非ジェンダイン計画
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確か、十四歳の頃だったと思う。
地下迷宮の探索に明け暮れて、人間狩りの連中と出くわさないために夜中から探索していた。
ステータスウィンドウを開く回数は、冒険者をしていた頃の方が多くて、勝手を忘れてしまったマッピングも、昔は多少上手かったはずだ。
なにかの折に診てもらったとき、私の記憶の処理の仕方は、普通の人間のそれとは違うというようなことを言われた。故に、迷宮に潜っていた頃の記憶は、あまりなかった。
それでも、私はあの日の出来事を信じられないくらい鮮明に覚えている。
あれは、人魔大戦の束の間の終息、その親交の証として、ホットラインという鉄道区間が開通したときだった。
思い出してみれば二年と四日しか続かなかった路線ではあるもの、その意義は十分にあったといえる。
私はそれの、三等個室四号車17番のチケットを買った。
この世界の旅客鉄道の概念は、どちらかというと航空旅客に近い。航空機、というものの開発が軍需による開発に云々、という事情もあって、長距離移動の手段としてはまず第一に鉄道が選ばれ、その所要時間の需要は、快適な個室に結実した。
三等座席の個室は、列車のトイレくらいのスペースにシートを一つ置いて、窓ひとつない中揺れるランタンを眺めるくらいしかやることのない座席だった。
車輪が線路のわずかな間隙を跨ぐリズミカルな走行音と、それに呼応するランタンの光の屈折を、薄闇の中で俯いた耳が冷静に拾う。それを五時間十二分続けた。
なにも、予兆はなかった。
ただ、夜中から潜って、一睡もせずに迷宮から出た時、眩しかった。理由は、多分それだけだったんだと思う。
魔獣から抉り出した魔石でぱんぱんに膨れた麻袋を、大きな車輪の台車に乗せて、ただ一人、黙々とギルドを目指していた。
暗がりに慣れきった目に飛び込んでくる光は、容易に理性など眩ませてしまって、死に傾きつつあった精神のバランスが、小さな断末魔を放った。どこかに、行かないと。
魔獣を殺すたびに開いていたステータスウィンドウには、いつも端的に“魔王を殺せ”と書いてある。
報酬もなく、納期もない。催促もなく、進捗もない。
だから私は、どこかに行く言い訳に、それをあてがったわけだ。
コールス・ジェンダイン駅に辿り着いて、唖然としたのを覚えている。私は一体、何をしているんだろう。
いい加減鬱陶しくなった宿願を、ついに果たそうとしたのだろうか。あるいは、魔王という強大な存在に完膚なきまでに打ち倒されて、死にたかったのだろうか。
わからなくなった私は、巨大な駅のホームの上で、他人行儀な切符を破り捨てた。自分の未来に対して驚くほどに見通しが立っていなかったから、片道切符だった。
私は行く当てもなく、ただ、明日も迷宮に潜って魔獣を殺すだけの生活が嫌だった。その運命への、矮小なる反抗のつもりだった。
それでその勢いのまま、何かが変わって終えばいいのに、と思ったのだ。
その反骨精神は、やがて短絡的な論理を経て、自害という劇的な変化に乗り出すはずだったろう。だから私は、あそこで彼女に出会ったのだ。
「妾を、殺しに来たのか……?」
その女は、ボロ切れのようなローブを着ていた。顔を認識できなかったのは、魔法のような代物ではなくて、目を引く桃色の長い前髪と、ローブが邪魔だったからだ。
震えた声音に意識を囚われたとき、私は一つの結論に辿り着いた。論理は不明だった。
「お前が、魔王なのか。」
「あぁ、そうだ。そう、なのだよ……」
そのとき彼女は、たたらを踏んで崩れ落ち、私はその肩を抱いた。慰めの言葉が思いつかなくて、というより、そんな義理はないと思って、私は彼女の名前を呼ぼうとしたのだ。
けれど、私は魔王の名前を知らなかった。
私があのときフルネームを呼べたのは、私が殺さなければならなかったヴィヴィ・インソープロの名前だけで、その人を慈しむために呼ぶための名前を、何一つとして持ってはいなかったのだ。
いつも私を心配してくれていたギルドの受付嬢の名前も、少し前にパーティーを組んだ首長の名前も、そのときの国王の名前も、私は何一つ記憶していなかった。
自分の名前すら、流暢に名乗れたか怪しかった。
魔王は泣いていた。
誰も、それが魔王だとは気づかないほどに。実際、誰も気づかなかった。ただ、魔王は、人間の言葉がわかるのだな、と漠然と思った。
ただ震えるだけの魔王は、私に年を問うた。私は答えた。すると彼女は最後に一言だけ言ったのだ。
「それじゃあ、また十四年後に、会いにきて。」
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「先生、あの……」
「経費にするつもりはなかったんだがな。うちと宮廷の経理が、それくらい使えと言ってきた。今なら、ついでにスウィートルームの宿泊費も経費にしてやると言い出す始末だ。」
「そうじゃなくって!……一応、終戦間近ですが戦時状態ですよ……?」
エクス・テック旅客鉄道の一ヶ月限定路線のチケット。
人間側、魔族側、どちらの人間が出資し、また運営し、そして代表を務めるのかもわからない新興企業。
彼らは、旧ホットライン線の廃線となった路線を整備し、一ヶ月限定で特急列車を運行するというのだ。
「君の分の切符も、一応取ってはあるが。
不安があるようなら、来なくてもいい。私としては、一緒に来てくれれば嬉しい。」
「っ!ぃ、きます、けど……私は、あなたが心配で……」
彼女は常識的な人間である。私がやろうとしていることが荒唐無稽なことであるとの反駁は、全く正しい。
そう考えれば、これをまさか魔王が認めるとは。
そこでふと思い出した。
「ティア、少しいいか。」
技研のオフィスから一部屋跨ぎ、私の書斎で声を潜めて切り出した。ステータスウィンドウを開き、彼女の隣へ座る。
誤解されるだろうか。反対されるだろうか。けれど、この宿願を共有しなければ、私は。
「私には、殺さなければならない者が二人いる。
一つは、合理的理由において肯定されるであろう人物。
もう一つが、魔王だ。」
息を詰まらせたフォーティアに、私は自分のステータスウィンドウのとある項目を指した。
───魔王を殺す。しかし、ここに時代的解釈は加味しない。
それは、なんの合理的理由もなく、私の個人的感情において如何なるしがらみを持たない。
「私がこの世界に生を受けてから、この欄は埋まっている。誰にも編集はできないし、消える気配も一向にない。」
「だから、……殺しに行くんですか……?」
少し心外だった。私は、そんなにも意思薄弱に見えるだろうか。しかし、かつての私はそうだったか、と思い直す。
「もう行った。だが、……結局殺さなかった。殺せたかもわからないがな。」
「あなたは……強いでしょ。」
「魔王を殺すのには、勇者の剣がいるんだ。そして、勇者という地位がいる。精神的な話だ。」
受け流した私に、フォーティアは不満気だった。それではどうして、きっとそんなことを思って、同時に、その瞳だけで私に聞いていた。
「殺すべきではない。あのとき、十四年前、そう思った。だが、再会を約束した。」
彼女は、泣いていたんだ。
「少し、懐かしいな。」
私は、微笑んだだろうか。そう感傷しただろうか、言い終えた後に、よくわからない場所に口角があるのに気づいた。
「昔、なにがあったんですか……魔王は、女性です。私に言えないような何か……ないですよね……っ?」
ふと、彼女の含意がよくわからなかった。
フォーティアに言えないようななにか。それは、この婚姻関係に関係するような、なにか。つまりは。
「私が、魔王とそういった関係を持ったと思ったのか?」
「……、」
こくり、とフォーティアは頷いた。
笑い飛ばしてしまいそうな大恋愛だ。私たちは、あの会話でしか繋がっていない。
私は、彼女が好きなものも、彼女のこれまでの人生も、その名前すらも知らないというのに。私たちは、種族すら共有していない。
ではなぜ私は、あんなにも前の、それも、あんなにも曖昧な約束を、果たそうとしているのだろうか。
思索に無言になるのは、私に限ったことではなかっただろう。それが図星だったからだと思われたくなくて、彼女の頬を撫でた。
「っ……」
まだ拗ねたような瞳が、私を見つめている。
「しないの……?」
疑問符をつけてはいるものの、それはキスをしろ、という命令なのだと私は知っている。やぶさかではなかったが、別の女の顔を思い浮かべながら口付けする方が不誠実な気がして、手を引いた。
「……浮気したら……許さない。」
私の胸に飛び込んできた、心配になる程軽い身体を抱き止める。どうしてわざわざ、こんなに素敵な妻を差し置いて不貞を働くというのか。
「君に捨てられたら、生きていけない。」
「うそつき。平然と、ふらふら生きていけるくせに。」
もう三年半になるのに、彼女はまだ、私への理解が足りていないようだった。
「君のせいで、そうできなくなったんだ。」
「っ、わたしの……せい?」
「君が私を起こしてくれる。君が私に朝食を作ってくれる。君が私の体を労わってくれる。君が私に愛をくれる。」
少し体を硬くした彼女の、その肩口で、私たちは小さく言葉を交わす。ほんの少し視界を傾けて、すぐ隣にあったフォーティアの側頭と触れ合った。
少しだけパーマをかけた柔らかな髪が、頬をくすぐる。
「本当に、見限ってしまわないで、ティア。」
「……〜〜〜ッ!みんなのとこ、戻れない顔に……なっちゃうから……っ」
少し力を込めすぎた抱擁を解いた。
唇を引き結んで、頬が紅潮していた。私に馬乗りになったフォーティアは、ソファーのへりに手をついて、私の視線に気づくとすぐにその手で顔を覆った。
「見ないでっ……ください」
そうは言われても、私が身動きして彼女がバランスを崩したらと思うと、私は動くことができなかったから、その顔を見つめていることしかできなかった。
結局、また怒られた。
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コールス・ジェンダイン駅に下ろされると思っていた私は、聞いたこともない駅に下ろされて少々面食らった。
魔族語は、その文字のある程度の発音の仕方さえ知っていれば読めないということはないが、こと人名と地名に関しては別だ。
法則性などというものに固執することがいかに馬鹿らしいのか、といった風な振る舞いをし、初めて訪れる人間に無理解を強いる駅名や町名が頻出する。
「そうか、地下路線がなくなったのか。」
私たちが本来下りるのだろうと予測していたコールス・ジェンダイン駅までの路線は、一度地下に入り、終点から一つ前の駅あたりで空を望めるようになる。
おおかた、補修工事が地下まで及ばなかった結果なのだろう。
「先生……どうしますか?私、魔族語は日常会話程度なのですが。」
「私はある程度話せる。が、読むに至っては君の意見と同じだ。」
読み書きはある程度できる。そして同じように、どうせフォーティアも日常会話の範疇にないくらいには習得している。
問題なのは、ここが明らかな敵対国家であり、私たちが治安当局のような機関に不法に拘束されたとしても、出せる手札が限られているという点だ。
ちなみに、私が伏せている手札には実力行使と書いてある。
「だが、心配には及ばない。私は、魔王と巡り合うようにできている。そのうち出会えるさ。」
「先生には、そういう宿命でもあるのですか?」
「ともすればそうかもしれないな。でなければ、十余年前のあんな偶然は起こり得ない。」
「それに、私はとある地位を想起するのですが。」
行く当てもなく歩いた。
「一体なんだ?」
「勇者です。」
歩みが思わず止まる。
魔王を殺す、という宿願を強制され続けた期間。それは同時、私が勇者という社会的地位を忌避し続けてきた期間でもある。
それに、私ではない勇者は、ちゃんと。この線路の先で、王国に帯剣しているではないか。
努めて冷静に、止めていた歩みを逸らせてフォーティアに追いついた。
「人が少ないですね。」
「そうだな。」
私が触れられたくない部分に触れてしまった、ということへの自戒からか、フォーティアは平気そうな顔で新しい話題を提供してくれた。
自己顕示欲と好奇心を、ある精神の気水域で霧散させる。それが、彼女の素晴らしき部分であり、もどかしい部分でもあった。
「魔族は、“個”としての役割が強い。肉体的にも精神的にも、絶対数は少なく、その絶対数単位で能力が高い。
あんなにも窮屈に密集することでしかシステムを維持できない我々の方が、異常なんだ。」
確かに、駅のホームに人は少なかった。
だから、私は直ぐにでも、その姿に思い当たった。
ボロ切れのようなローブを纏い、桃色の長髪に瞳を隠す女。
私たちが近づくと、こちらに小さく歩み寄った女。
「妾を」
「茶番はいい。魔王のところへ、連れて行ってもらおうか。偽物。」
魔王にすり替わっていた魔族は、満足そうに眼を細めた。
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私たちを魔王城まで送り届けたのは、おそらく魔王が保有している自家用車で、フォーティアはそれに少々驚いていた。
王国には、魔素波動力循環機関を、ここまで小型化し、内蔵する技術はない。やはり、魔法力という指標において、魔族は人間と同じ領域にない。
外から聞くと少々耳障りな駆動音を響かせて、私たちを送った車は車庫の方へと消えていった。フォーティアの目は、どこか興味深そうにそれを追っている。
「それにしても、初めて来たな。ここには。」
魔族領、とはいえ、帰化して名誉魔族として生活する人間は、居なくはない。むしろ、魔素波動力魔法学や理論魔法力学の学者は、その傾向が強い。
私たちのように人間がここを訪れるのは、そう珍しいことでもないらしい。
想像していたよりは控えめな門構えの魔王城の前で、運転手だった魔族が語ってくれた。
「しかし、歴史的建造物という点では、これに肉薄するものはないかもしれないな。」
「えぇ。これが四百年余り前にはすでに建設されていたかと思うと、感慨深いものがあります。」
私は、フォーティアとそうしてささやかに魔王城への感想を交わした。
王城が華美に装飾されているせいで見劣りするように感じるが、むしろ合理主義に寄ったような厳粛な佇まいは、行政機関である、という本分を全く体で表している。
私は、ある独裁者の国の古い駅の庁舎を思い出していた。
しかし、その巨大さは王城にも勝る。
私は妻を連れ立って、草原を裂く煉瓦造りの道を歩いて行った。
「陛下は執務につき、臨時議事堂におります。」と、少々棘のある魔族に案内され、私たちは魔王城の中庭にある正十二面体の建物へと案内された。
極限まで装飾の削ぎ落とされた、規則的な配置の窓しかない建物だった。それを見て、自分の技研を想像したのは、少々思い上がりすぎだったかもしれない。
建物の中はおおよその予想通りで、誇りを被った魔法研究用の機材やデスクが、整然と並べられていた。
自分は入ることができないから、と私たちにある程度の道順だけを案内した魔族の言う通りに、私たちは廊下を進んで行った。
情緒に乏しい外観のせいで、まるで矮小に縮尺を取っていた私たちは、小さなホールほどの大きさの部屋に出たところでその認識を改めた。
その部屋は、四階相当の建物を一つのフロアで占有するほどの吹き抜けで、空間としての大きさは建物の半分ほどを占めていた。
どこに座っていればいいのかわからなかったので、明らかに魔王用の豪華な椅子に腰掛けようとしたものの、呆れたフォーティアに嗜められて近場の適当な椅子に座った。
家具の配置については、件のアスタ・アマテ神教の教会が近かった。
「なにか、急を要する法案でもあるのでしょうか。」
「そうだな……おそらく戦争はこのまま両者痛みわけで、なし崩し的に終戦する。とすれば、これまで国土と人的資源を費やしてきた一大事業は、大した成果もなく頓挫という形になる。
魔王は世襲制ではなかったはずだから、自らの免責のための最後の工作といったところだろうか。」
私が評した内容は、王国にとっても人ごとではない。
偽りの王によって運営される我が国も、戦争における責任の追求はま逃れまい。おそらくは、国軍省のトップも同じような工作に奔走している頃だろう。
「辞められるなら、辞めてやりたいくらいなんですけどね。」
私の無感情な講評に、気怠げな声で反応したのは、もちろんフォーティアではなかった。
私が座ろうとした、言うなれば玉座。そこに、細身の魔族が座っている。
うなじのあたりで無遠慮に切り落とした黒髪と、妙なレンズの眼鏡。着崩した、というよりは気崩すほど、と感じさせる黒いスーツ。魔王軍の紋章をあしらったナロータイが、胸元をはだけさせるワイシャツにくたくたになって垂れている。
「魔王。」
「魔王は俗称なんです。この国は帝国ですからね。
妾は、皇帝。この国の公的機関に、妾を魔王と呼ぶ人はおりません。」
認識を正す。確かに、王政でない国の首長に対して、国王を連想させる魔王の呼び名は不適当か。
訂正しようとしたところで、私は再び、彼女の名前を知らないことを思い出した。
故にだろうか。彼女は私たちを見下ろして、名乗りとも言える文句を放った。
「また、妾を殺しに来たのか?ワイズマン。」
アーデンシュネー・アトライア。彼女はそう名乗った。
その相貌は、私が再会を誓った魔王とは随分と特徴が異なっている。それに、その口調も。
「襲名ですから、本当の名前は別にあるんですが、就任時点で前の名前は捨てることになっています。お好きに呼んでください。」
「そうか。ではアトライアと。」
アトライアは不服そうな様子もなく頷いた。
「代替わりしたのか。」
「ええ。十四年前から二回。」
「では、その二代前の皇帝と、私は再会を約束していた。彼女と話せるか?」
この国の皇帝の座に、生前退位があるのかわからなかったが、生きていようが死んでいようが関係はないかと思った。
無感情な瞳に、微かな痛痒が走ったような気がした。
アトライア、そんな名前だったのか。
「久しぶりだな。もう、泣いてないか?」
私は、駅のホームで泣いていた魔族と、全く違う魔族に、微かなノスタルジーを説いた。
「はい。久しぶりですね、ワイズマン。」
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「転生、ですか。」
「あぁ。彼女は、生まれながらにして魔王だった。そして、その特性、固有魔法といえばいいか?それが、転生だった。
何度死んでも、また生をリスタートし、常に魔王であり続けなければならないという呪縛。」
気が重くなるような宿命に、私はため息をついた。
アトライアは、すぐにまた執務に呼び出されて、旧交を温める間も無く出ていってしまった。
ゆっくりしていってください、と言い残した彼女にあてがわれた部屋で、私はフォーティアとブレイクタイムに勤しんでいた。
「なんで、わかったんですか?声も形も、違ったんですよね。昔の先生が会ったあのお方は。」
「前に会ったときも聞かれた。自分を殺しに来たのか、とな。あんな会話の内容を継承しても意味はない。なら、彼女はそのときの記憶を持っているということになる。
それに、あれから大体十四年になるこの時期に、おあつらえ向きの列車区間が復活したのも妙だった。
あれは、かつて出会った魔王からの、いささか巨大な招待状だったと考えた。」
おおよそ、その推測は正しいのだろう。
私がアトライアを彼女だと気づけなかったときのために、わざわざかつての自分と同じ姿の部下を駅に詰めさせ、ここまで案内させたのだろうから。
では、と継いで、フォーティアは疑問を呈した。
「アトライア様は、何故再会を望まれたのでしょう。」
それについては、私も計りかねていた。
まずそもそも、最初に出会ったときの彼女の様子からして変だったのだ。考えるなら、あの邂逅を加味しなければならない。
「少し寝ようか。朝も早かったし、列車でも寝なかったから少し眠い。」
「わかりました。綺麗に掃除されているみたいなのでベッドメイクは必要ないとは思いますが。」
「そうだな。君も好きにしてくれ。この建物から出るのは心配だから、できれば出ないでほしい。それくらいだ。」
「一緒のベッドに入るのは……だめ、ですか?」
「建物から出ないでほしい、という要望には抵触しない。」
「先生がいいか悪いか言って欲しかったんですっ」
機嫌を損ねたフォーティアは、先ほどの大部屋に戻ると言い残して部屋を出た。愛くるしい膨れっ面を思い出すのもそこそこに、私はベッドに入って瞠目した。
私の記憶処理は、常人のそれとはプロセスが違う。
高層建築。確か三百メートル近い高さで、最上階には展望台があった。半ばからへし折れ、黒煙を吐く今となっては、それも信じがたい。
私は、車を飛ばして高速に乗った。閉鎖されている対向車線から、とてつもない速度で何かが飛び立って行った。
おそらくは、敵国に核を落とすための爆撃用戦闘機か、ドッグファイトにスクランブルする戦闘機。
いくつかのインターチェンジを通過して、精算所のレーンに六速のまま突っ込んだ。吹き飛んだバーの破片が、フロントガラスを跳ねる。
横滑りする車体をなんとか制御して減速用の道路を通過し、一般車と救急車両の入り乱れる四車線道路に出る。
いくらかの車は、自然災害用プロトコルに乗っ取って道路脇で停車していたから、グリッドロックにはすんでのところで巻き込まれなかった。
都市部を抜けて、小さな山を一つ超える。その国道を十分ほど走った先に、我が家があった。
区画整備されたニュータウンは、その一角を爆心地として薙ぎ倒されており、しかし私の家は無事だった。
吹き飛ばされた窓ガラスを割って、土足のまま部屋に入る。両親はそこで死んでいた。ズタズタになった体から、黒い血が垂れていた。
もう一人の家族を探して、子供部屋を開ける。
どこかから飛んできた太陽光パネルが壁を突き破り、ダブルベッドを寸断していた。私の妹の体と一緒に、真っ二つに。
人は、大人になってからやっと、自分のための人生を歩み始める。私は、そんなことを妹によく話し、妹はそれに、微かな将来への不安と、或る夢や目標を語った。
けれど、妹は死んだ。
人間の人生が半ばで絶えるのは、その魂に対する冒涜だ。しかし、彼女はまだ、それでも。まだ、自分の人生を歩み始めることすらしていなかった。
私だけが、生き残った。
窓の外に見える、巨大な発射台。人工島の上に作られたそれが、私たちの街を発展させる要になっていた。そこから、二筋の軌跡が伸びている。
あそこで、大量破壊兵器の配備実験が行われた。宇宙探査用の発射台に、有事の際に迎撃能力を持たせる計画だった。
その実験の最中、奴がボタンを押した。
一つは敵国に向けて、もう一つは、自国に向けて。いくらかの巡行ミサイルも引き連れていた。
これから、戦争が始まる。人類は滅ぶだろう。
私は、どうすればいい。この持て余した憎しみを、人類の滅亡というセンチメンタルに消化できるだろうか。
私は。
私はそこで、とある人物に電話をかけた。
★
私たちが案内された建物の中には、たくさんの部屋がありました。
先生が興味深そうに見ていた部屋が一体何だったのか、私には魔法研究用の部屋だということくらいしかわからなかったので、再びそこに行ってみようと思いました。
扉のすぐ横にあった機械には、何層にも埃が被っていました。
「一体、どれくらい。」
「途方もない時間、ですよ。」
声は出さなかったけれど、びくっと肩を震わせて、声がした方を見ました。もしかしたら、小さな声くらいは出ていたかもしれません。
そこにいたのは、この国の皇帝である、アトライア様でした。
「元気ですか?フォーティア。」
「はい、……あの……」
なんでこの方は、私のことをそんなに愛おしそうに見るんだろう。疲れ切ってくたびれた瞳孔が、じんわりと角膜に解けていくように見えました。
「陛下は、何度目なのですか?」
私は、思わず聞いていました。転生という魔法が、本人にとっては呪いのようなものだと、先生から聞かされていたのに。私はデリカシーがないのでしょう。
機嫌を損ねた様子もなく、アトライア様は優しく答えます。
「もう数えていないんです。覚えてもいないし」
「いえ……あの、そうではなくて。」
私が聞いた回数は、貴方が呪縛を呪った回数じゃなくて。
「私たちの生きるこの世界は、何回目なのでしょうか。」
私たちが、自分達を呪った回数なのです。
少し驚いたようだったアトライア様は、流石、すぐに微笑みに戻って言いました。
「妾が生きてきた中でいえば、二回目ですよ。この世界は。」
なにか、根拠があって聞いたことではありませんでした。先生は、合理的に、論理的に、色々なことに疑問を持って、そこにある仮説を、ときには真実を暴き出します。
けれど私は、感覚だとかなんとなくとか、そういった非合理的で、非論理的な何かでしか、先生のやり方に近づけません。
それでも言語化するとしたら。アトライア様が、懐かしそうな顔をしたからでしょうか。
「人間や魔族、他の生物は、一度目の世界で、どうして滅んでしまったのでしょう。」
「文明の発展の先にあるのは、個人主義の不可逆的な肥大化であるのです。やがて、アイデンティティが世界に干渉する範囲は、一個人にとっては破格のものとなる。
一度目の世界は、今より文明が発展していましたからね。」
誰か、個人という単位で、世界の滅亡が起こってしまったということでしょうか。どうとも取れそうなアトライア様の言い草は、幼子を煙に巻くような雰囲気を纏っています。
「魔族と人間の敵対は、一度目も同じでしたよ。そして、戦端を開いたのは、とある人間だった。
その人間は、自国と魔族国家に戦略兵器を落とし、意図的に核戦争を勃発させました。核の在庫が無くなった頃には、地上の生物の九割が死滅していました。残りの一割は、少しの間、その世界のために各々死力を尽くして、そのあと、死にました。
一度目、世界の滅亡です。」
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頬を伝った一筋の水滴を、乱暴に袖で拭った。
頭蓋骨を内側から拡張するような鈍痛がしている。脳の記憶領域にある数多の記憶。その膨大な記憶が、アクティブになる。様々な記憶を引き連れて、やがて頭痛に転化する。
水差しの水をグラスに注いで飲み干した。よくわからない果実の風味がして、好みではなかった。
それほど時間は経っていなかった。もう少し、思い出してみよう。
戦争は終わった。
知性の従僕である人間がその本分に殉じたからでも、世界と親和する魔族が星の悲鳴を聞いたからでもない。
それは、ただのSold outだった。灼き尽くし、殺し尽くすための対象も、その手段も、何もかもが弾切れだった。
私はその頃、人体に有害でない地域の墓荒らしをする盗賊団の一員としていくらかの年月を過ごし、剣の使い方を教わった。
宇宙探査船のプログラマーは、もうその世界では必要ない適正だった。
弾や複雑な機構を有する武器を扱えるほど、世界は飽食の時代ではなかったし、剣技における身のこなしは、あらゆる戦闘での立ち振る舞いに応用が利いた。しかし私が盗賊団を離れるときになっても、師匠だった男に勝つことはできなかった。
当時、世界最大の河川であり、運河であった場所で、盗賊団は食料を調達していた。私はそこで、高速艇を見つけた。
運河は、河川を接続して魔族領に繋がっていた。盗賊団を足抜けして、一人でその船に乗った。操縦の仕方はわからなかったがなんとか動かした。
交通インフラはもちろん死んでいたから、私が魔族領に行くにはこういったものを見つける他なかった。私が盗賊団にいた理由だった。
その船には名前があったようだったが、誰かがスプレーで塗りつぶして、人名に見えるグラフィティアートを施していた。コレイル、と書かれていた気がするが、自分の国の人間語ではなかったから確信はなかった。
一週間常にエンジンを駆動させ続け、ついには船は動かなくなった。魔族領には入っていたが、魔都までは辿り着けなかった。
私はそこから歩いて、一ヶ月ほどを有り合わせの食料の自給自足で凌いだ。そして、やっとのことで魔都に辿り着いた。
「皇帝に会わせろ。」
そんな言葉で、私は電話口の女と、初めて顔を合わせた。
★
「妾には優秀な部下が一人いました。彼女は転生できなかったから、もう紹介することはできないですが。彼女と、もう一人、三人で、妾たちは研究していた。この部屋で。」
アトライア様は、億劫そうに片腕で部屋を指して懐古しました。
「魔法の研究ですか。」
「いいえ。そんな高尚なものではなかったですね、あれは。ただ、ある一人の人間を殺すための研究でした。
妾は、ただ純粋無垢な憎しみのみで、この部屋に詰めていた。」
話を聞く限りでは、一度目の世界の滅亡は、全て人間族の乱心に起因する。壮大な自滅に巻き込まれた魔族としては、当然憎しみも抱くだろうと思いました。
「……人間に、その愚かさを気づかせてやることはできましたか?」
「汝は、なにか勘違いをしているみたいですが。
この研究室の敵は、人間族、ではないのですよ。対象はとある特定の人間。愚かだったのは、魔族も同じですから。
それにここで研究した三人の中には、人間もいた。
妾以外の二人は、魔族と人間でした。どちらも、汝がよく知る人物です。」
「ぇ、私が……ですか?」
語られる、受け継がれなかった歴史の沈鬱な空気。私は多分、それには不相応な俗っぽい驚きを発したと思います。
アトライア様は大切に、大切に、その記憶を辿るように、研究室にあった様々な機械のボタンを、いくつか押していきました。
そのプロセスが、やがて、その先にある結果を導き出す頃。私はどこか、ある結論に達しつつあったと思います。
隠し扉が開いて、アトライア様はそこに歩き出しました。視線だけで私を連れ立って、小さな部屋に入りました。
そこは、談話室のような部屋でした。
研究所のような無機質さは一切なくて、各々の好きなものを、好きなように並べて、敷き詰められた個性に、壁も、天井も、床にも隙間すらありません。
とても、温かい場所のようでした。
「汝がこの部屋に入った、史上四人目の人物です。おめでとう。フォーティア・プロネーティア。」
呼ばれた先生の家名。私の姓。私たちが、共有する姓。
羨ましがるような声色に、私は赤面するくらいしか反応できませんでした。
アトライア様は、その部屋の中から、一冊の本ととある魔装を持ち出して、テーブルに置きました。
「そう、だったんですね。」
「妾の、小さな天国。それが、ここなんです。」
テーブルの上には、トゥリオビーテがありました。私や先生が持っているものとは細部が違っていて技術的には先進的に視えました。けれど、その構造は今のものと変わらない。
「戦争が終わって、わずか二百人ほどだった魔都に、ある人間が乗り込んできた。妾に会わせろ、とだけ言って、その人間は門番の魔族と決闘した。
勝てば入れてやると言われて、馬鹿正直に戦ったのだ。一対一で、人間が、魔族とだ。」
それは、あまりにも無謀な戦いであるように聞こえました。今の常識で考えても、きっと勝てるとは思えない。
でも。
「奴は勝った。彼の剣は、それは見事だったそうです。一太刀の鍔迫り合いもなく、門番の喉元に剣先を突きつけた。
ワイズマンとは、そのとき、初めて出会った。」
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皇帝に会うまでの道中、出会った魔族の全ては負傷していて、四肢のどこかしらが無い魔族も多かった。限定的な弱身症を煩い、切断を余儀なくされた者たちだった。あの時代、弱身症の症例は少なく、治療方法も確立されていなかった。しかし、そんな彼らも、私たちに深く頭を垂れた。
私にではなく、私を先導する魔族に対してだった。
なにも情緒的な感情もなく、ただ憎しみにだけ捕らわれていたのに、その魔族の姿を美しいと思った。
あまりに美しくて、彫刻に起こしてその姿を残しておきたいと思ったほどだった。興味本位で、私は名前を問うた。
その魔族はたしか、「アスタ・アマテ」と名乗った。
皇帝、アーデンシュネー・アトライアと、その側近だったアスタ・アマテ。三人で集った研究室で、私はこの戦争の諸悪の根源と、殺さなければならない人間の名を語った。
「ヴィヴィ・インソープロを、殺さなければならない。」
私たちは、そこで互いの憎しみが共有されていることを知った。そこからは早かった。私は、魔法と、魔素波動力に触れた。
魔族はあまりにも感覚的に魔法を扱うから、体系化もされておらず、魔素波動力という概念すらなかった。魔族の中でも最も強いと聞いたアトライアに、いくつか魔法に関する質問を投げかけた際、「なんとなくだからわからん。」と返されて何度か本気で悪態をついた。
私はトゥリオビーテを作り出した。魔法という概念に、感覚や理論とは全く違う、新しいアプローチを得るためだった。あのときはまだ、その魔装に名前はつけていなかった。
アスタ・アマテは理論屋で、その職域に足る意見をいくつか提供してくれた。その中に、魔法の“照準”があった。
研究に煮詰まると、私たちは研究室の隣の部屋で各々過ごし、タイミングが合えば、アスタの淹れた紅茶を飲み、私はコーヒーを寄越せと言った。
いつしか部屋には私物を置いておくようになり、私は魔装の専門書やカタログを並べ、記念製造の魔装をコレクションしたりした。
アトライアは、やけに凝った腕時計やネックレス、種々のアクセサリーの類と、それらの部品を自作する工作器具などを置いていた。
アスタの私物はもっぱら本で、国に関係なく、彼女の好きなジャンルの本が並べられていた。デスクでは、たまに自分でも何かを記しているのを見た。
研究室にいるときは、全ての感情の回路を憎しみにショートさせていた。いつも、家族の悲惨な死体のフラッシュバックが起きていて、アトライアとアスタも、たまに同じような眼をしていた。
けれど、一人で、あるいは二人で、三人で、その部屋にいるときだけは、私たちは、ある種の同窓生のような気楽さで、余暇を雑談に費やし、乳繰り合うような軽口の口喧嘩をした。
ある日、アスタはわざわざコーヒーミルやポット、フィルターなどを用意して私にコーヒーを振る舞ってくれた。そんな日に限って私は、紅茶にあうと評判の菓子を手に入れて机上に置いたりしていた。
あまりのすれ違いにひとしきり笑って、あとから入ってきたアトライアは不思議そうに私たちを訝しんだ。
ある日、アトライアは私に自分で作ったという腕時計をプレゼントしてくれた。その技術力への驚きが先行したものの、それは自動巻き機械式の腕時計なのにも関わらず、ほとんど時間の遅れや逸りを見せない性能のものであった。思い返してみれば、アスタは随分前から同じようなものを着けていて、アトライアなりの親愛だったのかと喜んだ。
ある日、私は二人の適性にチューニングしたトゥリオビーテをプレゼントした。「そういうことする人でしたっけ?」とはアスタの評で、心外とは思いつつも、彼女は後生大事にそれを使い続けてくれた。
アトライアは、やたらとそれを他人に見られるのを嫌っていて、身につけるより自分用の引き出しに大事に仕舞っているようだった。使わないなら返せ、と言うたび、「汝であろうとこれには指一本触れさせん!」と返す問答をしていた。
それから私たちは、確かにヴィヴィ・インソープロを殺すための研究を進め、そして、実行に足る根拠を見つけたのだと思う。
けれど、私たちが実行することはなかった。
アスタが死んだからだった。彼女は、同胞の魔族を助けるため、戦争中に爆心地の近くで救助作業をしていた。
そのときに患った弱身症は、着々と進行していて、その衰弱は一週間続いた。立ち上がるのも億劫なはずなのに、律儀に研究室まで毎日足を運んでいた。
最期は、アトライアの膝の上で彼女の両手を握り、しゃくりあげるほど泣いたアトライアを慰めていた。横たわった彼女は、私にも手を貸せと言ってきて、アトライアと私の手を握りながら、小さく感謝を述べて瞳を閉じた。
最期まで一緒にやれなくて、ごめんなさい。そんな言葉が、アスタ・アマテの最期の言葉だった。
次に順番が回ってきたのは私だった。あくる朝、半身の感覚がなくなっていた。その次には言語機能が不明瞭になり、流暢に話せていた魔族語が話せなくなった。
アトライアはそれから、下手くそな人間語で私に話すようになり、研究もやめた。私に、あらゆる貧弱な語彙でもって、自分がどれほど寂しいか、悲しいか、三人で一緒にいた時間が楽しかったかを話し、私はそれを心地よく聞いていた。
とうとう身体を起こすことができなくなり、アトライアは私の寝室でつきっきりになった。腕時計が私の手首に青痣を残すようになったので、彼女はそれを外そうとしたが、私はそれを断固固辞した。
最期の日、明らかに心臓の鼓動が弱まっているのを感じた。今日死ぬのだと思った。
恥をしのんでアトライアに抱きかかえてもらい、あの部屋まで赴いた。なぜわざわざお姫様抱っこなんだ、と冗談めかして言ったら、最期くらい顔を見ていたい、と皇帝らしくない女々しい言葉を吐いた。私が死ぬのはバレていたし、女々しいそっちが本性なんだろうと思った。
アスタがそうしたように、アトライアは私に膝を貸してくれて、私もそれが心地よかった。
「妾を、憎んでいるか?」
ここに来てから、三年が経過していた。
私は、その人生の短いラストシークエンスを、憎しみの発露に取り憑かれて過ごした。そして、彼女はそれを止めなかった。そんな義理はないし、なにより、私はその憎しみの中に、小さな幸せを感じてた。
そこが、私にとっての、小さな天国だった。
馬鹿なアトライアの問いには答えずに、上から降ってくる涙の水滴が邪魔だ、と言った。うるさい!とアトライアは私の頬に落ちた涙を袖で乱暴に拭った。
でも、お前を一人にしてしまうのは、本当に辛い。どうせ死ぬなら、みんな一緒に、寂しくないように死にたかったな。
その言葉は多分、口には出せていなかった。その小さな後悔と共に、私は死んだ。あの戦争の中で死んだ人間の中で、最も幸せな死に方をした人間だったと思う。
朧げな意識のなか、柔らかい口づけの感触だけが、やけに鮮明だった。
★
「妾は、皇帝だった。
民を、部下を、親しい者たちを、幸せに導いてあげるべきだった。でも、多分そうはできていませんでした。
あのとき、最期の時間を、二人は憎しみに費やしてしまった。憎しみは、未来を作らない。どんな感情をも、納得させはしません。」
アトライア様の語る様は、疲れ切った表情を、慈愛の双眸に塗り替えて、あるいは、歯痒い後悔に怒りを覚えるようでした。
「妾は、あの二人に殺されても、文句はいえない。妾は、正すべきだった。こんな憎しみに捕われてはいけない。自分のため、愛する人のために、最期の時間を使おう。
そう言って、あげるべきでした。」
先生にもらった時計が、私の左腕で秒針を刻んでいました。
「しかし妾は、許せなかった。魔畜の王が、平然と世界を自己都合で壊していく様が。黒い血を吐いて死んでいく、かつての師や、部下や、仲間を思うと。」
「魔畜の、王……?」
ふと言われた言葉に、私は理解を得られませんでした。
それは、まるで慣用句のようにアトライア様の台詞に登場し、その些細な様子は、何かを揶揄するような言い回しにも思えませんでした。
「あぁ、すまない。昔の差別用語です。駄目ですね、こうも生きていると、感受性が死んでくる。
人間という種の登場は、魔族より遥かに遅かった。それを揶揄して、魔族の劣等種、畜生である、というな論法で使われていました。
この研究室の殺害目標であった人間は、人間国の王でしたから、そう呼ばれていたんです。」
人間側の覇権国家は、かつても王政だったのでしょうか。果たしてそれが誰だったのか、私は気になって、その王の名を聞きました。
「名前は、ヴィヴィ・インソープロ。核のボタンを押した、張本人です。」
ヴィヴィ。
ヴィヴィ・インソープロ。幾度と聞いた名前でした。幾度と見上げた名前でした。でもそれは、アトライア様の語る三人の話とは全く違う意味を、私にもたらします。
だってそれは。
「勇者様の……名前、です……」
王国の最高戦力。それは、勇者の名前でした。
魔王と勇者。
それは、この世界の不文律です。
なんの明文化も、どんなシステムでもない、そうであるからそうなのだ、という公理です。
「ヴィヴィ・インソープロ。一度目の世界で人間側を率い、あの戦争を始めた人間。奴のことを、魔畜の王と」
ふと、そのアトライア様の言い草に、少しだけ、嫌な予感がしました。そしてそれは、言い切ったアトライア様によって、その通りだと理解させられました。
「ヴィヴィ・インソープロこそが、魔王と呼ばれていました。」
魔王。魔王城。
邪悪と魔の象徴。その名こそ、魔王でした。
そして、気付きました。魔族の方々も、アトライア様自身も、アーデンシュネー・アトライアという人物のことを、“魔王”と称したことはありませんでした。
それもそうでしょう。
魔族国家の首長は皇帝です。そこに魔を付与するのなら、魔帝とでも言ったはずです。
正真正銘、魔王という名前は、とある人間に与えられた名前であって、アーデンシュネー・アトライアという魔族と、その種族に与えられたものではありませんでした。
「困ったものですよね。蓄積された憎悪と確執を注がれた魔王という肩書を、妾はなすりつけられたんですから。
いえ、すり替えられた、というのが、本当のところでしょうが。」
「すり替えられた……あの、ではアトライア様が、」
「えぇ。爆発的に増加した人口と、強行的な政策によって魔族を脅かしてきた人間。そこで矢面に立って、個対個の代理戦争に持ち込んだ。」
妾こそが、とアトライア様はいいます。
「妾が、勇者だったんですよ。」
疲れた瞳。その奥に、世界の滅亡を跨いだ彼女の輪郭が、ずっと、ずっと。遠くまで、延びています。
★⭐︎
アトライア様が紅茶を飲もう、と言ってくださったので、私はその準備に名乗り出ました。瞳を和ませたアトライア様は「では、お願いします。」といって、隠し扉の先の部屋に入りました。
なんとなく、三人分の紅茶を用意してしまって、捨てるのも勿体無かったので、まとめてトレイに乗せました。
アトライア様が座ったテーブルについて、紅茶に口をつけます。場所は違いましたが、いつも通りに満足のいく味でした。
満足そうなアトライア様に、私は聞きました。
「アトライア様、私たちと、……一緒に、来ませんか。」
自分がこれほどまでに幼稚だったとは思わなくて、言葉尻はか細く、聞き取るのに苦労したと思います。
アトライア様は、一国の皇帝です。民を投げ出すわけにはいかない。
どうして私は、一緒に来ないか、なんて言ったのか。
ワイズマンと、私よりもずっと前に出会っていて、それでいて、死の瞬間までをも共にした。そのことに、劣等感を抱いたとか、そういうことではなかったのだと思います。
もちろん、少しだけ嫉妬はありました。
でも、アトライア様はこの場所を、あの関係を、小さな天国と呼びました。
それは、途方もない時間を、勇者として、そして“魔王”という座にすり替えられたあとも、今、この瞬間まで、宿命に縛られてきたということです。
それなら、今、やっとそこから解放されて、普通の魔族として生きていくことに、誰も文句は言えないのではないでしょうか。
だから。
「愛した人と一緒に居るのは、私は、そうあるべきだと、思います。」
今度は、強く確信をもってそう言えました。
私は、その言葉の通りに今生きています。彼女にだけその資格がないというのは、あまりにも酷いと思いました。
私が言った言葉を、ほんの少し咀嚼したアトライア様は、少しだけ顔を赤くしました。
「汝に……そこまで話してはいないと思うのだが……」
「ぇ……ぁ、すっ、すみません……!」
あれ、なんで私は謝ったのでしょうか。
でも、ふと再会した時に思わず涙を流してしまったり、そのときの約束を十四年越しに叶えるために鉄道を作ったりするのは、もう立派な愛の表明ではないかと思ってしまいます。
それに、アトライア様が三人での思い出を語る時の顔は、きっと、私がワイズマンのことを話す時の顔と一緒です。
でも、と私が口に出したところで、足音がしました。
「あぁ、……懐かしいな、アトライア。」
「そうだろう?ワイズマン。また、膝枕をしてやろうか。」
苦々しげに笑った先生が、そこにいました。
⭐︎
その部屋のテーブルが三人で埋まることに、形容し難い懐かしさと、蓋然性を得た。狙い澄ましたように紅茶が三人分用意してあるのも、その原因だったろう。
いつしか、その部屋にはアスタさえいれば、紅茶が全員分用意してあったし、それ目的でこの部屋に来ることもあった。
「長い、長い昼寝だった。」
「寝心地はどうだった?」
それは、それは心地よかった。
そのおかげで、私は。
ちらりとフォーティアを見やった。彼女と出会えた。
「やっぱり、話し方はそっちの方がいいな。魔王らしい。」
「妾は魔王ではない。勇者だったのだ。」
「昔から思ってたよ。こいつは勇者らしくはないなって。」
「抜かせ。妾ほど適役があるか。」
不憫なすり替えの被害者も、私の冗談を額面通りに受け取ってくれたらしい。昔も、そんな会話をした気がする。
「概念を、すり替える力。」
「忌々しいことこの上ない。それが、汝らの言う勇者の、力だというのだからな。」
それが果たして魔法なのか、原理不明の異能なのかは、結局研究所では導かなかった。
しかし、あまりにもスムーズに濡れ衣を着せられたアトライアの汚名に、確かな確信があった。それは、個人の認識にまで影響を及ぼし、効果範囲は全世界、という破格の力。
「私は、魔王を殺すよ。アトライア。」
「それは、憎しみによるものか?」
「残念ながら、そうじゃないんだ。悪いな。
お前たちと共有した感情は、もう、毒気を抜かれてしまった。お前はどうだ?」
「そうだな。妾も、もう疲れてしまったから、そうかもしれないな。」
この部屋で私たちは、ゆっくり、ゆっくりと、憎しみという感情を、転化させて行った。やがて、憎しみとすり替わって感情の回路を走ったのは、そのかけがえのない時間への暖かな気持ちだった。
君と、アスタが、私の呪いを解いた。
「質問に答えよう。私は、お前を殺したいと思ってはいないよ。むしろ、感謝してるくらいだ。」
「あぁ、そうか。よかった」
少し涙ぐんだアトライアに笑みがもれた。女々しいのは相変わらずだった。
私のその言葉は、彼女の呪いを解くほどの詠唱になり得ただろうか。
私のやりたいことは、それで終わりだった。
だから、次は、彼女にそれを聞く番だった。
「お前はこれから、どうする。何をやるつもりだ。」
アトライアは、魔王らしい凶悪な笑みで私を見た。
その向こう側にある、やりようのない忸怩たる感情についてを、私は見透かすことができた。
「計画を、実行する。」
「……今のこの国には、魔族が少ないな。首都だというのに、少なすぎるくらいだ。」
「あぁ。もう、地上にいるのは政府関係者だけだからな。」
「魔都の地下軌道鉄道は有名だ。だが、路線図を見る限り、もう走っていないように見える。」
「あぁ。全て廃線、取り壊した。」
「もし、私が想像していることを、お前がやろうとしているのなら。少し、やるせないな。」
極端に数を減らした魔族。
臨時とつくほどの政務。
その全てを取り壊された地下路線。
すり替えられた、彼女の名。
「ヴィヴィ・インソープロは、なぜ一度目の世界を滅ぼしたんだったか。」
回答者を指名しない問い。私が答えた。
「世界を、費やしたかったからだ。自分の機嫌だけで人を殺し、滅亡させ、あるいは復興させたかったから。世界を、自分本位に操りたかったからだ。
そして、お前を殺したかったからだ。」
ヴィヴィ・インソープロは最強だった。当時、人間の中で魔法を使えたのは彼だけで、その魔法は、魔族の魔法と比べても抜きん出ていた。
しかし彼にとっての最初の敗北が、その不文律を解体した。
「完膚なきまでの蹂躙。ヴィヴィ・インソープロは負けた。お前の前に、為す術なく敗れた。」
世界最強。そんな肩書きを、彼は求めたのだろう。だが悲しいかな、その肩書きは、勇者のものだった。
あるいは今の魔王、アーデンシュネー・アトライアのものだった。
「妾を殺すためなら、奴はまた世界を滅ぼすだろう。
そして、その憎しみを一身に受けたスティグマを、また妾に背負わせる。そうやって、妾を殺すつもりだ。」
未来に語り継がれていく自分の所業。そこに、誰かの悪意が混入するなど、あってはならない冒涜だ。
それはあまりにも、悪辣すぎる。
「魔族は、これから姿を消す。もう二度と、あの邪悪の手に命を掠われないように、消える。」
「死ぬつもりか?そんなわけないよな。」
「魔族は合理主義が強いのだ。そんなセンチメンタルに殉じたりはしない。しかし、奴にはそう思ってもらう。」
それは、壮大な意趣返しだ。
魔族は死んだ。絶えた。ヴィヴィ・インソープロは勝ったのだ。奴のその認識、それこそを。
「すり替える。
妾たちは、これから地下に潜る。」
私はそのアトライアの言葉に、驚いた顔はできなかったはずだ。それほどまでに、私たちはこの部屋で内側を曝け合った。
「もちろん、魔族側の主要国家でも承認を得られなかった国はある。イットラヴェルやシャムアマートの魔族たちは、今後も地上で生活を送るだろう。
しかし、我々の今後の存続については、決して口外しないことを約束してくれた。」
魔族という種族も一枚岩ではないだろう。しかし、そのルーツを共有している彼らには、同胞を背中から撃つような真似はできない。
それに、アトライアという魔王を欠いた魔族国家に、ヴィヴィ・インソープロが積極的に攻撃を仕掛けるとは考えにくい。
魔王という存在を失うことで、彼にはある歓喜が訪れ、そしてそれが、彼にいくばかの停滞をもたらす。
「奴には、空虚な悦びを謳歌してもらう。
妾に対する奴の執着を、奴の心からの暴力衝動を、その昏い歓喜とすり替える。」
真に自分の内側から湧き上がってくる本懐。それを、アトライアは丸々すり替えてしまい、機械仕掛けのように無機質な喜びを強制しようとしている。
それは、かつて偉業をすり替えられ、全世界の憎悪をなすりつけられた彼女にとっての、盛大な意趣返しといえた。
「非ずえの都市、非ジェンダイン国。妾たちが構築し、魔核循環路によって永続的にエネルギー自給を行う、有史以来最大の地下シェルターだ。」
「どれくらいの広さになるんだ。」
「魔都よりも広くなる。構築が住んでいるのは丁度同じくらいだが、エネルギー自給の体制は整っている。今後の拡張工事にも余念はない。
魔獣との生存領域の干渉はあるだろうが、妾の国の魔獣生態学者の中には、魔獣との対話が可能という研究をする者もいる。共存の道を探すさ。」
まさか、誰もそんなことをやろうとは思わないだろう。
しかし、実際に、もうやったのだろう。
「国民の九割は既に移住が住んでいる。関係諸国の移住率は七割。次の勇者侵攻までに完了させて、最後の人魔決戦で死ぬよ。」
「ぇ、死ぬって……」
思わず声を漏らしたフォーティア。アトライアにとって、死とは生存戦略における手段だ。常人には、理解できないだろう。
「そんな顔をしないでください、フォーティア。妾を殺さなければ、ヴィヴィ・インソープロは納得しない。奴の認識をすり替えるには、妾の命に剣先を差し込み、妾の血で奴の屈辱を濯ぐ必要がある。
妾はまた、新しい命に転生する。次は、地下の王になりますから、心配しないで。」
押し黙ったフォーティアは、自分の理解できないことに対して何かを差し挟むことに躊躇がある。
彼女の自己顕示と好奇心は、誰かの心の弱点に到達しそうになると、ぱったりと霧散してしまう。
「言っていいよ、ティア。この石頭の王様に、一人間としての見解を聞かせてやるといい。」
「誰が石頭……」
「アトライア様!」
カップの水面が揺れている。
「……本当に、一緒に来ませんか。もう、ヴィヴィ・インソープロの脅威を、魔族が受けないのなら。アトライア様の義務は、それで終わりでは……だめでしょうか……」
「フォーティア……」
「屈辱的です。アトライア様がここまで頑張ってきた結果が、地下に追いやられることだなんて、納得できない。」
感情的に切り出したフォーティアの言葉は、徐々に熱を失い、そして同時、そこに確信を付加していく。
「貴方が、フォーティア・アンドレティアとして過ごしたらいい。
貴方が、そんなにも自分を粗末に扱って、大義のことばっかりなら、私くらいは、貴方に手を差し伸べる。
交換しましょう。」
アトライアの手を、フォーティアが取った。
「私の短い短いちっぽけな人生が培った名前を、貴方にあげる。だから、貴方が押し付けられた、途方もない時間が積み重ねられたその名前を、私にください。」
貴方が、民を捨てられないというのなら。
まだその呪縛を、かなぐり捨てることができないというのなら。
フォーティアの核心は、冷たい怒りに満ちている。
「私が王になる。貴方から奪い取った名前で、私が、魔窟の王を、やってあげる。」
魔王の座。その名前を、簒奪する意味。
アトライアは、久しぶりに見せた眼で私を見た。思考が乱れ、精神の軸の安定性を、著しく欠いた、そんな瞳。
私は、その二人の決断に意思を差し挟むつもりはなかった。フォーティアは、フォーティア・プロネーティアではなく、フォーティア・アンドレティアと宣誓した。
それは、私に一切の責任を背負わせてはくれないという、なによりのレトリックだ。
フォーティアの手を放し、アトライアは名残惜しそうに紅茶を含んだ。小さな嚥下が、カップを枯らした。
「優しいんですね、フォーティアは。
でも、妾は大丈夫。これも、民のためですから。」
どうせ、そうするだろうと思っていた。
未練がましい顔で微笑んだアトライアのせいで、フォーティアはどこかへ駆け出してしまった。
彼女は強く、そして自立した女性だ。なにも心配はなかった。
「追いかけなくていいか?伴侶だろう。」
「精神的にどっちが強いかは、わかってるつもりだ。それに、もう最後になるかもしれない。
まだ、話したいことがあるんだよ、アトライア。」
泣きそうな顔で、アトライアは頷いた。
⭐︎
私たちはそこで、他愛もない思い出話をした。
この部屋でだけは、彼女は皇帝であることを忘れられる、と話した。そうできていて、良かったと思った。
私の時計と同じような自分の腕時計を見て、アトライアは言葉を切った。
「そろそろ、お別れをしなければならないな。」
別れが、突如に訪れるものではない。それが、幸せなことなのか、そうでないのか、私はどうにも測りかねた。
しかし、別れの時間がきてしまったのなら、仕方がない。
「お前の計画。一つだけ、決定的な無茶があるだろ。」
私が聞いたそれに、アトライアは白々しく言った。
「さぁて、なんのことだかわからんな。」
「お前がほっぽり出したヴィヴィ・インソープロを、どうするつもりだ。」
アトライアを殺したと錯覚したヴィヴィ・インソープロは、一過性の喜びに殺戮という衝動を忘れるだろう。では、その後、その酔いが覚めたあと、彼はどうするだろうか。
もちろん、死滅した魔族にその矛先を向けることはできない。地下に潜った魔族たちが安泰であることには変わりない。
しかしそれでは、私たちが受けた借りを、奴に返すことはできていない。
「まさか考えてないわけじゃないんだろうな。」
「あぁ、もちろん考えてある。」
そうして、アトライアは私を指差した。
酷い悪態が出そうになったから、「あ?」と威嚇するに止めた。それも心地よいとばかりに笑ったアトライアは、君だよ、とこぼした。
「殺すのだろう?ヴィヴィ・インソープロを。では君に任せる。こんなにも信用できる勇者を、妾は知らぬな。」
「いや、それはそうだが、……丸投げか?」
「なんだ?信頼の証ではないか。もっと喜んでもよいのだが?」
「抜かせ。」
後始末は、私がやれということか。
一度目の世界では、全てをこいつに残して死んでしまったのだから、次は私の番、か。
だが、と前置いて、アトライアは発した。
「全てを任せるというのも心苦しい。くれてやる。」
アトライアは、私にトゥリオビーテを差し出した。
私が彼女に贈ったものだった。
思わず受け取って、癖で観察する。
一体これを贈ってから何百年、何千年あるいは何万年経ったのかもわからないのに、その魔装はあまりにも綺麗だった。
傷ひとつなく、磨き上げられている。
「ぁ、あまり……!まじまじと……見るな。」
「大切にしてくれてたみたいでなによりだよ。」
机の下で膝を蹴られる。彼女のフィジカルから繰り出される蹴りはじゃれ合いとは思えない威力になるので勘弁願いたかった。
「聖剣魔法が入っている。」
アトライアは、後出しで言った。
「は?」
「あぁ、今となっては魔剣魔法と呼ばれているが、まぁ、どちらでもよいな。」
それは、魔王と勇者に与えられる、戦うための魔法だ。それは、顕現させるのみで300,000Mという魔力を必要とし、世界を滅ぼすに足る力を持つ魔法だ。
「やる。」
「いらない。お前の剣は、いかにも邪悪という感じで趣味が悪い。」
「やると言っているだろう!それに、あの剣は威厳と強さが体現されている業物だ!」
「私が完全に顕現させられるわけがないだろう。宝の持ち腐れだ。」
「やると言ってるんだから受け取れ!」
トゥリオビーテを握った私の手を押しやってくるアトライア。
「あ」
「あ」
そして、私の眼球を覆った紋章。アトライアを表す、黒い印。溶けるように経皮吸収された魔力が、私に“資格”を与える。
「おめでとう。立派な勇者となったな、ワイズマン。」
「もういい。はぁ……どうせ使えないが、持っていて損はないか。」
ステータスウィンドウを開いてみる。
自身の魔法スロットに、文字化けした魔法が表示されていた。思わずため息をつく。
「……そんなに嫌そうにされると……傷つくのだが……」
「そいつの人生賭けた魔法の責任を取らされるのが億劫なだけだ。私が死ねば、このトゥリオビーテでしか継承できなくなる。」
「では死なぬことだな。それと……」
ほんの少し言い淀んで、アトライアは言った。
「妾だと思って、……大事に、してほしい。」
もう、会えないのだろうから。彼女のことを代名する魔法と生きていくのは、悪くはないかもしれないと思った。
「あぁ。そうする。」
自分のトゥリオビーテを外して、アトライアのものを首にかけた。自分のトゥリオビーテの扱いに困ったから、アトライアに放り投げた。
「やる。私だと思って、後生大事に持っておけ。」
「っ、……ああ。そうする」
いい加減、時間だろう。伸びをして、長かった一日を追憶した。
「真の勇者がお前だったのは納得がいく。だが、ヴィヴィ・インソープロは正確な意味でお前の好敵手として生まれた存在ではなかった。
転生、という適性を、奴は持っていない。」
私たちが研究によって導き出した結論だった。
勇者や魔王。天命によって生まれ落ちる資格ありし者たちは、“転生”という異能を授かっている。
しかし、ヴィヴィ・インソープロはそれを持っておらず、固有の力で無理くり転生を行っている。つまりは、勇者と魔王という図式には当てはまらない存在ということになる。
「一体、本当の勇者は、誰だったんだろうな。」
アトライアと対の位置にあり、勇者と魔王、いずれかの資格を持つ者。
「ははっ……まだ気づいていなかったのか?」
アトライアは、心底おかしいというように笑った。
怪訝そうな私に、彼女は至極簡単に言った。
「君だよ。」
「は……?」
妖艶な流し目が、魔王の眼をしている。
「なぜ、君が前世の記憶を引き継いでいるのか、同じ名前を名乗るようになったのか、ステータスにそんな無理難題が課されているのか。こんなにも根拠があるのに、今まで気づかなかったのか?君は本当に、自分のことに無頓着なのだな。」
慈しむように言ったアトライアに自問する。
私は、私とは。
「君が本物の勇者だ。ワイズマン・プロネーティア。」
魔王は私に、そう言った。
「やっぱりお前は魔王だ。とんだ魔王だ、アトライア。」
「そうか?」
やかましい視線を振り払うように私は手のひらを振り、聞いた。
「本当に、来ないんだな。」
「あぁ。寂しいか?」
「それなりにな。」
「ばか。」
偉大な女だ。ちっぽけな私では、魂の格が違う。
「お前は魔王だ。暴虐の限りを尽くした、憎悪の対象としてじゃない。魔族を、民を、慈しみ、献身し、慕われるべき。」
そういう、魔族の王だ。
いつか、血塗られた魔王という肩書は、その認識をすり替えられることになるだろう。偉大なる魔族の王、そんな含意を含んだ、“魔王”という肩書きへと。
「お前の本当の名前、聞いておいていいか?」
「……そうか。妾はとりあえず一度は死が確定しているわけだから、次にもし会えたとしても名前も姿も違うかもしれないしな。」
アーデンシュネー・アトライアという名前は、彼女が一度目の世界で使っていた所謂ビジネスネームだった。
転生できることを知った後、おそらくは毎回違う名前をつけられて生まれただろう。だが、毎回名乗りを変えてはキリがない。それ故、彼女はいくつもの本当の名前を持ち、しかし、本当の名前というものを、一つしか持たない。魔王という肩書きに紐付けて、一度目のビジネスネームを使いまわしていた。
私は一度目の世界でも、彼女の本当の名前を聞いたことはなかった。
「もし妾に次に会った時は、その名前で呼んでくれるか?」
「あぁ。約束する。」
実現可能性の低い未来の話。アトライアは少しだけ口篭って言った。
「……オルテンシア。妾は、オルテンシア・アトライア。」
綺麗な名前だ。君にぴったりだ。そんな言葉が溢れそうになるのを自制する間、迷ったような君は、私に口付けした。
懐かしい感触を思い出した。
「そ、それではなっ……!ワイズマン。」
ぎこちない動きで部屋を出る君を、思わず呼び止める。
最後に、なにか言っておきたかった。だから。
「またな」
「あぁ。また」
私たちはそこで、もう二度とは巡り会わないだろう縁に、さよならを言った。
魔族領から王都に戻って一ヶ月後、人魔決戦の日程が公示された。その三ヶ月後、魔王征伐は実行された。
ヴィヴィ・インソープロは、征伐から半身を喪失した状態で回収された。それは、史上初めての快挙だった。しかし、予後不良でヴィヴィ・インソープロは息を引き取り、聖剣魔法は王城の拠石に戻った。
その征伐で、魔王は死んだらしい。
◯
暫定避難者のほとんどが地下への移住を完了し、政府関係者もその全てが地上から消えていた。
ただ一人になった魔都で、妾は勇者と相対した。
「久しぶりです!魔王さん。元気でしたか?いやぁ、前世はこっぴどく殺されちゃいましたから。でも、僕ももうまけませんよ!
魔族側は内戦で大変だったそうですね。いつもだったら怖い魔族の人たちにたくさん見送られるのに、今日は全然いませんでしたもん。
人口が激減しちゃった、っていうの、本当だったんですね。でも、大丈夫ですか?魔王さんが転生できるとはいえ、こんなに国際社会から孤立してしまったら、もう戻れなくなっちゃいますよ?
ここで負けてしまったら、もう皇帝じゃなくなってしまいますね。負けられないですよね?でも、僕も負けてられませんから、全力でやりますよ!」
「話をすり替えるなよ、勇者。妾は貴様を、鏖殺するだけだ。この国が没落しようと、そうでなかろうと、貴様が妾の魂に影響を与えることはできない。
未来永劫、絶対にだ。」
「…………。」
金髪で、青い瞳。あどけない少年だった。勇者とはこうあるべき、という姿に全く乗っ取った、模範的な容姿をしていた。
そういう人間を選んで転生したのか、偶然だったのかはわからなかったが、最後の決戦が絵に起こされたときは見栄えするだろう。
妾はそこから、もはや言葉を交わすことすらしなかった。
首元には、彼からもらったトゥリオビーテがある。妾には、彼が、ワイズマンがついている。
あの人と一緒に、今、戦っている。
「最終フェーズだ。妾は実行するぞ、ワイズマン。」
さようなら。これが果たされてしまったら、もう出会うことはできない。
正直なところ、勇者との決戦は、負けるほうが難しい。魔法を譲渡した今であっても、負けるとは思えなかった。
このまま、こいつを殺してワイズマンのもとに行ってしまおうか。
きっと、突然来た妾に少々面食らって、フォーティアは喜んでくれて、彼もすぐに、妾を迎えるために、その手を家の中に差し向けてくれる。
でも、駄目だ。
妾のために、フォーティアは、あんなにも言葉を尽くしてくれた。妾はそれに、救われていたのだ。
貴方のような人のために、妾の民のために、妾は、皇帝であることをやめない。
ワイズマン、君にもらった魔族の王。魔王という名前を、妾は決して無為にはしまい。だから、実行する。
「非ジェンダイン計画。」
春刹の第三水域が、形而上世界へと接続する。妾が物質世界で手繰った手が、思想と畏怖と感情に満ちた世界を掻き分けて、そこにある概念を顕現させる。
彼らを呼び出す、その祝詞を。
「親愛なる、アスタ・アマテ。」
彫像のように美しい姿。魔力光によって厭世的に顕現した、親愛なる側近。
「妾と、終着地まで行ってくれるか?」
魔法が発動する。魔王城という現実世界の輪郭が崩れ、剥がれ落ちる。時間軸が機械仕掛けの物理的形を持って世界を再構築し、歯車とハンマー、発条やベアリングが空間を形作った。
そして、聖剣が発動する。うざったらしい輝きが、私はいかにも正当です、と主張しているようで虫唾が走った。
アスタと視線を合わせて、輝きの中に身をやつした。
置き去りにしてしまって、すまないなワイズマン。本当は、みんな、ずっと一緒にいられればよかったのに。
でも妾は、本当に、幸せだったよ。
きっと、言葉にはできなかったけれど。そうやって、妾は死んだ。
目を醒ます。
暗い、暗い展望台で、自我を自覚した。
太陽の光はおろか、月明かりや星空も見えなかった。稼働する発電所の駆動音が、巨大な空洞の中を柔らかに反響していた。
母に抱かれていたから、自分で歩くことはできなかった。上手く発声できない声で、眼下の灯への憧憬をあげた。
ゆっくりと歩いた母は、展望台から望む地下都市の光景を見せた。いつかより巨大に発展したその世界、非ずえの都市の姿を、見せてくれた。
「私たちのために命を賭けて戦ってくださった魔王様のおかげで、こうして貴方が生まれたのよ。」
輝きに目を細めた母が言った。
「私たちの、偉大なる王。魔王様が守った、素晴らしき世界に。」
爛々と輝く街の中に、楽しげに遊ぶ子供達の姿が見えた。