愚かなる賢者、勇気ある愚者
撃ち込まれれば、世界を根本から変えてしまう兵器。
物理的な世界の形を、あるいは、人間の心理に端を発し、人間社会という世界の形を変えてしまう。
「ワトハイマーもこれで終わりか。」
新聞記事には、魔素波動力魔法学の研究者、ワトハイマー・フトロンベルジの三年前の論文が槍玉に挙げられていた。
「お知り合いですか?」
「昔、彼の講義で理論魔法研究に必要な魔素の振る舞いについて質問したことがあった。マッドサイエンティスト手前の魔法狂信者だったことを思い出した。」
「そうですか……残念ですね。魔法学院を追放されるとか。」
ワトハイマーの研究は、現在物質の最小単位と考えられている魔素の振る舞いについて突き詰める魔素波動力魔法学だった。
問題となったのは、彼が三年前に発表した『魔素波動力の核を融解させることによる、魔素輻射の人体への影響について。』という論文だった。
「魔族側との戦争が下火になってきて、人道的配慮が台頭した結果だ。彼はそう思っていなくても、彼の研究を大量破壊兵器の発端として忌避する人間が出てきても、おかしくはない。」
「しかし、彼の論文によって防護服による魔力発電所の健康被害が減少したことは、事実ではないですか?」
自分で指示していたことながら、フォーティアがある程度の魔法学についての趨勢を追っていたことに驚いた。まさか、私の専門分野でない領域まで網羅していたとは。
「彼の研究が偉大であることは、知っている人間は知っている。しかし、……」
彼女がこうまでしてワトハイマーの肩を持つのは、彼に同情してのことではない。それは、世界の不条理に対する、ある種の糾弾に近い。
「しかし……世界の破壊者となる資格を得た者に対する風当たりは、そんな成果を、容易く吹き飛ばしてしまう。」
皆、世界が変質することを怖がる。突然侵入してきた何かが、身体中を這いずり回り、そしてその過程であらゆるものを変質させていく。
「ワトハイマー氏の研究者生命とは、果たして、これでよかったのでしょうか。」
「知っている者が知っていればいい。それに、彼の全てが風にさらわれるわけではない。」
そうでしょうか、とでも言いたげに、感情を宿さない瞳が私を見る。
「いつか、必ず。彼の成したことが、未来を作ることになる。例え、彼の人生を捧げた成果が、無に帰したとしても。」
私は、そう信じてならない。
万物の諸悪の根源とスティグマを刻まれるか、それを厭い、賢明にも口を噤むか。
そのどちらも、私は悲劇的に思える。それでも、そうして散っていった人間たちの屍の上に、未来がある。
「さぁ、仕事にかかろう。助手。」
「かしこまりました。先生。」
⭐︎
「すまない。待たせたな。場所はわかるか。」
「ええ。わかりますが……あの、先ほどの方は……」
「あぁ、顔が見えなくて不気味だろう。私にも見えん。
所属と役職は知っているが、君に知らせるのは守秘義務違反だ。そして、今回の依頼者でもある。」
久しぶりの王国の市井は、随分と太陽光に焦がされている。フォーティアは、声を潜めるついでに私に身を寄せて、私の密談の相手を聞いてきた。
お前を私に押し付けた人間だ、と答えてもよかったが、わざわざ忘れかけの恩義を思い出させる必要もない。
「……先生、煙草をお吸いになりましたか。」
「ん?あぁ、先ほどの彼が吸っていた。臭うか。」
どこかむず痒そうな表情で口を噤んだフォーティア。煙草の臭いがどうしても耐え難いという人間も多い。ここは、甘んじて小言を受け止めるべきか。
「先生は、……その、……吸ってないんですよね。」
すれば、彼女の疑問は想像の斜め上をすり抜けていく。
「吸っていたことはあったが、面倒くさくなった。もう十年は吸っていない。」
二年も一緒に生活している人間が、突然愛煙家にでもなろうとすれば止めたくなるのもわからなくはない。
「そう……ですか。」
安心させてやろう、とまでは考えていなかったが、どうやら私の言葉では不十分だったらしい。歩幅に気を遣うような距離で、彼女は微かに私のローブを引いた。
「じゅ、受動喫煙は……健康に悪いそうですから。」
「あぁ、承知だが。」
「あんまり、吸って欲しく……ないです。それだけ、でした。」
本当にそれだけ言って、半歩離れた彼女は、迷いのない足取りで先導を再開した。
「まさか、私の体調に気を遣ってくれたのか?」
「ま、まさかってなんですか。私は、先生の妻です。夫の体調を気遣うのは……当然です。」
心配していた相手も見ずにその台詞とは、なんて意地悪な発想も、いじらしい態度を見ていると馬鹿らしくなる。
一年ほど前からよく言うようになった「妻」「夫」「夫婦」「結婚生活」「家庭」だとかの私たちの関係を思い出させるような単語の数々。
最近は、夫と揶揄されることが増えた気がする。
「そうだな。私が死亡すれば、今の法人は畳むほかない。君も、働き口をまた探すのは手間だろう。」
目的地まではさほど遠くない。つまらない話題を上辺だけさらって引き伸ばす。
「先生のそういうところ……きらいです。」
⭐︎
「ティア……!久しぶりだな……ぁ、その今日は、」
「依頼についてでしたら、公社が請け負います。本日は、先生をお連れしました。」
顔馴染みなのか。目的地の薬局に入るや否や、親しげな愛称で呼ばれた助手の名前。初老の店主は、私にオル・エクメタと名乗った。
他所行き用の自己紹介を私もして、工房の隣にある応接室に通される。エクメタ薬局。それが、この小さな薬局の名前だった。
主人が茶でも持ってくるために席を離れたところで声を潜めて聞いた。
「来たことがあるのか。」
「、はい。オル氏のご息女は、優秀な薬師です。特に、ギルドの控除対象外となる医薬品の効力と種類は、宮廷レベルかと思います。
私も月のものの薬と、睡眠薬の処方でお世話になったことがあります。」
「茨の道だな、彼らは。」
ダンジョンに出稼ぎに行く冒険者は、回復薬や強壮剤、上級薬品を必要とする。値段はするが、彼らは年会費を納めて所属しているギルドからの補助金で料金の八割を控除される。
ダンジョンには定休日がない。市井の薬局の冒険者至上主義は、普通の薬を求める一般人の需要を満たせないとして、問題になっていないわけではなかった。
しかし、王国は資本主義である。そんな中でわざわざ利益の少ない薬を取り扱うのは、経営戦略としては下作。ひたむきに勤労する彼らの労力の注ぎ先は、ほんの少し照準がズレている。
「実際、宮廷からもお誘いがあったそうです。彼女は、薬理学においても卓越した才能を持っていたそうですから。」
「……薬理学、ね。」
いそいそと茶を運んできた主人が、応接、という場を整えて席に座った。目の下の隈、荒れた指先、煙草の臭い。
伝えるのも憚られるが、誰かが突きつけなければならないことだった。
「それで、先生へのぉ、お願いなんですが、うちの娘を」
「貴方の娘が生存している可能性は、限りなくゼロに近い。そして、それが貴方の娘の死体だと認識できるほど身体が損壊されていないという可能性も、同等に低い。」
依頼の要約は、ダンジョンに入って帰ってこなくなってしまった娘を助け出してほしい、ということだった。しかし、誰もがそれをこう解釈した。死体を、回収してきてほしい、と。
しかしそれでも、誰も彼に伝えてやらなかったのだろうか。もう、貴方の娘は生きてはいない。唯の1%すら、生存の可能性はない。そう、諦めさせてやることはできなかったのだろうか。
私がここに来なければ、彼は今夜も、憔悴ばかりして眠れない夜を、喫煙で誤魔化すことになる。或いは、私がこなければ、それを死ぬまで。
「私はあくまで、貴方にこのわかりきった結果を伝えにきた。もちろん、貴方の娘の死体は探しに行こう。しかし、私が探しに行くのは死体だ。決して、生きている人間ではない。」
主人は黙り込んだまま茶を飲んだ。背もたれが軋むほどに体重を預け、深々とソファに沈んだ。
肺の奥から空気を全て吐き出して、震える吐息を喉ごと引き結んだ。
「娘を……せめて。……せめて、娘が生きていた証を、なにかの痕跡でも、部位でもいい。……気弱だが、強い芯を持ち、私の我儘のためにこの店にいてくれた、優しくて強い私の娘の、その魂のほんの少しでも。この場所に、眠らせてあげたいのです。」
「貴方の娘は、どんな人でした。」
「……優しい子だった。困り顔で訪れる人を、不安がらせないように、優しく、優しく話した。しかし、症状や体の異常については、決して見逃さないように詰めていた。
冒険者の相手は苦手だと、それでも、彼らの相談に乗った。みんな、あの子を求めてここに来た。
誰かを助けるために、悩み、苦しみ、涙を流し、心を痛めることができる、気弱だけれど、優しい子だった。」
「そうですか。」
項垂れたままの彼に、礼儀作法を説くような鈍感さを発揮するつもりはなかった。彼の声を聞き取るために、私も上体を落とした。
「頼めますか、……?先生。どうか、あの子の死に場所を、見つけてきてほしい……もう三日もひとりぼっちなはずだ。きっと心細くて泣いている。早く、見つけてあげたいのです。あの子の、亡骸を。」
「であるならば、引き受けましょう。期待に添えるかはわからない。何を持ち帰れるかもわからない。それでも……私の全霊で、尽力することをここに誓おう。」
ゆっくりと顔をあげた主人は、背もたれに身を投げ出し、寝息を立て始めた。さしづめ、娘を待つ間の三日、一睡もしていなかったのだろう。
窓の外、路地。工房から路地に抜ける、小さな窓があった。
薬瓶の一つや二つは置けそうなカウンターがついた、小さな窓。その向こう側に、背伸びをしてこちらを覗き込む子供の顔が見える。
目的は、ダンジョンのどこかで今も待ち続けている少女だろうか。足を引き摺ったような挙動で去るあの子供にも、いつかは伝えなければならない。
ただ、その役目は、優しい娘の父親が務めるはずだ。
⭐︎
エクメタ薬局の娘が消息を絶ったダンジョンは、王都中央部にある大迷宮ではなく、街の外れにある、ギルド管轄の小さな洞窟だった。
「助手、これほどの洞窟なら、戦闘の心得のない気弱な少女が、自分でも攻略できると思うだろうか。」
「……私は、ここに一人で入れと言われても無理です。」
「そうだよな。よほどクエストを打った方が安全で安価だ。」
洞窟の内部は、決して入り組んでいたわけではなかったものの、食料備蓄や非常用水、また探索用のマッピングに時間を取られ、三叉路のうちの一つを最奥まで攻略したところで一日目が終わった。
普段大迷宮に潜っているプロの冒険者ならばいざ知らず、ダンジョンというものについて全く素人である私たちには、効率とは程遠い攻略が強いられる。
戦闘の心得のない少女ともなれば、それは尚更だったろう。
魔獣には遭遇せず、代わりに、魔獣の痕跡となる魔石だけを成果とした。帰路、ずっと頭の中で繰り返される問い。
君はただの、才能のある気弱な少女だったのか?
技研、もとい自宅に帰り着いた頃には夜の帳が下り切ったあとだった。今からでも夕飯を作ろうと言い出したフォーティアを嗜めて、インスタント食品で腹を満たした。
「ティア、というのは、君の愛称か。」
「えぇ。オル氏と娘さんは、私をそう呼んでくださいます。」
フォーティアは、そう言って少しくすぐったそうに追憶した。
「あなたも、……愛称とか、……で、……呼びたかったですか……?」
しなやかな手を胸に当て、心臓を掴むようにフォーティアは言った。二年の共同生活で培われた愛着のなせる技か。
「本当の結婚生活ならそうすべきだろうな。」
「っ、な、なんで、私たちが偽物みたいに言うんですか……っ。ちゃんと……ちゃんと籍を入れてます。ちゃんと、毎朝起こしに来て、一緒にご飯を食べています。
あなたは、ちゃんと……私を、養ってくれています。」
「あ、あぁすまない、今のはよくなかった。……なぁ悪かったよ、機嫌を損ねたなら謝る。そうだ、私は陶器のような結婚をしようと言っただけだ。それが偽物であるなどとは、言ってはなかったな。」
変なところで機嫌が悪くなる。無感情に見える瞳に涙を溜めるような仕草は、その大人びた顔立ちからして心臓に悪い。あと、怒った時の説教の顔は怖い。
「呼んでくれて、……いいんですからね。」
「あぁ、ティアすまなかったよ。」
「……先生のそういうところ、きらいです。私のご機嫌取りのためですよね。どうせ、明日の朝からはまた元の呼び方に戻るじゃないですか。」
図星を突かれる。世界が変化を嫌うように、私も変化に疎い。現状維持の生活を所望し続けてきた人生の弊害か。
「……すまない。私は、君がこの関係に求めているものを、どうにも掴みきれないでいる。それでまた気分を害したら、私を叱ってくれ。
そうでなければ君の不満に気づけないほど、情けない男なのだよ、私は。」
魔法や魔素の振る舞い、そういったことにばかり目を向けてきた。人間を観測する、なんて門外漢なことをし始めたのは、二年前のあの日が、初めてだったんだ。
「……すみません。わがままが過ぎました。でも……その。」
もう、二年も一緒にいるじゃないですか。と前置きして、フォーティアはその頬を微かに染めた。
「これも、私のわがまま、ですが……たまには、呼んでほしい。他の誰でもない、あなたに。」
ここで、わかったよ、ティア。と返事をすれば、またその軽薄さにお怒りを頂戴するだろう。だから、私は小さな了承の言葉で、二年来の妻の言葉に報いようと、その我儘を心に留めておくことにした。
⭐︎
「それにしても、完璧なスケジュールだ。洞窟の規模まで想定した上で日程を組んだのか。」
「ギルドに問い合わせました。通常一日もかからない、しかし探索に慣れていない人間なら二日。三日もあれば安全とご教示いただきました。」
洞窟の壁に魔素波動力を発するアンカーを打ち込み、対応する識別子をマップに記す。冒険者用のステータスには、マッピングを補助する機能もあるそうだが、あまり使われてはいないらしい。
ペーパーレスは結構なことだ。しかし、紙とペンの速効性と可読性は、それとは切り離して考えるべきだと実感させられる。
「昨日の魔石、今日の朝ギルドに寄って見てもらいました。確証はないですが、ゴブリンのものではないかと。」
「ゴブリン?」
「ええ。魔石学のお墨付き、というわけではないですが、換金所の方の経験則です。」
「ロケーションはゴブリンの生息域と合致する。十中八九そうだろう。トゥリオビーテはあるか?」
「はい。肌身離さず、持っています。」
「パッシブの魔法スロット二つのうち、一つはフィルターの魔法だ。もう一つは、君を守る障壁を入れてある。ゴブリン程度の攻撃力では相手にならないだろうから、攻撃されてもパニックにはならないでくれ。」
「はい……ありがとう、ございます。先生が、守ってくださるんですね。」
「私の魔法が、だ。」
また機嫌を損ねただろうか。不満気な視線が背中に突き刺さっている気がする。
言っておいてよかったというべきか、言ってしまったから、というべきか。ライトで照らした先に、一匹のゴブリンがいた。
口元に血液。手に持ったナイフ。爛々とした目。ゴブリンの発情状態、もとい凶暴性の上限値。
「助手、光を焚け。」
「はい。」
魔獣を見るのは初めてだろうに、落ち着いた様子で魔道具を放る。丁度対峙した私とゴブリンの間に落ちたそれが、一際強い魔素波動力を放つ。そしてその波長は、丁度人間の可視光域で結実する。魔獣のほとんどは、視力が低い。
洞窟の薄闇を切り裂いた光の中、飛び上がったゴブリンのナイフが、私の眼前を刺突する。トゥリオビーテの魔法発動は、オートマティックに行われる。それが、パッシブと呼ばれる所以だ。
甲高い音とともに、ゴブリンの渾身の一撃は、私の眼前およそ30センチほどで弾かれる。反作用で空中を一瞬バタついた矮躯の首を掴み、岩盤へと叩きつける。
岩同士が削り合うような重い音が、頭蓋の中という小さな空洞を反響する音。全身を痙攣させ、少量の出血の中でもがくゴブリンに、私はトゥリオビーテを向けた。
宝石からレンズを引き抜き、理想的な観測姿勢を取る。
ゴブリンの体表を覆う大部分の魔素波動力を一瞬とかからずに観測し、照準した。
「詠唱しますか?」
「そうだな……火焔。」
「そんなに省略して出るはずないじゃないですか。」
「物は試しだったんだ。ちゃんとやるさ。」
焼却魔法。必要とされる詠唱は、確か三十文字ほどだった気がする。うろ覚えのそれを唱えて、最後の文字を語り切るより先に、フォーティアを背後にゴブリンから距離を取る。
唱え終わったとき、死に際の魔獣の体表が発火する。凄惨な断末魔も、やがて燃え上がった火焔の中で絶え、炭化した死骸だけが、そこに横たわっていた。
魔法による発火の温度は、空間の魔素濃度によっては岩すら溶かすことがある。まさしく、人智を超えた力という他ない。
「ここが突き当たりだったようだな。」
言外に、今日は終わりだ、と告げた。
しかし、ゴブリンの住む洞窟に、少女が一人で入ったとは。
「不運だったな。」
⭐︎
昨日よりは早く家に帰りつき、早速夕食の支度をしようとするフォーティアを予測して、魔獣と初めて遭遇したという精神的疲労について語り休息を取らせようとしたが、彼女はそんな私のことを予測していたらしく、私が起きるより前に作り置きしておいた手料理を温めて、何食わぬ顔で食卓に並べた。
「いいお嫁さんになれるな……」
「私はもう、あなたの……お嫁さんなんですけど……」
何気なく呟いた言葉に返答があって面食らう。今のは感嘆符だったのだ。
広々としたダイニングで、他愛もない会話と食膳を費やす。すれば、フォーティアは私のトゥリオビーテを揶揄した。
「魔法を照準する、なんて概念、よく思いつきましたね。」
「先行研究は多い。問題は、それを実用に足るプログラミングに起こせなかったことだ。」
照準。対象の魔素波動力と、人間の網膜に入る光の波動力をもつれ合わせ、その絶対位置を常に把握する概念。
弓のように放っていた魔法の類を、照準というフィルターで漉せば、場所、時間を問わない百発百中の魔法効果の発生が約束される。
「トゥリオビーテで照準するのを、あなた以外は見たことないですが。」
「技術的問題で難しいからな。なにせ、トゥリオビーテが照準、もとい観測できるのはたった一種類の魔素波動力だけだ。私がたまたま、その対象を占める割合の高い魔素波動力を見つけ出す技術に長けていたというだけだ。」
トゥリオビーテで狙い通りの魔素波動力を見つけ出すのは、思いの外難しい。レンズに対するフィルターの角度、そしてその魔素波動力がどんな色をしているのかを完璧に覚えていなければ、もちろん照準は叶わない。
「まぁ、自分と対象を紐付ける操作はトゥリオビーテが演算するからな。正直なところ、魔装任せという方が実態に近い。」
「真似できませんよ。きっと誰にも。
昔、トゥリオビーテの軍事転用について話したことがありましたよね。」
フォーティアが言ったのは、私と彼女が初めて出会ったあの喫茶店での会話だろう。
「もし、あなたのいう技術的問題が本当にあったとして。それが解消されたら、どうしますか。」
「私は口を噤むだろうさ。人類には、過ぎた技術だとな。」
脳裏に浮かんだ。核崩壊。戦略核。MAD。
とある、博士の名前。
「私は、耐え難いんだ。自分の名前が、悪魔や魔王のような名前と並んで、後世に渡って糾弾され続ける未来が。
口を噤むも、糾弾されるも、結局は未来に繋がる。ならば私は、茨の道を歩くつもりはないさ。」
「行き過ぎた技術による虐殺は、その好意的な成果をも、駆逐するでしょうか。」
「一過性のものではある。しかし、それも一面的な事実だ。そして、二度となかったことにはならない。」
もし、トゥリオビーテが完璧な照準器たる性能を持っていたとしたら。大陸間、大洋間を超えて、ノータイムで都市を、国を灼き尽くすような魔法を顕現させることができる。
それは、撃ち込まれれば、世界を根本から変えてしまうような兵器だ。そしてその開発者の名前に、私も連なることになる。
自分の生き方が婉曲に解釈されるなど、私の精神への陵辱に他ならない。故に私は、口を噤むだろう。
「長くなったな。情報が正しければ、明日には死体を見つけることになる。少し、身構えて休むといい。もちろん、気負いすぎる必要はないがな。」
そして、あの洞窟の情報は王室庁王国調査部から得られたものだ。間違っているはずはない。
今日まで選ばなかったあの三叉路の先に、気弱な少女が待っている。
⭐︎
洞窟のマッピングは、ほぼ完了したと言ってよかった。携帯食料を齧り、助手にはあまり胃に物を入れるなと忠告した。
昨日、一昨日と潜った洞窟の経験則からすれば、突き当たりまでそう遠くはない。
一体薬屋の娘がどこで殺されたのかはわからないが、ゴブリンに引き摺られて最奥に誘われたのは想像に難くない。
薄闇を縫って、突き当たりへと辿り着く。
「あまり見るな。私がやる。」
「いいえ。先生がやるなら、私もやります。夫だけに辛い思いをさせるのは、私の理想とする夫婦ではありません。
折角二人いるんですから、辛いのは……分け合いましょう。」
「……そうか。なら性器は見るな。私も見ない。」
「っ、……わかりました。」
死体の状態は、良いとは言えなかった。
真っ二つとまでは行かないが、股から腹にかけてを裂かれた血痕。全身の薄紫色の痣。顔は、もうあまり原型を留めてはいなかった。しかし、全身を強張らせ、歯を引き結んで、その死の瞬間まで恐怖に晒され続けたのだというのはわかる。
気弱な少女にとって、それは耐え難い時間だっただろう。一日か、それとも二日か。
ゴブリンの苗床にされ、嬲られ、犯されただろう。最期の瞬間、彼女は何を思っただろうか。その意識が途絶える寸前、視界がぼやけ、薄れゆく瞬間。
きっと、自分の運命を呪うほかなかったのではなかろうか。
おそらくは頭蓋骨があったのであろうあたりに、ひしゃげたフレームの眼鏡が落ちていた。遺品には、これが相応しいだろう。
「両腕を調べてもらえるか。」
「はい。……わかりました。」
首からは、トゥリオビーテが下げられていた。
市販のトゥリオビーテは、戦闘用に作られていない。そう作れば、軍事転用は必至だ。しかし、もしそう作っていれば、彼女が死なない可能性も、あったかもしれない。
「あの、先生……」
億劫な思考を割ったのは、控えめなフォーティアの呼びかけだった。
彼女は、死体の右手に強く握られている何かを、懸命に
引き剥がそうとしているところだった。
ずっと、そうして握り続けていたのだろうか。死後硬直によって何者からも守られていた小さな輝きを、フォーティアは拾い上げた。
「……アンプル、か。」
宝石型のアンプル。薬屋がフィールドワークで素材を抽出して保存するときによく使われるそれに見えた。見知ったそれと違うのは、採取に特化したような開け口だろうか。
「最期の瞬間まで握っていたのなら、なにか思い入れのある品だったのかもしれないな。折れそうになる心を、それを握りしめることで、耐えていたんだろう。」
「……持って帰りますか。」
「あぁ。そうだな。」
物言わなくなった優秀な薬理学研究者の少女。
私は、貴方のことを、貴方の口から聞くことは、二度とできない。貴方がどんな思いでここに赴き、どんな思いで死んでいったのか、私には、想像することしかできない。
彼女の名前は、歴史は、この暗い洞窟の奥で、終わったのだ。
それでも。彼女を悼み、心身を弱らせ、最後の力で依頼をした家族が、彼女のことを忘れない。
彼女の名前は、知っている者達の間で継がれ、そして、いつか未来を作るだろう。彼女がここで、終わったとしても。
それだけが、唯一の救いであるように思えた。
彼女の名前と、歴史は、今後彼女を知らぬような連中に辱められ、貶められることはない。どうか、そうあってほしいと思った。
彼女は、ただのしがない賢者として、細々と未来になっていく。
「貴方のことを、もっと知りたかった。私にはもう、誰かから聞くことでしか、貴方を想像できない。」
彼女は、愚者だっただろうか。身の丈に合わない敵に立ち向かい、死んだ。
そんなことを考えるのは傲慢か。
眼鏡とアンプルを回収して私たちは洞窟を出た。
「そういえば、彼女は一体、なにを回収しにきたんだろうな。」
王都の街並みの中を歩きながら、ふと疑問に思った。
路地裏を横切る子供が、不自然に転んだ。
⭐︎
子供は苦手だ、といった私に気を遣って、フォーティアは転んだ子供を優しく立ち上がらせた。
納得だ。たたらを踏むように歩いていたその子供の右足は義足だった。服の隙間に見える壊死した皮膚。
ヴァルネラヴィリー症候群。脆弱性身体障害だろう。
生きれば生きるほどに身体の末端から壊死していき、そのほとんどが先天性で、原因は遺伝子にある。
「おねーちゃん、どこにいったか、しってますか?」
ベンチに座らせた子供が、そんなことを聞いた。
そこでやっと、その子供がエクメタ薬局の小窓から中を覗き込んでいた子だと気づいた。
「弱身症か、その足。」
「……はい、でも……おねーちゃんが、絶対治してくれるって。」
ヴァルネラヴィリー症候群の原因が解明されたのはほんの二年前だ。有効な治療の研究、まして、こんな幼子にその番が回ってくるのは、もっと先だ。
それまでこの子供が生き永らえている可能性は、果たしてどれほどのものだろうか。
「君の言う女性は、先日亡くなった。君を見捨てて、ということではない。不幸な事故だ。」
「もう、あえないの……?」
「……あぁ。」
そっか、と呟いた子供。見ず知らずの大人に、貴方の慕っている人は死にました、と告げられたところで、飲み込めるはずもない。
「名前と、住所を言え。家族構成もだ。」
私の問いに健気に返された情報を記録する。
「今後も、あの薬局に通うといい。君の、あのお姉ちゃんについての話を、たくさんしてあげてくれ。そしてあるいは、たくさん、聞いてあげてくれ。頼めるか?」
「……うん。そうする」
もう転ぶなよ、と投げかけた言葉に、背中を向けて歩き去っていく子供は丁寧に会釈した。
「彼女の名前は、ああやって語り継がれていくはずだ。」
「えぇ。そうですね。」
遺品の眼鏡とアンプルを届けるのは、明日にした。
⭐︎
『魔獣の生態学』では、ゴブリンの習性についても仔細に記されている。彼らは、同族での交配ができない。どういった進化を辿ったのか、と過去を遡るのは、この世界では難しい。
あらゆる先行研究と叡智の蓄積は、私がこの世界に生まれるより前の大戦の影響で、ほとんどが消失し、あるいは混線した。
現行の研究は、実地調査による観測が、一次情報となる。
ゴブリンの行動パターンは、交配の原動力となる発情と、その後に、苗床となる対象を行動不能にするための殺意、として順序立てられている。
本書に紹介されている事例では、彼らの苗床の対象は、人間に留まらないらしい。ある遠方のダンジョンでは、迷い込んだ鳥や、小型の霊長類を孕ませた事例もある。
まずそもそも、完全に種族として異なる人間を主に襲うと考えれば、決しておかしくはないのだろう。
「どうやって種族間の遺伝子差異を突破しているのかは、全く謎だがな。」
貴重品保管用の袋に入れた、眼鏡とアンプル。アンプルについては、オル氏の了承を得た後で、宮廷薬理学研究所の性質検査にかけるつもりだ。
王室庁からの捜索の依頼。宮廷からのヘッドハンティング。あの小さな賢者は、それほどまでの才能を持っていて、そしてそれを把握されていた。
そんな彼女が今際の際で得たなにか。それは、志半ばで命が潰えてしまった彼女への、せめてもの手向けだと思った。
書斎の上のアンプルを、しばらく見つめていた。
どれくらいそうしていただろうか。ノックの音で、沈んでいた意識のギアが入る。
ノックに応じると、もちろんそこにいたのはフォーティアだった。自宅である前に、ここは技研を兼ねている。日付を跨ぐような時間に、職員はいない。
ここにいるのは、ここを自宅としている人間だけだ。
「どうした、フォーティア。」
「……いえ。なかなか三階に来ないので、まだ、お仕事をされているのかと思いまして。」
フロアの三階は、私と彼女の自宅として全てを貸し切っていた。仕事と私事は分けるのが、私の信条だった。仕事でもないのに仕事場にいるのが、奇妙だったのだろう。
「お酒……ですか……?」
「悪いな。君も飲みたかったか。貯蔵の分は私と君の共有財産だ。勝手に持っていってくれて構わないと、ずっと言ってるだろう。」
「……お酒、じゃなくて……あなたを探しに来たんです。」
仕事場でアルコールを嗜んでいることに何か言われるかと思ったが、フォーティアは純粋に、私のことを心配していたらしい。
「……一緒に飲むか?」
「っ!……ぁ、えっ……、……、はい……」
私が施しを与えるのは、そんなにも珍しいことだっただろうか。少し動揺した素振りで、フォーティアは応接用のソファに座った。
晩酌に使っていた一式の道具を持って、彼女の前に置いた。小さなシンクの上の戸棚から、もう一つグラスを取って、アイスペールの氷を入れる。
「ぁ、私、作ります……!」
「疲れてるんだろう。あまり気を遣うな。お前の悪い癖だ。」
「ぉ、……お前……って、なんですか……」
口が滑った。まだ酒も飲んでないだろうに妙に赤い顔で、フォーティアの瞳が揺れている。
「すまない……撤回する。思ったより酔いが回っていたらしい。」
「ぃ、いえ……夫婦なら、それくらいの距離感の方が、むしろ健全だと思います、し……もっと、乱暴にしていいんですよ……?」
「私をいかがわしい人間にブランディングするな。」
優しく額を小突くと、フォーティアは大人しすぎるくらいに大人しくなった。そんなに強くしたつもりはなかったのだが。
酒を注いだグラスを差し出して、そのまま彼女の隣に座る。わざわざ対面に座るのも、あからさまで失礼な気がした。
「普段、お酒なんか飲まないじゃないですか。」
「弱いんだ。フラついて階段から落ちたらどうする。私は、身体の半分が動かなくなるなんてごめんだ。死にでもしたら終わりだ。」
「なら尚更、……私の前でだけ、飲んでください。……もう、一人で飲まないで。」
そういえば、随分と前に旧友と飲んだ帰り道で酔い潰れ、家に帰らなかったことがあったな。あの時は、随分と怒られた気がする。あまりの私の憔悴ぶりに職員が口を挟まなければ、あの説教は一日中続いていたのではなかろうか。
「それじゃあ、ちゃんと私を見張っておけよ。君には、その義務があるだろ。」
「……ぅ、……ぁ、の……うぅ……っ」
グラスを手に取ったフォーティアは、それを一息に飲み干した。そういう飲み方をする酒ではないのだが、と口に出すことも考えたが、億劫だったので断念した。
確か彼女は、酒が強かった。
「……君と出会ってから、人のことを知るべきなのではないかと思うようになった。きっかけは君だ。」
独白は、アルコールの呼気と一緒に滑り出た。
「あのとき、死にたくないと言った君の言葉を、私は今も考えている。
辛いことばかりだ。不条理なことばかりだ。」
何の罪もない子供が、人生を歩めば歩むほどに、その足を壊されていく難病。親も、友人も、親族も、何もかもを皆殺しにされて、しがない研究者に嫁がなければならなかった少女。
誰かのために優しさを惜しまなかった、気弱な少女の死に様。
「それでも、君は死にたくないと言った。その意味を、私はもっと、深く、考えるべきだ。」
あの気弱な少女は、最後には、もう死にたいと思っただろう。それでも、まだ引っかかっている。
しかし、もう彼女の一次情報を知ることはできない。あの亡骸は、もう話さないし、優しさを発揮することもない。命の灯火は、とうに蝋に付している。
「だから、あの少女のことを、もっと知りたいと思う。願わくば、彼女が最後の瞬間まで、人生を悲観しなかったことを、願っている。」
気弱な少女。優しい少女。凄惨な結末。
「彼女は、決して人生を悲観しなかったはずです。」
慣れないアルコールに酔わされた私への気休めかとも思った。けれど、フォーティアの語調は強く、私の頬を打つ。
「私は、彼女を知っています。オル氏は、私よりももっと。あなたが知りたいと思うのなら、その興味の注ぎ口は、気弱だった、という評価ではないはずです。」
「では、」
「彼女は、強い芯を持っていた。それを、忘れないでほしいのです。」
茨の道を歩く少女。命を賭けられる少女。原罪に、立ち向かえる少女。
「彼女は、か弱く、気弱な少女ではなかったと思うか?」
「はい。彼女は、気高く、勇気を持った人だったと、私は思う。」
書斎越しにみたアンプル。命が途絶える瞬間まで、そして、その命が途絶えた後も、握りしめ続けたアンプル。
あれが、何かに縋る弱さではなく、何かを守る、強さ故の行動だとしたら。
「あれを、守ろうとしたのか……?」
愚かなる賢者の顔が、勇気ある愚者の顔へと、変貌する。
⭐︎
「もう、こうやってしか君と話すことはできないんだな。」
宮廷図書館の最奥。小さなテーブルの上で、括り紐に留められたとある論文を広げた。
それは、ヴァルネラヴィリー症候群の原因、その決定的な究明の一翼を担った、そんな論文だった。
王室庁の判が押された表紙。著者の名前には、もうじき没年が記される。
「君は愚かだ。愚かだよ、……小さな賢者だと思っていた。そんな枠に、収まるような人間ではなかったのだな、君は。
自分の名前を、身体を、辱められたとしても、君は優しさを選んだのか。」
格が違う。私は、小さな小さな愚者だ。自分本位の人生を、自由気ままに生きている。
けれど彼女は、彼女こそは、勇気ある愚者。
私よりもよほど、彼女の方が、勇者になる資格を有している。
「先生!」
助手の声が、検査の終了を知らせる。
薬理研究所には、彼女の名前は伏せてある。私が調査を依頼したのは、名もない誰かの遺品の中身だ。
薬理研究所で出た結果に、誰も興味を示さないだろう。
「アンプルの中身は、なんだった。」
「ゴブリンの精液だそうです。成分は混合されているようですが、大元は。本当に、先生の言った通り……」
全ては出揃った。これで、彼女の全てを理解したとは思わない。しかし、これだけ多面的に観測したのだ。この観測結果から、彼女の人格が大幅に逸脱することはないはずだ。
「帰ろう。すまなかったな、今日は休日にすると言ったのに。」
「先生が働くのなら、私も。」
「そうか。では帰宅までを労働時間につけておく。」
「もう、帰られますか?」
「あぁ。技研に帰ってからも、少しだけ、君の時間をもらえるか?」
不思議そうな瞳が、私を見つめている。
「私の時間は既に、先生のものです。」
劣化はなし。時間軸を消し去ったような保存容器。薬理研でも、中身よりそのアンプルについての方が不思議がられたらしい。
「君の言った通りだった。彼女は、強い女性だったよ。」
「……?」
私たちが出会った子供。弱身症を患った子供に、病というものの不条理さを知っている人間が、絶対に治すなどと残酷な嘘をつけるだろうか。
そんなはずはない。それは、もはや優しさと呼べるものではない。つまりは。
「彼女は、弱身症を克服する方法を、既に見つけていたんだ。」
「そんな……あれは、不治の病ですよ……?」
「その原因がなんだったか、覚えているか。」
人生に脆弱さを強要する、不治の病。その原因は、先天的な遺伝子異常だ。そして、その病を治すと言うのなら、解決策は一つしかない。
「遺伝子だ。」
もし、遺伝子を変質させる何かがあったとして。それを、自在に操れる理論研究があり、そこに、それが可能な薬理学のエキスパートがいたとしたら。
「遺伝子を変質させる薬、その存在が見えてくる。」
人間の設計図を書き換える、まさに、神に挑戦するような所業だ。故に、それは不可能な未来として、これまで償却されてきた。
「今まで、誰も不思議には思わなかったのか?」
ゴブリンが、他の生物を苗床とする不自然さに。いや、等式の破れのような、不可解さに。
「助手、例えば君が交配するとして、その相手は誰だ。」
「え、こ、っ、う……はい……する、なら……?ぇと、それは、あの」
やけに取り乱した助手は、その細い指先をおずおずと私に差した。
「そう、その通りだ。人間は、人間と交配する。」
「ぁ、そ、っ、そうですね……人間と……」
どこかしゅんとしたような助手を一旦置いて、私は話さずにはいられなかった。
「種族の差を超えて妊娠を引き起こす生物は、この世界のどこを探しても、彼らしかいないんだよ。」
「っ、そ、……っか」
考えてみればおかしな話だ。生物の設計図とされる遺伝子は、生物、種族によって全く異なる。その根幹を共有しているのは、同じ種族だけだ。
それではなぜ、ゴブリンはその不可解を無視できる?
統計で見れば、ゴブリンが襲うのは人間ばかりだ。しかし、実際のデータで彼らの特異性が対人間だけに当てはまらないことは事実。
「ゴブリンには、遺伝子を変質させる遺伝子がある。」
彼らには、不可解を可解にする裏打ちのピースが、秘められている。
「彼女が生前書いた論文の論旨だ。遺伝子を、変質させる可能性について。遺伝子由来の病気を治せるのは、遺伝子を変質させ、リメイクする薬だけだ。
そして彼女には、それを完成させ得る力があった。それを、何よりも宮廷が認めていた。」
フォーティアは、彼女は最期の瞬間まで悲観しなかったと言った。彼女は、芯のある、気弱だけれど強い女性だと知っていた。
彼女が最期に握りしめたのは、死にゆく自分の拠り所ではない。
「自分という天才が、死して尚握りしめ続けたアンプル。それが発見されたとき、誰かが同じ結論に辿り着く。その未来を託すために、彼女はあれを握り続けた。
あの子供の未来のために、気を失うほどの恐怖に晒されながらも、あのアンプルを手放さなかった!」
君は、私のような人間に託したんだ。
彼女が、最期の瞬間に何を思ったのかわかった。その意識が途絶える寸前、視界がぼやけ、薄れゆく瞬間。彼女は、悲観とは全く程遠い感情を持っていた。
希望だ。
「彼女は愚かだった。クエストも打たず、ただ一人でそれを証明しようとした。彼女は聡明だった。その薬が、果たして世界にどのような影響を与えるのか、正しく理解していた。」
撃ち込まれれば、世界を根本から変えてしまう兵器。
もとい、打ち込まれれば、遺伝子を根本から変質させてしまう薬。
それは、まさしく人類には過ぎた技術だ。
彼女は、クエストを打てなかった。宮廷に認められた自分が、ゴブリンの精液を回収するクエストを発注する。王室庁には、宮廷の研究者の中には、それに気づく者もいたはずだ。だから、彼女は自ら行くしかなかった。
一人の子供を救うための優しさと、世界を根本から変えてしまうということへの無責任さ、それを認められなかったのも、また優しさだった。
打ち込まれれば、世界を変質させてしまう薬。
「驕りだ。神のプログラムを書き換えられるという驕り。それは、世界を変質させ、いつかは滅ぼす劇薬となる。」
人体実験だろうか。あるいは、致死性の化学兵器だろうか。劇薬は、資本主義という血脈を凄まじい速度で駆け抜けていき、その効果は、ほんの少量の力価で全世界に波及する。
その力価は、彼女の、小さな小さな優しさと等価だ。
「誰にも知られるわけにはいかなかった。けれど、誰かには、知らせなければならなかった。この世で最も切実なダイイングメッセージだ。それが、彼女の握りしめた、あのアンプルだったんだよ。」
彼女は、勇気ある愚者だった。彼女が死ねば、彼女の残したダイイングメッセージが読み取られれば、世界は、崩壊への道を一歩踏み出すことになる。
彼女の名前は、その道程の出発点として、今後何千年と穢されることになる。彼女の優しさも知らず、その人柄なんて度外視した未来に、陵辱され続けることになる。
「悲劇的だ。許されるわけがない。
こんなにも勇気に溢れた人間に、そんな結末が許されていいはずがない。」
「薬は、どう……するんですか……」
フォーティアは、全てをわかっている。
そうだ。彼女は、私が忌避した結末を、誰かを助けるためなら甘んじて受け入れる。それが、彼女の最期の望みなのだ。
しかし、私はその望みを叶えてやるつもりは毛頭ない。
貴方が人のことばかりで、自分の存在をそんなにも粗末に扱うのなら、私くらいは、貴方のことだけを考えさせてもらう。私が死んでから、存分に詰ってくれ。
私は、貴方が救いたかった人間ではなく、貴方を救うことにする。
死んだあとくらいは、貴方のためだけに尽くす人間がいないと、不公平だろう?
「この薬と、私が辿り着いた結論については、二度と公表しない。誰かが気付くまで、ずっと、この私の頭蓋の中で腐らせておく。
いつか誰かが気付いたとしてもいい。けれど、世界の破壊者という烙印を、彼女の名前に刻むことだけは、私が許さない。」
あの子供を、彼女の薬で救うことはできないだろう。
彼女が生きていれば、この薬の存在を悟らせず、あの子供を完治させるくらいの工作はできただろう。だから、彼女はそれに命を賭けた。
しかし、私がなんのカバーストーリーもなしに薬を処方し、あの子供の弱身症が突然に完治すれば、必ず彼女の関与は暴かれる。あの子供は、生前の彼女と関わりすぎている。
あの子供の完治が、彼女の名前を穢すことになる。
アンプルを見た。ご丁寧なプログラムだ。彼女自身、あるいは優秀な理論魔法力学者の手が加えられたものだと、一目でわかる。
きっと、このアンプルの中身は、もう完成している。
アンプルを握りしめた。
覚悟だ。覚悟が、必要になる。
「軽蔑してくれ、私を。」
振り上げた拳、叩きつければ、全てが無に帰す。それでも、未来は、作られるはずだ。
「先生!」
アンプルが砕ける直前で、思わず手を止めた。
「私と、先生の頭の中で、腐らせておきましょう。」
珍しく微笑んだ彼女は、私を技研の庭へと誘った。
小さく穴を掘り、私の手から掠め取ったアンプルを放り投げる。土を被せ、手近にあった一際大きな石を乗せる。
「壊すことは、ないですよ。どうせ、私と先生の頭の中には、残ってしまうんですから。
実物があってもなくても、リスクは変わりません。なら、わざわざ先生が辛い思いをしなくていい。
夫婦なら、分け合うべきです。
もう、共犯ですよ。私たちは。」
私は、こんなにも歳の離れた少女に、また救われたのか。
「……ありがとう。ティア」
「っ!……はい……」
私の妻は、そうしてこそばゆそうに微笑んでくれた。
突き立てた墓石。そこを、勇気ある愚者の第二の墓にした。
残った眼鏡だけを、後日、エクメタ薬局に届けた。
洞窟内のマッピングは終わっていて、彼女を穢す証拠となるアンプルは土の下。もう、あの死体を隠しておく必要はなかった。
死体の回収は、私がクエストを打った。専門の冒険者は、死体を綺麗な状態にして埋葬したらしい。エクメタ薬局の庭に埋められた勇者。そこが、彼女の第一の墓となる。
一年後、たくさんの薬草に彩られ、フォーティアが唱える祝詞の定位置となった技研の第二の墓石。そこに眠っているものの正体を、私はきっと、忘れることはできないのだろう。
その墓の前で手を合わせるたび、彼女の失意が、私を呪っていく。
⭐︎
「弱身症、初めて進行が止まった患者が出たよ。」
不健康な煙草の煙を吐きながら、顔の見えない男はとある人間の名前を言った。
「……死んでないのか。」
「なにか知ってるな?お前。」
王室庁は、現状あの薬の正体に思い当たってはいないらしい。
「たまたま知り合った。……一年前にその子供の住所を訪ねた。子供の医療センター入りを申し出たら断られた。」
「それで間に合わなかったと思ったのか?違うね。彼女の方が早かった。」
「彼女?」
苦々しい思い出に、トゥリオビーテの照準がブレる。
「お前に依頼した、エクメタ薬局の娘だ。」
「……なんだって?」
「死ぬ前の日に、一括現金払い、気前よくセンター入りの手筈を整えていたよ。それと、自分が行方不明になったときの捜索隊の指名までな。」
一年越しの真実に、ますます疑問符が増していく。つまりは、保険までバッチリかけて、自分を見つけた人間がどんな決断をしようと、あの子供が助かるように準備していたというのか。
賢者の呪いが、思わぬ場所で解呪される。
「してやられたな、お前も。」
「なにがだ。」
「行方不明になったときの依頼だよ。」
「それがなんだ。」
煩わしい煙草の煙を掻き消した私に、意地の悪い含み笑いで告げる。
「ワイズマン先生に捜索の依頼をしてください、ってな。王室庁に直接言伝が届いた。俺たちがマークしてたのも、お見通しだったわけだ。
お前の評判は、お前の嫁から聞かされてたみたいだしな。随分仲がよかったみたいだぞ」
わざわざ公社ではなく私個人に依頼が届いた理由がわかった。そこまで知っていて私に依頼を回したのも、この一年それを黙っていたのも、性根が悪いとしか言いようがないが。
「もちろん、報酬もちゃんと用意しているような言い草だった。」
「それは君たちがちゃんと管理して私に渡すべきなんじゃないのか?」
多少の皮肉も込めて反駁する、が。
「それだけは譲らなかったよ。あの人は。」
「……私は、なにももらってないが。」
まさか、あの優しさの擬人化のような人物が、そんな賢しい交渉手段を取るだろうか。私の疑問に、男はあっけなく答える。
「報酬は、自分で手渡しする、と言ったそうだ。」