ep57 少年の顔
今朝から降り続く大粒の雨が、視聴覚室の窓を叩く。電気をつけているのに室内はどこか薄暗さを感じさせた。
増田はとある生徒を待ちながら、昨日行われた安藤と高木双方の両親を交えた話し合いの事について考えていた。
安藤の母親は、ひたすら娘の愚行を高木と高木の母親に謝っていた。しかし当の本人である安藤は、無言のまま謝ることさえしない。どこか他人事の様である彼女に、高木の母親は納得がいかなかった様だ。
安藤自身が反省しなければ、いくら母親が謝ったところで意味がない。話し合いは結局、安藤の反省を促すためのペナルティを課す方向で収束した。それでも、退学を希望する高木の母親が納得できるものでは無かったのだが。
視聴覚室のドアが開き、篠原咲乃が姿を表した。悠真が言ったことを、直接本人に確かめる為に呼んでいたのだ。
向かいの席に座るよう指示を出す。彼が席に着いたのを見計らって、増田は穏やかに尋ねた。
「新島から聞いたぞ。安藤の相談を受けていたそうだな。どうして先生に話さなかったんだ?」
篠原のことだから、きっと何か訳があったのだろう。篠原を責めるつもりはない。ただ、本人がどう思っているのかを知りたかった。
篠原は、落ち着いた様子で静かに言った。
「僕が先生に報告できることは、何もないと思ったからです」
「何もない?」
増田は眉根を寄せた。篠原の発言の内容にだけでなく、負い目を感じている様子がない。普段の篠原らしくない態度に、増田は内心戸惑った。
「僕が安藤さんと話していたことは事実ですが、相談を受けていたわけではありません。安藤さんからは相談されるほどの信用は得られていなかったので」
篠原は真っ直ぐ増田を見据え、淀みない口調で続けた。
「安藤さんからすれば、高木さんたちと交流のあった僕は警戒対象でした。安藤さんと話したと言ってもこちらから声をかける程度です。今回の件で、僕から先生にお伝えできることは何もありません」
増田は、信じられない気持ちで篠原を見た。
「しかし篠原は、安藤が高木のいたずらに悩んでいたことを知っていたんだろう? なぜ、そのことを先生に話さなかったんだ。知らないふりをして、嘘をつくことはないだろう」
今まで増田は篠原に対して、正直で素直な完璧な優等生だと思っていた。どんな雑務でも文句を言わずに引き受け、津田成海の件でも真剣に取り組んでくれた。
だからこそ、学級委員としても頼りにしてきたのだ。それがまさか、こんな嘘をつくことがあるとは増田は想像もしていなかった。
「もし気付いたことがあったんだとしたら、先生に相談すべきだったんじゃないのか? それで防げたこともあっただろう」
篠原は優秀だが、優秀であるがために勝手な判断で行動してしまったようだ。増田は改めて、彼がまだ未熟な子供にすぎないのだと思い至った。
間違いは間違いだったと認めさせるべきだ。事前に安藤が悩んでいると増田の耳に入ってさえいれば、こんなことにはならなかったのだから。
「報告しなかったことは、申し訳なく思っています。ただ、安藤さんの気持ちに配慮してあげたかったので」
篠原は視線を落とし、少しだけ間をおいて慎重に言葉を告げた。
「それに僕は、先生に今回の件が未然に防げたとは思えませんでした」
「なに?」
篠原の発言に、増田は耳を疑った。
「安藤さんは授業中、先生に助けを求めていました。しかし、先生は授業を進めたいばかりに、高木さんの悪口を安藤さんの思い過ごしだと言って取り合いませんでしたよね」
「……なっ!」
篠原が増田に失礼な言葉を吐くのは初めてのことだった。叱責しようと口を開くと、篠原は淀みなく言葉を続けた。
「失礼ですが先生。昨日の話し合いは、どのように決着がつきましたか?」
急に話の方向が変わり、言葉を詰まらせる。篠原の毅然とした様子に気圧され、話をそらすなと叱るのも忘れて、増田は動揺して目を白黒させた。そしてその後、ようやく答えを絞り出した。
「……安藤はしばらく相談室で別室登校をすることになった。まぁ、安藤もまだ中学生だからな。きちんと反省すれば、教室に戻れる」
「高木さんはどうなったんですか?」
増田が答えると、間髪を入れずに篠原が尋ねてきた。
「高木は、別に今まで通りだが」
「高木さんは被害者だからですか?」
鋭く突き刺すような声に、増田は思わず怯んでしまった。恥ずかしくなって、誤魔化すように声を荒げた。
「そりゃあそうだろう。刃物を持ち出したのは安藤なんだから!」
「でも、原因を作ったのは高木さんですよね?」
再び言葉が詰まる。増田は必死に言い訳を探した。しかし、篠原は増田が考える間もなく畳みかけた。
「先程から先生は、安藤さんよりも高木さんを庇っているように聞こえます。安藤さんを追い詰めた原因が、果たして本当にいたずらだと言い切ることができますか?」
彼が口にした疑問の中に、否定的な答えは許されていない。暗にいたずらだと片付けた増田を咎める響きを伴っている。
「高木さんは、ずっと私的な理由で安藤さんに嫌がらせをしていました。安藤さんは長い間傷ついていたはずです」
静かに淡々と告げる彼の瞳には、僅かながら怒りが滲んでいた。
「あの時だって、安藤さんは必死に助けを求めていました。安藤さんが先生に助けを求められる瞬間は、あのタイミングにしかなかったのにも関わらず」
安藤は、自分が高木より増田からの好感が低いことを知っていた。高木の事で増田に相談しても、真面目に取り合ってくれないだろうと考えていた。高木は明るい性格だが、少々軽はずみな面もある。きっと悪気はないのだと、理解者ぶって安易な対応を取られるかもしれない。それなら、高木に嫌がらせを受けているタイミングで声を上げる以外に方法はない。証拠があれば高木も言い逃れできないだろうと、安藤なりに考えた末の行動だったのだ。
「先生は、未だに高木さんが安藤さんにしてきたことをいたずらだと思っているんですよね。高木さんたちの悪ふざけの延長だと。でも、安藤さんにとってはそうではなかった。だから刃物を持ち出した」
篠原の声はいつもより冷たく響き、薄暗い壁を背後にした彼の陰が、さらに濃さを増したように見えた。
「傷つけられた行為に対しいたずらで済ませようとする担任に本当のことを言ったところで、はたして何が対処できたんですか?」
ガタンと大きく、篠原の椅子が大きく揺れた。気付くと増田は、篠原の胸倉を掴んでいた。
慌てて手を放す。篠原は苦しそうに咳をしていた。頭に上った血は急激に下がり、増田はただ混乱した。教師になって、生徒に手を上げたことは一度もない。
首元を抑えた篠原の瞳が、ゆっくりと増田をとらえる。静観する少年を前に、自分のしでかしたことを自覚して増田は初めて恐怖を覚えた。
*
激しく降り続く雨の音に耳を澄ませる。開いた傘が雨粒を弾くたび、外の世界から音を消す。その世界の中で、咲乃はようやくひとりになれた気がして、ほっと息をついた。
その日は西田の家に行く約束をしていた。相談室登校を続けてから、西田はだいぶ元気になった。日高先生や成海に託したおかげだ。相談室登校をすすめて良かったと思う。
西田の成海への印象は、「変な子」だった。オタク腐女子っぽいと嫌味を含んだ評価だったが、何かと話題が被るようで上手くやっているみたいだ。
成海との勉強会が無い日は、週に1、2回くらい西田の家へ訪れて、一緒に勉強をしている。
「篠原くん、大丈夫?」
咲乃が数学の勉強を教えていると、西田は気遣わしげに咲乃の表情を窺った。
「どうして?」
「どうしてって。……最近の篠原くん、ずっと何か考え事をしていて上の空だから。何か悩みがあるのかなって思ったんだけど」
考えることは確かに多い。人前では気を付けていたつもりだったが、上の空になっている自覚はなかった。
西田は、言いにくそうに言葉をつづけた。
「教室のことで、いろいろ大変なのかなって。僕が居なくなったからって、教室はきっと、変わらないだろうから……」
西田は辛そうに顔をしかめた。
「ありがとう。でも、大丈夫。本当に何もないから」
「篠原くんって、全然大丈夫じゃないときに限って“大丈夫”って言うタイプ?」
大丈夫じゃないときに大丈夫だと行ってしまう気持ちは、西田にも分かる。西田も教室でいじめられていた時は、両親に何かあったのかと心配されても、大丈夫だとこたえてしまっていたからだ。
西田は、真面目な顔をして、まっすぐに咲乃を見た。
「篠原くんはもっと誰かを頼るべきだよ。僕だって篠原くんの力になりたいんだ。何かあったら頼ってよ!」
西田は勢い込んで言うと、ハッと何かに気付いた顔をして、見る間に顔を赤らめた。
「……篠原くんからしたら、僕じゃ何の役にも立たないかもしれないけどね」
恥ずかしそうに、西田は笑う。その顔が、昔見たある人物の面影と重なった。
その瞬間、胸の中を掻きむしりたくなるような、黒くけばけばした感覚がよぎる。胸から背中へ、全身を巡って、その這うような感覚に寒気がする。
『西田なんかを庇うから! 俺まで被害が及んだんだ。篠原が余計なことしたからッ!!』
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『縺阪∩縺�縺代′縺シ縺上�縺ィ繧ゅ□縺。縺�縺」縺溘s縺�』
『これ以上みんなの反感を招きたくない。お願いだから、あたしに関わらないでよ……』
『谿コ縺励※繧?k』
『――――――遽?蜴』
「……篠原くん、大丈夫?」
はっと顔を上げると、西田が心配して、咲乃の顔を覗き込んでいた。また考え事をしていたようだ。
「ごめん、少しぼーっとしてたみたい。勉強続けよう?」
窓から水滴が滑り落ちて、空を写した水たまりに落ちる。咲乃の心のざわめきを映すように、ぬらりと波紋を広げて漆黒の水面が揺れた。
「篠原、今日暇?」
放課後、咲乃が帰り支度をしていると、狙ったように悠真が声を掛けてきた。馴れ馴れしく肩に手をまわされる。
重い。誘われるたびに断っているのだから、いい加減諦めてもいいだろうに。
咲乃はその日も、悠真の誘いは断るつもりだった。しかし、悠真が見せたスマホの画面を見て、口に出しかけた言葉を止めた。
スマホの画面には顔があった。青あざや切り傷で痛々しく腫れた、西田の顔が。
「なぁ、篠原。今日は遊んでくれるよな?」
酷く愉快そうな声で、悠真が囁いた。




