その二十:現実の僕と、キノヤ親方と奥さまとノエミお嬢さん
「よかった、熱は少し引いたみたいね」
奥さまは優しく眠るニザの額をなでた。
「医者は疲労からの風邪だと言っているし、このまま寝かせておこう。いろいろあったからいっぺんに疲れが出たんだろうな」
キノヤ親方はベッドの側に椅子を持ってきて腰掛けた。
「お父さん、お医者様の置いていったお薬は飲ませなくていいの?」
水差しの水を替えてきたノエミは、お盆をサイドテーブルに置いた。
「ありゃただの熱冷ましだ。若いし体力もあるし、医者は心配ないといっているから、無理に起こして飲ませんでもいいさ」
「じゃあ、これから寝るまでの時間はわたしが看病するわ」
ノエミは奥さまの持つタオルを取ろうとした。
奥さまは伸びてきたノエミの手をサッと避けた。
「あなたはダメよ。嫁入り前の娘だもの……あら、そのエプロンドレスを着ているの?」
「ええ、いちばんのお気に入りだもの。わたしによく似合うでしょ?」
ノエミはエプロンのスカートの端を摘まんだ。軽い白の綿生地に、小さな色とりどりの花の刺繍を散らしたエプロンドレスだ。
「それを洗濯せずに誕生日会に着たいなら、今のうちに実用的なのに替えてらっしゃい。でないと去年作った二番目の服でお祝いを受けることになるわよ。着替えたらばあやを呼んできて」
「……はーい」
部屋を出てしばらくしてから、着替えたノエミはばあやを伴ってきた。優しげな初老の婦人だ。若い頃に夫を木挽きの仕事で亡くし、ノエミが生まれたときからお世話係の乳母としてお屋敷に住み込んでいる。
奥さまはばあやへいくつか指示を出し、日々の家政の切り盛りに戻るため、退室した。
「ノエミ、ここはばあやにまかせて、わしらも出よう」
廊下を歩きながら、ノエミはキノヤ親方に話しかけた。
「お父さん、ニザさんのことは、これからどうするの?」
「なんだい、急に。まあ、あと数日は様子を見て、回復したら、また普通に働いてもらうよ。テノはもういないし、ニザくんもしばらくここで働きたいと言っとったしな」
「テノはどこにいったの?」
「とうぶんは実家の自分の部屋から出られない、監視付きの生活を送る予定だ。テノの父親は、この大陸の西にある州の、遠い親戚の家へ預けるつもりだと言っとった。もうここへは二度と来ないよ」
「良かったわ。わたしも二度と顔を見たくないもの。ニザさんも安心して働けるわね」
「おやおや? おまえはどうして、新参者の旅職人をそんなに心配するのかな?」
キノヤ親方が目を細めて訊ねるので、ノエミは可愛らしく肩をすくめた。
「だって気になるもの。お父さんもぬいぐるみ妖精シャーキスの話を聞いたでしょう?」
シャーキスを初めて見た時の父の顔を思い出して、ノエミはクスッと笑った。
「あー、あれか……。まあな、わしも最初は半信半疑だったがな。ありゃ本物だ」
キノヤ親方もシャーキスと会話したのだ。
古い伝説にしか出てこない魔法の生き物。それもぬいぐるみ妖精なんてものが、この世に実在したとは!
「シャーキスはニザさんに作られたって言ってたわ。ニザさんは本物の魔法使いなのよ」
他の国には魔法使いがいるそうだが、この国にはめったに来ないと聞く。
ノエミは噂しか聞いたことがないし、実際に魔法使いに会ったという人間は、父のキノヤ親方くらいだ。
「まあ、そうだね。正確には、ニザくんは魔法玩具師だよ。それが真実だとしてだがね」
「お父さんは昔、本物の魔法使いに会ったことがあるんでしょう? でも、わたしはニザさんが初めて会った魔法使いなんだから!」
興奮気味に喋る娘に、こんどはキノヤ親方がやれやれといったふうに肩をすくめた。
「若い頃は魔法使いは特別な存在に思えるもんだ。わしもそうだった。だがね、ノエミ。魔法使いもふつうの人間なんだよ」
「普通じゃないわ。魔法使いは魔法が使えて、それにとても長生きなんでしょう?」
「そういう噂もあるが……。ニザくんは魔法玩具師だよ。あのぬいぐるみ妖精がそう言っとったろう」
キノヤ親方もぬいぐるみ妖精を見たのは初めてだと驚いていたのに、シャーキスは普通に存在しているもののようなニュアンスで語る。それに、魔法使いと魔法玩具師の違いをよく知っているような言い方に聞こえる。
ノエミは奇妙に思ったが、そのじつ、何が奇妙なのかはよくわからなかった。
父は昔――修行中の職人だった若い頃、ノエミが生まれるずっと前だ――本物の魔法使いに会ったことがあるという。だからきっとそのときに見知った魔法使いの基準か定義を持っているのだろう……たぶん。
「魔法使いと魔法玩具師は違うものなの?」
「そうだな。魔法使いは魔法を使う。それらは目に見えない作業だ。魔法玩具師は、魔法が込められた玩具を作れる職人だな。魔法玩具師にとって魔法とは、作品を作るための便利な道具の一種なんだよ」
「だったら、ニザさんはとても真面目な職人さんだと思うわ。ニザさんの人柄を知るならその事実だけで十分ではないの?」
「そうだな。来週、トニオが帰ってくる」
キノヤ親方が質問に答えていないことは気づいたが、ノエミは唐突な長兄の帰還情報にきょとんとした。
「トニオ兄さんが!? 航海が終わるのは半年先じゃなかったの?」
「ベネアの考慮委員会から正式な辞令を送ったんだ。トニオは途中で船を乗り換え、境目に近い領域の情報を集めてから、こちらで手配した高速船で急ぎ戻る予定だ」
父が町の公人としての顔で応えたことに、ノエミは気づいた。
「お父さんは……お父さん達は、ニザさんを調べたのね。こそこそ調べなくても、ニザさんは正直に、自分の身に起こったことを話してくれたわ」
ノエミは困惑した。父が公私混同を良しとしない性格なのはよく知っている。それでいてなお、なにか強い理由があって、ニザに関連するこの話をノエミに聞かせる気になったのだ。
「ノエミ、人が言ったことを何一つ疑わずに信じるのは危険だよ。たとえすべて真実であったとしてもね」
「わからないわ。あのニザさんにどんな問題があるのか……」
「そうだな。来月でお前も十七だ。そろそろわしらの町を護る仕組みをちゃんと知った方がいいだろう」
キノヤ親方は居間に入り、ふだんは家族でくつろぐためのソファに、娘と向かい合って座った。




