その三:旅職人の修行の旅
物作りにたずさわる職人が、腕磨きのために修行の旅をする〈旅職人〉という伝統的な風習がある。
やっと独り立ちしたばかりの職人が旅に出て、行く先々の見知らぬ土地で、初めて出会う人々のなかで仕事を求めながら、自分の技術と心を磨いていくのだ。
僕がこのベネアの町にたどり着いたのは、空腹で倒れる寸前だった。
港町ジェノヴァンの駅でベネア行きの汽車の切符を購入したが、手持ちの金ではベネアの三つ手前の駅までしか買えなかったのだ。
港町ジェノヴァンでは、木工細工関係の仕事が無かった。
波止場人足は、港で金に困った人間がすぐにありつける、ありがたい日雇い仕事だった。
賃金はまあまあで、一日働けば簡易宿に泊まれ、日に二回の食事ができた。
だけど、大きな木箱を運んだり、たくさんの穀物の袋を移動させて積みあげたり、すごい力仕事ばかりだった。木工細工もしていた僕は体力はあるけれど、連日の慣れない力仕事で毎日くたくたになった。
安い簡易宿に泊まり、人足向けの安くてボリュームのある料理を出すレストランで食事して節約したつもりでも、替えの下着やタオルや石鹸などのこまごました生活用品を買ったりするから、お金はなかなか貯まらない。
港で一ヶ月働いた。――が、物作りが好きな職人気質の僕には、それが限界だった。
穀物の袋を縛っていた荒縄で、手の豆がつぶれた。手の平から血の滴が落ちるのを見て、僕は、明日になったらなにがなんでも、木材産業と家具の製造で名高いという町ベネアへ行き、僕にも出来る仕事を探そうと決心した。
ベネアの三つ手前の駅で汽車を降りた僕は、そこから線路に沿った街道を歩いた。
食料として買い込んできた一塊の黒パンと一箱一二枚のビスケットと三個のリンゴは、歩いて四日目に無くなった。残りの一日は、街道脇の湧き水か、街道に沿って流れるきれいな小川の水以外、何も口にできなかった。
港町の駅にあった路線図では、僕が降りた駅からベネアまでの区間は残り三駅。
僕の見積もりが甘かったのだ。駅のある区間は、一日あれば通り抜けられる小さな町程度だと考えていた。徒歩でもがんばって丸一日も歩けば、次の町か村には着くだろうと。
長距離の移動には汽車がある文化だ。煙突から煙が出ていたから、あれは蒸気機関車だろう。次の駅までは、その蒸気機関車で何時間もかかるのだ。
歩いてわかったが、街道のルートは、線路とは方向がズレていた。鉄道の線路はほぼ直線に敷かれているが、古くからの道である街道は、自然の森や昔からある川の流れによって蛇行している。
徒歩で旅する人などおらず、農家の荷馬車すら通らない道だ。食べ物を売る店があるわけがない。
見えるのは森と林と、ときどき広大な畑。
のどかすぎる風景だった。
大きな畑があるなら、近くに農家もあるはずだが……。疲れた僕には、怪しい細い横道に入る勇気はなかった。
街道を外れたら見知らぬ場所で迷いそうな気がしたし、森には獣だっている。怖くて、けっきょくベネアまでの直線街道をまっすぐ歩き通した。
お腹が空いて気が遠くなりそうになりながら、僕はベネアの町に到着した。
夕方だったけど、僕はなんとか町役場が閉まる前に中へ入れた。
町役場のロビーには甘いお菓子の香りが漂っていた。待合用の長椅子が三つあり、五人ほどの恰幅の良い男たちがお菓子の皿を載せたテーブルを挟んで向かい合い、お茶のカップを手にお喋りしていた。
受付らしい場所に人はいないから、この人たちが職員なんだろう。
甘いお菓子の匂いにめまいがしそうだった。僕はゴクリと唾を呑み込んでから、意を決して声を掛けた。
「すいません、仕事を探しているんですが」
僕に、五人の視線が向けられた。
そのなかで一番上等そうな上着を着た壮年のおじさんが、僕に笑いかけてくれた。
「その格好、きみは旅職人だね。木材産業の町ベネアへようこそ!」
それが、このベネアの職人組合の長であるキノヤ親方だった。
「僕は木工細工職人です。この町に、僕が働かせてもらえる仕事はあるでしょうか?」
僕が唯一の荷物である巾着袋を抱きかかえその場でかしこまっていると、キノヤ親方はお茶のカップを低いテーブルに置き、長椅子を立った。
「ほう、きみの上着は深い青色だね。濃い緑の光沢もある、珍しい染めだ。ボタンも変わった光沢のあるきれいなボタンだね」
旅職人の正装である上着には飾りボタンが七個ついている。これは一週間を表していて、一番上が月曜日、二番目が火曜日と順番に数えていき、七番目が日曜日だ。
旅職人の服装を見れば、働ける日数がわかる。それを基本条件とし、ほかの雇用条件は話し合ってから決める。もともと旅職人の旅の目的は、腕磨きの修行の旅。働かせてもらい、技術を磨かせてもらう代償として安い賃金で働かせてもらうのだ。
僕の上着には、一番目から五番目が真珠貝のボタン。六個目と七個目が黒蝶貝のグリーンブラックのボタンである。
「きみは一週間のうち五日働いて、二日休むんだね?」
色違いのボタンには意味がある。白い五個のボタンは〈一週間のうち五日働けます〉、下二個の色の違うボタンは〈六日目と七日目が休日です〉
「そうです。でも、いまはお金を稼げる仕事を探していますので、条件次第では週に六日間働けます」
このとき、僕のお腹がグウッっとものすごく大きな音を立てた。
キノヤ親方たちはものすごく驚いたようだったが、次の瞬間、どっと笑った。
僕は恥ずかしくて、顔面が熱く火照った。長椅子に座るよう進められ、焼き菓子とお茶をもらった。
「とりあえず、今日は私の工房へきなさい。それから仕事の相談をしよう」
僕はキノヤ親方の元で働かせてもらうことになった。
この国にも、木工や建設関係の職人が、腕磨きのために放浪の旅をする伝統があって助かった。そういう風習があるのは知っていたけれど、僕の本来の仕事である魔法玩具職人はしないから。
僕の着ていた服が、旅職人の正装に似ていたのも幸いした。着たきりすずめで野宿したこともあって少々くたびれているけど、良い布地で丁寧に仕立てられた、僕のいちばん新しい服だったのだ。
キノヤ親方の家に着くまでに、いくつか質問をされた。
「ところで、きみは旅職人の帽子や杖はもっていないのかな?」
「境海を越えたときに、失くしたんです」
この答えはあらかじめ考えて用意していた。旅職人が持つべき独特の帽子やステッキを、僕は始めから持っていなかったからだ。
「ほう、あれは旅職人の身分をあらわすものだが……旅の途中で何があったのかな?」
「境海を越える船旅の途中で、海賊に襲われたんです」
本当の旅職人になるには、いろいろな細かい作法が定められており、勝手に名乗ることはできないのだ。
そう、僕はキノヤ親方に嘘をついている。
それは悪いことかも知れない。
でも、僕は一人前の魔法玩具職人だ。職人としての腕は嘘じゃない。家具職人として立派に働く自信もある。
キノヤ親方は眉を大きく動かした。
「それは……たいへんな目にあったもんだ。その話は夕食を食べたあとで、ゆっくり聞かせてくれないかね?」
キノヤ親方の家で夕食をご馳走になった僕は、大きな暖炉のある広い居間で、キノヤ親方の家族や使用人のおじさんやおばさん達に囲まれて、ベネアの町へ来るまでの出来事をかんたんに説明した。
「僕の乗っていた船が海賊に襲われたんです。僕は海賊に捕まって、海賊の島へ連れて行かれました。でも、隙を見て逃げ出しました。それから商船の親切な船長さんの船に乗せてもらって、この国のジェノヴァンの港で下ろしてもらいました。しばらく波止場人足の仕事をしていましたが、僕は木工細工の仕事がしたかったので、木材産業の町として有名なこの町へ来たかったんです」
キノヤ親方と奥さまと僕と同じ年頃のお嬢さんと、使用人のおじさんやおばさんは、僕の話を聞いてびっくりしていたが、ほどなく「まあ、まだ若いのに、たいへんな目にあってかわいそうに……」と同情の声が聞こえた。
これで僕は「不運にも境海の旅の途中で海賊に襲われたが逃げ出し、ジェノヴァンの港へ来た旅職人の木工細工職人ニザ」と、皆の記憶にすりこまれた。
「そうか、それは苦労したんだね。それで、荷物はその巾着袋だけなのか」
「ええ、そうです。僕の師である親方から、職人なら自分の道具はけっして手放すなと、強く言いつけられました。海賊に捕まったときは取られそうになったけど、道具は職人の命だと言って、殴られても手放しませんでした。逃げるときも、これだけは持ってきたんです」
僕は巾着袋を開け、道具袋を取り出した。袋といっても、長方形の革を巻き閉じて、長めの革紐で縛った道具入れだ。
僕は革の道具入れを広げた。縫い付けられている筒状の革に、細工用の道具類が整然と差し込まれている。
小さな、とても小さなサイズ違いのノミが九本。七種類のネジ回し、先端の細さが異なるペンチが三つ、木製のハンマーと金属製のハンマーが五種類ずつ。ほんとうの用途は魔法玩具の小さな細工物用の工具類一式だが、木工細工でも、ミニチュアなどを手がける職人なら同じような道具を持っている。
じつは、これは僕の私物ではない。
本来は、この巾着袋も道具袋も、僕の師であるマルセノ親方のものだ。
入れ替わっていたのだ。
海賊に僕が連れ去られるとき、マルセノ親方は僕へこの巾着袋を押しつけて、こういったのだ。
「これだけは持って行くんだ! 職人の命はなにがなんでも手放すな!」と。
だから僕の巾着袋と道具袋はマルセノ親方が持っている。
この巾着袋も、キノヤ親方たちに、僕がまともな職人だと信じてもらえた証なのだ。
僕とマルセノ親方の巾着袋は同じ作りだった。二つとも、マルセノ親方のおかみさんが作ってくれた。この国の旅職人が持つ巾着袋と非常によく似たデザインだ。
まるでマルセノ親方とおかみさんは、僕の服と巾着袋を、僕がこの国へ来ることを予想して用意したかに思えた。
僕はそれを、海賊に連れ去られた島にいたときに初めて知ったのである。