その五:海蛇の彫刻と魚の泉
ノートや鉛筆を入れた茶色い紙袋を抱えた僕は、広場の真ん中をまっすぐ突っ切ろうと考えた――そうすれば少しでも歩く距離が短くなって、早く帰れるから――だが、
「るっぷりい? ご主人さまはどこへいくのですか?」
「ちょっとね、見ていきたいものを思い出したんだ」
雑貨屋の右が八百屋で、そこから右斜め方向に魚屋がある。
魚屋の店舗前には泉があって、魚の生け簀を兼ねている。この泉からあふれる水は、広場を流れていく小川の水源でもある。
水が出ている蛇口は、壁際に立ち上がる巨大な海蛇ふうの怪物の口だ。泉の端から、のっそりと蜥蜴めいた平たくも歪んだ頭部を持ち上げ、咆哮をあげるがごとく大口をあけたその一瞬の動きを捉えた大理石の彫刻は、大人二人分くらいの大きな作品だ。
長い牙が生えた口からは冷たく澄んだ水がとうとうと流れ出し、下に作られた半径二メートルくらいの泉に落ちる。溜まってあふれた分は、広場の中央をつっきる人工の小川となって流れていく。
こんなすばらしい彫刻を作る人が、この国にもいるんだ。泉のふちのコンクリートは色が変わっている部分もあるから、もしかしたら何百年も昔の作品かもしれないけど。
「や、ニザさん、今日も見に来たね」
魚屋の店主が奥から出てきた。
「こんにちは、魚屋の大将」
僕は魚を買わないけれど、休みの日に外出すると、魚屋の隣の居酒屋にも立ちよる。おやつに白身魚の揚げ物や魚のすり身の揚げ物を買い食いするのだ。いまやすっかり顔馴染みになった。
「よく見てるけど、彫刻が好きなのかい?」
「何度見てもすばらしい作品です。作者はどなたですか?」
「これはうちの十三代前のご先祖が、境海を越える途中で見たという怪物を彫ったと伝わっているんだ。幸運にも怪物は船を襲わず、船の近くで鯨を襲っていて、船は助かったんだと! それで生還した記念に、そのとき見た怪物の姿をこうして彫ったそうだよ」
大将は誇らしげに胸を張った。
「その後は彫刻家として活躍したそうだ。おかげでうちの店には、こんなに立派な看板があるってわけさ」
「すごいや! その方は芸術家だったんですね!」
この町の人は美術や芸術品に造形が深い。
よく見れば、建物や町角のそこかしこに彫刻や飾りの細工があるのがわかる。
「まあね。この町にある彫刻はみんな何かしらの記念碑なんだ。町役場に作品がある場所の解説付きの地図があるからもらって見に行くと良いよ。ニザさんは木工細工で、彫刻をやるのかい?」
僕が木工細工職人というのは、町の皆が知っている。家具工房で働きだしてから、キノヤ親方があちらこちらで僕を紹介してくれたのだ。
「木の彫刻を少し。インテリア雑貨の小さな置物です。石も彫ったことはありますが、手習い程度です」
「おや、きみこそ芸術家じゃないか。作品ができたら見せてくれよ」
「はい、そのときはぜひ」
お客さんが来て、魚屋の大将は店内へもどった。
そのあともしばらく僕は、飽きもせずに巨大な海蛇の彫刻と泉を眺めていた。
魚の生け簀を兼ねた泉の澄んだ水底には、大きな黒い二枚貝が何十個も沈んでいる。
僕の知っているムール貝にそっくりだ。
水中を泳ぐ魚が三〇匹くらい。体にオレンジの斑点がある。体長は僕の二の腕くらい。ときどきキノヤ親方の屋敷でも食卓に上る鱒だろう。
ここの魚は近くの川でとれる淡水魚だ。貝も川に生息する淡水貝である。海の魚はめったに手に入らない。年に数回、塩漬けや干物をみかける程度だ。海藻も、手に入るのは塩漬けである。どちらも二日ほど真水につけ、徹底的に塩抜きしてから調理しないと、塩辛くて食べられないのだ。
――そうだった、ここは海が遠いんだっけ……。
とつぜん、僕は海での出来事を思い出した。
川や池は平気なのに、たまたま海に関連する物を見たり聞いたり、ふと考えたりすると――必ずではないけれど――海にいるだろう海賊を連想して、どうしょうもなく気分が落ち込むことがある。
この町は安全だ。海賊のいる領域からはるかに遠い内陸の地だから。
そうさ、あいつらは遠い境海で、海賊家業に忙しい。あいつらが大好きな〈儲け仕事〉を放り出して、僕一人を追いかけたりはしないだろう。
僕がどこへ逃げたのかは、誰も知らないはずだ。
でも、もしかしたら。
たまたまあの船から降りた海賊がいて、そいつが偶然この町まで来たら?
僕の事を見かけて、逃げ出した人質だと気づいたら?
仲間を連れて、僕を捕まえに来たら?
僕は――――またむりやり、海賊船に乗せられて、船の修理をさせられるのだろうか…………。
「るっぷりいッ、るっぷ! ご主人さま、しっかり! 起こって欲しくないことや嫌なことを想像したり、夢に描いてはダメなのです! ホントになっちゃったらどうするのですか! いったい何が怖いのですか、るっぷりい?」
シャーキスが短い腕で僕のおでこをポカポカ叩いていた。
僕はいつの間にか視線を真下へ向け、彫刻でも魚でもない、泉の縁石をにらんでいた。
「ときどき海賊が怖くなるんだ。もしもここまで追ってきたらと思うと……」
僕は、泉の前から一歩さがった。
自分の部屋に帰りたい。あそこはキノヤ親方のお屋敷だけど、いまの僕には安心して眠れる場所だ。
「るっぷりいッ! あの海賊どもは弱い海の生き物ですから、この町までは来られないのです! ご主人さま、まだ起こっていないことで悩むのはおかしいことなのですよ、るっぷ!」
まったく、シャーキスの言うとおりだ。
僕は笑った。
「すごいねシャーキス、きみはときどき賢者みたいなことを言うんだね」
「るっぷりい! もちろん、僕はぬいぐるみ妖精ですから、賢いに決まっているではありませんか! さ、早くお屋敷にもどって、おやつを食べるのです! そうすればきっと気分は良くなるのです、ぷいっ!」
シャーキスの言うことは正しい。
僕は海賊の思い出を頭から振り払い、何か美味しい物のことを考えるように努力した。
そうだ、あのパン屋のショーウインドーに飾ってあった細長いパンに大きな切れ目を入れて、ハムと新鮮なレタスをはさんでマヨネーズをかけたサンドイッチは、きっとおいしいだろう。それにムール貝がたくさん入ったクリームスープは?
考えたらお腹が減ってきた。
夕食まではまだ時間があるけど、キノヤ親方のお屋敷に戻れば、リンゴや梨や、小さいパイやクッキーなどの焼き菓子があるから。
キノヤ親方は偶然にも、僕の魔法玩具師の師匠であるマルセノ親方とよく似た方針を持つ親方だった。
マルセノ親方の教えでは、職人とは頭を使う仕事であり、かつ体力のいる力仕事。ゆえにお腹が減りすぎると頭の回転がにぶくなり力も出なくて、良い仕事ができなくなる。
だから、働き者の良い職人は、好きなときに美味しいおやつを好きなだけ食べて良い。――それと同じようなことを、職人達の休憩時間に、キノヤ親方が言っていた。
そのすぐあとでおかみさんに呼び出され、お菓子の食べ過ぎだと怒られていたけれど。