第8話
思わずそんな破廉恥な言葉が口から出てしまった。しまったと思い急いで口に手を当てる。その手から自分の顔の熱さが伝わってきて恥ずかしさが増した。
チラッと殿下を見ると、珍しく殿下は呆気にとられたかのようなポカンと口を少し開いている。
目に焼き付けたいけど、自分の顔を見られることが嫌で殿下を直視できない。
「あっはは、身体目当てじゃないですよ」
ガラッと表情を変えて、笑う顔の目じりに皺が集まっている。
「ででですわよね!」
しばらくの沈黙の後、殿下は私の手を取って自身のあつい胸に当てた。
「わかりますか?」
この問いかけが「これが僕の気持ち」にかかっているのか、心臓の音なのかわからなかった。
もし僕の気持ちにかかっているのだとしたら、今の私からすると嬉しいことだけど断るしかない。ベルとマリアンヌの同じ土俵に立ちたくないのだ。
アイザック殿下の気持ちをもてあそんでいることになるけれど、私に恋心を抱いているのだとしたら返事をうやむやにして寧ろ利用するべきなのだろう。しかし、殿下を巻き込んで殿下の評判も落ちかねない計画に加担してくれているのだからそんなことはできない。
でもこれでまた殿下が離れて行ってしまったら……ベルが私を捨てるまで形だけの恋仲でないと困る。
私はいろいろ考えてはぐらかすことにした。
「あはは、えぇ、バクバクって感じで」
手のひらから殿下の心臓が強く早く脈打っているのが分かる。じんわりと掌に殿下の暖かさが広がる。殿下のほんのりと赤く染まる耳を見ると、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
「ローゼは平気?」
殿下は苦しそうな表情でそう私に問いかけた。
その美しい顔が歪んでいるのは私の所為よね。
「え?」
何がですか?殿下とのキスのことでしょうか。そんなの平気じゃありませんわ。今にも踊りだしそうですわよ。ベルとの婚約がなければね。
わざととぼけた表情をすれば、殿下はうつむき哀愁が漂う。
「ははは、すみません……忘れてください。僕が一方的にローゼの事を知っているだけなんです」
悔しそうな思いつめた顔で殿下がそう言った。
「あは、は……忘れるのは無理ですよ!?」
殿下とのキスを忘れるだなんて無理がありますわ!この美しい顔と初めてのキスなんですもの。
「なぜです?」
「なぜって……初めてですから」
目は閉じていましたけど、あの感触は忘れることはない。手を口に当てて感触を思い出していると、殿下は慌てて料理の方を向いた。
「さぁ!食べましょう!ね!ローゼ!」
「そうですわね!」
あたふたとしながら殿下はフォークとナイフを持ち料理にがっついた。
それに遅れまいと私も料理に手を付けた。
もちろん口にした食べ物は緊張により味などせず、少し食べただけでおなかがいっぱいになってしまった。殿下の前で残すわけにもいかないと思い無理やり詰め込んだ。
「おなかいっぱいです……」
「えぇ、僕もです」
しばらく沈黙が続く。椅子に座ったまま二人は空を眺めたり、遠くに見える王城を眺めたりしている。眠気を誘う暖かさと、肌をくすぐる優しい風が瞼を閉じさせる。
昨日の執務での夜更かしのつけが回ってきたのかもしれませんわ。
こくりこくりとしていると、殿下が私の頬に手を当て私の顔をあげた。木漏れ日の明るさが瞼を通して伝わる。
「ローゼ、ここで寝てしまっては風邪をひきますよ」
「そうですね……」
そう言いながら私はまた眠りにつこうと背もたれにもたれて俯く。
すると先ほどと同じ柔らかい感触が口に当たり、思わず目を見開いてしまった。視界は殿下のにやりとした顔でいっぱいだった。心拍数が急に上がり、心臓の音が周りの音をかき消した。
「――!またっ……」
「眠気覚ましに」
無邪気にニコリと笑う殿下に、私の罪悪感が心からあふれ出してしまった。
「揶揄わないでください!形だけの恋人になっていただくのにそこまで忠実に再現しなくてもいいのです!殿下の評判が落ちてしまいます!」
殿下の私を思う気持ちもキスもすべてがベルとの婚約破棄に向けた演技ということで自分を納得させ、殿下と共にいたいという気持ちを押し殺した。そして殿下の気持ちに気づいていないふりをして、殿下のためを装ってあまり近づくなと言った。
「僕は僕の気持ちに忠実に生きています。ローゼの前で演技なんかしません。ローゼの戦友として、王子として。それに一人の男として。ローゼが僕の評判を気にする必要はない」
すべてを見透かされたような気持ちになった。恥ずかしさのあまり口を噤んでいると、殿下は私の左手をとって甲を優しくなでた。
「今はまだ応えられる段階にないということですよね」
言葉と同時に薬指の付け根にキスを落とした。
その時の私を見る真剣な眼差しに吸い込まれそうになった。
殿下はどうして私の心を透かして見ることができるのだろうか。叶うのなら、ベルと婚約破棄をした暁に逆プロポーズでもしたいくらいですもの。
でもなんと答えたらいいかわからない。
「知らないことが多すぎますし」
「そうですわ、私は殿下の外見と優しさしか知りません」
まるで用意されていたかのような逃げの言葉に私は飛びついた。
「優しくなんかありませんよ」
殿下は私のおでこにキスをした。
庭園から王城に戻り、殿下は私の部屋がある館の前まで送ってくださった。
あっという間に空は茜色に染まっていて、城壁や場内で灯りが徐々に灯され始めている。殿下は私の手を握りながら、何か言いたそうな顔をしている。
「明日、何か予定があったりしませんか?」
不安そうな顔をしながらこう聞いた。
「明日ですか?」
執務はもう放棄することにしましたし、これといって趣味や会いたい人もいませんのから予定など埋まるわけがありませんわ。
「なにもありませんわ」
殿下の顔がパァっと明るくなる。
「では、明日僕とデートしましょう」
「いいんですか!?ぜひ!」
「明日の朝、城門の前で待っていますね」
明日の約束をしてから、私は殿下に見送られながら自室へ戻った。
そんな中、ふと脳裏に浮かんだ疑問があった。
そういえばなんで殿下は私と戦友になろうなんて言ったのかしら。私は友人としてよろしく、と言いましたのに。