その七:けっして壊れないもの
新品で長かった鉛筆と色鉛筆は、ご丁寧に靴のかかとで踏み折られた。
折れた分だけ短く削って使えないかと思ったけど、使えないくらいに破壊された。
靴跡で汚されたノートは破れ、水に濡れてべしょべしょだ。乾かしても暖炉の焚き付けにしかならないだろう。
シャーキスが飛んでいき、無残なそれらを見下ろした。それから、ポーン! と空中高く跳ね上がり、僕の顔のまえへ降りてきた。
「るっぷ! お気の毒さまですが、ご主人さまは、お家へ帰る時間が迫っているのです! でもでも、あれらをなんとかしなければ、お家に帰れません。だって、あれらはご主人さまのものなのですから。るっぷ!」
「そうだね。……さて、どうしょうか?」
あれほど高揚していた気分が、一瞬にして粉みじんに砕かれ、どん底に落とされた。その小さなカケラすら、テノの汚い靴でしつこく踏みにじられた気がする。
「うん、このままじゃいけないのはわかってるんだよ、僕だって……」
公共の場で、自分の大切だった物があっという間にゴミにされた。
ゴミとはいえ、これは僕の物だった。このまま広場の片隅に放りっぱなしにして帰るわけにはいかないだろう。
それはわかっているんだけど……。
石畳に、銀貨が一枚落ちている。
テノが投げた銀貨だ。あの金には、ぜったい触りたくない。あの馬鹿野郎は、簡単な算数もできないんだ。銀貨一枚で弁償できるもんか。金額が足りないし、僕が買ったのは、僕が苦労して働いたお金でやっと買った、僕の本当の仕事に必要な道具だったんだ。
愚かなテノごときが、実家からもらっている小遣いの金で買い直せるようなものじゃないんだ。
それにあの銀貨に触ったら、テノの頭の悪さがうつりそうな気がしてイヤだ。
いまの僕には、自分で買い直せるお金もあるけれど……。
節約と貯金を少しあきらめれば、僕は欲しいものを何なりと買える。旅に出る日がほんの少し遠くなるだけだ。
でも、このまますぐに雑貨屋へ引き返して同じ品物を買い直したら、テノのやつがまた同じ事をしにくるような気もするな。
僕はグルグルと考えていた。
テノをなんとかする正しい方法なんて思いつかない。硬直した考えに囚われていたら。体も固まってしまって、動けない。
こんなことをしていたら時間が経つばかりだ。どんなに悩んだところで、僕はここから動いて、次の行動へ移らないと、家にも帰れないのだから……。
僕は、のろのろと背をかがめた。
地面へ伸ばした僕の右手が銀貨にとどく前に、横合いから伸びてきた手が銀貨をサッと掴み取った!
「え? あ、魚屋の大将!?」
銀貨を右手に握り込んだ魚屋の若店主が険しい表情ながら、いたわりをこめたまなざしを僕へ向けていた。
「見ていたよ。助けてやれなくてすまなかった。災難だったな」
店にお客さんが来ていた魚屋の大将が、こうして来てくれただけでもうれしい限りだ。
テノに紙袋を取られたのはあっという間だったし、やり合っていた時間は存外短かったんだ。
「あ、いえ、こちらこそ、お騒がせしてすみません」
「なんできみが謝るんだ。きみは被害者だ。警察に被害届を出すかい? 証人になるよ」
ここの警察署は、このベネアの町の隣にあるナポリアナ市の市警察の分署。つまりこの町はナポリアナ市警察の管轄区である。
警察署の建物は小さくとも、町の人がそこへよせる信頼は厚い。
平和な町なので犯罪事件はめったに発生しない。僕みたいな旅人でも保護を求められるし、被害届も出せるそうだ。この国の行政機関は整っており、それらが機能している文化都市だという。
「僕はキノヤ親方にお世話になっている身です。あの人たちはこの町の有力者の子弟だと聞いています。僕がもめ事を起こしたら、キノヤ親方にもご迷惑がかかりますから」
どうせあと何ヶ月かの辛抱だ。
お金が貯まれば、僕は旅に出る。
ここへは二度と戻らない。テノと会うことも永遠に無くなるのだから。
「きみがキノヤ親方に困りごとを相談しても、迷惑とは思われないと思うけどね。もめ事を起こしまくっている阿呆どもに気を遣う必要はないんだ。まあ、きみは旅職人の修行中だし、旅の途中で裁判だのなんだのに巻き込まれたくない気持ちはわかるよ」
「ええ。……すみません。ここを片付けて帰ります。ホウキをお借りできますか?」
後ろから、肩を叩かれた。
ギクリとした。
ふり向いたら、白い上品な髭のおじいさんが、僕へにっこり笑いかけていた。高級そうなチャコールグレイの上着とチョッキのポケットには金鎖が光っている。
「え、あの……?」
どこかで見たような……誰だっけ?
ほかにも、少し遠巻きに人が集まっていた。この辺りに店を出している、顔見知りになった人たちだ。
「ニザさん、だいじょうぶかい?」
「なんてやつらだ。ひどいめにあったね」
みんなの僕を見る目には心配と優しさが感じられた。
「ええ、だいじょうぶです。ありがとうございます」
「助けられなくてすまなかったね、ニザくん」
白い髭のご老人は慰めるように僕の左肩をポンポン叩いた。
「いえ、そんな……あっという間でしたから」
「多勢に無勢だ。きみは勇敢だった」
僕が恐縮すると、ご老人は頷いた。
「さて、この後だがね。魚屋の大将!」
「はい、なにか?」
「その銀貨はわしがもらうよ」
白髭のご老人は、右手の平を魚屋の大将の方へ差し出した。
「おや、その様子だと、何か考えがおありのようですね、ご大老?」
魚屋の大将はにやっと笑い、銀貨を、ご大老と呼んだご老人の手にのせた。
「よし、この銀貨はたしかにもらい受けた。あとは万事、この爺にまかせろ。ところで、ニザくんを借りたいので、ここの掃除をお願いできるかな?」
「もちろんです、こっちはおまかせください。頼みましたよ、ご大老!」
あれ? 僕を置いてなにやら話が進んでいるみたいだが……。
「さあ、ニザくん。わしといっしょにわしの店へもどろうじゃないか」
あ! 〈店〉で思い出した。
このご老人は、雑貨店のオーナーさん、つまり大旦那さんだ。
そういえば、さっきラゼットさんのいたテラス席の奥にはたくさんの常連客がいた。この町の旦那衆と呼ばれる人たちが顔をそろえていたっけ。
そう思って見回せば、こうして僕の周りを取り囲んでいるのは、おそらくその人たち――この町で、キノヤ親方のように〈親方〉とか、大きな店の〈大旦那様〉とか――たいそうな肩書き付きで呼ばれる人たちだ。
緊張で心臓がキュッと縮み上がった。この皆さんは僕とテノのやりとりを、どのあたりから見ていたんだろう?
数々の疑問をいだきつつ、僕は白い髭のご大老こと雑貨店のオーナーさんに連れられ、ふたたび雑貨店へ足を踏み入れたのだった。