その九十一:幕間 ヴェネチアーナ共和国の近代史
海賊の島では軟禁されて監視されたり、古い時代の幽霊を目撃したり、毎日が平穏からかけ離れた存在に脅かされるのが日常になっていた。
なので、こうして平和な空気の中でごく普通の歴史物語を聞くのは、すごく新鮮で面白かった。
ロミーナ王女の生国は今は失われたけれど、この大陸の一般的な歴史書には、歴史上の国としてきちんと書かれている。ほんの数ページだけど。
僕が〈赤い冠島〉の城塞で出会ったロミーナ王女は伝説の人物だった。
ノエミお嬢さんが僕の方へ本をむけたまま、次のページをめくった。
「で、こっちにはディアルト卿らしい人が載っているの。当時の名門貴族の子息で、海軍の指揮官だったのですって。船に慣れていたから海賊になる素質はあったのね」
そこには『内乱を起こして処刑された軍人』という紹介がついていた。小さな肖像の写し絵だが顔立ちの特徴はわかる。それは僕が北の入り江で立ち会った決闘で見た、あの若い貴公子の顔だった。
この本はヴェネチアーナ共和国とその周辺国に関係した古代から近世までの歴史を、主だった逸話のみ中心にして編纂してある本らしい。
僕はノエミお嬢さんから本を渡してもらい、ページをパラパラめくった。あの海賊の島で僕が耳にした魔法や魔術に関する記述はなかった。魔法使いが出てくる話もないようだった。
「あの、ロミーナ王女が嫁ぐはずだったお相手の国のことは、書いていないんですか?」
「ジュリオ王子ね。残念ながらわからないわ。その時代はあちこちで国同士の小競り合いや内乱もあったそうで、境海の向こうの歴史までは伝わっていないの。ロミーナ王女の知られざる運命も、ニザさんから聞いて初めて知ったくらいだもの。そういった境海世界のいろんな出来事を知りたいなら、〈多次元旅行記〉をたくさん読むしかないのよ」
「有名な魔法使いが書いたという、すごい旅行記ですね」
その本はキノヤ親方の書斎にたくさんあるという。
「はは、あの魔法使いの旅行記か。それはそれでたいへんだぞ」
膨大な記録のうえに、偉大な魔法使いは偉大な気まぐれ。気の向くままに書いているため、どの巻にどの境海世界のどの国の話が載っているか、総索引がない。なにせ連載中だから、まだ作られていないのだ。
「まあ、若い頃は、誰でも一度はあの本に夢中になるもんだ」
キノヤ親方はしみじみ言う。
どこかにある遠い国、珍しい景色や異なった文化にまったく興味を引かれない人間は、少ないだろう。
たいがいの庶民はめったに旅はしない。
生まれ育った土地を一生涯離れないのも、めずらしくはない。
ほかの土地を往き来するのは商人か、あくせく働かずとも旅行ができるほど財産がある人々の特権だ。
遠い土地への移住となるとまたべつで、良くも悪くもよほどの事情があって住み替えを余儀なくされた人間のすることである。
あるいは家門の事情で、遠い土地へ嫁がされるか、婿入りなどの婚姻事情が絡む者だ。
ロミーナ王女が大船団で境海を渡ろうとした伝説などはその典型だろう。
「あの本ならお父さんの書斎にたくさんあるわ。読みたい巻を探すならお手伝いするわ!」
「あの、あの本があるのに、どうして歴史が伝わっていないんですか?」
「ああ、それは、魔法使いピリオの書いた紀行文は、歴史家の間では、正式な史実として扱われていないからだよ」
気まぐれな魔法使いは次はどこを旅するのだろう。
つぎの巻はいつ出版されるのかも予想できない。
またその内容が、まちがいなく実在した土地の事実を記した真実の書だと、誰が証明できるだろう。
何百年も生きているという存在自体が伝説となった謎の魔法使いが、自分一人で旅行した主観による体験記を書いているのだ。
過去には多次元旅行記のニセモノを作って、自国の歴史を改ざんしようとした君主もいたらしい。すると本物の作者である魔法使いピリオがやって来て、その国の君主は首をすげ替えられたとか。
以来、その本のニセモノを作ろうなんて危険なことをする者はいなくなったのである。
「でもこの話だって、その〈多次元旅行記〉に書いてある話なんだよ。けっこう若い頃に読んだ巻だったが、面白かったからよく覚えているんだ」
キノヤ親方もかなり読み込んだことがあるらしい。
魔法使いピリオの体験談を読み解けば、いつの時代のどこの国の出来事だったのかわかるのだ。
「わたしも探すわ。二人で目次を調べれば、きっと海賊島に関係した話が見つかるわ。ニザさんと同じ魔法玩具師の魔法使いの話だって見つかるかも!」
興奮気味のノエミお嬢さんに、キノヤ親方がコホンと咳払いした。
「こらこらノエミ。そろそろ学校へ戻る準備がいるだろう。勉強はいいのか?」
「いいの。本物の魔法使いの方が重要だもの!」
「あの、でも、僕は、本物の魔法使いでは……」
するとキノヤ親方ご一家全員が、僕に注目した。
「ニザさん、それではあまりに自分に自信がなさすぎるわ。魔法玩具師は魔法使いなのよ。ロミーナ王女にもそう言われたでしょ?」
ノエミお嬢さんがいえば、キノヤ親方も、
「そうだよニザくん、それを言うときは気を付けないといけないよ。かえって嘘をついていると思われるかもしれない」
「え? でも、みなさんはもう知っていますし……」
いまさら魔法玩具師ではないなんて、ごまかせるわけがないし……。
「そういうことではないのよ、ニザさん。いいこと、特にあなたのようにまだ世間をよく知らない人は、どこへ行っても用心を怠ってはいけないの」
奥さまが言えば、トニオさんもうなずく。
「ロミーナ王女にも忠告されたじゃないか。世の中には魔法玩具師である君を利用しようとする、悪意ある者もいるんだ。それを忘れちゃいけないよ」
「トニオの言うとおりだ。だから、表向きは木工細工職人で通す方がいいな。なんなら、わしの弟子として家具職人と名乗るのもいい。きみの腕なら問題なくうちの免状を渡せるぞ」
「ええ!? だめですよ、さすがにそれはいただけません!」
家具職人の免状とは、それを持っていれば、その修業先の親方に腕前を保証された証明書だ。工房に入ってほんの数ヶ月でもらうのは、さすがに速すぎるだろう。
キノヤ親方のご親切とご厚意はありがたいが、僕の本分は魔法玩具作り。家具職人を名乗るのはおこがましい気がする。
ここでの僕は、誰も知らない遠い国からやってきた得体の知れぬ放浪者なのに。
キノヤ親方は、初対面で身元不明の怪しい僕を働かせてくれた。そのご家族は僕を大切な客人として扱ってくれ、工房の人たちも親切にしてくれる。
僕はなんて恵まれているんだろう。
すてきなぶどう棚のある中庭で、優しく慈悲深い方々が、僕も家族の一員のように同じテーブルで食事をしてくれる。
こんなに幸せで良いのだろうか。
ノエミお嬢さんがお菓子を持ってきた。
「このジャムのクッキー、食べてみて。スグリのジャムもわたしが作ったのよ」
「すごい、おいしそうだ……!」
スグリのジャムとクッキーの甘い匂いをいっぱいに吸い込んだら。
僕の頭の中で、大きな記憶のかたまりが弾けた。




