その六十七:赤い海賊船長の亡霊
授業を始めた最初の日の夜。
僕はもう一度、窓の外から北の割れ窓へ侵入しなければならないと感じていた。
なぜなら朝になっても、シャーキスが現れなかったからである。
その日は夕食と風呂が終わると、僕は早々に自分の部屋にこもり、ドアに鍵を掛けた。
昼間は掃除の人がマスターキーで入ることもあるが、夜間には世話係の人も来なくなる。
何かあれば、食堂にある表の城に通じる専用通話器を使えば、すぐに誰かが来てくれる手はずだ。――だが、僕は、すぐ下の階では海賊達が夜通し詰めているのを知っているから、一瞬たりとも気が抜けなかった。
「……シャーキス?」
どんなに小さな声だろうと、呟くだけでも僕が呼べば、どこにいたってシャーキスには聞こえるはずなのに。
ピンク地に小花模様を散らしたテディベアは現れない。
シャーキスが魔法で姿を消している間はどこにいるのか、僕はそれを、はっきりとは知らない。
僕の夢の中にいるらしいが、いまは違うと感じる。シャーキスが僕の身近にいる気配がまるでしないから。
昨夜、僕は必死で窓から戻ってきたようだが、シャーキスのことは覚えていない。ほかのことも、あの白い花嫁に遭遇したあとの記憶がひどく曖昧なんだ。
となると、考えられるのは、シャーキスが塞がれた壁の向こう側に取り残されたという可能性だ。
もしかしたら壁の向こう側に留まらざるをえない状況に陥っているのかもしれない。
たとえば腕や足が何かに引っかかって、動いたらボディの布が破れそうだとか……魔法で異空間へ消えてしまえばそんな心配は無いはずだが、あの壁にはシャーキスいわく〈変なおまじない〉がかかっていて、通り抜けられないらしいから。
シャーキスも心配だけど、島の北へ行くルートを探すためにも、もう一度僕はあの壁の向こう側へ行かなければならない。
また白い花嫁の幽霊に遭遇したら、正直怖いけど……。
昨夜あの幽霊は、けっきょく完全に夜が明けきるまでこの部屋にたたずんでいた。
ということは、僕がどこにいたって、出るときは出るということだ。
震えて布団をかぶっていても、問題解決にはならない!
「よし、行くぞ!」
僕は部屋着にしているシャツとズボンから、自分の服に着替えた。マルセノ親方のおかみさんに作ってもらった一張羅。これを着ていたら、悪いものから守ってもらえるような気がするからだ。
あと、万が一誰かがこの部屋を覗いたときの用心に、ベッドに枕を押し込んで布団を掛け、寝ているようなふくらみを作っておく。
ロウソクの明かりを吹き消した。
しずかに窓を開け、そろりと窓枠に手を掛けて乗り越えた。
窓の外へ出た。
海の方から冷たい風が吹きつけてくる。背を向けた崖のはるか下方で、岩と谷間を吹き抜ける風の唸りが小さくこだましていた。
ぜったいに下は見ない。二回目だから壁の凸部分を掴みながら、蟹みたいに横歩きするコツもわかっている。
僕はあぶなげなく北の割れ窓までたどり着き、割れたガラスに気を付けながら、中へ入った。
東向きの窓から月光が差している。金と銀を溶かしたような光が、灯りの無い通路を昼間のように照らしていた。
無人だ。
よかった、白い花嫁の姿はない。
シャーキスもいないけど。
「おーい、シャーキス?……」
小さく呼んでみた。
返事はない。
気配も無く……。
と、サーッ、と冷たい風が吹き抜け、僕はゾクッと身を震わせた。
まるで真冬の氷点下の冷気のかたまりがぶつかっていったような……!?
僕は恐る恐る風の吹きすぎていった方向へ顔を向けた。
真っ赤な上着の男の背中があった。
コツンと足音がした。
男は肩にかかる黒髪をなびかせながら、コツコツと足音をさせて歩いていく。
そいつの左腕にピンク色のかたまり。
赤い上着の袖にピンクの大きな飾りなんて奇妙だ……と、目を凝らしたら。
ぐったりしたシャーキスだ! 男が左腕で抱えているんだ!
「シャーキスッ!? おい、シャーキスを返せッ!」
僕は夢中で走りより、男の左腕からシャーキスを奪い返した!
「シャーキス、しっかりしろ!」
赤い上着の男は、僕を置いて歩いていく。左腕からシャーキスを取られたのにも、まるで気づかないふうに。
シャーキスが身動きした。
「……る・る・っぷりい……」
プルプルと頭を振って、パッと顔を上げた。
「ご主人さま!」
叫んで、シャーキスは空中へ飛び上がった。
そのとき、赤い上着の男がこっちを向いた!
僕はとっさに頭上に浮かんだシャーキスを掴み降ろし、後ろへ隠した。
「隠れるんだ!」
「ぷいッ!」
僕の手から、柔らかなぬいぐるみの感触がパッと消失した。ぬいぐるみ妖精シャーキスは、魔法で異空間へ逃げ込んだのだ。
赤い上着の男はコツコツと足音を響かせながら、僕の前までもどってきた。
背の高い男は、僕を見下ろした。
フクロウのような黄金色の目は爛々(らんらん)として、鷲のクチバシを思わせる鋭く整った傲慢そうな顔つきに、よりいっそうの凄みを与えていた。潮風に鍛えられた浅黒く日焼けした肌色も、がっしりした筋肉質な体型も、この男はどこからどう見ても海賊以外の何者でもなかった。
「なんだ、おまえは……? どうやってここへ来た……?」
ゾッとするほど陰気な声音は地を這うように低く、地獄の底にいるという幽鬼もかくやと思えるほど。
僕は返事をせず、じりじりと後ろへさがった。
男の体は透けていないし、漂ってくる海の潮と汗の入り混じった船乗りらしい匂いも、昼間に接する生きた人々となんら変わりがなかった。
声だって、多少不気味な響きだけど、ふつうに聞こえる。
ただ、僕の勘は――――。
こいつはおかしい。そう告げている。
気を付けろ。彼は非常に危険な存在だ、と……――。
「ほう……。俺がはっきり見えるようだな。何者だ? 死者の霊が見えるなら、魔法使いか?」
こいつ、亡霊の自覚があるんだ!
「あなたこそ何ですか? どうしてここに居るんですか?」
あの白い花嫁と同じ、昔この城塞で死んだ人だろう。赤い上着はなかなか豪華だ。凱旋パレードのとき今の海賊船長が着ていたコートに似ている。下っ端の海賊には見えない。
男は僕を馬鹿にしたように、クッと口角の右だけを上げた。
「ここは俺の城だ。お前、魔法使いだな。なら、わかるだろう。あの女はこの島のどこに居る? 居場所を教えろ。――言え!」
男の口調は有無を言わさぬ迫力があった。あきらかに命令するのに慣れている人間だ。
この城塞を「自分のもの」と言うなら、こいつは昔の〈統領〉なんだ。
「なんのことだかわかりません」
僕はすっとぼけてやった。
こいつのせいでシャーキスは一昼夜、僕の元に帰って来られなかったと思うと、怖さより怒りが勝った。
「役に立たない小僧め! 灰神の名にかけて、海竜に喰われるがいい」
男は落ち着きなく何度も周囲を見回した。
「王女はこの塔から飛び降りたと聞いた。お前が魔法使いなら、探せ。探して俺に教えるんだ。礼ならするぞ。金貨でも宝石でも好きなだけやろう。彼女はこの島のどこかにいるはずだ。俺が迎えに行ってやらないと――……」
赤い上着の海賊は、ゆっくりと窓の方を向いた。
青ざめたその横顔を、黄金の月光が照らし出した。
海賊の全身が月の光に透けた。時間と共にどんどん透けていく。幻のように色が薄れ、空気に溶けるように……。
薄い絵の具が水に滲んだような、儚い色が完全に消失する寸前、
――ロミーナ……。
と聞こえた。
冷気は失せた。
僕はへなへなと床へ座り込んだ。
つと、僕は虚空を見上げた。
「シャーキス!」
――る・ぷう!
間の抜けた返事がして、
ぽとん!
シャーキスが僕の額の上に降ってきた。




