その八十一:魔法の花
いきなり、落下が止まった。
僕の体は、やわらかいなにか、広い面積のあるものにやさしく受け止められ、落ちる速度が急激にゆるやかになった。
少し下降したがすぐ上昇し、また少し下降して――その振れ幅がだんだんと小さくなって――……完全に止まった。
目を閉じていたが、外が明るい。
今夜は満月だから?
うすく目を開け、あまりのまぶしさに慌てて閉じた。
ほんの一瞬見ただけなのに、まるで地上に生まれた巨大な太陽を直視したごとく、閉じたまぶたの裏で残像がチカチカした。
どっちを向いてもすさまじい光、光。
まるで光の洪水だ。それは一定の動きがあり、下から上へと流れる黄金の奔流さながらに、夜空へと駆け昇っていく。
――月光じゃない。なんの光だろう!?
僕は目を閉じたまま、視力以外の感覚に集中した。
背中にかすかな風。
ほんのり花の香りがする。
無理に目を開けても白い光の残滓が邪魔して実際の景色がよく見えない。それがすっかり消えてから、やっと目を開けると――。
僕は、大の字に寝転んで、まっすぐ夜空を見上げていた。
物見の塔の上から落ちたのに――海賊船長の亡霊に蹴り落とされたのは、覚えている。
でも、いくら待っても、恐れていた地上の尖った岩山に叩きつけられる鋭い衝撃はやってこない。
「シャーキス……?」
声を出せた。自分の耳にも聞こえた。
「ぎゅ、ぎゅむっぷりい……」
シャーキスは、僕の背中と、僕を受け止めたやわらかいものの間に挟まれていた。
僕はまだ死んでいない。
助かったんだ……よな?
右側に転がってうつ伏せになり、両手をついて、起き上がった。
そのとき手に触れたもの。小さくてやわらかくて、ちょっとヒンヤリした小さな銀色の花が無数。
「花……?」
いちめん、どこかで見たような小さな銀色の花が咲き乱れていた。葉と茎は月光のごとき黄金色、星の滴のような銀の花ひとつは僕の小指のツメほどしかだが、それを何万何百、いや何千万本とも知れぬ数を集め、茎ごと束ねて太めのロープに撚り合わせてから、巨大な蜘蛛の巣のようなネットに編み上げたもの。
それが僕が乗っているものの正体だった。
精緻に編まれた銀の花のネットは頑丈で、地上の岩山からはまだじゅうぶん遠い空中に張り巡らされていた。
それでもゴツゴツした岩山のてっぺんは、眼下に近く見えてゾッとした。
あそこに叩きつけられたら、僕の体なんか、跡形もなくバラバラだったにちがいない。
銀の花のネットの端っこは、一方は城塞のある方の崖のふちから伸びているが、反対側の端っこは、どう目を凝らしても何も無い空中から始まっていた。その先端がどこにくっついて支えにしているのか、さっぱり見当がつかない……。
「これ、魔法……だよな、シャーキス?」
僕はこんな魔法は使えない。
シャーキスだって。
何の魔法が、どうして働いたのだろう?
シャーキスは起き上がり、銀の花のネットの上をポーンと弾んで、ブルブル頭を振った。
「るーっぷッ! ご主人さま! 考えるのは後なのです、急いでください、ほら、そこまで海が来ているのです!」
「え?」
ネットの隙間から下を覗けば、岩山のてっぺんを隠すくらいの高さに、暗い夜色の潮が迫っていた。
「こんなところまで?」
この辺りは満潮時でも海からは遠い。
この島に来てからすでに二ヶ月以上、僕は毎日、宿舎の窓からこの辺りの景色を眺めていたんだ。
満月の今夜は、月のうちいちばん満ち潮になるのは間違いないが、こんなところまで海が迫ってくるのは異常だ。
「るっぷ、でも、現実に海はここまで来ているのです! 早く、この魔法が消えないうちに、安全な場所へ移動するのです、ぷい!」
巨大な花のネットは崖の北端まで延びていた。
僕が移動すると、僕から遠い場所から輝きが薄れていく。頑丈な花の編み目の上をそろそろと伝い歩いて、物見の塔の一階扉脇の、ネットの端っこまでたどり着いた。
ようやく地面を踏んだら、ホッとした。
それにしても、建物の中で夜番をしている海賊は気づかなかったのかな?
塔の上で海賊船長が怒鳴った声も、僕が蹴り落とされたときの悲鳴も。
建物の窓が並んだ壁のすぐ外で、あれほど強烈な光が発生したのに、窓からは少しも見えなかったのだろうか?
僕は幸運なのかな?
なんでもいいや。
いまのうちに逃げてしまおう。




