その三十九:幕間――ノエミお嬢さんの回想①
キノヤ親方に連れられて屋敷へ来たニザの頬は痩けていた。栄養状態が悪いと一目でわかる顔つきだった。
ノエミは、父が町に来た貧しい子どもを気の毒に思って連れてきたのだと思った。
しかしその男の子は……少々くたびれているが、体に合った仕立ての服を着ている。挨拶も礼儀正しい。木工細工の旅職人だと紹介され、おおいに納得した。
きっと裕福で親切な親方の元で修行を積んだ子だ。旅職人のお仕着せまで用意してもらい、たくさんの祝福を受けて、希望に満ちて修行の旅に出発した若者。
一点おかしなところは、彼の頭上には常にピンクのテディベアが座っていて、ノエミを見ると手を振るくらい。
ノエミは気にしないことにした。ピンクのテディベアは手を振っているだけで、ニザは礼儀正しい紳士。ノエミ以外見えている人はいないようだし、言わなきゃ誰にもわからないことだ。……――と、ニザをチラチラ、観察していたら。
ニザの目に、暗い陰りがあるのを発見してしまった。
――ニザさんは、何に怯えているのかしら?
いつも不安で、何かに怯えている人特有の、落ち着きのない暗い目。ノエミにはそれがわかったのだ。
――だって、数ヶ月前までの、鏡の中のわたしと同じ目つきだもの……。
いったい、あの男の子はどんな経験をしたのだろう。
ノエミも、自分ではどうしようもできない恐怖に怯えながら、日々を過ごした経験があったのだ。
その日の夕食後、ニザは旅の話を披露した。
境海を越える船に乗っていた。
海賊に襲撃され、一ヶ月ほど囚われていた。
海賊からはなんとか脱出できた……が、波止場人足の仕事をしてお金を貯めたり、ベネアの町行きの汽車の切符は買えなかったり、さんざん苦労したのだと……。
さりげなくユーモアを含ませながら語るニザは、つらかったことを表面には出さず相手の気遣いができる、大人らしい態度を団らんの終わりまで貫き通した。
――気の毒に。ニザさんはなんて恐ろしい目にあったんだろう。
ノエミには、海賊の虜囚になるなんて、現実のこととは思えない。
毎日毎日、昼間も寝ている真夜中にも、いつ海賊に殺されるかわからない恐怖に怯えながら暮らすなんて、恐ろしくてノエミには想像すらできない。
恐怖を感じながら毎日を過ごすつらさは、ノエミもよく知っている。恐怖の種類や度合いは、ニザには及ばないかも知れないが……。
あれはちょうど一年ほど前だ。
ノエミは夏の休暇で、遠い街にある寄宿学校から帰省していた。
帰ってきた初日の夕方、この自分の屋敷の内で、ノエミはとつぜんテノに言い寄られた。
テノは、他の職人といっしょに金曜日のちょっと豪華な晩餐に呼ばれていたのだ。
ノエミにとってテノは、単なる職人見習いの一人だ。顔と名前以外あずかり知らぬ他人でしかない。
そんな赤の他人同然の男に、いきなり両腕を掴まれ、壁に押しつけられた。
後にわかったことだが、テノの方はノエミをよく知っていた。このベネアの町で幼い頃から美少女として評判だったノエミを、ずっと狙っていたらしい。
ノエミは軽く会釈してすれ違おうとしただけなのに。
運悪く、近くに乳母や召使いはいなかった。
テノはひょろひょろのもやしのような男だが、それでも男の腕力だ。少女のノエミの力では振り払えなかった。
きみ、かわいいね。俺と付き合おう。
そう言われるのは慣れている。ノエミの学校がある街では、女の子に声を掛ける若い男なんて、珍しくもない。女の子が断ればいいだけだ。
だが、テノは。
最悪の部類だった。
テノの言い分はこうだ。
俺は羽振りの良い家具卸売商の一人息子だ。いずれは大店の主人の座が約束されている身。ノエミの結婚相手にふさわしい男だ。キノヤ親方も賛成に決まってる。
そうだ、どうせ結婚するんだから、いますぐノエミの部屋へ行こう。そして夫婦のように仲良く過ごそうぜ!
ノエミは総毛立って拒否した。必死で逃げようとするノエミの腕をテノは放さず、あざけり笑った。
君もほんとうはそうしたいんだろ。キノヤ親方だっていい歳だし、早く孫の顔が見られるなら、大喜びするよ。
父の名を出されたノエミは、カッとしてテノの手を振り払おうと必死になった。
テノは怒り、ノエミを怒鳴りつけた。
なんてお高くとまったイヤな女だろう。ノエミは美人を鼻に掛けて、どうせ親の目の届かない都会の学校では遊んでいるくせに、俺の相手ができないっていうのか?
せっかくこの俺が妻にしてやると言っているのに、感謝もできないなんて、お前は最低の女だな。それでも我慢してやるから、ありがたく思えよ。……――そんなふうに、罵られた。
テノのあまりの下品さといやらしさにノエミは悲鳴も出せず、涙を流しながら固まっていた。
掴まれた両腕を引っ張られ、廊下を少し引きずられた。
次の瞬間、テノの姿がノエミの目の前から消えた。
吹っ飛んだテノは壁に激突し、廊下にばたっと倒れた。
殴ったのは駆けつけたキノヤ親方だった。ノエミが罵られているのを途中から聞いたキノヤ親方が、問答無用でテノを殴り飛ばしたのだ。
テノは廊下に響き渡るほど大きな声で喋っていたから、食堂に行こうとしていたキノヤ親方にも聞こえたのである。
おかげで助かった。
テノに掴まれたのは両袖のみ。ほかはどこも触られていない。
だから安心……は、できなかった。
テノに掴まれたところは、ひどく汚れた気がした。
洗面所にいき、両手を袖ごと、石鹸を使って念入りに洗った。それから服を、下着までぜんぶ取り替えた。
お気に入りのブラウスだったけど、テノに触られた。洗濯しても二度と着たくない。即、風呂のカマドの焚き付けにしてもらった。
その夜の入浴では、髪からつま先まで、何度も洗った。
強烈で嫌すぎる体験だったため、テノに話しかけられた場面が記憶に焼き付いている。嫌な思い出が記憶の海で渦巻き、時間が経ってやっと底へ沈んだと思っても浮上して、そのたびに腕や身体にまた薄い汚れがついた気がして、何度も石けんを泡立て、洗いなおした。
おかげで新しく出したばかりの洗髪用石鹸と香料入りの高級石鹸を、一個ずつまるまる使い切った。石鹸が跡形も無くなって、やっと浴室を出る気になった。
あれがもしも、父の不在時や外出先で助けを得られない状況だったら……。それを考えると、ノエミは心底ゾッとする。
あれ以来テノは、ノエミにとって、この世で最悪におぞましい存在に成り果てた。
説明しがたいが、とにかく〈猛烈に気持ち悪い〉と表現するしかない物体、人間の形をしていても本当は人間ではない〈何か〉にしか思えなくなったのだ。
キノヤ親方がテノの親に連絡を取り、処分が決まるまでのあいだ、テノは職人寮の自室で謹慎を言い渡された。
もっとも最初の三日間は、キノヤ親方に殴られた顔面と打撲の治療で少し離れた街の病院へ入院していたが。
キノヤ親方の屋敷には出入り禁止。さらにはキノヤ親方の家具工房における、いかなる行事や祝い事にも招かれない。
工房の職人としては最低の不名誉だ。これより下はクビか破門。どちらも工房からの追放であるが、違いがある。
クビならば、その工房で働き続けられないだけだ。でも、同じ町の別の工房へ勤めることはできる。
もし同じ町で働くのが難しければ、うんと遠い別の土地へいく選択肢もある。ベネアで修行した家具職人と言えば、この大陸ならば働き口に困ることはない。
稼げるかどうかはその職人の腕次第だが。
テノの場合だと、破門はベネアの家具職人界からの永久追放を意味する。キノヤ親方の家具工房の名声を知る土地すべてに、破門された者の名が通達されるのだ。そうなると家具の製造はおろか、木工関係の職人として働くことも二度とできない。
かといって、別の業種で働くことも難しい。多くの専門職は若い頃から習い覚える徒弟制が大半だから、入門する年齢や向き不向きなど、いろいろと条件がある。
この大陸上のヴェネツィアーナ共和国をはじめとした多くの国は、様々な業種で組合があり、法整備も整っている。
どんなに隠しても、この大陸にいる限り、破門された履歴はついて回るのだ。




