草苺の郷(クサイチゴのさと)
幼い頃、母方の祖父母の住む田舎へ行くのが楽しみだった。そこは自然の風景がそのまま残っている場所だった。あの頃の私にとってそれは、単なる山や川や木や草花に過ぎなかった。けれども、月日が経ち自分も年齢を重ねてくると、それらが何物にも代え難い自然の姿だったと気づき始めている。
祖父母の家は山裾にあった。家の周りは畑や田圃で、春になると畦道にタンポポやレンゲが可憐な姿を見せていた。幼かった私と妹、弟は、その花を摘んでは髪飾りや首飾りを作って遊んだものだ。また、近くには小川が流れていて、自分が何歳の時のことなのかはわからないが、その川岸で猫柳の穂が揺れていたのを思い出す。
春から夏にかけて、山や草原には色とりどりの花々が咲き、子どもの目を楽しませてくれた。ハルジオンやツユクサ、アザミなどはそこら中に咲いていたし、少し山に足を踏み入れると、ウツギやエゴノキの根本に、ホタルブクロが口を開いているような姿を見せていた。こうしてそれぞれの花の名前を書いているが、実際に見ていた子どもの頃には、名前など全く知らなかった。ただ、その姿形を見て美しいと思い記憶に留めていて、その後の人生で学習したものだ。これらの中には白い色の花が多いが、昔から白い花が好きだった。
田舎の夏の日差しはとても暑く感じたが、日陰に入ると途端に涼しくなり、すぐに汗が引いていった。山が近いので、一泊した朝など庭に出てみると、玄関の外灯の下あたり一面に虫がいっぱい集まっていた。名前を知っているのがカブトムシやクワガタ、蛾くらいだったが、他にも色々な虫が動いているのもあれば、動かなくなっているのもいた。
夏の夜には蛍を見ることもできた。その色は黄緑がかった黄色のようだった記憶があるのだが、オレンジがかった黄色のような気もする。あまりに時間が経過しすぎて、肝心なところが定かではない。花火をしたこともあった。幼い頃の私や妹は、大きな音がしたり高く飛んだりする花火は怖く感じて、大人が火をつけてくれるのを待っていた。ところが、線香花火は子供の旺盛な好奇心に対しては少し物足りなく感じたものだ。
そして、夜に空を見上げると、満天の星と一緒に天の川がはっきりと見えた。それはミルキーウエイの名前のように、ミルクを零したような淡い帯状の白くて太い線のようだった。今となってはあの光景が実在したものなのかどうか疑いたくなるほど、私は今そこから時間的にも空間的にもあまりに離れ過ぎた所にいる。
夏の終わり頃だったと思うが、畑一面に咲いている白い蕎麦の花の上を、赤トンボが何匹も飛んでいた。祖父母が育てている蕎麦の花の白いキャンバスの上に、赤い色を散らしたように、たくさんのトンボが飛んでいる様子は、子供心にも美しさに感動して、その光景は脳裏に焼き付いている。
田舎の秋の訪れは早かった。異常気象と言われる昨今と比べるのは難しいが、九月になるともう、ブラウスの上にセーターなどがないと一日過ごせなかった。そして、木々の紅葉が始まる頃には、寒さも少しずつ身に沁みるようになり、11月には雪がちらつくことも珍しくなかった。枯れ葉の散る様子を思い出すと、今更ながら物悲しくなるが、それはセンチメンタルではなく、子ども心に感じた寒さの厳しい冬の到来への不安だったかも知れない。
雪も多く降る地域で、時には子供の肩の高さほど積もることもあった。雪は冷たかったが、おしなべて子どもは雪が好きだ。寒いから家の中へ入るようにと大人達から何度言われても、思うような形にならない雪だるまを作ってみたり、時間を忘れて雪玉の投げ合いに興じたものだった。
今でも木々に雪が積もった景色に出会うと、暫く見とれることもあるが、私は小さい頃から雪景色を密かに愛でる、ちょっと変わった子供だったみたいだ。冬の間雪に閉じ込められていると何もできず、そこに住む人々は春を待ちかねて暮らしていた。
こんな風に春夏秋冬どの季節の風景、或いは情景についても思い出すことができることから考えると、一か月に一回ほどは母に連れられて行っていたのだろう。日帰りをするのは無理だったので、たいていは一泊することが多かった。
父方の祖父母は私たちの家の隣に住んでいて、どちらの祖父母も孫である私達を大変可愛がってくれた。父方と母方の祖父母について、違いがあるとすれば、毎日会えるか時々しか会えないかの違いくらいだった。
田舎の自然の美しさは、多分祖父母から受けた愛情と相まって、より素晴らしく感じられるのだろう。その頃には気づかなかったが、あの土地のありのままの自然は、その後の私の人生のどの場面と比べても、最も素朴だが最高に美しいものになった。そこにあるのは自然だけで、そこに住む人たちも素朴そのものだった。子供が感じる自然の自由な雰囲気の裏には、住んでいる人にしか分からない厳しさもあっただろう。しかし、私がそれを理解し始めたのは大人になってからだった。
私が物心つく前にも、私を連れて母は里帰りをしていたのだろうが、三歳くらいから小学校の4、5年くらいまでの間のことが、一番記憶に残っている。私には二歳違いの妹と五歳年下の弟がいるのだが、弟が生まれる前に、妹と母と三人で行った時の記憶も微かにある。といっても、それはほんの短い記憶なのだが、空一面が濃い灰色の雲に覆われ、今にも大雨が降りそうな中を、妹をおんぶした母の後を、必死になって祖父母の家まで歩いた時のことなのだ。前後のことは全く憶えていないのに、その時の空の暗さはわずか三歳の私を怖がらせるには十分だった。雷の音がしたわけでもないのに、真っ暗になっていく空がとても恐ろしかった。今にして思うと、ただ天気が急変しただけのことだったのだが。周りに家や建物があれば、それほど怖がる状況でもないのだろうが、畑や田圃だけの道ということが、怖さに拍車をかけたのだろう。
そんな風に田舎の四季の移り変わりも感じてきた筈だが、子どもの頃にその場で感じたというよりは、記憶の中にある風景を基に、大人になるにつれて、自分の思い出に従って色付けをしたり、徐々に培ってきた総合的な感想と言う方が適切かも知れない。それに加えて年齢を重ねるにつれて、郷愁がセピア色の景色を色鮮やかに蘇らせることもあるみたいだ。
祖父母は畑で様々な野菜や果物を作っていた。そして、私たちが行くとこれ以上ないくらいに喜んでくれて、畑で採れた野菜や果物などでもてなしてくれた。夏にはトマトやキュウリ、トウモロコシが美味しかった。素朴な野菜の料理も、何故か家で食べるよりもずっと美味しく感じられた。スイカやイチジク、ビワなどもその季節の旬のデザートだった。
祖父について思い出すのは、煙草を煙管で吸っている姿だ。薪ストーブの前に座って、刻み煙草を上手に煙管に詰め、火をつけては吸う。二度か三度吸うと、煙管を灰皿にポンポンと打ち付けて、灰になった中身を出す。そしてまた、新しい煙草を詰めるのだ。その様子を飽きもせず見ていた記憶がある。一度だけではなく幾度も。多分田舎の家へ行く度ごとに、祖父が煙草を吸っているのを見つけては、暫く眺めていたような気がする。
祖母はとても温和な人で、大きな声など滅多に出さない人だった。私の母はとても活発な性格なので、母子の印象は全く違っていた。しかし、どちらも優しい祖母、優しい母には違いない。
私たちが訪れている間、祖父母は私たちのしたいことや喜ぶことばかりをさせてくれたのだろう。だから、いざ家に帰るとなると、悲しくて仕方がなかった。あの種の残念な気持ちを、これまで他のどんな時や場所でも感じたことがない。
祖父母の家の近くには母の妹の家があって、そこには従妹の姉妹も住んでいた。姉の久美子は私よりも一歳年上で、年が近いのでよく一緒に遊んだものだ。また、久美子の妹の純子は私の妹と一歳違いで、この二人も気が合い仲が良かった。四人で外を駆け回ったり野の花を摘んで首飾りを作ってみたりと、他愛のない遊びに興じては、時間忘れて楽しく過ごすのだった。活発な性格の久美子に誘われて、私達は大抵アクティブな遊びに興じることが多く、不思議とままごとをした記憶が一度もない。
小学生になってからも、祖父母の家を訪れていると、決まって従妹が遊びに来るのだが、久美子はよく漫画本を持って来た。私は漫画を読むのが好きで、それを楽しみにしていた。と言っても、私たちの漫画の楽しみ方はただ読むのではなく、二人で一つの話を音読することだった。どちらが考えたのか分からないのだが、漫画の登場人物を二人で分けて担当して、それぞれの人物のセリフを二人が声に出して読んでいくのだ。登場人物が多くなると、どれがどちらの担当か分からなくなることもあったが、人物も厳密に分けるが、ト書きや擬声語や擬態語までも、どちらかの担当に決めたのだった。そのくせセリフに抑揚をつけたり、芝居じみた言い回しをすることはなく、ただ普通に淡々と読むだけなのだが。でも、それが楽しくて、時間の経つのを忘れて二人で没頭することが多かった。今にして思えば、久美子は私とは違って活発な性格だったので、もっと外で駆け回って遊ぶ方が良かったのかも知れない。そう考えると少し悪い気もするが、でも祖父母の家で一緒に泊まった夜など、寝床に入って寝そべりながら、二人で漫画を読み合ったことは、とても懐かしく思い出される。
妹と純子はどんな遊びをしていたか全く記憶にないのだが、普段家では妹と弟にいつも付きまとわれて自由に遊べない私にとって、二人の存在を気にしないでいられるのは快かった。弟は専ら祖父母が面倒をみてくれていた。
私が小学二年生の5月の中旬か下旬頃だっただろうか、土日を利用して田舎の家へ行った。母と妹、弟も一緒だった。私たちが行っていることを聞きつけて、例のごとく従妹の姉妹が遊びに来た。
するとそこへ、近所の家に住む兄弟が揃ってやって来た。大介と洋平の二人で、彼らは三人姉弟だが、お姉さんはその頃中学生で、私たちとは年が離れていたので、殆ど一緒に遊ぶことはなかった。大介と洋平の兄弟も私より二歳と四歳上で年は近かったが、男女の差で遊びの内容も違うため、一度か二度遊んだことがあるだけだった。
ところが、その日やってきた二人はいきなり、野イチゴを採りにいかないかと言い出した。何でもクサイチゴが沢山生っている場所があって、よく行っては採って食べているのだが、私たちが沢山採れるように、二、三日前から採るのを止めているという話だった。祖父母から私たちや従妹が来ることを聞いて、イチゴ狩りに誘ってやろうと思っていたらしい。兄弟は従妹の姉妹とは時々一緒に遊ぶ仲だったようだ。母や祖父母もその場に居て、「行ってきたら良いよ」と勧めてくれたので、私と妹と弟、久美子に純子の五人と、大介たち兄弟の総勢七人で出かけることになった。場所は近いとはいっても山の中なので、長靴を履いたり虫対策をして出発した。兄弟が先頭に立って、妹と純子、久美子と続き、私は弟の手を引いて付いて歩いた。頻繁に人が通る場所は歩きやすい道になっていたが、そうでない所もあって、弟を連れている私は遅れがちになったが、その度に皆が立ち止まって待ってくれた。
三十分ほど歩いたと思うと、急に雑木が全くない開けた場所に出た。
「ここだよ」
大介の声だった。見渡すと十メートル四方くらいの空間があって、そこには雑木も雑草もなく、一種類のみの背の低い木が一面に繁っている。木の高さはその頃の自分と同じか少し低かったような気もするが、この記憶はあまりあてにはならない。よく見るとその背の低い木のあちこちに赤い実が生っている。それがクサイチゴだった。その時に大介から聞いたのは、その土地で呼ばれている名前だったので、クサイチゴという名ではなかった。その場所はまるでクサイチゴ畑のように私には見えた。野生ではなく栽培しているような……。だって、イチゴの木以外の雑草などが全く生えていなかったのだから。
私は田舎で野イチゴの類は食べたことがあるが、目の前にあるような真っ赤な色ではなく、少しオレンジがかった色をしていた。大介が好きなだけ食べて良いと言ってくれたので、私たちは喜び勇んでイチゴの木へと向かって行った。実を摘まんで引っ張ると簡単にポロリと取れて、真っ赤なイチゴが手の中に転がり込んだ。それを口に入れると、とても柔らかい。そして、とても甘い。以前に食べた野イチゴは少し酸味があったが、この実にはそれがなく甘かった。弟にも食べさせると、怪訝そうな顔をしながらも、イチゴの甘さで笑顔になった。暫くの間誰も何も言わず、ただ黙々とイチゴを頬張っていた。いくら採っても、いくら食べても、緑色の木の中には、まだまだ真っ赤な実が顔をのぞかせていた。皆で食べても無くならないので、弟が被っていた麦わら帽子に少し入れて持って帰ることにした。
帰り道では、大介が弟をおんぶしてくれたので、私は自分のペースで歩くことができた。
今になって考えると、あれは本当に野生のイチゴだったのだろうかと不思議に思う。雑木や雑草が生い茂る中で、その一画だけそれらがなく、イチゴの木だけが青々と育って実をつけていたのだから。ひょっとしたら、大介や洋平のお父さんかお母さんが栽培とまではいかなくても、手入れをして育てていたのかも知れない。
よくよく考えてみると、その日以後一度も大介たち兄弟と、一緒に遊んだ記憶がない。
夢だったのかとも思えるような風景と、確かに存在していた優しい祖父母の思い出は、私が小学五年生の頃を最後に途絶えている。母が仕事を始めたのが大きな理由だと思うが、その頃から私たち姉弟も学校や部活のことで忙しくなっていた。
その後、私が中学生の頃に祖父が、高校生の頃に祖母が亡くなった。おじいちゃんにもおばあちゃんにも、孝行らしいことを何もできなかったことが、一生悔いとして残っている。祖父母が住んでいた家には、母の兄にあたる伯父の一家が住むようになった。伯父も伯母も祖父母と同じくらい優しい人たちだったが、母も私達姉弟も何かと忙しく、伯父の家を訪れる機会は少なくなっていた。
従妹の姉妹もそれぞれ就職して、遠方へ行ってしまったこともあって、何年も会わない状況になった。
一緒にイチゴ狩りをした大介と洋平の兄弟については、一度だけ母から消息を聞いたことがあったような気がするが、詳細は忘れてしまった。でも、あの時にみんなで一緒にワイワイ騒ぎながら山へ行って、摘んで食べたクサイチゴの甘さは、その味覚が舌にほんのり残っている。