ep55 知っていたはずの誰か①
篠原が転校してきた時、突然の転校生のことで様々な噂話が飛び交った。
曰く、すごくきれいな見た目をしている、小学生の頃は海外に住んでいたらしい、叔父と二人で暮らしているらしい、両親が外国人らしい、親戚にハリウッド俳優がいる、実家が東京ドーム10個分の敷地を持っている、海外の至る所に別荘を所有している、10か国語話せるらしい――等々。真偽も出所もわからない噂が出回った程、学校中の騒ぎになった。
もちろん当時の日下や悠真も、篠原の存在は耳にしていた。話題の渦中にいる人物を見物に行くほどの興味は無かったが、とにかく目立つやつが転校してきたらしいという認識はあった。日下は、悠真も同じ感じだろうと思っていた。だが今思えば、悠真の西田への当たりが強くなったのは、ちょうど篠原が転校してきて少し経った頃からだったような気がする。
西田とは中学1年の時から同じクラスだった。昔から西田は人見知りを拗らせた、地味で友達のいない不器用なやつだった。勉強も運動も何もできない。授業中同じ班になると必ずヘマをやって迷惑をかけるようなやつだ。
そんな西田に対して、当然周囲は良く思わなかったが、悠真は全く歯牙にもかけなかった。同じ空間にいながら全く別の世界で生きているかのように、悠真は西田に関心がなかった。
しかし、篠原が来てからの悠真は、明らかに西田を差別するようになった。西田以外の人間に対しても、容姿が悪いやつや、オタク趣味を持ったやつ、地味で存在感のないやつなどに対しては過剰と言えるくらいに嫌うようになった。その悠真の態度が浸透し、いつの間にか2年生のクラスにカーストが構築され、悠真に気に入られたい中位組の連中が下位組を虐げるようになっていた。
そして3年生になった悠真は、なぜかいつも余裕がない。常に苛立っていて、自分の意にそぐわない生徒は徹底的に排除するつもりでいる。しかし、なぜか篠原に対しては、明らかに悠真と対立する動きを見せても放置している。この矛盾はどう解釈すればいい。篠原が悠真にどんな影響を及ぼしているというのか。なぜ篠原は、悠真の忌諱に触れるようなことばかりしているのか。
「おーい、聞いてっか―?」
顔の前でひらひら手を振る神谷にハッとした。ずっと別のことを考えていた事に気付く。
「あ、あぁ。悪ぃ悪ぃ。ちょっとぼーっとしてたわ」
頭の後ろを掻きながら空笑いしていると、神谷は不思議そうな顔で日下を見た。
「まー、いいけど。なぁ、最近篠原元気? あいつ全っ然遊びに来ねぇんだよ」
そう言った神谷はとても不満そうだった。そういえば、篠原が他の教室へ遊びに行く様子を見たことがない。ずっと悠真のグループの輪の中にいるか、一人で本を読んで過ごしている。
「元気だけど? 遊びに来ねぇって、お前が教室来ればいいじゃん」
他クラスである神谷が、うちのクラスに遊びに来たって何の問題もない。日下がそう言うと、神谷は、「まぁ、そうなんだけどさ」と微妙な顔をした。
「お前のクラスって、なんか気持ち悪ぃんだもん。お湯と水が混ざってないみたいな感じがしてさ」
他人に自分のクラスのことを言われると多少なりともムッとする。篠原の友達だからどんなやつかと思えば、随分と不躾な物言いをするやつだ。
「遊びに行きてーのは山々なんだけど、あの雰囲気がどうもなー」
日下の様子には気にも留めず、神谷は頭の後ろに手をやって呑気に続けた。
「ま、他のクラスなんてどうでもいいけど。あいつが元気なら別にいいや。篠原のこと、よろしく頼むぜ」
じゃあなーと手を振って去っていく神谷を、日下は何とも言えない思いで見送った。あんなマイペースなやつが友達では、篠原も苦労しただろう。普段は苦手意識がある篠原に同情したのはこの時が初めてだった。
その日の放課後、日下は校舎裏の地面に倒れる村上を見下ろしていた。悠真の足が村上を蹴って転がす。上向きになった村上の胸倉をつかみ、ほぼ意識が途絶えかけている村上を立たせた。
悠真のこぶしが村上の顔面を殴る。殴る。殴る。殴る――。
その光景を、日下や小林、中川、そして村上の仲間たちは固唾を呑んで見守っていた。
村上の顔は、青あざと切り傷だらけになっている。口の中が切れているらしく、吐き出した唾液の中に少し血が混じっていた。地面でうずくまる村上の前にしゃがみ込んで、悠真は深いため息をついた。
「篠原には手を出すなって言ったよな」
静かな声だった。
「何度も忠告した。何度も何度も。なのに、お前はそれを無視するつもりだった」
何かあるたびに楯突いてくる篠原に、村上たちは篠原を拉致って絞める計画を立てていた。
計画は悠真に漏れ、待ち伏せをくらった村上がこうして制裁を受けている。
村上の小さな唸り声がくぐもって聞こえる。震えながら握られたこぶしが土を掴んだ。ぐっと、残りの力を振り絞って腕の力だけで前進する。もう片方の手を必死で伸ばし、悠真の足首を掴んだ。
短く浅い息を吐く村上を見下ろす悠真には、表情がない。きっと今の悠真には、マネキンが地面に横たわっているようにしか見えていないのかもしれない。
悠真は足首を掴む村上の腕を踏みつけた。骨に当たる鈍い音がした。
「ゲームを邪魔するやつは許さない。わかってんだろ。村上」
村上が動けなくなるまで何度も殴り続ける悠真の姿に、見るに堪えなくなって日下はその場を離れた。
いつから変わってしまったんだろう。答えの返ってこない疑問が何度も湧いて出る。
いつから、悠真は変わった。なぜ、気付かなかった。悠真が変わってしまう前に。
幼い頃から知っているはずだった。誰よりも悠真のことは分かっている自負があった。それなのに、今目の前にいる悠真が誰なのかわからない。ここにいる悠真は全く別の誰かだ。
最近いろんなことを考える。様々な疑問や憶測、自責に後悔。あらゆる感情が渦巻いて、日下は気怠い感情を持て余していた。何かに圧迫されているかのような息苦しさに、呼吸をしているはずなのに肺の中は満たされない。今にも窒息しそうな毎日だ。
体育館と校舎をつなぐ渡り廊下を横切り、校庭側に出る。最終下校時刻間近の校庭には、運動部員が用具の片づけを始めている。ふと視線を動かすと、篠原が花壇のそばをうろついていた。
なぜ、まだ篠原が学校に――?
悩み事に深く関連する人物との遭遇に、日下は内心ぎょっとした。しかし、先程から地面を見回し、何かを探している風の篠原の様子が気になった。
「何してんだ?」
日下が声をかけると、篠原は穏やかな表情をして微笑んだ。清々しい爽やかな笑顔だ。たった今見てきた血生臭い光景とは無関係な顔に、日下は辟易とした。
「日下くん、まだ帰ってなかったんだね」
たった今、お前を拉致ろうとしたやつがボコボコにされるのを見てたからな。
内心嫌味がましく呟きながら、言い訳を探す。いつも悠真たちと行動を共にしている印象が強いから、日下単体で学校に残っているのは珍しく思われたはずだ。
「ちょっと、進路のことで担任と相談があってな」
「日下くんの進路先って、新島くんと同じ所?」
「そ。あんまり放課後遊んでると後悔するぞって脅されてきた」
「日下くんなら大丈夫だと思うけど?」
篠原は、可笑しそうにクスクス笑った。
「で、お前はこの時間まで何してたんだよ。なんか探し物?」
日下が尋ねると、篠原は頬を掻きながら言いにくそうに苦笑する。
「キーホルダーを捨てられちゃった子がいて、探してあげてたんだ。窓の外に投げられたって言ってたから、多分この辺だと思うんだけど」
「たかがキーホルダーのために残ってんのかよ。肝心のそいつは、どこへ行ったんだ?」
「大切なキーホルダーなんだって。途中までは一緒に探していたんだけど、塾の時間が迫っていたから帰らせたよ。俺が探しておくからって」
呆れて言葉が出ないとはこのことだ。篠原は、他人の失くし物のためにずっとひとりで探していたらしい。なぜそんなことを無関係な篠原がやっているのか全く理解できない。
「お前ってマジで馬鹿? そんなの、誰かに捨てられてるかもじゃん。そんだけ探しても見つからないってことはさ」
天才と馬鹿は紙一重と聞くが、篠原は人の良すぎる馬鹿らしい。篠原は困ったように笑っただけで何も言わなかった。
「そのキーホルダーって、どんなやつ?」
「白いウサギのキーホルダー。金色の鈴が付いてる」
「ふーん」
そのまま立ち去るのも気が引けて、結局一緒に探す羽目になった。たかがキーホルダーひとつのために、これだけ頑張って探しても見つからない。植込みの中に入って探してみたが、それでも見つからなかった。排水溝に落ちたか、本当に誰かに拾われてゴミ捨て場に捨てられたんじゃないかと邪推する。
もう諦めてもいいだろうに、何も言わずに篠原の物好きに付き合っている自分も実は相当のお人好しなのかもしれない。
最終下校時刻のチャイムが鳴った。校庭はすでに人の姿がない。
いい加減もう諦めようと、日下は顔を上げた。
「あ、あった」
篠原は、白いウサギのキーホルダーを日下に見えるようにかざした。
「良く見つけたな。どこにあった?」
「植込みの中を探してたら見つけたよ」
そこは先程日下が探した場所だったが、見逃していたのだろうか。日下はこれでやっと帰れるとほっとした。
「じゃ、もう帰ろうぜ。早く帰らないと暗くなるし」




