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ep58 真の理解者②


 カン――――。


 金属の乾いた音が響き渡ると、長い余韻を残して音が引いた。バットのヘッドは西田の背中にではなく、コンクリートの地面の上にあった。


 咲乃が、悠真の提案を蹴ったのだ。悠真は失望した表情で、静かに瞑目した。


「終わりだ、篠原」


 溜息に似た声で言った。



 村上たちの怒号が弾けた。咲乃は西田から離れると、空を切る音を聞き取り反射的に身体を逸らす。バットが目の前で空を切った。

 右から来る。続いて左、顔スレスレに風が走る。腹、足、肩、後ろ――全て避ける。顔面に来る。持っていたバットではたき落とした。金属同士のぶつかる衝撃で手が痺れる。


「っ……!」


 咲乃は顔を顰めると、グリップを握る手に力を込めた。


 咲乃は村上たちの攻撃を搔い潜り、持っていたバットを一番近い人間に向けて投げた。中心軸からぐるぐる旋回しながらバットが飛ぶ。怯んだ相手に一瞬の隙が生まれると、咲乃は転がるようにして西田のそばまで近づく。制服の内ポケットに忍ばせていたカッターナイフを取り出し、西田の足のガムテープを切った。すぐさま腕を掴んで西田の身体を引き上げる。目の前で村上のバッドのヘッドが地面を叩いた。


 瞬間、咲乃は村上の懐に向かって間合いを詰めた。村上が慌てて上体を引く。鈍く鋭い光の線が走ったかと思うと、村上の眼前にカッターナイフが突きつけられていた。


 村上は突然現れた刃物に表情を凍らせた。ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと咲乃から後退する。緊張から、一筋の汗がこめかみから顎の下まで伝って落ちた。


「おいおい、優等生が刃物(そんなもん)持ち歩いてんのかよ」


 村上が、ハッと短く空笑いして嫌味を言った。


 咲乃は、カッターナイフを突きつけたまま村上の方へと前進した。バットはリーチが長い分ナイフよりかは優位だが、間合いを詰められれば危険だ。村上は、咲乃に誘導されるようにして、後ろへ下がった。


 咲乃は西田から十分離れたところまで来ると、カッターナイフを掲げたまま、視線だけを動かして村上たちの動きを観察した。

 村上たちはバットを構えたまま、咲乃に近づきすぎないようジリジリと間合いを取りながら咲乃の出方を窺っている。



 しばらく互いに睨み合いが続いた後――、咲乃は一つ息をつき、何を思ったのか掲げていたカッターをおろした。降参するように両手を挙げる。


 驚く村上たちに見せつけるように、ゆっくりと手を開いた。

 手の中から、カッターナイフが滑り落ちる――。


 カタン。地面にカッターナイフが落ちた。



 駐車場内に、村上たちの怒号が響き渡る。無防備となった咲乃の顔面に拳が入った。続いてすぐに腹に衝撃を受ける。咲乃の口の中から異物感がこみ上げた。


 頬に固い衝撃。痛みを感じるまでもない猛攻が咲乃に襲い掛かる。立っているのもままならず、咲乃が膝をつくと、ようやく悠真が村上たちを止めさせた。


 視界がうまくかみ合わない。白い光と、無数の陰。

 滞った思考の片隅で西田の姿を探す。捨てられたゴミのように丸まった塊を見つけた。


 咲乃は短く息を繰り返した。口の中が気持ち悪い。地面に吐き出した。唾液が赤い。身体中至る所が熱を帯びたように熱く、身体の痛みよりも耳鳴りが気になった。


 地面に何度もえずいていると、腕を引かれて立たされた。膝に力が入らず、身体がかしぐ。胸倉を掴まれる。焦点は目の前に迫る人の形をとらえるのをやめていた。ぼんやりとした陰。息が顔にかかった。


「なんで西田(アイツ)を庇う。お前が背負って価値があるような奴じゃないだろ」


 押し殺した声に、途方もない怒りが見えた。咲乃は何も答えず、ただ短い息を繰り返す。腹を殴られた衝撃で、息が上手く吸えない。


「ゴミは死んだって構わない。お前だってそう思ってたはずだ」


 身体を揺すられて頭が動く。必死に自分の足で立ってみようともがくが、全く力が入らない。少し焦点が合いかけたころ、再び頬に打撃を受けた。


「どんなに必死になって足掻いたって、お前がやってきた事実は変わらない。へらへら笑ってる腹の底で何考えてるか知ってんだよ。お前がどんなに汚い奴かって。なぁ。傷つけてみろよ前みたいにさ」


 何度も、何度も、何度も。恨み言を吐かれるたびに、衝撃が来る。歯を食いしばって、必死に意識をつなぎとめる。鼻から温かいものが滴った。


 不快だった。繰り返される顔への打撃も。立とうとしても崩れる足も、口の中にたまる鉄の味も、聞こえもしない悠真の恨み言も。そして、僅かに震える彼の手も。全てが不快で不快で仕方なかった。


「お前みたいな奴が、凡人みてーな振りしてんじゃねぇよ篠原ァ゛!!」

 

 突然、バイクのエンジン音が響き渡る。数個のヘッドライトが、悠真や村上達を照らした。


「やべぇ、裏から逃げるぞ!」


 咄嗟に誰かが叫んだ。村上たちが、散り散りになって走りはじめる。日下の足が止まった。悠真が来ていない。


「なにやってんだ、悠真!」


 呆然とした顔で咲乃を見つめ、その場を動かない悠真に、日下がしびれを切らして叫んだ。やっと気付いた悠真も、日下と共に裏口に向かって走って行った。


 力尽きてくずおれる咲乃の横を、数台のバイクが通り過ぎる。バイクは、悠真たちを追い駆け走り去って行った。


「やっべー、バレなくてよかったぁ」


 騒ぎが遠のくのを見計らってから、廃車の中から人が現れた。地面に倒れている咲乃の元へ近づく。咲乃に近い背丈をした少年は、スマホのライトで咲乃を照らした。


「おーい、生きてっかー?」


 煩わし気に咲乃が顔を上げると、フラッシュが焚かれた。


「いやー、いい絵が取れたぜ。これは傑作で間違いなしだな!」


「……そういうのはやめろって言ったよね?」


 咲乃が少年を睨むと、少年は今さっき撮った写真を画像フォルダーに保存した。


「んな怖い顔すんなって。美少年がボロボロになってる姿つーのは、一部に需要があるんだぜ?」


 スマホのブルーライトで照らされた顔は、さも満足そうにニヤつかせている。


「お前なんかに助けを求めなきゃよかった」


 人選ミスだと吐き捨てる咲乃に、神谷はニヤついた顔のまま手を差し伸べた。


「助けてやったんだから、多少の褒美ぐらい許せよ」


 咲乃は溜息をついて、神谷の手を握り返して立ち上がった。


 再びバイクのエンジン音が近づいてきて、5台のバイクが咲乃たちを囲うように停まる。ヘッドライトの強烈な明るさが、咲乃の目に突き刺さった。


「サンキュー、兄貴。助かったぜ!」


 神谷は、バイクから降りた長身のシルエットに向かって手を振った。神谷が兄貴と呼んだその人物は、神谷に向かって軽く手を挙げて挨拶を返すと、気の毒な顔をして咲乃をみた。


「わりーな、遅くなって。(こいつ)が、合図するまで出てくんなって言うからよ」


 赤く髪を染めた高校の学ランを着崩した青年が、腕を組んで神谷を睨みつけている。


「いえ、あれで良かったんです。助けていただいて、ありがとうございました」


 咲乃が頭を下げると、青年は気まずそうに頭の後ろを掻いた。


「そーか? お前が良いならいいけど。お前ら、さっさと後ろ乗れや。バイクがうるせぇって通報されても厄介だから。病院に連れてってやる」


 離れたところで、青年の仲間が西田に肩を貸している。


 咲乃はようやく安心して、改めて青年に礼を言った。

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