その十二:はじまりの船旅
僕は、船に乗っていた。
蒼い空には雲一つなく、海はどこまでもエメラルドを思わせるすばらしく澄んだ碧だった。
――そうだ、この光景は、僕らが乗り込んだ船がイタリー王国の港を出発して、一週間が経過した頃だ……。
その日は僕の、十五才の誕生日だった。
僕はとても幸福だった。
なぜなら誕生日のお祝いはすでにしてもらった後だったから。
船の上ではお祝いができないから。そういってマルセノ親方とおかみさんは、家に居る間に、誕生日の祝福とたくさんの贈り物をくださったんだ。
僕らが乗る船は、世界と世界の境目となる〈境海〉を越えられる不思議な魔法の船だと、マルセノ親方から聞かされていた。
魔法の船と聞いた僕は、なんとなく、大航海時代の絵画に描かれているような大きな帆を張った古い帆船を想像していた。
実際に乗った船は、二本の煙突から煙を上げる大型の蒸気船だった。
いつかベネチアの港で見た最新型の船に比べれば少々古めかしい気はしたが、船内の設備は僕の想像よりもはるかに近代的だった。
一等船室が三室、二等船室が八室、三等船室の大部屋が二つあった。各部屋にはトイレもバスルームもあった。
僕らは続き部屋のある一等船室に泊まっていた。
マルセノ親方はイタリー王国での家財道具をほとんど処分した。しかし、持ち出せる財産はすべて持ってきたので経済的な心配は無いから安心しなさい、と僕に言った。
目的地まで、この船で一ヶ月ほどかかるという。
航海の途中、食料や水の補給のために寄港する国が何カ国か予定されている。そこでは1~2日の滞在の間、港町を観光しても良いことになっていた。
船旅は順調で、仕事も何もしなくていい気楽さは、僕をすっかり怠け者にした。
船の図書室から借りてきた本を読んだり昼寝をしたり、ぬいぐるみ妖精シャーキスと日がな一日チェスやボードゲームをした。
マルセノ親方とおかみさんは毎日早起きして、広げた地図や本を前に長い時間話し込んでいた。
お二人のそばで僕も確かに聞いていたのに、思い出せるのは断片的な会話だけだ。
「昔の土地には行かない方が良いだろう」
マルセノ親方はよく難しい顔で考え込んでいた。対照的におかみさんは楽天的だった。
「そうね、新しい場所で一から始めましょう。ニザさんもいるし、わたしたちならどこに住むことになっても楽しく暮らせるわ」
お二人は境海世界にあるどこかの国に到着してから、そこでまた情報をあつめ、最終目的地を決めようと相談していたのだと思う。
目的地が不明でも、マルセノ親方とおかみさんは特に困った風には見えなかったし、僕は僕でのんきだった。
僕はお二人を信頼していたし、僕だってマルセノ親方に認められた魔法玩具師だ。魔法の材料さえ手に入れば、どこに住もうと魔法玩具を作る仕事をして、きちんと生計を立てられると考えていた。
ほかに覚えているのは――……マルセノ親方が持っていた地図は古かった、という話くらいだ。
「まさかこの歳になってからあっちへ戻るとはなあ。昔の地図は役に立たんか。まあ、あの街もすっかり変わっているだろうしな」
マルセノ親方がそう話していたのは、どこの街のことだろう。もしかしたら街の名は言っていなかったかもしれないけど……。
「あら、べつにいいじゃないの。遠くにある街なんでしょう。大昔に皆で仕事をしただけの。二度と行かなければいいだけだわ」
あの会話は、僕がシャーキスとボードゲームをしていたときに聞こえてきた。
僕は単純に、境海世界のどこかに大昔の魔法玩具師たちが仕事をした街があるのか、と思った。
「まあ、行く用もないしな。まだ半世紀も経っていないから、ひょっとしたらわしのことを覚えている者がいるかもしれん。だが、わしらにはもう関係がないことだ。さて、わしらが虚無の街へ行くにはどうしたものかな」
このとき親方が口にしたこの〈虚無の街〉が、唯一僕が覚えている街の名だ。
他にも地名を聞いたはずなのに、まったく覚えていない。
どうしてもっとしっかり聞いておかなかったのだろうと悔やむばかりだ。
おそらくだが、僕の耳にはぜんぶイタリー風の名称に聞こえたので、元いたイタリー王国からそれほど遠くない土地だろうと誤解して気にしなかったんだ。
あのときの僕はまるっきり子どもだった。
明日のことなんか考えず、のんびりと船旅を楽しむだけの子どもだったんだ。




