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stand(“Hello World!! by Dita jerte”,D = on;)

※本文中に登場するプログラム言語は架空のもので、既存の言語とは一切の関係がありません。

挿絵(By みてみん)


title:”0に隠されたFの真実について”

( 憎しみのない世界 ) F = 0

{ trans = (f) ; loop{A + 1 : A ≦ x } A }

signature:フォトンマン・エミレット・アードガルド


「敬愛なる、アスタ・アマテ。本日も私を、お見守りください。」

 技研の墓跡の前で祈りを捧げるフォーティア。日常。

「確認お願いできますか。ワイズマン先生。」

 プログラムのセカンドユニットを任せている責任者からの呼びかけ。日常。

「気をつけて行ってきてください。先生。」

 抑揚のない、律儀な妻の見送り。日常。

「これより王調部には適宜異動の辞令が出ます。ターゲットに悟られないよう徐々にやりますが、出勤する部署は本日よりここです。」

 忙しなく人数分の資料を吐き出す印刷機。部単位の資料をリレーして、行き渡っていく情報。

「捜査方針は固めない方針です。他部署と調整が必要なら本部まで会議の申請を。三つ以上の部署と被る場合は本部が同席します。」

 絨毯を擦れる机が、群れを成して島を作っていく。乱雑に重ねられていた椅子の塔は徐々に解体され、その本分を全うするべく並べられていく。

「責任者は日付を跨ぐまでに本日分成果を提出下さい。フォーマットさえ遵守してもらえれば媒体は問わない。成果なしの場合、報告は不要です。」

 各部署ごとで矢継ぎ早に言葉が交わされ、早いところは既に荷物をまとめて出て行かんばかりの者たちもいた。

「それではこれより、国王暗殺計画特別捜査本部を開始します。」

 王室庁庁舎三号館B2F。喧騒と陰謀に塗れた会議ホール。異状。

 顔を認識できない人間たちによる、日常を乖離した、現実。


「君にあんな大所帯を率いる才能があったとは知らなかった。」

 王室庁では場違いな煙草を噴いて、お決まりの密談場所で男は返した。

「俺は向いていると思うけどな。お前の言う通り才能なんだ。血は争えない。」

「本当に、国王を殺すのか。」

「それを見極めるための捜査本部だ。確かに俺は現国王の没落を願っている。が、その私情を抜きにしても、疑念は晴らさなきゃならん。」

 腹に持っている色々を、あっけからんと話せるのが彼の潔いところだった。しかし、私にはどうにもそれが真似できそうにない。

「あぁ、お前は、国王と多少縁があったな。」

「私がか?あれは国王と、という感じではなかったな。

 宮廷入りを支持してくれたときに会って以来、顔を合わせてない。」

 へぇ、と興味のなさそうな相槌。

「奥さんには?」

「話すわけないだろう。あそこでは、私の名前すら黒塗りだ。わざわざ証拠を残すようなことはしない。」

「あぁ、助かる。念の為言っとくが、本当におすすめはしない。」

 吸い殻が水に投げ込まれ、火種が弾けるような音が鳴る。

「フォーティア・アンドレティアは、国王を除けば、王女と一番最後に言葉を交わした人間だ。」


1


 中空で翻ったフォーティアの身体は、決して半ばで折れることなく、また重心を崩して地面に叩きつけられるでもなく、それが必然であるかのように降り立った。

 草原を吹き抜ける心地よい微風。王都郊外、ピクニック日和の原っぱに、私と助手は、仕事をしにきていた。

「仮想重心制御魔法。実証実験は私の体だけだったから不安だったが、四肢の長さや体重の変化に適応する相対座標ポイントのプログラムは、正常に作動しているようだ。

 何か、身体の重心に関して不調はあるか。」

「ありません。少し浮遊感を感じますが、重心の制御に伴う仕様という範疇は出ないかと思います。ステータスの身体情報を照会するラグも感じますが、そこは試用段階ということで判断しかねます。」

「素晴らしい。本当によくできた助手だ。」

 淡々と、しかし要点は決して取り逃さない講評。私の理論魔法の実践がスムーズに進むのは、彼女の影響が大きい。

 技研や王都の街中でアクロバティックな実験をやるのも気が引けたので、わざわざ出かけてきたが、太陽が真上に来るような時間には、もう必要なデータを大方取り終わってしまった。

 帰ろうか、と促した私を引き止めて、フォーティアはおずおずと木編みのバッグを拾い上げた。

「どうせなら……少しピクニックでもしていきませんか……?」


 私が起きてきたとき、珍しくまだキッチンに立っていたフォーティア。たしか、見るからに新鮮そうな野菜とパンをザクザクと軽快に切っていた気がする。脂と香辛料の匂いもしていたから、肉の類も焼いていたはずだ。

「朝から、手の込んだ物を作らせたな。ありがとう。」

「いえ。料理、嫌いじゃないですから。」

 起伏の少ない表情。取り出したカスクートを市販の包装紙に包んで私に差し出す。その表情は、いつもより踊っているように見える。

 チーズと魚と野菜と、魚を肉に変えたバージョンもある。周到な用意は、男女の体の大きさによる胃の容積の差異についても加味している。

「飲み物は、どうなさいますか?」

「まさかコーヒーがあったりするのか。」

「はい。持ってきていますよ。」

 フォーティアが好んでコーヒーを飲んでいるところは、あまり見たことがない。実際、カップに注いだコーヒーを差し出した彼女は、自分の分としてお茶を注いでいる。

「液体は重い。」

「はい。そうですね。」

「次からは、君が飲む物だけ持ってくればいい。」

「次が……ありますか?」

 声音を弾ませたフォーティアは、横目で私を窺った。

「君がいいのなら、また来よう。次は、休日にでもな。

 ただし、その時の荷物は私が持つ。」

 シートに食べ物に飲み物に資料。まさか中身がそんなに大量だと知っていれば、妻の鞄を取り上げるくらいの気概は、私にもあったというのに。

「はい。では次は……先生に、お願いしますね。」

「ああ。」

 物だけで見ても、フォーティアのカスクートは素晴らしかった。パンにも肉だとか野菜だとかにも細かく味付けがしてあるのも狂的で美味だ。雑貨屋で売っていた包装紙のセンスも、古代帝国風の趣を見せている。こんなもの、店でもなかなかお目にかかることはできないんじゃなかろうか。

「幸せなのかもしれないな、私は。」

「……わ、私では、先生の幸せから……疑念を取り除くことは、……できませんか?」

 かもしれない、という部分からよくもそこまで自分の落ち度を発掘できるものだ。あるいは単純に自己評価が低いだけだろうか。

「二値化するのは簡単だ。人間は、細かいことを考えたくはないから、0か1かで語りたがる。幸福か、不幸か、と二択を迫ってくるわけだ。」

 ステータスを開いたとき、毎日勤勉に現れる「幸せの二択」を揶揄した。貴方は幸せですか。「はい」「いいえ」。

「人間はそう単純ではない。耐え難く不幸な生活の中で、大事に守ってきた小さな幸せを愛でる。私に近しい人間の中では君が最もそう見える。

 それを、たった二つの選択肢だけで括ろうなんて試みは、傲慢だ。人間の幸福度には、グラデーションがある。」

 結論が冗長になってしまうのは、私の悪い癖か。

「私は不幸でも幸福でもない。けれど、君のお陰で小さな幸せを、頻繁に感じることがある。逆に、君以外のことでは、どうしようもない不幸を感じる時の方が多い。しかし、君との幸せ。そんな人生の外れ値を無視できないから、私は自分を二択では表せない。

 二進法の世界は、魔法の中だけで十分だ。」

 コーヒーを啜る。言ってから初めて、なぜあのステータスの質問に忌避感を感じていたのか、その一面の答えを得たような気がした。

「先生の小さな幸せって、たとえば、どういうときですか……っ」

「意識的に思い出すのが難しいから小さな幸せなんだ。」

「……やっぱり、私に不満があるんですよね。だからそうやって、……」

 しかしフォーティアは納得してはくれなかったようで、小さな口でカスクートを頬張り、無表情の原点をマイナスの不機嫌に駆け降りていく。

「……なんというか、君も大人の女性らしくなってきたな。」

「っ、め、めんどくさいってことですか……!ぅぅ、……もう、……知りません……」

 機嫌を損ねてしまったか。けれど、お世辞でお茶を濁すよりは真摯だったんじゃないか、と思わなくもなかった。

「……今ばかりは、」

「?」

「あのふざけた質問に、気の迷いで「はい」を押してしまうかもしれないな、と。そうは、思っているよ。」

 晴天の空を見上げ、三年来の妻と幸せについて話す。

 それは、私が一人で生きることでは得難い幸福だった。

「そう、……ですね……っ」

 まだ刺々しい声色で、けれど、私の妻は、私の小さな幸せに、賛同してくれた。


 フォーティアが持ってきたピクニックという時間をあらかた腹に収めて、しかし、寝転がったシートの上に見える青空に後ろ髪を引かれる。

「もう少しで、王女が亡くなって五年だな。」

「そう、ですね。王は、お元気でしょうか。弟君に妻まで失って、それでも国政の最中にいる。私には、あのお方の幸せを、想像できない。」

 フォーティアがかつて過ごした青少年福祉センターは、王国立。そしてその立役者は、現国王フォトンマン・エミレット・アードガルドであった。

 姿を見かけたことくらいはあっただろう。

「円満な夫婦だったと聞いている。悲しみは、まだ癒えないだろう。」

「……あのお方は、王女様の命日に王城の観測台から北の方角を眺めるのです。王女の故郷を、偲んでいるのです。きっと、心の底から、愛されていたのでしょうね。

 民の幸せを常に願っておられた王女と、それを愛した国王。幸せな夫婦だったはずなのに。」

 理想的な夫婦だったのだろう。どこか羨望に近しい瞳をするフォーティアの横顔が、木漏れ日に装飾されて厭世的に美しい。

「D&Fの由来を知っていますか?」

「……すまない、そのディーなんとかがわからないんだが。」

「宝飾品を扱うハイブランドです。腕時計やオーダーメイドのステータスタグも売っているのでご存知かと。」

「……そういえば、騎士団の同僚の婚約指輪がそれだった気がするな」

 私の「婚約指輪」という言葉に、フォーティアが頬を引き締めるのが見えた。そういえば、彼女に何か大層なプレゼントをしたことは、この三年で一度もなかった。

「国王夫妻の、イニシャルらしいですよ。」

「……なるほどな。」

 フォトンマンとディータヘルテ。古代帝国語の識別子から取った名称というわけか。

「そのブランドは、大事な人に贈るのに、なにか忌避されるようなブランドではないのだな。」

「?……ええ。女の子は、一度は夢見る物だと思いますけど……その、……私も。」

 左手の指先を見つめたフォーティアの言葉に嘘はないだろう。彼女はファッションに通じている。

「そうか。なら、検討しよう。」

 正直なところ、私の嗜好は合理主義に寄っている。性能や耐用年数といった指標を、美しさが凌駕するブランド品には、全くもって縁がない。

「……誰か、……そういった物を贈りたい相手でも、……いるのですか……?」

「あくまで検討だ。その言葉以上のことはない。」

 別にはぐらかしたわけではなかったのだが、釈然としていないフォーティアは、私との空間を微かに埋めて、熱っぽい視線を向けてきた。

 どこからどう考えても、私が贈り物をするような相手は、君しかいないというのに。

「誰なんですか……それ。」

 恨めしいようなフォーティアのそれを聞き流した。

 君に贈ろう、と言ってしまえば、実現しなかった時が怖い。

「大事な人か……」

 国王にとっての、王女。

 確か亡くなった原因は、彼女の母親あるいは祖母が、大戦時に使用された魔核兵器によって受けた影響の遺伝だったと聞いている。

 王女の故郷は、一度戦火の炎に灼かれている。

「先生は、もし大事な人がいなくなってしまったら、どうしますか。」

 私と同様、フォーティアも、国王のことを考えたらしい。妻を失い、それでも王国の象徴足れと在り続ける王。

「武器を取り、知恵を絞り、持ち得る全ての力を使って、復讐を始めるだろう。しかし、私はその一歩目で気づく。

 憎しみは、不幸とイコールで繋がれる感情で、それで。

 憎しみだけは、未来を作らない。」

 憎しみに捕らわれたら最後、そこには常に突きつけられた復讐心という刃に、心臓を突かれながら走り続ける未来しかない。そんな不幸な人生は、あまりにも惨めだ。

 そして、その人生を不幸と括ってしまえば、私は、その大事な人と過ごしてきた時間さえも、不幸の一部として消化してしまう。

 大事な人と過ごした時間。その人生の一部を肯定できなくなるのは、未来を失うことと、なんら変わりはないだろう。

「未来のためだ。私たちは、自分の歩んできた歪な道のりと、そこにあった小さな幸せのことを肯定しなければならない。そうできないのなら、不幸の中にあった小さな幸せの存在をなかったことにしてしまうのなら。

 そのときだけは、迷いなく、「私は不幸だ」と二択の選択肢を選べるようになってしまうだろう。」

 しかしそれはあまりにも。

 不幸な人生だ。


2


 国軍省から受注した仮想重心制御魔法の開発。国からの完全なる新魔法の受注は、労力もそれなりではあるが利益率も高い。

 そして、プログラムをあらかた書き終えてしまって、あとは小さな修正の繰り返しともなれば、修正内容が上がってくるまで、私は当面の手持ち無沙汰となった。

 フォーティアはあくまで秘書室の所属。ある程度の公社の業務はそつなくこなすだろうが、彼女も私の手持ち無沙汰を共有している。

 仕事場の所長室には、弛緩した空気が流れていた。

「ステータス」

『今日も貴方は幸せですか?』

 選択肢を押して、ステータスを消した。微かに、魔力が徴収される。

「な、なんだったんですか……?」

 身体情報も確認せずにステータスを閉じた私に、フォーティアが訝しげに聞いた。

「今日は一回もステータスを開いていなかったからな。この忌々しい質問を、さっさと消化しておきたかっただけだ。」

 ステータスを開いたときにこの質問が出るのは、その日の最初の使用時だけだ。私は、今のこの一瞬のおかげで、ステータスに強要される一問から本日限りは解放される。

 まだ微妙な顔のフォーティア。

 私と三年は一緒にいるはずなのに、自分の常識に当てはまらない私の行動にそういった顔ができるのは、助手として喜ばしい特性といえる。

 私は、わざわざ最も近しい位置にエコーチェンバーの発生装置を置こうとは思わない。

「それにしても、いい加減忌々しくなってきたな、この質問も。

 新しい身体解析魔法でも作って、市場から消し去ってやろうか。」

 できるわけもないが、つい悪態が漏れる。

「それに、このシステム、少々胡散臭いしな。」

「ステータスがですか?」

 驚いたようなフォーティアにも納得する。こんなにも社会に浸透しているシステムに、疑問など抱く余地もないからだ。それが不文律だ。

 この世界でこんな不文律が罷り通るのは、彼らが”大戦”という巨大な言い訳を持っているから。開発者不明、管理者不明のシステムは、大戦のいざこざで出来てしまった特異点というわけだ。

「ステータスのプログラムに不具合が起きたとき、管理する組織の存在を知っているか?

 私は知らない。聞いたこともない。数十年と歴史のある道具だぞ?ありえない。」

「大戦の影響で、記録が喪失したのでは」

「保守・管理もなしにこんな巨大なシステムが動くものか。それに、マッピング機能のついたタグの出現は、十年前。大戦より後だ。

 組織だってやらないのなら、開発者、そしてその子孫が脈々とやっているに違いない。この世界では、魔法のプログラムを全て特許庁に申し出る必要はないからな。

 プログラムの全文を知れるのは、関係者だけだ。」

 事実、トゥリオビーテのプログラムも、国軍宛に体裁の悪い部分は申告していない。もちろん法律の範囲内の権利である。プログラムに関して規制されているのは、大量破壊魔法兵器たる、運用魔力300,000Mを上回らないことだけだ。

「そしてもう一つ。あのプログラムは、一度改変されたことがある。つい五年前だ。まだ、この世界に存在しているんだ。あのプログラムに対して、絶対的な優越を持つ存在が。」

 特許庁にあるステータスの特許更新データ。申請者は王室庁だ。省庁の中で一際強い力を持つ王室庁が、こういったところに顔を出す機会は多い。王室庁の中に管理者がいるというのは早計だろう。

「ちなみに、そのときはどんな申請だったのですか?」

「とある変数にまつわるプログラムの変更だ。」

 全文がわからない以上、それがどんな役割を持っていたのかは推察するほかないが、戯れにペンを走らせた。


name(#S001#)

中略

Assm(f = on ; tra(S001(F)) ; D + 1)


「本当はもう少し長いが、他のプログラムとの繋がりをある程度省略して、変更したかった含意だけでいえばこんなものだろう。」

「覚えてらっしゃるんですか……?」

「たまたまだ。」

 結局のところ、ここからステータスというシステムの本質に迫ろうというのは無理だという結論に至った。だから、私はこうして、毎日くだらない質問に付き合わされている。

「ステータスに含まれているある機構にまずS001という名前が付けられている。そして、on関数、つまりfに何かしらの信号があれば、S001が作動し、Fという変数、あるいはFと名付けられた物理的なタンクに、何かしらを送信する。

 もしも〇〇であれば、がAssm関数の役割だ。fがonにならなければ、Dという変数に数字がカウントされる。」

「すぐさまに読めるかと言われると……難しいですね。」

 苦笑したフォーティアの言う通り。ほとんどの場合、こういったプログラム言語が意味を伝える先は、魔素波動力や、ステータスタグのような魔装だ。決して人間用の言葉ではない。

「これが、最終的には0と1だけで表す情報になる。まだ読みやすい方さ。それに、プログラムには癖もでる。

 筆跡といった方がわかりやすいか。私は、君の書いた字であればすぐさま君が書いたものだと見分けることができるが、それと同じだ。」

「そ……ですか……そんなに、特徴的な字を書いてるつもりは、……なかったんですけど……」

「君だって私が書いたメモは一番に懐に収めるじゃないか。案外、人間の感覚は馬鹿にできない。」

「ん……そう、ですね。」

 バツの悪そうに懐に触れたフォーティア。構わず続ける。

「この詠み人知らずのプログラムにも、きっと全文を読めれば筆跡を見出せる。

 全て読めさえすれば、私は、その人間の思想さえわかるだろう。これを読むというのは、読心術のようなものなんだ。」

 私が至った極端な結論に、フォーティアは躊躇いがちに聞いた。

「本当に、そう思われますか。」

「今のところは、疑いようがないな。」

 なにか、彼女を不安がらせるようなことを言ってしまっただろうか。口を噤んだ助手の姿に、微かに逡巡する。

「では、五年前。このプログラムの管理者は。」

「……なにかを、変えられてしまった。変わってしまった、とも取れるだろうな。」

 思想が変化するほどの、何か、劇的な出来事。

 少し、違和感があった。


3


 目を覚ましました。

 昨日は、よく寝付けなかった割に、いつもより早く目が覚めて、自分の心臓の小ささに少しだけ笑みが溢れます。

 いつも通りに支度をすれば、あの人を起こしに行く時間は三十分も日常から巻くことになるでしょう。

 ほんの少しだけ気合いを入れて、メイクと着ていく服を選び始めます。


「敬愛なるアスタ・アマテ。本日も私を、お見守りください。」

 そして今日ばかりは、ほんの少しだけ。あの絶対的な主のお力も、お貸ししてはくれないでしょうか。雑念の混じったワルカナの句を唱えて、お墓から技研に戻ります。

 まな板を取ったところで、懐の中を紙が擦れる音がしました。昨日から、ずっと入れっぱなしだったのでしょう。

 あの人が昨日書いてくれたプログラムのメモが、まだ上着の懐に入っていました。

 あの人の字は、淡々としているけれど、冷徹さに染まりきれていないような切なさがあって、とても好きです。だから、こうして筆跡にすら偏執してしまいます。それがバレていたのは少し恥ずかしいですが、あの人は三年も一緒にいるのに私の気持ちには気づいてくれないので、もっと甘々しい感じに受け止めてほしくはありました。

 けれど、私がこれを引き出しに仕舞って終わりにしなかったのは、それだけではなかったのだと思います。


『私は、思想も、種族も、信教も、全てが違う人々みんなに、声をかけてあげたいの。おはよう、とかこんにちは、とか。そんな、ただの挨拶でもいいから。』


 最近は思い出さなかった記憶。急に考えるようになったのは、後少しで、彼女の命日だからなのでしょうか。

 病弱で、肌が白く、見惚れるような金糸の髪。

 ディータヘルテは、福祉センター時代の私の友人で。

 ディータへルテ様は、今は亡き、王女様でした。

 これまで私は、一日も欠かすことなく、アスタ・アマテへのワルカナの句を唱えてきました。そんな私に、王女は興味を持ったそうです。

 私が話す教典の内容は、きっと神教に縁のない人には退屈な話だったと思います。

 王女の故郷より遥かに北にある、魔族の国の話。

 国を同じくする同胞。あるいはそうでないもの。

 生きる世界を同じくする同胞。あるいはそうでないもの。

 総じて、必要のない殺しを嗜める句。

 そして、輪廻に君臨する絶対の主。その存在に対する畏敬。

 私が話したそれらを、王女は楽しそうに聞いてくれました。私が話すことを随分と躊躇ったので、その分好奇心が高まっていたのかもしれませんが。

 だからでしょうか、王女は私に秘密を教えてくれました。私の話した教典の大事さを、ちゃんと、等身大で受け止めてくれたからだと思います。

 王女は思い出すように度々はにかんで、まるで機械で打ったみたいな精緻な筆跡の記号を見せてくれました。

 私の知らない言語ばかりで、当時はそれが、古代帝国語だということは知りませんでした。私が不思議そうな顔をするので、王女はそれを「私のことが大好きな人からのラブレターよ?」と紹介してくれました。

 結婚、というものがどれほど素敵なことなのか、それを最初に教えてくれたのは、王女だったと思います。もちろん、実感として教えてくれたのはあの人です。

 素敵な思い出でした。福祉センターでの最後の一年は会っていなくて、病状もあまりよくはないようでした。そしてしばらくしないうちに、彼女は私に会う間もなくお隠れになりました。

 どうして今まで気づかなかったのでしょうか。

 王女が私に見せてくれたあのラブレターは、古代帝国語で書かれた、プログラム。

 先生が言っていたことを思い出します。

 プログラムを読むとは、その記述者の心を読む、読心術のようなものだと。だとするならば、あんなにも熱烈なラブレターはありません。だってそれは、あのラブレターを書いた人の心の全てを、曝け出すようなものなのですから。

 それを、王女は私に見せてくれた。

 まだ。まだ、覚えているのなら。

 私はまだ、王女のことを知れるかもしれない。あのプログラムを、不躾にも読み解けば。私は、王女のことを知り、想うことができるかもしれない。

 そうできる人間が、そうしないことは、とても寂しいことなのではないかと、つい一年前から思うようになりました。窓の外、眼下の墓石が見えます。

 少し、思い出してみることにしました。


Assm( D = on ; D + 1 ; F = 0 )

Stand(Assm( time = 00,00,00) ;”幸福%I人”,(D),”不幸%I人”(F) ; )


 きっと、あの熱烈なラブレターの一割も思いだせはしませんでしたが、それでも、ここまで覚えていたことに安堵しました。記憶力には、昔から自信があります。

 私でも、時間さえかければ多少はプログラムを読めるようになっていました。

 一番最初のプログラムは、Dが選択されたときにDの数値に1を足し、そうでない方が選択されたときはFに0を入力する。

 Standは画面に情報を表示する。その条件として、指定された任意の時間であることが設定されています。

 そして表示する内容は「幸福」と「不幸」。%Iは、その情報を整数として表示する指定です。

 つまりこのプログラムは、二択の選択肢の選ばれた回数をカウントして、それを表示するためのもの。けれど、片方のカウントは、恣意的にゼロを表示する。

 私は、ある一面の答えに辿り着いてしまったのかもしれません。

 あの人はいつも、ステータスに要求される幸せについての二択を毛嫌いしていました。だからでしょうか、このプログラムが、私にはその質問の答えをカウントしているようにしか見えないのです。

 幸福を選んだ人の人数をカウントして、不幸を選んだ人はゼロになるように細工する。ある時間になったとき、幸せだと答えた人の数と不幸と答えた人の数が、さも厳正なるカウントという過程を経たかのように表示される。

 王女にあの手紙を送った人は、王女がみんなの幸せを願っていたということを知っていたのでしょう。そして同時に、だからこそ、不幸だと答えた人の数、その多さを、彼女に見せたくはなかったのでしょう。

 王女には、プログラムの知識はありませんでした。

 このプログラムの管理者は。

 あの、ラブレターの送り主なのではないでしょうか。

 先生にもらったメモ。更新されたプログラムを読みます。


name(#S001#)

中略

Assm(f = on ; tra(S001(F)) ; D + 1)


 先生の言っていたことと、私の仮定を併せて読むと。

 これは、私が思い出した、王女のプログラムと同じ処理をしているように思えます。

 変わったのは、f、つまり不幸を押した人に対して、ステータスタグの何かしらの機構が発動し、影響を与えているということです。そして、その裏では、今まで通りに幸福な人の数をカウントしている。

 昔、ステータスタグの動力源についてあの人に質問したことがありました。私の疑問にあの人は、ステータスタグは常に体から微量な魔力を徴収している、と答えました。そして、それを解析することで身体情報を獲得し、同時にステータスタグを動かすエネルギーにしている、と。

 機構の名前を定義するS001。もし、ステータスタグに備わった魔力の徴収機関にその名前がついているとしたら。

 不幸を選んだ人は、常に徴収されている魔力と別に、追加で魔力を徴収されていることになります。そして、そこで徴収された魔力は、tra関数によってFという何かに転送されています。

 あまりにも微量な魔力の徴収は、体に害を及ぼすことはありません。気づくことすら難しいと思います。

 ステータスタグの仕様書に書いてある、一日の魔力徴収量は0.00000357M。これを二十四時間かけて徴収しています。

 もし、不幸を選ぶたびに同じ量の魔力が徴収されているとしたら。その魔力は、ステータスタグの稼働に一切使用されない余分な魔力として貯蓄され続けることになります。

 全世界のステータスタグのおおよその使用者。その中の一割が、勤勉にも毎日「不幸」という選択肢を押し続けたとしたら。その数は単純に計算すれば4,600万人。

 0.00000357Mが4,600万人分徴収されれば一日に164M貯蓄されることになります。それが一年続けば60,000M。このプログラムが開始されてから、もう少しで五年になります。

 一年間に60,000Mを徴収するプログラムが、五年経てば。その貯蓄量は、300,000Mに到達します。

 キッチンペーパーに殴り書いた筆算に、間違いがないかもう一度読み返しました。それでも、私の計算は間違っていませんでした。昔から、計算は得意です。

 私は昔から記憶力がよくて、計算も得意でした。

 鮮明に思い出せます。

 大量破壊魔法兵器の定義は、運用魔力量300,000M以上であること。


4


 目を覚ました。

 首元に痕をつけたトゥリオビーテの位置を正した。

 ネクタイを締めて、寝室のデスクに広げていた資料を目についたところから読んでいく。

 今日は休日だった。フォーティアも、既に起床してキッチンに立っているようだった。

 資料の中にある仕様書は、仮想重心制御魔法の開発を受注したときのものだった。仮想重心制御魔法は、プログラムの容量を削減するためにステータスタグのプログラムとの抱き合わせを前提としている。

 多少は、変数同士での干渉を考慮しなければならない。国軍省が様々なデータをかき集めて、プログラムに使わない方が望ましい、として提出してきた変数。

 様々な古代帝国語の識別子の中にある、「D」と「F」がやけに目に入る。

 ステータスというシステムのプログラム。私が知り得るステータスの中にある変数にも、DとFがあった。

 フォーティアに聞かされて初めて、D&Fというブランドと、その意味を知った。

 この符合は、果たして私のこじつけだろうか。

 私にはもうこのDとFが、ディータヘルテとフォトンマンにしか見えない。

 弟を失い、妻を奪われた男の、その憎しみが、仄暗い不幸へと手を伸ばす光景が、容易に想像できた。

 彼は、憎しみを全く抱かなかっただろうか。

 彼は、不幸を感じなかっただろうか。

 彼は、自分の人生の小さな幸せを、肯定できただろうか。あの質問の二択に、迷いを持たないだろうか。

 もし、そうだとしたら。

 その失意の中で、今もなお王国の頂点に君臨し続ける彼の動機とは、その先にあるものとは、果たして何なのだろうか。

 幸福な者と不幸な者をカウントするプログラム。その管理者の席に微かに香るとある男の姿。

「忌々しい。」

 一体何に対してなのかも自答できないような悪態を吐いて、ステータスを開いた。虫唾の走る質問に、流れ作業の「いいえ」を押して、自身の身体情報を眺める。

 自分の健康だとか、そういった感覚的なことを確定的な数値として示してくれるのであれば、ステータスは医学的にオーバーテクノロジーといって相違ない。表示される情報は、その人間が習得している技術ではなく、健康管理において必要とされる項目の方が多い。

 ふと、王女の死因が遺伝的な疾患であったことを思い出した。ともすればそれは、病弱なディータヘルテの血筋が開発した自己管理のためのプログラムだったのかもしれないと思い立った。

 とすれば、あの忌々しい質問は、管理者の座を引き継いだあの男が組み込んだものだろうか。その含意についてを、私が知ることこそが。

 今私を取り巻いているこの状況の、真相だと思った。


 どこかそわそわした様子のフォーティアと朝食を済ませた。家の中では少し浮いているようにも見えたフォーティアの姿は、いざ技研を出て街に出ると、街並みを背景として消化してしまうように完成されていた。

 私のルーティンが彼女のファッションに多少窮屈を強いてしまったろうか。

 冷たい印象の無表情は、しかしいつもよりガーリーな薄手のワンピースとの齟齬で新鮮な姿を見せている。

 やっぱり美脚だな、と口に出そうになったのを意識的に制した。三年前は、もっと自制的というか、無意識的に彼女を見る目にフィルターをかけていたような気がする。

「どう……ですか……?」

 私の視線に気づいたのだろうか、しなやかな指先が、その口元を隠して問うた。

 こういった問答に思考を費やさなくて済むから、私はこれまで独り身だったというのに。

「絵画に描いて、飾っておきたいな。」

「んぅ……」

 私の答えはどうにも彼女の意図からは外れていたようだった。もとより正解を出せるとは思っていない。平手打ちされなかっただけでも上々だろう。

「もっと……直接表現してくださいよ。」

「君が矯正した答えを聞いても、嬉しくないだろう。」

「……わかってるなら、もっとちゃんと言ってください……次はっ……期待してますから。」

 何を、と突き詰めようとするのはやめておいた。それくらいの分別はあった。

 心なしか上機嫌なフォーティアの歩幅に合わせて、隣り合って歩いた。夫婦ならば、こうして歩く方が自然なはずだ。

 王都心軌道鉄道、一等客室は宮廷付きの人間に優待があった。どうせならばと思ったが、提案したらフォーティアが少しだけ残念そうにした気がしたのでやめておいた。

 歩いたら、三十分はかかると思うのだが。

 目的地は百貨店だった。

 武器、防具、魔装。あるいは、惣菜、青果、銘菓。そして、服飾、機械式駆動部品(ムーヴメント)、宝飾品。

 D&Fのテナントは、一階にあった。

 魔装カタログ雑誌の表紙で見たことのあるモデルが、控えめにあつらえた宝石の指輪をはめた姿のバナーがそこかしこに提げられている。

 話しかけてきた販売員に、悪いが少し静かに見させてくれ、と断って私はショーケースのステータスタグを物色した。

 D&Fのみが製造・生産するステータスタグD&Fモデル。

 ステータスタグの純正品において、ブランドロゴの刻印を許されているものは、このモデル以外に存在しない。

 宮廷付き、そして騎士団の人間に徽章はないから、わざわざ騎士剣を持ってきていた。もちろん、不要な警戒をさせないために、鞘には何も収めていなかった。

 それを見ていた販売員は、私の物色に何も言葉を差し挟まず、しかしその場を離れることもなかった。

 都合がいい。声音だけを向けて聞いた。

「このモデルの最初の生産はいつだ。」

「二年半前です。」

 私とフォーティアの結婚の時期と大体同じくらいか。

 最初のステータスのプログラムの申請からは、いくらか経っている。

「今のステータスタグの使用者の中で、このロゴモデルを使っている人間は大体何割かわかるか。」

「えぇ……っと」

「まぁいい。歴代の販売台数はわかるか。」

「五千万台は超えているかと…」

 ステータスタグの使用者の一割近くは、このD&Fモデルを使用しているということになる。

 それの外観や販売実績にばかりこだわる私に、販売員は言葉に窮したようで、次に私から何を聞かれるのかと身構えるばかり。軽快な営業トークは鳴りを潜めていた。

「プログラムはどうした。本来のステータスタグのプログラムの全文を知っているのは、あれの管理者だけのはずだろう。そういった人間と、コンタクトをとって開発を進めたのか?」

「……プログラムに関しては、王室庁から独自に開発したものを供与されて発売に至ったと聞いています。」

「……これの中身が、オリジナルとは限らないわけか。」

 口の中だけで呟いた。

 このロゴモデルが、現行のステータスタグとは全く違うプログラムで動いている可能性も、加味しなければならないだろう。

 フォーティアに何か好きなデザインのものはあるか、と聞いて、熟考しそうな彼女に適当に選ばせた。ここで悩まれても、これが私からの心を込めた贈り物、というわけでもないのだから仕方がない。

 フォーティアが選んだのは、騎士剣のモチーフが刻印された控えめなデザインのステータスタグだった。古代帝国時代のデザイン様式風にレタリングされたブランドロゴが小さく添えられている。

 使用者情報やステータスアカウントの接続など、最低限のセットアップと支払いを済ませた。荷物になると思ったから、保証書以外の付属品や箱は捨ててもらい、アメニティも断った。

 購入手続き用の応接セットを少しだけ使わせてもらい、早速ステータスを起動する。

「ステータス。」

 今日も貴方は幸せですか?

 ポップアップが出る。隣に座って不思議そうな視線を送るフォーティアを一瞥して、「はい」を押した。

「ぁ……んぐ……」

 何か声をあげそうになったように母音を漏らしたフォーティアは、すぐに口を引き結んで発声をキャンセルした。

「そういうの……ずるい。」

 その傍ら、ステータスは私から少量の魔力を徴収した。おそらくは、通常のステータスタグの定格徴収量より明らかに少ない。

 ということは。

 このD&Fモデルのステータスタグは、通常のステータスタグとは完全に別物として登録されている。もちろん、それでプログラムの全文が読めるとは思っていないが、通常のステータスタグを調べているだけでは出てこなかった何かしらのログが、このモデルのステータスには潜在している可能性がある。

 それを知れただけでも収穫だ。タグを適当に仕舞って、私たちは店を出た。

 この買い物は、今日の目的のついでに過ぎない。

 フォーティアを連れて、私は最上階へと向かった。


 飲み物は何にするかと聞かれ、私はコーヒーを、フォーティアは紅茶をオーダーした。その待ち時間にと販売員が置いて行った大判のカタログを開く。値段は書かれていなかった。

「好みのデザインがあれば言ってくれ。」

 誌面を割るスマートな罫線の中には、標本のように精緻に、ベルトと文字盤が整列されている。

 私が知る限りでは、王都の中で最も品揃えのセンスがいい店が、この時計宝飾店だった。

 テーブルに置かれたコーヒーに口をつけながら、片手間にページをめくる。

「あなたは……私にどんなのつけて欲しい、ていうか」

「あぁ」

「どんなのを、プレゼントしたいんですか……?」

 本来なら、結婚する前に経るべき過程だったのだ。婚約指輪などで、通常の関係性はそれを消化する。

 しかし私たちは、結婚指輪さえない。この関係性は本当に、実態と戸籍上だけで、物質的にはあまりにも簡素だ。

 腕時計に興味がなければ、これだけの中から選べと言われても困るだけだろう。ある程度の指標くらい与えても、押し付けにはならないと思った。

「文字盤のサイズは手首に合わせる。大きすぎるものはバランスが悪い。趣味に合えば革ベルトの方がデザイン性があるし、君に似合うと思う。外仕事という業種でもないしな。

 それと、どうせならレディースではないものがいいだろう。あれは少々機能性に乏しい。私は好かん。どうせ身につけるのなら、上品かつ機能的に、それでいて、自分で納得していなければならない。

 何か漠然としていても希望があれば、ブランドを紹介する。ここならば、実物もあるだろう。」

 ショーケースの中に飾ってあるだけでも、百本近くあるはずだ。

 軽快に視線を滑らせたフォーティアの意識の矛先は、誌面を滑り、虚空を滑り、やがて、私の手首に辿り着いた。

「あなたのものと……同じブランドが……いいです。」

「いいのか。ミリタリーウォッチだぞ、これは。」

「はい。一緒が、いいんです。」

 いじらしいことを言って顔を背けた妻に、それ以上詮索するつもりはなかった。エスコートして、ショーケースの前に連れて行く。

 小さくフォーティアが指さしたのは、とある革ベルトの時計だった。それは、私のモデルの後継モデルで、長針をよく見るとトゥリオビーテのデザインがあしらわれていた。

 実際につけてみるのを勧められて、フォーティアはその

細腕に時計を巻いた。

「少し……大きいですね」

「小さい方のサイズはどれくらいだ。」

 取り替えた時計の文字盤のサイズは、おおよそ30mmくらいだっただろうか。

「ベルトの長さを見よう。手首、測ってもいいか?」

「は、はいっ……!」

 おっかなびっくり差し出されたフォーティアの手首を握って、思考の傍ら、熱烈に私を見つめてくる彼女の視線とかちあった。

 この細さなら、標準のもので対応できる。緩すぎて取り落とすこともないだろう。

 購入の準備に裏に引いた販売員を尻目に、ずっと繋いだままだった手を解いた。

「ぁ……」

 名残惜しそうに己が手首に触れるフォーティア。

 あるいは、私の力が強すぎただろうか。すまない、と言いかけた私よりも早く、フォーティアが口を開いた。

「あなたが測るところ……ここで合ってますか……?」

 自分の手首に触れながら、私の手を揶揄する。

 その指先は、やがて左手を下り、薬指の第二関節まで順行したあと、そこをきゅっと握った。

「ほんとは……ここ、測らないとじゃ、ないんですか……?」

 そこでなんと返したかはあまり思い出せなかったが、多分、いつかな、と言った気がする。


5


 あれからよくやるようになった。

 フォーティアと私の腕時計を一緒に、時間を合わせる。二十四時を刻んだ時に、一緒にリューズを押す。

 同じ構造の機械式駆動部ムーヴメントを共有する私たちの時計は、時間の進みも同じで、遅れ方も一緒だった。

 それは、物質的に時間を共有するということで。そして、形而上的に時間を共有するということでもあった。

 私とフォーティアは、同じ秒針の間隔を、同じ長針の一周を、同じ短針の周回速度を共有している。

「王女が死んだ。今日でちょうど、五年だな。」

 今日から一日。王都は、あの優しき王女を悼み、喪に服する。


 こんな日なのにわざわざ王室庁に赴いた私は、いつも通り煙草をふかす男と話していた。

「今日、決行する。」

「……証拠は集まったのか。私が頼んでおいた資料は、まだ届いてないが。」

「その封筒に入れてある。それに、部署のなかの採決で、三分の二が黒だと判断した。お前、いろいろ調べてたくせに碌に情報もあげてこなかったな?」

「私が協力の要請に了承したのは、理論魔法力学の知識が必要とされる場面のためだ。諜報員をやったつもりはない。」

「それもそうだな」

 クツクツと笑った横顔。今日は、いつもより見通せる気がする。

「フォトンマン・エミレット・アードガルドは、王女、ディータヘルテの血族からステータスタグの管理者を引き継ぎ、あまつさえ、それを大量破壊魔法兵器の完成のために利用した。

 昔特許庁で働いていた老獪がやっと口を割った。

 特許申請者や更新者の情報は、たとえ同じ省庁内でもクローズドに管理されて、一切共有されない。

 既に職務から退いた人間を調査の対象にしたチームは、慧眼だったよ」

 少量のアドレナリンが、じんわりと脳を浸し、彼の饒舌を加速させていた。

「人魔大戦はやっと終結に向かっている。そんな中で、これ以上戦争の火種を燻らせるわけにはいかない。これで私は」

「そんなに兄が憎いか、カイン。」

 言葉が詰まる。世界の何もかもが静止したように錯覚して、その錯覚の中で、立ち上る煙草の煙だけが時間の中を流れていた。

 人間の顔認識を阻害するフードを除ける。彼は抵抗しなかった。露わになる、王と瓜二つの顔。少しばかり見開かれた、銀の双眸。

 記憶の中より少し成長した、カイン・エミレット・アードガルドの姿。かつて死んだと知らされた、私の旧知の友。

 そうだ。私は、国王と交友があったわけではない。

 君だ。君なんだよ。私は、国王の弟である、君と、交友があったんだ。

「いつから気づいてたんだ。」

「私が君をわからないと思ったのか?君に現代魔法学の基礎を教えてやったのは、誰だと思ってる。」

 私のことを最初に先生と呼んだのは彼だった。

 あどけない表情の中にある、鋭い魔素波動力へのシンパシー。彼は天才だった。

「日銭暮らしの冒険者だった私を、王室の家庭教師に引き抜いたのは君だった。そして、それを許したのは君の兄だ。」

「俺を王室から追い出したのも、その兄だ。先生に、わかってもらいたいとは思わないよ。

 俺は、憎しみだけで、今日まで生きてきた。そんな人生、不幸すぎるから。」

 俯いて見えた左手首に、勤勉に針を動かす文字盤が見える。

 憎しみだけは、未来を作らない。未来のためにしか行動できない人間は、やがて身動きが取れなくなり、その停滞した人生に、不幸という名前がついている。

 憎しみは原動力になり、王室から更迭された問題児は、身分を一新して王室庁の中核に入り込むまでになった。

 されど、時計は止まる。

「私はもうそれを知っている。憎しみは、体ばかり動かして、エネルギー効率がいい。退屈で、不幸だったよ、憎しみを失った後の私は。

 しかし、その中に小さな幸せがある。」

 三年前、ベルの音に振り返った瞬間を思い出した。

「憎しみの中では、可視化されない幸せだ。」

 それでも、君は。

「俺は兄さんを殺すよ、先生。

 俺に、こんな不幸を強いたツケは払ってもらう。」

「彼は、王女のために展望台から故郷を見る。それは、素晴らしい追悼だ。私には、そんなにも悪い人間には見えない。」

「あいつが見ているのは王女の故郷の先にある魔族領だ。王女の血脈に完治不能な病を残した敵を、照準して、焼き尽くすためのルーティンだ。そういうやつだ。俺と同じ、不幸な人間だ。」

「君は、その不幸の中に幸せを見出せなかったか。

 君が今まで生きてきた人生を、肯定はできなかったか?

 君はいま、幸せか?」

 彼は、カインは、澱みなく答えた。

「あぁ、不幸だよ。」

 これが、そう呼べる最後の瞬間かもしれないと思った。

「そうか、カイン。」


「久しぶりだな。フォトンマン。」

「ワイズマン先生、……あぁ、貴女は」

「つ、、つつ、妻、の、フォーティア・アンドレティア……です。」

 王の御前、私たちは大して熱くもない旧交を温め、私の妻を認めた。

 式典用の玉座で話をするのも馬鹿らしい、と彼は執務室に私たちを招き、手ずから紅茶を淹れた。

 上座に座り直して、私はD&Fのステータスタグを机上に置いた。

「手間がかかった。こんなにも簡単だったなら、もっと易々と姿を見せて欲しかったよ。

 貴方の前でこれに文句を言ったこともあったと思うが。」

「手厳しいな、とは思ってましたよ。なにせ、そのプログラムを追加したのは、私のわがままでしたからね。」

 わざわざ言葉にするまでもないか。

 国王、フォトンマン・エミレット・アードガルドは、詠み人知らずのプログラムの記述者を、自分だと認めた。

「こんなものが市井に出回っている時点で違和感はあった。この世界の人間は誰も気にしていないようだったが。

 ステータス、なんてシステムは、こと人間が生活していくだけならば必要のない技術だ。かつての空想小説にその記述があるくらいで、まさか現実の技術として必要とはされていなかった。

 しかし、そうではなかった。勇者、冒険者、そういった人間が副次的に使っていただけで、これが現実の技術として開発されるに至った過程、その中心にいたのは、重篤な傷病者だ。

 医療という分野においては、誰しもが喉から手が出るほど欲しいデータ。ステータスは、それをもたらしてくれる。

 ステータスという概念は、医学を発端とした技術だった。」

 冒険者が、自分の強さを数値として確認し、そしてその数値でもって格付けする。それは、このステータスというシステムの本質に掠りもしない。

「これを開発した人間は、きっとそう思っていたでしょう。その通りです。ワイズマン先生。」

「貴方も、でしょう。王女の体調を、このプログラムで管理していた。日に日に衰弱する彼女の命を、なんとか生き永らえさせようとしていた。」

「最期は、もう立ち上がれないほどに衰弱していました。彼女は、ベッドの上だけで一年間過ごし、その末、安らかに逝った。」

 フォーティアが、微かに指先に力を込める。

 彼女と王女には、確かに親交があった。

「では、あのプログラムは、民の幸せな姿を見ることすら叶わなくなった王女に、せめて数値でだけでも幸福な民の存在を感じてもらうために作ったものだった。」

「プログラムを読めたんですか?」

「あの質問からの推測だ。」

 ステータスタグの使用時に強要される、あの忌々しい質問からの。

「しかし、五年前そのプログラムが書き換えられた。

 王女のためのプログラムが、王女が死んだ日に、王女ではない何者かのためのプログラムに書き換えられた。」

 

name(#S001#)

中略

Assm(f = on ; tra(S001(F)) ; D + 1)


「ずっと望洋と思っていた。私はあの質問に、不幸ばかり押していたから、気づかなかった。」

 貴方は今日も幸せですか?

 -いいえ

 魔力が徴収される。

「おかしなことだと思わないか。ステータスタグは、常に微量な魔力を徴収し、その総量は一日かけても1Mにも満たない。

 しかし私は、あの質問に答えた時だけは明確に魔力の徴収を感じた。いや、言い換えたほうがいいか。

 不幸、を選択したときだけ、あのタグは一定量の魔力を徴収していた。どうやら、幸福を選択したときに、魔力徴収は起こらないようだからな。」

 自身の身体魔力について、私に近しい鋭敏な感覚を持つフォーティアを揶揄した。

「そして、その魔力は、tra関数によってある変数に貯蓄される。」

 その変数を、Fと呼称した。

「フォトンマン。貴方の識別子だ。」

 彼が、もし不幸な人間だとしたら。彼は、不幸な人間というシンパシーを媒介に、魔力を集めていた。そしてそれを、自分のある種メタファーである変数に貯蓄した。

「私が徴収された魔力は、おおよそ一日にステータスタグが徴収する魔力量の約0.73倍。もし一日に五千万人がその少量の魔力を徴収されていたとしたら。魔素波動力の空気中での伝達における減退を加味したとしても。

 五年もあれば、300,000Mに届くんじゃないか?」

 この国の魔法開発において、絶対不可侵のアンタッチャブルを強制される領域。運用魔力量300,000Mの壁。

「私は、触れてはならないところに、もう手をかけてしまいましたかね。」

 諦めたような双眸。銀色。

 フォーティアが私の袖を小さく引いた。

 そうか、ここだけ聞けば、それは自供とも取れるかもしれないな。しかし、違う。そうではない。

「聖剣譲渡式典。

 勇者のみが扱う聖剣は、物質ではなく魔法だ。」

 紅茶で口を湿らせる。やはりコーヒーの方がいいな。

「死した勇者から乖離した聖剣魔法は、やがて王城の拠石(きょせき)に戻る。次の勇者に聖剣を与える式典では、そこから魔法を発動させ、実体化した聖剣と共に魔法を譲渡する。

 私の認識に間違いはないか?」

「全くその通り。なにも相違ないですよ。」

「では、結論は簡単だ。聖剣は、大量破壊魔法兵器だ。」

 私の優秀な助手は、私の言いたいことについて大方理解したようだった。

 聖剣魔法。その発動と顕現には、もちろん魔力が必要とされる。そしてその量は、魔王を破るための剣として相応の量を徴収する。

「聖剣魔法を持たない新生勇者の魔力量はたかが知れている。最初の魔法発動だけは、勇者でないものが魔力を用意しなければならない。

 その量は、ざっと300,000Mくらいじゃないのか。」

 フォトンマン。その精神性が暗喩されたプログラムと、変数。そこに格納された莫大な魔力は、彼の心象の具象化だ。

『フォトンマン・エミレット・アードガルドは、王女、ディータヘルテの血族からステータスタグの管理者を引き継ぎ、あまつさえ、それを大量破壊魔法兵器の完成のために利用した。』

 プログラムを読めば、その人間のことは大抵わかる。

 それは珍しく、私が道理や合理で物事を判断しない価値基準で、ある多角のうちの一つの視点だ。

 彼は少なくとも、戦争のため、王女の死の間接的な原因となった魔族への、復讐のための行動を起こしたわけではない。

「憎しみに囚われた人間がいた。人生を肯定できない人間がいた。」

 両親を、妹を、世界を失い、与えられた猶予を全て復讐に費やして、その果てに野垂れ死にした人間がいた。その果ての果てに、気付く。

 憎しみは、未来を作らないし、人生を肯定しない。

「貴方は少なくとも、王女のために作ったプログラムで、王女を悲しませるようなことはしなかった。」

stand{“幸福%I人”,(D):“不幸%I人”,(F)}

 ステータスタグが収集した幸福と不幸のカウント。もしステータスウィンドウにその人数を表示するなら、そんなプログラムになるはずだ。

 しかし、Fはゼロしか示さない。

 そのゼロの中に隠された真意に、Fに埋められた執念に、もはや誰も気付かない。それどころか、それを戦火の狼煙だと揶揄するものまでいる。

「貴方は、冤罪に死ぬべき人間ではない。違うか?」

 今もどこかで王を狙う照準器に、私は言った。


6


 あれから、陛下は先生の言ったことのおおよそを認めて、悲しげに笑いました。心の大事な部分が擦り切れてしまったような笑みに、琴線が引っ掻かれるような痛みを感じます。

「今日は、ディータの命日なんです。」

 陛下はそういって、執務机の奥にある両開きの扉を開けました。その奥に、王城から王都を望む、展望台がありました。

 きっと今から、そこにある望遠鏡を覗いて、陛下はディータヘルテを追悼する。私はそれを、邪魔するべきではないと思いました。

 先生は、私のそんな様子を見て陛下に言います。

「私はこれで帰るよ。宮廷入りの件では、世話になった。」

「いいえ。……もう、剣はやらないんですか。」

 剣の差されていない先生の鞘を見て、陛下は懐かしむように言いました。

「御免だ。魔法で灼き払うほうが早い。」

 先生は小さく騎士団の鞘を叩いて、執務室の扉を開けました。

「先に行っていてくれ。私は、納品まで済ませていく。」

「はい。下でお待ちしています。」

 私が歩き出すまで待って、先生が扉を閉めたのがわかりました。今日の本来の目的は、国軍省から受注した仮想重心制御魔法の納品でした。

 陛下と謁見できたのは、先生の肩書きに依るものが大きいのでしょう。

 柔らかな絨毯と、王国様式の内装と一体化した絵画を眺めて歩きました。神に捧げられる羊の絵画。大戦時の英雄を讃えた絵画。

「ディータヘルテ様は、最期に。」

『私は、思想も、種族も、信教も、全てが違う人々みんなに、声をかけてあげたいの。』

 私に聴かせてくれた、あの望みだけが尾を引いています。あの人の声をどうか、届けてはくれないでしょうか。

 なんだか切なくなって、私は来た道を引き返しました。王城の廊下は長いのです。

 無性に、先生と一緒にいたくなりました。言いつけを破ってごめんなさい。扉の前で、邪魔はしないようにするので、どうか。

 いくらか歩いて執務室の扉に辿り着き、扉の向こうの声を無意識に聞きました。

「ワイズマン、それでも私は、この魔法を発動させます。

 たとえ死んでも、だ。」

 私は思わず、その扉を開けました。


8


「待てッ!!」

 叫んだのは、私ではなかった。

 扉を開け放ち、形容し難い激情に瞳を震わせる少女。フォーティアだった。

 それは、フォトンマンの覚悟の詠唱。あの魔法を発動させる、という決死の表明であった。

「すまない。フォーティア・アンドレティア。

 貴女には寂しい思いをさせてしまった。彼女も、ずっとそれを悔いていました。」

「なんで!ディータヘルテはっ、貴方にそんなことしろって言ってないじゃん……!」

 フォーティアのステータスタグが光る。仮想重心制御魔法の発動光。力技で止めるつもりか。

 彼女の華奢な矮躯を抱き留めて、力の限り抜け出そうとする身体の脈動を真っ向からねじ伏せる。

「なんでッ……先生!!!」

 もし魔法が発動して、王の暗殺が実行されれば、その流れ弾が当たるかもしれない。話せるのは最後だと思った。

「王女との時間は、幸せだったか。」

「ええ。私の人生の中で、最も幸福な時間だった。」

「憎しみから解放されても尚、貴方は不幸だったのか。」

「ええ。私はワイズマン先生ほど、強くなかったらしい。」

 吹き抜けた風が微かに陽光を引き連れていて、彼の顔が見えなくなった。

 彼は最後に、小さく呟いてステータスを開いた。

 今日も貴方は幸せですか?

 -はい

 -いいえ

 押す前に問う。

「不幸の中に、幸せがあったはずだ。それを、こんな二択で不幸な人生だったと結論づけてしまっていいのか。

 貴方は、彼女との時間を、幸福を、貴方の人生を……肯定することはできないか?」

 何も返さず、彼は少しだけはにかんだ。

 迷いなく、不幸を押す。この二択を、ステータスに、なにより自身に強いたのは彼だった。

 妻を失い、無気力な時間の中、彼はそれでも、許せなかった。止まったままの彼女の時計と、自分の時計が、徐々にその時間を引き離していくことが。

 幸せには、グラデーションがある。二択では括れない、様々な葛藤こそが、人生だ。

「お前は、二進法ばかりだったな。」

 封筒を見やる。

「ええ。私には、それしかない。」

 引きちぎったステータスタグを、彼は私に放り投げた。受け止めたのを見た後に、彼は小さく呟いた。

『上手く使え。』

 魔力反応。急激に高まるそれが、すぐに結実する。

 魔法の構築速度は、容易に私のそれを超えていた。やはり、天才。その天才の、最期の魔法が完成し。

「先生ッ!なんで、……虐殺なんてっ、させちゃ……」

 時計が止まる。

「ぁ、」

 フォーティアにその光景を見せないように真正面から抱きしめて、私だけが彼の最期を見た。

 魔法による風圧と衝撃に薙ぎ倒され、私とフォーティアは死体から少しばかり離れたところで粉塵を浴びた。飛び散った頭蓋と脳漿で視界が染まり、彼の命と共に構造を破られた望遠鏡が倒れるのが見えた。しかし、彼の魔法は結実したようだった。

「せん……せ、」

 ステータスがポップアップする。私にも、フォーティアにも。そして、死した王の亡骸にも。誰も、ステータスを呼び出してはいない。

 それは、いつものくだらない質問ではなかった。それは、言うなれば。


『Hello World!! by Dita jerte』


 優しき王女の、最期の言葉、だっただろうか。

 ディータヘルテは生前、彼にどんな願いを託したのだろうか。私には知る由もない。しかし彼は、このメッセージでそれを叶えた。彼女の止まった秒針を、動かした。

 封筒の中の文面を思い出す。それは、D&Fのステータスタグが登録されたときの、プログラムの一文だった。


stand(“Hello World!! by Dita jerte”,D = on;)


 全てのステータスタグに作用し、任意の信号が入ったときに発動する。発動されると、とある人物の署名入りのメッセージがポップアップする。

 これが、貴方のやろうとしていたことだったわけだ。

「これ……ディータヘルテの……」

 私は強く、強くフォーティアを抱きしめた。

「先生……?」

 もし、君の時計が止まったら、私がリューズを巻いてやる。だから、どうか。私の時計が止まった時は。

 君の時計を止めるようなことはしないでくれ。

 もし、その時がきたら。

「君が、私のリューズを巻いてくれ……」


 その後、カインは王になった。

 国王暗殺の事実は伏せられ、瓜二つの彼を疑う民はいなかった。

 王の死体の検証の際、壊れた望遠鏡を解析したところ、そこに照準器としての機能はおろか、ディータヘルテの故郷を見られるほどの倍率すらなかったことがわかった。


7


 フォーティアを退室させた私は、再びソファに腰かけ、そよ風に吹かれるフォトンマンの背中に問うた。

「なぜ、弟を王室から追放したんだ。」

 せめて動揺すれば可愛いものを、諦観は彼の精神を凪いでいた。貴方は私に、弟は死んだと言ったんだ。

「弟は、世界の破壊者となる資格を得ました。」

 次は、少しは表情を歪ませたのではないか。背中越し、声が揺らいでいた。

「ディータは、当時から体調を崩しがちでした。彼女も、それが遺伝的な病状であることを知っていた。そして、その原因についても。」

 それは、かつて彼女の故郷を灼いた兵器によるものだ。

「しかし、弟は魔法学において、魔素波動力魔法学を専攻した。あまつさえ、大量破壊魔法兵器に転用可能性のある理論さえ作り上げて見せた。

 私は、許せませんでした。いや、これは卑怯か。

 まだ、許せていないのです。」

 カインの魔素波動力への感覚は、天才のそれだった。

 自身の妻を不幸の縁に追いやった原因に、嬉々として傾倒していくあどけない弟の姿。それは。

「許せなかった。憎かった。

 弟の好奇心が、いつか私の妻のような人間を多く生み出す。許せなかった。消えてほしかった。

 ただ、ディータの前から、消えてほしかった。」

「それが、理由の全てか。」

「残念ながら、そうです。私は、ただの憎しみで、肉親を手にかけた。」

 直接殺したわけでもないのに、大仰な言い草だっただろうか。私は、そして少なくとも彼も、そうは思っていなかった。

 突如、戸籍と生活基盤を奪われ、カインは冒険者として金を稼ぐしかなかった。カインを追って冒険者となった彼の婚約者は、ダンジョンの奥底で死体も回収できないほどの死に様で息絶えた。カイン自身も、度重なる上級薬品ポーションの乱用で様々な精神疾患と薬物依存症を渡り歩いた。

 私は、その全てを知っていた。もちろん、兄であるこの男も、その全てを知っていた。昏い欲望に爽快できれば、よほど良かっただろう。けれど、もちろんそうはならなかった。

 だから彼は今も、弟の血に塗れた両手を拭えないでいる。

「憎しみは未来を作らない。まさしくそう思います。貴方のその言葉を、私はいつも思い出している。」

「それでも、貴方はあのプログラムを申請したのか。」

「ええ。」

 五年前に申請されたプログラム。

「魔族を滅ぼす兵器のための、プログラム。」


「よくも、あんな出鱈目を思いつきますね。」

「だが聖剣譲渡に少なくとも300,000Mが必要なのは事実だ。貴方が平和の象徴ともいえる勇者の存続のため、王女のような人をこれ以上生まないために、その魔力を蓄えていたとしても、今の状況ではまだ出鱈目とは限らない。

 だから聞きたい。あれは、本当に。

 魔核融解型戦略弾道体の、そのための魔力なのか。」

 戦略核。いつか、私の家族を灼いた兵器の名前。

 世界を滅ぼす兵器の名前。世界の破壊者たる、戦争の引き金。

「数ある大量破壊魔法兵器の中で、なぜそれだと。」

「最も射程距離が長いからだ。あれなら、この王城から照準するだけで、その座標情報に火を落とせる。」

 彼が覗く、望遠鏡。もしくは照準器だったのかもしれないそれを見た。

「それに、カインの専攻していた分野は、魔素波動力魔法学。魔核融解兵器を生み出した学問だ。

 貴方は、弟に取り憑き、妻を死なせた兵器でもって、壮大な意趣返しをしようとした。そう、推測した。」

「確信した、ではないんですか。魔核兵器の中でも弾道体と断言したからには、ワイズマン、貴方はもう気付いている。」

 随分とレトリックが好きな王様だ。

 彼のプログラムは、彼の心象を理解するのに読み易すぎる。彼の行動も、また同じだ。

「仮想重心制御魔法。受注したのは、四年前だったか。

 貴方が国軍省経由で発注したのでしょう。

 注文書には、二つの仮想軸による重心制御を匂わせる内容ばかり。到底人間用じゃない。あれは、四肢の重さがもたらす影響について加味されていなさすぎる。軸と四肢の操作権が分離している。関節を痛めるか、下手すれば四肢が飛ぶ。」

 だから、わざわざ人間の四肢の相対座標ポイントと一つの仮想軸による1.4軸の開発などという徒労を強いられたのだ。

「注文書通りに作ってくださいよ。別に、人間用の魔法などとは、書いてなかったじゃないですか。」

「だから問題なんだ。

 私が注文書通りに作っていれば、あの二軸は、魔核融解物質が詰め込まれた弾頭の、()()()()()使()()()()()()()。」

 空気抵抗や慣性力、重力・抗力・揚力・推力。全ての力学的エネルギーの演算を馬鹿正直にやるのは、秘匿性や開発コストで現実的ではない。

 しかし、仮想の重心を設定し、その重心のみを制御する魔法があれば。それは、超簡易的弾道演算装置足り得る。

「ステータスタグと魔法との紐付けは、魔法発動円滑化と整備性を高めるためだけの目的だったんですけどね。

 まさか、身体情報を読むのに使われるとは。さすが、トゥリオビーテを作ったワイズマン先生の仕事だ。」

 私のトゥリオビーテの開発思想に、彼が気づいていないはずもなかった。いやむしろ、気づいていたからこそ、私に戦争の引き金となる資格を与えようとしたのかもしれない。トゥリオビーテは、軍事転用できない。

「貴方は、ステータスタグに課される二択の質問で、不幸を選んだ人間から微量に魔力を徴収し続けた。王女が死んだ五年前から。

 そして、その魔力は一つの場所、プログラムでいうならばFの変数に集められた。そう、F、フォトンマン。貴方のもとに。」


name(#S001#)

中略

Assm(f = on ; tra(S001(F)) ; D + 1)


 Fという識別子のついた魔力貯蔵タンクが、実体を持つ魔装なのか、そうではない魔法なのかは判断がつかなかった。

 しかし、それを手中に収めている人間が誰なのかは、あのプログラムが雄弁に語っている。

「なぜ、不幸を選んだ人間からしか魔力を徴収しなかった。ステータスタグの普及率と、その徴収機構に目をつけたのは慧眼だ。だがそれならば、あんな質問に関係なく、全世界のステータスタグ使用者から一緒くたに徴収したほうが早い。」

「偽装工作ですよ、そこになんの意味もない。」

「いいや違うな。貴方のレトリックはこうだ。

 『王女が望んだ幸せな人々から、不幸を生み出すための魔力を徴収することはできない』

 だからあのプログラムは、幸福な人間からは魔力を徴収しない。」

 不幸を選んだ人間の負の原動力は、魔力となって具象し、その渦中にいる(F)フォトンマンのもとに届けられる。

 そして、幸福を選んだ人間は、その幸福をカウントされ、亡き王者への手向として(D)ディータヘルテに告げられる。

 彼は、幸福と決別したのだ。だから、自身の識別子を不幸に割り当て、死別した王女の識別子を幸福に割り振った。

 あのプログラムは、妻を失ったフォトンマンの、何よりの嘆きであったのだ。

 互いに時間を共有し、その中を生きていた二人。片方の時計は、死という絶対的な歪みを噛み、歯車が止まってしまった。

 そして、また片方の時間も、そのとき止まった。

 憎しみは未来を作らない。故に、彼は、彼の人生は、停滞した。そして、時計が止まる。

 静止したままの昏い世界で、彼は五年を過ごした。

 フォトンマンは柔和な笑みを崩さなかった。私の話した推論に、確かに首を振らなかった。

「私を追放しますか?」

「いいや、しない。」

「では殺しますか。こんな人間が、国の象徴であってはならない。そうお思いでしょう?」

「まだ私の推測は終わっていない。」

 そんなにも殺してほしいか、王よ。止まった時計の動かし方を、貴方は知らない。だから、己を殺す以外に停滞から抜け出す方法がわからない。

 しかし貴方は殺されるべきではないはずだ。

「まだ、貴方の話を聞けていない。」

 私はもう一度、変わらない結論を述べる。

「貴方は、冤罪に死ぬべき人間ではない。」


 「私の助手は優秀だ。どうやったのかは知らないが、貴方が復讐を考えていた、ということを突き止めていた。」

 私は、くしゃくしゃになったキッチンペーパーの端正な数字の羅列を見せた。導き出されたイコールの右側に、300,000という数値が引っ付いている。

「私も最初はこれに思い当たった。貴方のプログラムから読み解いた含意、それこそが、私がついさっき語った推測だからな。

 しかし、観測とは、多角的にやるべきだ。あのプログラムだけで知ったような気になるのは。ただ、自分が認識したことだけで知った気になるのは。」

 とある賢者に託された、小さなアンプルを思い出す。

「あまりにも視野狭窄だ。貴方のせいで、そう思い知らされた。わかっていたはずだ。プログラムを読むとは、私の様々な認識方法の中の一つに過ぎず、また多角的な観測を否定するものではないと。」

 道理や合理を排他した結論で、私は彼を世界の破壊者だと認定した。では、次は道理や合理を内在して、彼を観測しよう。

「この王城のどこに、そんな巨大な兵器の発射場があるんだ?」

 ごく簡単。私が揶揄する領域は、この王城でなくともいい。そもそれ自体が貴重な魔核融解物質を、彼一人だけでかき集めることができるのか。兵器開発に携わる膨大な数の人間全員に、機密保持の信頼性を担保できるのか。

 あまりにも荒唐無稽だ。

「確かに貴方はこの兵器を作ろうとした。しかし、それは今、この瞬間において、実現していない。

 計画を辞めたのは二年半前くらいでしょう。」

 少しだけ、彼の頬が落ちた。

「それでも私は、この魔法を発動させます。

 たとえ死んでも、だ。」

「つまらない躱し方になってきたな。焦ったか?」

 ここから先が、彼が今、本当にやろうとしていることだと思った。

「おかしいと思ったのは仮想重心制御魔法の進捗を上げたときだ。私は明らかに、弾道演算に使えないような新しい仕様をでっちあげた。しかし、国軍省からは嫌味の一つもない。ドライだよな。

 あの進捗を上げたのは一年前だ。貴方はもうあのとき、私の魔法などどうでもよかった。

 弾道演算ができなければ、たとえ苦労して兵器を作っても無駄骨だ。私のこの魔法は、少なくともあの兵器にとっては屋台骨だったはずだからな。

 では何故、国軍省は。いや、貴方は、そんなにも無関心だったのか。もう、虐殺を実現するつもりなんてなかったからだ。」

「別の理論屋を見つけたのかもしれません。」

「しかし貴方はワトハイマーを失墜させた。覚えているだろう。魔素波動力魔法学で、魔核融解兵器に必要不可欠な理論をやっていた。

 彼の更迭は一年前だ。必要な理論が揃ったから捨てたのか?違うな。決行のその日まで、理論に精通した者がいたほうがいいというのは自明。

 彼に自覚はなかったろうが、彼は貴方のれっきとした協力者だ。しかし、梯子は急に外された。もう必要がなかったからだ。」

 実現難易度の高さ。要求スペックの未達。協力者の排除。これが計画と呼べるものなら、明らかに破綻している。

「そして二年半前、貴方は新たにステータスタグを設計した。D&Fモデルの初期生産だ。

 ステータスタグのプログラム強度は高い。貴方が理論魔法力学者として、私より遥か先にいる分野。システムのプログラムだ。私のように、現実に干渉するものとは違う分野のな。

 そんな貴方のステータスタグプログラムを、門外漢も甚だしい王室庁の人間が贋作できるのか。無理だ。

 あのロゴモデルのステータスタグのプログラムは、貴方が、一人で完成させた。」

「ステータスのプログラムの全文は、私しか知りませんからね。」

「いいや違う。私は、完成させたと言ったんだ。

 一から書いたんだろう?新たに。ステータスタグのプログラムを。」


『今日も貴方は幸せですか?

 ポップアップが出る。隣に座って不思議そうな視線を送るフォーティアを一瞥して、「はい」を押した。』


『その傍ら、ステータスは私から少量の魔力を徴収した。おそらくは、通常のステータスタグの定格徴収量より明らかに少ない。』


「なぜ、幸福を選択したのにも関わらず、魔力が徴収されたのか。そして、その量がなぜ、通常のステータスタグより遥かに少なかったのか。」

 机の上に置いたままだったステータスタグを掴む。

「この中には、通常のステータスとは全く違うプログラムが組まれている。そしてそのプログラムこそが、貴方が真にやろうとしていることだ。」

「魔力の追加徴収だ。」

「いいや違う。実現していない兵器のための魔力を集めても意味がない。

 それに、このステータスは幸福な人間の魔力を集めている。貴方にそれを悪用できるとは思えない。

 この魔力は、ディータヘルテのために集められた、彼女のものだ。」

 カインから預かった封筒。カインはこの中身を読まなかっただろう。そうしなくとも、暗殺計画は順調に進んでいたのだから。

 しかし私は知っている。

「規模でいえば巨大だ。一人一人から徴収する量が明らかに少なくとも、二年半あれば多少は集まる。しかし、どう計算しても300,000Mには届かない。

 この魔法は巨大にも関わらず、大量破壊を起こせない。

 発動するな、フォトンマン。この魔力反応と300,000Mの反応は、観測器の上振れで区別がつかない。貴方は、誤解されている。」

 決行は今日。ディータヘルテを失った日に、彼もその命を失う。彼が今日、その場所に現れるのは必然だからだ。なぜならその舞台は、今まさに彼が手をかけた展望台の、その望遠鏡の前だったから。

「国王暗殺計画、その引き金は、貴方の攻撃行動で否が応でも繰り上げられる。

 彼らが照準器だと思っているそれを覗いた瞬間。不明な魔力反応が貴方から発された瞬間。彼らはそれを、攻撃行動だと認識する。」

 すぐさに、速攻性と致死性に優れた魔法が発動され、彼の頭蓋を吹き飛ばすことになる。

「貴方が話すんだ。

 今日、そこを覗かず、魔法も発動しない。そして、王室庁で真実を語る。貴方の無実を証明する。

 冤罪を晴らすんだ。」

 こちらを向き、視線も合っていた。けれど、彼が何を考えているのか、わからなかった。

「今日でないと駄目なんだ。

 彼女を弔う必要がある。彼女の願いを、叶える必要がある。今日、この日に。」

 彼は多分、泣いていたと思う。

「あの子の最期の言葉を、私は……今日、遂げるんだ……!ワイズマン。」

 展望台へと踏み出した。

「それでも私は、この魔法を発動させます。

 たとえ死んでも、だ。」

 扉が開く。叫んだフォーティアより先に、彼を見た。

 彼の秒針は、やっと動き出したようだった。


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