その六十九:北の物見台
塔のてっぺんにある物見台は、北と東と西の三方が大きなアーチ型に開放されていた。
満月が近い月は夜の太陽とみまごうほど明るく、金と銀が溶けあったような光で夜の海を照らしている。
僕は北側の窓に手をかけ、身を乗り出した。
「たぶん、秋分の日の頃に満月だよ」
「るっぷりい。秋分の日は満月なのですか?」
シャーキスは僕の頭の上でポヨンとはずんだ。
「今年はたまたまそうみたいだね」
僕は東と西の窓を見て、北の窓辺に立った。
この宿舎は山の中腹にある。どんなに月が明るくても、山のふもとの崖下の岩場だの、生い茂った木々の下までは見通せない。
「まっくらだ。何も見えないや」
「るっぷりい! 夜ですもの!」
北の遠くが白っぽく光ってる。たぶん海岸の砂浜だ。サンゴが砕けた白い砂が月光に反射してるんだろう。
「あっちが北の入り江なんだ。どこかに魔法船がきているはずなのに……」
僕の頭の上でシャーキスがビクッと震え、一回弾んだ。
「ご主人さま、後ろッ……!!!」
「うしろ?」
ふり向いた僕のすぐ前に、白い花嫁の亡霊が、いた。
心臓が止まったかと思った。
僕は真正面から、白い花嫁の顔を見た。
真珠を散りばめたレースのヴェールを付けた若い女性。白い紗に透けてゆるく波打つ長い黒髪が左肩の前から腰の辺りに垂れている。
肌の色は健康的な薄い小麦色。お白粉などの化粧はしていないみたいだ。きれいな弧を描く黒い眉、その下の憂いを秘めた黒い目。口は、上唇は完璧な弓なり形、下唇の方が豊かにふっくらしている。まるで朝露に濡れたピンクの薔薇の花びらのよう。
僕はこれほど美しい女性を間近に見たのは、生まれて初めてだった。優しげで気品あるその美貌から一瞬も目を離すのが惜しくてまばたきもできず、呼吸するのさえ忘れそうだった。
僕の鼻先を白いヴェールと甘い花のような香りが通過した。
嗅いだことの無い花の香りに、僕は驚いて正気に返った。きっと白い花嫁がつけていた香水なんだろう。
白い花嫁は北側の窓辺に立った。窓枠の下に両手をつき、外へ上半身を乗り出すようにして外を見ている。
北の入り江に来るという、魔法船を待つように……。
さっきの僕みたいだ。
「るっぷりい。ご主人さま……?」
シャーキスが囁いた。
「しッ! しずかに!……」
といっても、僕の立ち位置は白い花嫁から一メートルと離れておらず、どんなに小さな声でも彼女に聞こえないはずがない。
動けない。もしも動いたら、白い花嫁がこっちを向きそうで……。
なぜ僕の前に現れるんだろう。
この光景にどんな意味があるんだろう。
もしかしたら、怖がらずに、勇気を出して訊いてみた方が良いのだろうか……?
「あの……」
だが、白い花嫁は僕の声が聞こえなかったように窓辺から身を離し、出口へ向かった。
「僕らは見えないのかな」
頭の上からシャーキスを降ろした僕は、シャーキスを前に向けた姿勢でしっかり抱きしめた。
「シャーキス、行こう!」
「るっぷ? どこへですか?」
「彼女が行くところへ」
僕は白い花嫁の後を追いかけた。
階段をのぼっていく。
さっきの物見台が塔のてっぺんだと思っていたけど、まだ先があったなんて……?
僕に運ばれながら、シャーキスはギョッと身震いした。
「るるっぷ! ご主人さま、もどりましょう! この階段はなにかが変なのです!」
「すぐ戻るから。きっとここは過去にあの女人が上った北の塔の階段なんだよ」
「ででで、でも、ご主人さま! あのきれいな方は、過去にここで亡くなった人の幽霊さんなのです!」
シャーキスはプルプル震えだした。
「シャーキスは幽霊が怖いの?」
僕は怖いけどね。でも、今は怖いなんて言ってられないんだ。
「るっぷりい! だって、ボクは明るい夢の妖精なのです。でも幽霊は負の存在、暗闇の中の影。ぬいぐるみ妖精とは相容れぬ存在なのです、ぷう!」
「うーん、つまり、相反する正反対の性質の、エネルギーみたいな感じかな?」
「るっぷ、そうです、そういう感じなのです! ですから、お部屋に戻りましょう!」
「いまの僕は昔死んだ海賊よりも、現実に生きている海賊の方が怖いんだ。僕には時間が無い」
「るっぷ? 秋分の日までまだ時間があります。あと五日です!」
「うん、あと五日しかない。だからどうしても今夜中に、北の入り江への道を確認しておきたいんだ。秋分の日の二十四時間じゃわからないかもしれない。海賊達だってバカじゃないんだ。その日に人質が逃げないよう、なんらかの対策をしていると思う」
白い花嫁は長いヴェールをフワフワとひるがえしながら、音も無く歩みゆく。
とつぜん、前方から光が差した。
開いたドアがあり、光はそこからあふれていた。
「るっぷ! あんなところにお部屋が!?」
白い花嫁は入っていった。
僕もあとにつづいた。
そこは真昼の物見台だった。
三方の窓の外は晴れやかな青空だ。
白い花嫁は北の窓辺に腰掛けていた。一点の曇りもない青空を背景に、優しげで気品ある横顔と純白のドレスが映えて、まるでボッティチェリの描くヴィーナスの絵画さながらに完璧な構図だった。
白い花嫁は遠くを見ていた。
海の彼方を。
凪いだ海には帆船の影さえ無く。
だが、彼女は待っているのだ。
その潤んだ黒い目が、形良い口唇が、窓枠に置かれたふるえる細い指先までもが、雄弁に語っている。
はやく、はやく来て。
わたくしはここにいるのよ……。
「るっぷりい? あの方はどうしてここでお船を待っているのでしょう?」
「たぶん、北の入り江に船が来るのを知っているんだ。遠い国の王子が助けに来る確信があったのかも……」
「るっぷ? でも、この方が昔亡くなられた王女様なら、どうして北の入り江にお船が来るのをご存じなのでしょう。あの伝説は王女様が亡くなられた後にできたものなのです」
白い花嫁がハッとこちらに体を向けた。
僕とシャーキスは僕らの会話が聞こえたのかと思ってギョッとしたが、その視線は僕らを通り越し、さらに後方へ注がれていた。
「こんなところにいらしたのね」
僕の左側を、すっと誰かがすり抜けていった。
「るっぷりい?」
「しッ!」
僕はシャーキスをギュッと抱きしめ、息を殺した。
僕からは後ろ姿しか見えない赤毛を結い上げた女性は、上品な臙脂色のスカートの端を摘まみ上げ、白い花嫁に向かってお辞儀した。




