。
そして、進化の過程で視覚を手に入れる。
自らが知覚できなかった世界に対して、自らの手で、知覚する”手段”を得た。それは、寓話的な教訓を、なにより私たちに伝えているように思える。
「我々は、知られざる世界について知る術を、探求していかなければならない。私たちの偉大なる祖先が、その生き様で繋いでくれた本懐だ。
故に、私は不可視の魔素波動力を可視化させ、知られざる魔法の世界への足掛かりとなるこの魔装に、その生物の名前をつけた。」
「私たちの、祖先だったんですか?」
「私たちのというよりは、現生する全生物の祖先だったのではないか、と言われている。もちろん、大戦後、確率論的に誤りが認められなかっただけ、ともいえるが。」
それ以上遡及できない、枝分かれの原点。
クリティカル・フィログラムと呼ばれる、全生物のルーツを持つ存在。もちろん、まさか人間と直系だと言っているわけではない。
従姉妹の友達の母親の井戸端会議に参加していた近所の商店の客のよく利用する地下軌道鉄道の運転手、くらいの関係性だ。一切関与していないわけではないが、親密かと言われれば全くそうではない。
トゥライオビーテと私たちを繋ぐのは、この瞳と、それが有する職能である視覚。きっとそれくらいだ。
「たった一万年で、私たちのような種族が生まれるほど、進化とは著しいものなのでしょうか。」
「そこが問題だ。普通、そう速いものじゃない。例外なのは、私たちだよ。」
鋭く違和感を突くフォーティアの疑問。慣れたとはいえ、流石に末恐ろしくなる。
「他の生物に比べて、トゥライオビーテからの進化が比較にならないほど速いのが私たち人類だ。もちろん、論理は不明だ。
謎はそれだけではない。どうも、最近は魔獣や魔族を、その関係図から爪弾きにする学説も栄えている。」
「では、全生物の始祖とは、」
「数十年後には否定され、また、新たなるクリティカル・フィログラムを見つけ出すだろうな。ただ、その学説がどれほどの信憑性を持っているのかについては、少々疑念があるが。」
事実とは小説より奇なり、そしてまた、物語より呆気なく、フィクションよりも冷酷だ。我々が学問を信奉しないのは、学問という概念を全くもって信用していないからだ。
いつ手のひらを返されるか、いつ冷酷な真実を突きつけてくるか、いつ梯子を外されるか、いつ、そのしっぺ返しを食らうか、私たちはわからないまま進み続けるしかない。
コーヒーを嚥下して、心地よい苦味に、フォーティアが用意したクッキーをつまもうとしたところで、所長室の扉が忙しなく叩かれる。ノックというより殴打に近かった。
「はい。」と応じたフォーティアが、私に目配せした。了承の意を返して、彼女は丁寧に扉を開けた。
「ワイズマン!ワイズマン先生はいるか!」
私だが、と答えたところ、王室庁の制服を来た青年の視線は、私に釘付けになる。
水でも飲んだらどうだ?と勧めた私のありがたい厚意を無碍にして、青年は言った。
「ダンジョンから、一万年前のものと思われる、人間の死体が……ッ!」
それは、水を飲んでいる場合ではないだろう。であったので、私はゆっくりとクッキーを食んで、咀嚼しながら言った。
「ブレイクタイムが終わったら向かおう。」
⭐︎
王室庁がわざわざ私のところにアポもなく訪れた理由については、おおかた見当がついていた。
私が先日特許申請した大型魔装、並列演算型:トゥリオビーテ・スコープを求めてのことだ。二メートル四方の立方体で、重量約二トン。演算魔力回路は一兆を優に超える魔装だった。
通常、一種類の魔素波動力しか観測できないトゥリオビーテを、レンズとフィルターの数を何十倍にも増やし、多面体のスコープとして一体化させることで同時観測のリソースを増やした。そして、それをプログラムによって並列演算する魔装だった。
軍事転用については可能。しかし、こちらは真の技術的問題のせいで射程が短い。砲身のように突き出したレンズは、対象から三メートル圏内でなければ正常に動作しない。戦略兵器の照準器としては不足も不足。
やはり、人間の脳で無意識的にやることを、冗長にも機械にやらせようとする怠惰は、こうした制約を生み出す。
しかし、人間の脳よりよほど解析精度が高いのは事実だ。魔素波動力の減退による対象の経過年月の推定や、分類により材質の特定も可能。私がとある目的のために制作したものだった。
王室庁は、私の許可のもと丁重に筐体を運び出し、人力で大通りまで運んだ。その後、王国で唯一ともいえるだろう大型車に筐体を積み込み、壮大な騒音を響かせて走り去っていった。
あの大きさであれば、随分と遠回りしないと地下迷宮に辿りつかない。魔族ほどの自動車技術は、我が国ではまだ夢物語だ。
私は言葉の通りフォーティアとささやかな時間を過ごし、数十秒の身支度をして技研を出た。
それは、王都中央部、地下迷宮の第二十四階層で発見されたらしい。護衛の冒険者によって魔獣どころか一般の冒険者の立ち入りすら規制されたダンジョンの一角に、砕けた壁面がある。
その亀裂の先にある部屋を、私たちは見ていた。
私たちの他にも、様々な技研から機材や人材が派遣されていた。生物学、魔素遺伝子学、理論魔法力学はもちろん、魔素波動力学まで。二、三人騎士団の面子を見かけたので、簡単に挨拶をしておいた。鞘だけの騎士剣を弄られるのも忘れない。剣は酔ってどこかになくした、という真実まで含めて、良好なエピソードトークができただろう。
フォーティアに鋭い怒気で軽率さを認識させられたが、この場で説教を始めることはなかった。帰宅までにその怒りがおさまるのを切に願う。
「彼、名前は。」
最前列で亀裂の先の部屋を見ていた学者が、王室庁の人間に聞いた。
「まだなんとも。身分を示すものは……」
「ではなぜ、一万年前のものだと推定した。」
私の問いに、皆がこちらを見た。私の渾身の解析機器を貸与するのだから、それくらい知る権利はあったはずだ。
「古代帝国のオーパーツと目される装備が多数、それと、彼の所持品の中に、硬貨がありました。各地で出土するものと完全に一致します。」
古代帝国。一体どれほど前だったのかもわからないが、おそらく存在し、その痕跡があまりにも鮮明に残っているものだから、今となっては文化様式にすら組み込まれるほどになった古代の国。帝政だったのかどうかは定かではないらしい。全く馬鹿らしかった。
「そんなもので判断したのか?その男が稀代の贋作家で、正史を自分本位に掻き乱してやろうと画策したのかもしれん。」
「それは……そういう可能性も、あるでしょう。」
「真実が知りたい。」
「えぇ。」
「トゥリオビーテ・スコープを使用することに、意義のあるものはいるか。」
私とて、オーパーツの偽物の歴史を信じる浪漫はあった。しかし、その死体に対してまず最初に感じるべき違和感は、明らかにそこではない。
あまりにも、死体が綺麗すぎる。
装備品や、地面に転がった硬貨に至ってもそうだ。岩盤を割らないと見つからなかったような部屋で、まさか三日前に人が死んだはずもない。それなのに、死体は白骨化どころか、腐敗すらしていない。
古代帝国の勃興の推定は、約一万年から五千年前。トゥライオビーテの樹形図の埒外にあったと目されているのは、古代帝国も同じだった。とすれば、これは絶好の機会だった。
史上初めて、自分の手で無理解を切り拓いた生物、その名を冠した魔装が、その生物と同じ時代を生きたかもしれない死体を切り拓く。
私の魔装を使うという決定に、表立った反対はなかった。
「ワイズマン、一体……どうだ。」
高揚を殺した声に聞かれ、なんとも言い淀む。
トゥリオビーテ・スコープは、所定の性能を遺憾無く発揮し、鮮明すぎるほどのデータを得た。
そして、私も理解を得た。
「私は今から、この時間で観測した魔素波動力という観点でのみ結論を述べる。それを了解できるのなら、この死体は、……概算、一万二千年前のものだ。」
ざわめきと嗚咽。まさか、現代になってここまで不可解を突きつけられるのも難しい。
私たちは、自分たちの始祖だと思っていた生物と、全く同じ空気を吸った、瓜二つの生物を発見してしまったのだから。
「魔素波動力という観点でのみ、というのはどういうことだ。」
「魔素波動力7,500〜8,200Mhは、その発される魔素波動力の振動数と、本来の魔素波動力の振動数を比べることで、比較的正確に経過年月を測定できる。
今回観測したのは、その死体の皮膚、約四十八箇所。その全てで、一万千年から一万二千年の経過年月を測定できた。」
門外漢の学者に説明しながら、私はさらなる指標から真実を切り拓こうとしていた。
それは、精密な照準を可能とするトゥリオビーテ・スコープの異能。遺伝子単位での観測だった。
一万年。一万年だ。それは、この二度目の世界を遡って更に余りある、膨大な時間。そして、遡ったそこには、一度目の世界がある。
私は、一度目の世界でとある国を知っていた。民主主義に乗っ取り、一種類の人種のみで発展し、その技術力でもって孤高となっていたとある国家。
今日古代帝国と持て囃される国家とは、おそらくはその国で間違いない。建築様式に、強く見覚えがある。
そう、古代帝国とは、一度目の世界に存在した国であるのだ。つまり、古代帝国で戦争を生き抜いた死体には必ず、魔核輻射による遺伝子の損壊がある。
それを認められれば、彼が本当に古代帝国人で、一万年前の存在だと確定できる。そして、それを認められれば、とある仮定が、とある矛盾を解決する。
彼らと私たちでは、起源が違う。
一度目の世界は、完全に滅んだ。つまり、一度目の世界の人間と、私たちの起源とでは、類似こそあれ、少なからず差異がある。
現在解析が完了している遺伝子モデルと、死体のそれとを照合する。
古代帝国人、ないし一度目の世界の人類が絶滅したときに、私たちの始祖が海の中を漂っていた可能性は、この遺伝子のように巻きついた時間軸の矛盾を解くに至る。
しかし。
「遺伝子の損壊が、ない……」
口の中だけで呟いた。
それは、あまりにも不可解な結果だった。
ある一つの根拠は、その死体が一万年前のものであると雄弁に告げている。しかし、さらにある一つの根拠は、それが一万年前に到底存在していたとは考えられないとも告げる。
一度目の世界を知る私にしか、見つけられない矛盾。
「君は一体、どこの誰なんだ……?」
⭐︎
その場にいた生物学者の助言により、死体の状態を保持するための措置が取られ、トゥリオビーテ・スコープとその他の解析機械、そして彼の死体は、王城へと保管されることとなった。
手掛かりとなるのは、彼の所持品の一つである手記それだけとなった。
「先生の考える矛盾は、シャルロットがなにかシェルターのような場所にいて、そのお陰で遺伝子の損壊を受けずに済んだ、という理屈では解決できませんか?」
シャルロット。日記に記された死体の名前を呼んで、フォーティアは解決に乗り出した。
「しかし、あの時代、あの兵器の完全なる無害化を成し遂げるような核シェルターは存在していなかった。それに、もし存在していたとしても、あの部屋には、なんらそれに類する機構がついていなかった。」
あの棺には、内部の状態を停滞させるほどの緻密な保管体制を強いる以外の職能はなかった。あれでは、到底魔核輻射を防げるとは思えない。
「言語学者でも、古代帝国語を全て解すことは無理だった。手記の中で読み取れた情報は……」
彼がコリルという人物に宛てて手記を書いていたということ。コリルという人物は、シャルロットを残し、無謀な旅に出たこと。地上の世界は、到底当時の人類が活動できるような状態にはなかったこと。シャルロットは、誰かを待っていること。その待ち人は、コリルではないということ。そして、シャルロットがほとんど目の見えない状態でその手記を書いていた、ということ。
「彼が一度目の世界の住人であれば、全て辻褄は合う。しかし、観測結果はそれを完全に否定する。
というよりそもそも、一度目の世界には、魔獣やダンジョンという存在は、欠片足りとも存在しなかった。それがなぜ、ダンジョンの中で発見されるということになるんだ。」
これでは、あの死体が、一切の遺伝子への損壊を受けない状態でダンジョンが発生した頃まで生き続け、のこのことあの部屋に入り餓死した、という説が最もなものに思えてくる。
「魔獣とダンジョンの発生は、セットで考えるべきだろう。そうなると……」
「ダンジョンについて、調べてみますか?」
「それが一番早いだろうな。死体の解析については宮廷に任せよう。」
⭐︎
ダンジョンというものについて、我々が知り得ることは少ない。様々な先行研究や風俗史が滅却された大戦以前から存在していることはわかるが、またしても、その起源について知る術を、我々は持たないのだ。
「魔族領なら参考文献が残ってないでしょうか。」
魔族は大戦時戦勝国側だった。文化の焚書は比較的少ないはずだ、との考察でフォーティアは言った。
「いや駄目だ。ダンジョンは、この国の周辺にばかりあって、魔族領にはほとんど存在しない。確か、魔都から山一つ分超えたような場所の地下に、一つあったくらいだ。」
詳細な記述として残すには少々材料が足りない。それに、今の空っぽの魔族領に立ち入っていくのも、いらぬ煙を立てそうで気が進まない。
「糸口を変えても、結局行き詰まるな。」
本棚の奥の方に押しやられていたダンジョン関係の専門書も、現状を記すばかりで過去には全く目を向けていない。
まずそもそも、魔獣の生態についてすら不明瞭な部分が多いのだ。彼らの起源を探すとなれば、その遺伝子でも解析すれば事足りるように思うが、あれでいて彼らの遺伝子は信じられないほど複雑に捩れている。
まるで、一度ズタズタにされたような無作為な氾濫。あそこから遺伝的関係性を探ろうとは思えなかった。
「あの、ワイズマン……?」
名前で私を呼ぶときは、彼女が甘えたいときだった。
「少し、気分転換に出かけませんか?」
いつかそうしたように、彼女はバスケットを持っていた。
紅茶の入った魔法瓶と、フォーティア手製のサンドウィッチが入ったバスケット。脇には地面に敷くためのシートを挟んでいた。
いくつか研究資料でも持っていこうと仕事鞄を持ったら、彼女が悲しそうな顔をしたのでやめておいた。
曰く、「仕事と私、どっちが大事なんですか……?」と聞くのが憚られたため、端的に感情が浮上した、とのことらしい。
日差しは、小高い丘を頂上から照らし、程よい温度を保っている。能天気といえば手厳しいから、ピクニック日和と言った方がいいのだろう。
宮廷でのシャルロットの解析は、今日で三日目だった。
私の代わりにトゥリオビーテ・スコープの操作を行う技研の職員から、ある程度その日に判明したデータは報告がある。
しかし、それを持ってしても、シャルロットの出自を解く鍵になるものはなかった。
唯一の新発見といえば、手記に書かれていた通り、シャルロットが盲目だったというのが、眼球の解析によってわかったことだろう。
しかし、それが全くもって何を意味するのかすら、今の私たちには測りかねる。
シートを広げて、腰を下ろした。
紅茶を注いだフォーティアが、カップを私に差し出した。
「君の村は、どんな場所だった。」
唐突というわけではなかった。人の出自を探す仕事。それなのに、私は妻の出自すら深く理解しているとは言えない。
私は、書類上の経歴でしか、彼女の出自を知らない。
「読んだんですよね、私の大まかな経歴について。」
「あぁ。まずかったか?」
「いえ、ただ、本当にそれくらいなんです。
山間部にありましたから、林業が盛んで、その加工を生業にする人もいました。木を切り倒すのは、女性には難しい。」
思い出すその慈しむような表情に、もう帰れない場所への憧景が募る。
「アスタ・アマテ神教が根付いていたのは、あそこで伐採した木が、教会の柱としてよく使われていたからです。
私も、そして、父と母も、神教徒でした。」
言葉を切った彼女は、本当にそれくらいだったのだろう村のことを話し終えた。だから、その後に彼女が語ったのは、あの事件のことだった。
「その時期、村の子供の中で魔法の才能を持った子が見つかりました。詠唱文のプロセスが極端に短くて、魔装でもないのに干渉力が高かったんです。
たった三節の詠唱で、大木を二、三本切り倒したのを目の前で見ました。」
ともすれば、古代魔法に近い領域で、魔法を扱えたのかもしれない。フォーティアが驚くのも納得だ。
「私たちは、その力はもっと大きなところで使われるべきで、そして、その子がもっと大きくなって、幸せに生きられるべきだという結論に達しました。
その子も、おおよそ、そのことには反対しなくて、そう納得してしまうくらいに、私たちの村の経済的な規模は小さかったんです。」
「おおよそ、というとその子は、少なくとも些細なことで自分の未来について懐疑があった。」
「はい。村からは、離れたくない、と。
私たちの村の若者は、結構いたんです。すぐにこんな村から出て、王都で暮らしたい、って。少なくとも、文化的な面では王都の方が栄えていますし、技術的にも最初に下りてくるのはこの場所です。
でも、その子はそう言わなかった。でも、村の役に立ちたいと言って、月に一度、いろんな村との交渉ごとに着いていったそうです。」
「魔法が堪能なら、護衛役というところか。」
「最初はそのつもりでした。野盗がいないわけでもなかったですし、何度か撃退したこともあったみたいです。
でも、その子は交渉ごとにも才があって、私もその恩恵に預からなかったかといえば、そんなことはなかったんだと思います。」
事実、その子のおかげで村は経済的に富んだということか。
「あの日は、そういう日だったんです。
あの子が村から出て少しした頃に、魔装を装備した一団が来ました。最初に、穏便な交渉で収めようとした人が殺されました。そのあと、その一団はあの子の居場所を聞いて、誰も答えませんでした。
順番に質問されて、誰も答えなかった。お前は答えてもいい、と言って、父が連れて行かれました。父は何も答えずに、穏やかな顔で殺されて、その亡骸を抱いた母が、魔法を撃ちました。
私、知らなかったんです。母があんなにも冷静に魔法を撃って、伴侶の死に取り乱さないような人だって。」
「……そうか」
「ごめんなさい。失望とか、落胆とかじゃないんです。
母の魔法は、洗練されていました。一度で三人を無力化して、死の間際に一発、狼煙をあげました。魔法の狼煙だったので、速効性はあっても長く持続しない。
それでも、私の番が回ってきた時に、あの子がきてくれました。林業で斧を振り回していた大人たちと戦闘することになって、相手も何人か死んでいました。でも、村の人たちはみんな死んでしまった。最後に残った私も、あの子の居場所を答えなかった。
それで、あの子と私だけが、生き残りました。」
資料に記されていた生存者はフォーティア・アンドレティア一人だけ。虐殺についても、魔装で完全武装していた一団によるものだとは一切記されていなかった。
「私はあのとき、あの虐殺が、仮想敵国の拉致だと思ったんです。だから、増援が来ると思った。私は弱くて、ちっぽけな子供でした。
だから、あの子が生きていくために私を連れるのは、むしろ邪魔だと思った。それに、多分疲れていた。
父と母の腕に抱かれて、死んでしまいたかった。あの子は、私のことを抱きしめて、森の中に消えました。あれっきり、会えてはいないけど、どこかで生きていて欲しいって、そう願っています。」
幼子ながらに、もうフォーティアは損得勘定に自分の命を加味していたわけか。
「どうしてそこまでしたんだ。
村人にとっては、その子一人差し出せば、全員が助かったかもしれない。いや、仮定を言っても仕方はないが……」
「いえ、……いいんです。あの子は、そういう魅力に溢れていた子だったから。それに、村のため、って。口を開けばそんなことを言う子だったんです。
私たちの誰も、あの子を見捨てられなかった。」
フォーティアの言う”あの子”が、もし生きていたとしたら。どう思うだろうか。
自分を生み、育ててくれた人たちを、自分に命を繋いでくれた人たちを、自分のために殺させてしまった。
考えが鬱屈するのは、私の悪い癖だろうか。
歯痒いものだ。私には、救うことのできる力がある。しかし、その力とは往々にして、救うべき場所と時間に、都合よく存在しないものなのだ。
だから私は。
「あのとき、君を引き取ると言ってよかった。」
あのとき、珍しく私にはその力があって、そこには、フォーティア・アンドレティアという少女がいた。
「はい。」
少し前なら、謙遜して礼の一つでも言っただろうが、フォーティアはそうして、ただ私に寄りかかるだけだった。
疑問があった。それは、私の核心にも通ずるものだと思う。
「そうまでして、なぜ君は、命を擲ったんだ?」
フォーティアは、もちろん、と継いだ。そのあとは。
「あの子の、未来のためです。」
⭐︎
翌日、私の技研にはいくつかのデータと、他学者らの考察が届いた。王室庁としてはなんとしても早く解決したい事案らしく、情報の機密性については二の次のようだ。
日記を解読した言語学者の仮説は、一万年前の古代帝国で戦争に派兵された兵士で、その最中に倒れ、救助用の大型魔装に乗ったのち、それが年月の堆積により地中深くへ埋まった、と。
遺伝子を解析した魔素遺伝子学者は、現行の人類との遺伝子的な差異はほとんどなく、認められる差異についても一万年という時間を加味すれば健全ですらある。故に、彼はトゥライオビーテの時代に生きていた人間で、その祖先に、私たちの知るクリティカル・フィログラフを持たない、と。
その他、様々な仮説が登場するが、私の疑念の全てを解決してくれるようなものはなく、仕方なく冊子を閉じた。
次の冊子には、私の機材の運搬や、あの部屋に続く亀裂の処理などを行った地質構造学の学者の概観が記されていた。
“今回行った運搬および障害物除去の作業において、自立型魔装の安定性に関するフィードバックを得ることができた。
しかしその過程で、とある構造学的矛盾を発見したので、ここに記しておきたい。
一つ目は、ダンジョンという地下空間の異様さである。岩盤をああもくり抜き、迷宮と呼ばれるほど入り組んだ構造は、到底自然に発生し得るものではなく、また持続できるものでもない。
壁面の硬さから、あのダンジョンが相当な深さの岩盤に面しているということに、ある程度予測はつけられるが、ああした構造では、大地の重さそれ自体に踏み潰され、圧壊するのが自然である。
二つ目に、そうした岩盤の硬さを、地表に程近い第一階層から確認できる点がある。全体の構造について解析の及ばない上下左右に広域な迷宮で、地層の多様な物質を一切加味しないかのような偶然の一致を、偶然と呼んでもいいものなのだろうか。
三つ目。あの空間に入ることが決まったとき、私は真っ先に呼吸の心配をした。適度な空気と適切な魔素濃度、地下では得難いそれを、あのダンジョンでは階層の深さにかかわらず得ることができるという。
確かに、私は呼吸器をつけたまま迷宮に潜る冒険者を見たことはない。まさか、あの空間全体を適切に換気、または遮断するような大掛かりな機構でもなければ、私はその説明に適切な考察を持たない。
以上が、私の発見したダンジョンにおける構造学的矛盾、あるいは疑問である。”
簡潔に締め括られたそれは、しかし実際貴重な文章だった。学者がダンジョンに入ることはない。故に、学術的不可解は、あの深い迷宮の底で不文律に組み込まれてきた。
執筆者の名前を見る。ノックス・ダイダス。彼はその瞬間、視覚を得たのかもしれない。迷宮の奥底に分け入り、その起源を遡る旅の覚悟を、しているかもしれない。
ノックスは寡黙な男だった。
私とある程度知識の擦り合わせをして、彼の手製のコーヒーを飲んだ。苦みの強い熱いコーヒーで、嫌いじゃなかった。旨そうにそれを飲んだ私を見て、フォーティアは鋭い目つきでノックスを威嚇していた。
「なにか、彼女を怒らせたでしょうか。」
「気にしないでくれ。だだの威嚇だ。」
途端、その刺々しい態度が、小動物の可愛らしい仕草のように見えてきた。
「で、君の結論は変わらないな。」
「はい。ワイズマン先生。あれは、」
ノックスは断言する。
「ダンジョンとは、人工物です。」
階層に拘わらない壁面の素材の一致、力学を用いなければ生まれ得ない規則的な空間、人間を窒息させない空気の制御。
全てを加味して、それ以外に結論はない。
封切られたこの迷宮の歴史。そこに、創造主の存在を認める。
「どうされるんですか。」
「迷宮に潜ってくる。二十四階層まで。」
「お一人で、ですか」
「いや、彼女も一緒だ。」
フォーティアに戦闘能力を期待しているわけではなかった。人には、適材適所というのがある。
「まぁ、先生は剣の腕が立つと聞いています。どうかお気をつけて。」
「ありがとう。だが、もう久しく剣は握ってないんだ。」
そして、私はお決まりの文句を放った。
「魔法で灼く方が速い。」
私たちがシャルロットに出会うため、二十四階層までの或る道のりは、三日前に冒険者たちがあらかた魔獣を狩り尽くしている。
ダンジョンは、私たちの侵入を易々と許し、ただの一度の戦闘もなく、第二十四階層に辿り着いた。
亀裂の奥、誰もいなくなってしまった、清潔な部屋が見える。
トゥリオビーテでダンジョンの壁面の大部分を占める物質の魔素波動力は観測済みだった。その色を、私は確かに覚えている。
ピンを抜いて、グラスを伸ばす。フィルターとレンズの間に適切な間隔が開く。小さな望遠鏡のようにも見えるトゥリオビーテを覗き込んで、棺の壁を観測した。
色は同じ、波長は、ダンジョンの壁面と遜色ない。
ため息を吐く。
「君の推察通りだったようだ。フォーティア。」
「……はい。」
「シャルロットは、核シェルターの中で死んだ。そして、その核シェルターとは、この小さな部屋のことではなく。
このダンジョンの、全てを指す。」
帰路、私はずっと考えていた。
謎を解決する糸口が見えた。そんな楽観的な思考ではなかった。むしろ謎は深まるばかりである。
こんなにも巨大なシェルターがあれば、魔族のようにそこに住んでしまってもよかったはず。土地は有限、人類の武器は繁殖力だ。
とすれば、彼らはこのシェルターを、シェルターの中にいながら増築していった。それは、魔族も同じはずだ。だからこそ、アトライアは魔都から離れたダンジョンの地下に棲息する魔獣についてを危惧していた。
であるなら、魔獣は一体どこから生まれた?
トゥライオビーテから派生した種ではない、というのなら、彼らの起源はどこにあり、そして、なぜそこに終着したのか。
考える傍ら、私の目の前に魔獣が飛び出してきたのを正しく認識していた。
人と同じような体躯と四肢を持ち、紫根の宝石のような体表をした魔獣。アドラグリネとかいう通称がついていた気がする。
視線だけで指示して、フォーティアに魔法を発動させた。不可視の防壁が、彼女を包む。
俊敏な肢体が私の腹を突こうと飛び上がる。その彼我の直線上に、詠唱の句を並べ立てる。稼げて四秒、私が口を開いて詠唱すれば、発声しきる間もなく文末を削り取る刺突に腹を割られる。
魔法の選択肢を放棄して、ステータスタグに命令する。
私の頭部と四肢を走った擬似魔力回路が、走った道のりを寸尺として提供する。仮想の重心が、私の真芯を貫いた。
腕の振りかぶりが膂力を遠心力へと転化し、スピン運動の加速度となる。確固たる重心は、踏みしめた右足が身体を浮き上げても尚、その本懐を投げ出さず、翻ったローブの隙間から回帰した右足に、一切の無駄なエネルギー損耗を強いらない。
敵の右腕の上腕部、胴体と接合する弱点を起点に、私の右足はその宝石を粉々に打ち砕いた。
重心は、微かな魔力消費と引き換えに、私を無事に着地させ、魔力回路の触手を引っ込めた。
腕を失ったアドラグリネは、幻肢痛のようなせん妄に片腕の在処を探し、何も掴めなかった腕がやっと欠損を理解する。
そうか、魔獣は、極端に視力が低い。故に、この魔獣は斯くも盲目に……
この魔獣は、盲目に。
視界の端、フォーティアが小さく詠唱しているのが聞こえた。教えた通り、同士討ちを避けるための手信号の準備をしている。そして、それで……
「撃つなッ!!」
最後の一節を言い終わらないうち、私の怒号が魔法を蹴散らした。杜撰な詠唱で魔法を構築し、私の流した魔法が、ダンジョンの床を陥没させる。小さな衝撃波によって内から崩れた小さな窪みに、アドラグリネは足を取られて転倒した。
すぐさまフォーティアを抱き抱え、私は駆け出した。
仕留め損なった魔獣を放置して逃げるのは、迷宮でのマナー違反。けれど、私はなにも意に介さず、ただ走った。
その二十分余りの時間を、ただ恐怖していた。
こんなにもおぞましい場所に、一秒でもいたくなかった。
そんな私を嘲笑うように、ダンジョンは、一体の魔獣すらも寄越さなかった。
⭐︎
技研の三階には、ブレイクタイムに丁度いいくらいの広さのバルコニーがあった。両隣には部屋があり、上階もあったので一面だけが開けた部屋のように使えた。
坂道の多い王都の眺めは、技研から見ると眼下にあたる。夜景は壮観だった。
私は、倉庫からひっぱり出してきていた煙草の箱を握り、何度も、何度も樹形図のデバックを試行した。そしてその度、腕を砕かれた魔獣が、宝石のような瞳で私を見つめている。
湿気ってしまって風味も雑味もない混ぜになった煙草を咥えながら、私は祈るように詠唱した。私は、祈る神を持たなかった。
だから、魔法に祈った。祈りは、やがて小さな灯火を生じさせ、煙草の先に明かりが芽吹く。
吸い込んだ煙は、意外にもすぐに臓腑に沁み渡って、乾いた喉だけが痛んだ。
吐いた煙は夜風にくしゃくしゃにさらわれて、たちまち夜景の明かりに眩んでいった。
再び口をつけたところで、視線に気づく。ここまで近づかれてもわからないとは、鈍っただろうか。それとも、それほどまでに、心を許していたのか。
「……フォーティア。」
私の妻は、疼痛に顔を歪めるように眉間を寄せていて、あるいはそれが、泣き出してしまう寸前にも見えた。
「すまない。すぐにやめる。」
「どうしてですか。」
「……君が、……怒っているように見えた。」
なんとも情けない話だったが、私の発した言葉には、本当にそれ以外の含意がなかったのだ。
私が火を消すよりも前に、フォーティアはそっと距離を詰めた。
「あなたは、ずっと、ずっとそれを我慢してきて、今日その我慢が突然できなくなって、私に隠れてここに出てきたんですか?」
直感でそうではないと思った。
「いや……多分違う。」
良いも悪いもない草臥れた味に、ただただ思考が煙るだけ。そういう無理解を、私は求めていたのだ。
「怒ってるか……?」
「あなたが辿り着いた結論を、どうにもできなくてそこに逃げたんですね。」
「……ぁあ。そう、だな。」
「じゃあ……怒ってます。すっごく、これまでにないくらい。」
不貞を働くようにコソコソと煙と逢引きしていたほうが、彼女の逆鱗に触れることはなかったのか。動機の不純は、いつだって関係の亀裂だ。
「私というものがありながら、そんなものに鬱憤をぶつけて、吐き出してたんですね。」
力いっぱいにぶつけられると、痛いものだ。
「じゃあ痛がらせてくださいよ。いつまで小娘だと思って接してるんですか……もう私、二十四になります……!
あなたと過ごして、何も知らないただの女の子でいられた時間なんて、もう過ぎてしまったんです。その責任取ってくれるっていうから、私はあのとき……」
偽物を、本物にした。
そうか、もう君と出会ってから、四年近く経っているのか。
「あなたが痛がってるなら、私も、一緒に痛がりたい。あなたのその痛みをわかってあげられないなら、代わりに血を流したい。
私はそういう未来のために、あなたと出会ったんです。」
きらきらと輝いているフォーティアの瞳。涙に潤み、宝石のように見えた。綺麗な切れ長の瞳が、見上げるように私を見ている。
「すまなかった……」
「じゃあ、もっと乱暴にしてください。」
「それは……、できない……」
「ん」
両手を広げて、さぁ!と意気込んだ華奢な躯。
結局強く力を込めることもできないで、中途半端な抱擁で彼女を抱き留めた。
「もぅ……不器用な人、なんですから。」
「そうだな……」
「乱暴してくれないなら、諦めます。
だからせめて、あなたのその痛みくらいは、私に分けてください。」
フォーティアは、いつか云ったように笑った。
「もう、全てをわかっているんでしょう?ワイズマン」
⭐︎
どこから話すべきだろう。
私のベッドに潜り込んできて「今すぐに話してくれないと寝かせません。」と同衾したフォーティアを前に、思考がそのプロセスを遡行した。
「一度目の世界。のちに古代帝国と呼ばれる国で、核シェルターに逃げ込んだ国民がいた。かつてのシャルロットたちだ。もちろん、原因は一度目の世界の戦争で、その脅威から逃れるための苦肉の策だった。
だから、彼の時代、地上は魔核輻射に灼かれ、到底活動できるような場所ではなかった。」
彼の手記に記されていた内容は、おおよそそういった話だった。
「シェルターは、きっとすぐに満員になって、増設を余儀なくされた。他のシェルターと繋がり、その構造は複雑化する。そして、ある一つの地下都市の様相を呈していく。」
そして、その活動の最中だ。
「彼らは、著しく視力を落としていったのではないか。急拵えの増設と、陽の光の届かない世界は、視覚というものの存在を、酷く不要に思わせたはずだ。
そして、彼らの遺伝子は傷ついていた。魔核輻射は、その生命の設計図に、変質を要求する。
視力は退化していき、弱身症に死ぬ個体も少なくはなかったはず。しかし、生き延びた個体はやがて子を成し、その子供には、視力がなかった。
あるいはその子供は、硬い地下を掘削するための鋭い鉤爪を持って生まれてきたかもしれない。またその子供は、種を残すという本能のために、遺伝子差異を突破するほどの繁殖力を身につけていたかもしれない。そしてその子供と、その子供と。やがて彼らは、知性というものを、退化させていったかもしれない。純粋無垢な、生存本能として。
彼らの世界を滅ぼしたのは知性だ。故に、そういった進化、あるいは退化をした。」
もう、ここまで話せば言わずともわかっただろう。
「ダンジョンとは、彼らによって拡張された核シェルターだった。そして、そこに蔓延る魔獣とは、」
口に出すのは億劫だった。しかし、私はひと思いに、ファーティアの心に爪を立てた。
「変わり果てた、彼らの成れの果てだったんだ。」
魔獣の遺伝子が、解析できないほどに捩れ、ズタズタに引き裂かれている原因。それは、複雑な人間の情報を、さらに複雑に混合させ、あらゆる多様な種へと枝分かれしていった、その衝撃波の名残。
そして、魔核輻射によって傷つけられた彼らの身体情報は、その名残を強く強く刻まれた。
「ゴブリンは、どんな生物でも妊娠させる。しかし、その対象の多くは人間だ。それは、人間との遺伝子差異が、極端に少ないからだろう。」
魔獣の多くが視力を失いつつある遠因。魔獣に秘められた力の起源。その全ては、あの迷宮に眠っていた。奥底ではない。あの空間全てに、蔓延していた。
当然だ。彼らは、トゥライオビーテが生まれるずっと前から生きてきた人間だったのだから、その子孫であるはずがない。彼らは人間としてあの場所に終着し、魔獣として終焉した。
「シャルロットは、それに従えなかった。
彼だけがああして人の姿を保っているのは、視覚の退化を感じ取った彼が、自分の姿を失わないうちに眠りについたからなのだろう。あの部屋こそが、彼の寝室だ。
彼は、誰かを待っていた。しかし、その誰かが、自分が生きている間に来るかはわからなかった。もし、死後会いにきた誰かが、あの魔獣の群れに囲まれれば、その誰かは、なにを探しにきたのかもわからなくなる。
だから彼は、自分の死体という確固たる証拠を残した。私たちは人間だった、彼は、そう言いたかったんだ。」
全てを話し終えた私に、フォーティアは優しかった。暖かな手が私の頬を撫で、熱い涙が胸元を濡らした。
「同族を殺してきた。数えきれないほど。
彼らは、何かを残すために、あんな姿になってまで生き延びた。その結果が、私たちに殺されることなのか。
彼らは、なにも、なにも残せなかったではないか。」
私たちは、自らのために、何かを残そうと知性すら捨てた同族を殺してきたのだ。一体、なんのために?
彼らの存在理由はなんだろう。私たちの存在理由はなんだろう。彼らに、どんな最期を与えてやればいいのだろう。
「ね、先生……」
彼らはなぜ、命を擲たなければならなかったのだろう。
「きっと、未来のためです。」
私は、全てをわかった気がした。
⭐︎
「死してなお、何かを残そうという試み。貴方は全く、そのことを理解していたのだな。」
色とりどりの花に囲まれた、小さな墓跡。技研の中庭にある賢者の遺したもの。私は、これほどまでに考え抜いても、貴方には遠く及ばないようだ。
「貴方が辿り着いた答えに、私は、一万年以上かかって、やっと相見えた。」
トゥリオビーテが、太陽に煌めいている。
「先生!コーヒーはいりましたよ〜!」
三階の窓から、フォーティアの出し慣れていない大きな声がした。一階と二階にいた休日出勤の職員たちに、生暖かい目を向けられる。
手当を弾んでやるから、どうか勘弁してくれ。
三階に上り、バルコニーに出た。
湯気を立てるコーヒーの前に陣取り、先に座っていたフォーティアと視線を合わせた。
「これは推論で、正直、根拠でいえば乏しいと言わざるを得ない。だが、私はこれが、真実である気がしている。」
「はい。」
柔らかな相槌。微かに頬をくすぐる風が、緩慢に吹き抜けていった。
「シャルロットが待っていたのは、未来の人類だったんじゃないか。知性すら無くし、生活領域を押しやられても尚、自分たちは未来のために生き抜いた。だからどうか、その先の未来に繋がった、私たちの姿を見せてくれ、と。
シャルロットは最期に、そう書き残したのではないか。」
彼は、もっと短いスパンでの話をしていたのかもしれない。自分たちの世代の、次の、次の、次の世代。彼らが地上に進出し、自らの起源を追い求めて、あの部屋を訪れると。
しかし、そのうちに一万年が経ってしまった。
「シャルロットの直系の人類は、彼を迎えに行くことができずに、魔獣となって地上に出ることはなかった、ということでしょうか。」
「普通に考えればそうだろうな。彼を見つけたのは、同じような種族ながら、起源の異なる別の種族。」
しかし。
「そう考えると、最初の矛盾はなんら解決されていないように見えるんだ。」
私がトゥリオビーテ・スコープで導き出した、彼の一万年前の出自を否定する材料。
「彼は、魔核輻射の影響で急速な退化を遂げた。しかし、彼の遺伝子に損壊はなかった。」
「……矛盾ですね。」
「ただ、それそのものに、私はある過ちを犯している。」
損壊がない。遺伝子的に一万年の経過を考えれば健全。
私たちは常に。
「私たちは常に、私たちの遺伝子を”正常”として彼の遺伝子の損壊の具合を測定していた。」
私たちは、正しい遺伝子の構造を知らない。神か、創造主か、それが作り出した遺伝子が、その御心のままに動いているとは決めつけられない。
ともすれば私たちは、壊れたプログラムで動いているかもしれない。
「私たちは、自分たちと比べることでしか損壊を測れなかった。つまり、損壊はなかった、と言う結論は間違っているか、言葉が足りない。」
私は、こう結論づけるべきだった。
「彼の遺伝子は、私たちと同じように壊れている。」
私たちは、私たちの基準で彼を観測した。では逆に、彼の遺伝子と私たちの遺伝子が同じとは考えられないか。
魔核輻射によって損壊した不健全な遺伝子を、私たちはシャルロットの世代から継承し、その不健全を、徐々に健全と錯覚し始めていたのではないか。
一万年前、弱身症は、魔核融合炉のエンジニアしか罹らない病だった。決して、魔核輻射に縁のない一般人が罹患する病ではなかったのだ。
私たちは既に、壊れている。
「それでは、私たちは……魔獣の子孫、ということになるのでしょうか」
「それもおそらく違うだろう。魔獣の遺伝子は、私たちに比べて壊れ過ぎている。あの損壊は、不可逆と思っていいんだと思う。」
ふと、ある光景が浮かんだ。
巨大な河川の流域面積の中央で、誰もいない世界を駆け抜けていく。
「一度目の世界で、とある高速艇を運転したことがある。」
疑問符を浮かべるフォーティアに、自分が荒唐無稽なことを言っている自覚はあった。
「その船には、私には読めない人間語が書かれていた。語感的には、コレイル、というのに近かった。グラフィティーアートで、字体も崩されていた。あれを施した人物は、もしかしたらアーティスティックな人間で、ブランドのような付加価値にも、理解があったんだろう。
しかし、もしあれが、コレルと読めるのであれば。」
手記の内容を見るに、コレルとシャルロットは相応に親しかったはずだ。そんな二人が、なぜ袂を分かち、片割れに一万年もの孤独を与えたのか。
「コレルは旅立ったと書かれていた。魔核輻射の照りつける地獄の大地を、旅に出た。彼の遺伝子も、相応に損傷しただろう。しかし彼は、海まで辿り着いた。
シャルロットたちが急激に退化を遂げたように、コレルも、急激な進化を起こしたかもしれない。彼には、それに値する遺伝子の損傷があるはずだ。」
汚染領域を避けていた私ですら、死からは逃れられなかった。コレルは、一度目の私よりもよほど酷い有様だったはずだ。
しかしそこで、急激な環境の変化を自らに強いたのなら。
「暖かな河川が、海にぶつかるところ。低体温症の危険が少なく、栄養素に富んだ海中。地下ではなく、海に、彼は住処を移したのではないか。」
「え、それって、どういう……」
「いや妄言だ。何一つとして根拠はない。だが、海水は、魔素輻射を多少なり軽減する。事実、魔核発電施設では海水を使用していたらしい。」
もしコレルにその知識があり、同時に、地下シェルターでの末路について思い当たる想像力があったのなら。
「彼は、数世代しか続かないであろう知性にではなく、自分の人生を棒に振ってでも、進化しようとしたんじゃないか。その可能性に、賭けたんじゃないのか。」
徐々に海棲になっていく進化。彼は伴侶を連れていて、そのほかにも仲間がいたかもしれない。そうであれば、海棲への進化は数世代で成されたものかもしれない。
しかし、彼は魔素輻射による影響を受けにくい且つ、地下シェルターのように進化が退化に転じないような豊富な土壌を持ち、生命の源とも呼ばれていた”海”に、コレルは託した。命を擲った。
「決定的な証拠に対する、唯一矛盾が起こらない推測だ。
コレルは魔核輻射によって遺伝子が損壊していた。そして、その程度は、おそらくシャルロットと同じだった。彼は海棲生物へとバトンを繋ぎ、その遺伝子は、今。」
私たちの拍動を刻んでいる。
「先生……あの、もう一つ。私の、ロマンチックすぎる妄想を、追加しても……いいですか?」
「ああ。聞かせてくれ。」
「コリルとは、もしかして。トゥライオビーテ、なんじゃないでしょうか。」
海棲生物となり、私たちに受け継ぐ遺伝子を持って、彼は、あるいは彼の子孫は、視覚を失った。盲目となり、しかし地下シェルターと違い、海には生命力が満ちていた。
再び、進化を迎えたそのときに、トュライオビーテは視覚を得た。昏い、暗い地下の奥底で、眠る友人を迎えに行くために、その目を開いた。
やがてそこから、現行の生命への分岐が始まっていく。
トゥライオビーテが、私たち人類に進化した速度は、その存在を疑惑させるほどに速い。しかしもしそれが、進化ではなく、回帰だったのなら。
彼らは、進化する先の生物の名前を知っていて、生存戦略を知っていて、そして、かつては、その生物だった。
コリルは賭けに勝ち、人類を再興させた。
「であれば、私たちは、シャルロットの直系の子孫に当たる。そして、コリルの子孫でもある。
君のロマンチックな妄想が正しければ、私たちは、盲目になってしまったかつての同胞と再開するために、その視覚を得て、あの部屋まで辿り着き、コリルとシャルロットの約束を果たしたことになる。」
古代帝国人。あの地下で、あの海で、何をも残せなかったと決めつけた彼らが、私たちに残したもの。彼らが、残したもの。
「彼らは、私たちに未来を遺した。現行の人類にも到達できていない、偉業を、先人たちは成し遂げた。」
復讐に捕らわれるでも、虐殺に明け暮れるでもない。ただ、未来のために、戦った。
「君に、どうして命を賭けたのか、と聞いたことがあったな。」
「はい。」
「あのときの君の気持ちが、そして、彼らの気持ちが、」
賢者だった、少女の気持ちが。
「痛いほどにわかる。
未来は、彼らの望んだ通りのことばかりではなかった。私たちは少なくとも同族を手にかけ、生きる糧としてきた。しかし同時に、あの部屋へと未来を繋いだ。」
君が、君の両親が、そして、君の村の人間が残した未来。その未来も、いつか。いつか、君を報わせるほどの未来に結実する。
「そういえば、君の助けた子の名前は、なんだったんだ?」
その未来は、どんな姿形をしているのだろう。
フォーティアは躊躇うこともなく言った。
あの子の名前は。
「オルテンシア。」
⭐︎
私は騎士団の仲間と笑い合った。まさか、宮廷入りしたあとに、わざわざダンジョンに潜ってくる日が来るなんて、とそんな話をした。それで、剣を示したのだが、私の鞘には剣が入っていないことを忘れていた。
酔って無くしたんだ、と少々の笑いを誘ったところで、私はその亀裂の奥を見た。
仰向けに転がり、淀んだ瞳で空を見る死体。その瞳と、弱々しい表情に、堪えきれないほどの激情を抱いた。
彼は一体誰なのか、そして、なぜ私は、こうも感激しているのか。まるで、魂の内側から湧き上がるような高揚に、私はある蓋然性を得た。
しかし、そこに論理はなかった。ただ、私の本能的な感覚のみが、納得しただけだった。
トゥリオビーテは、いま、この場所を切り拓くためだけに、その視覚を得て、私が開発したのだと思った。
まだ、名前も知らないその死体と、私が名付けたこの魔装が、そこで邂逅する。
そこには、計り知れない過去が眠っている。
⭐︎
「どうしてそこまでするんだ。君も私も、最期の矜持すら保てずに死んでいくというのに!」
もう、二度とは会えない。
コリルはこれから、死の大地を歩き、やがては瘴気に呑まれ死に絶えるだろう。しかしそれでも、コリルは頑なにシェルターに入ろうとはしなかった。
「きっとまた会えるさ、兄弟。」
もしかしたら千年、一万年、一億年後かもしれないけどな、とコリルは気丈に笑って見せた。
「君は、どうしてそこまでするんだ。なぜ、命を擲つ!」
シェルターは、コリルの手によって完全に隔離されようとしてた。後生最後の彼の問いかけに、コリルは「そんなの決まってるだろ、兄弟。」と前置いてシェルターを閉じた。
くぐもった声だけで、彼はコリルの表情を推し量るしかなく、頭の中で必死に彼の顔を描いた。
最後にコリルは言った。
「未来のためだ。」
その言葉を最後に、どれだけ拳を叩きつけても、彼の声が返ることはなかった。