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ep34 ある日常について

 目覚ましの音を聞きながら、ベッドの上で天井を見上げていた。時間的にはもう起きないといけない時間だけど、毎日思う。もしこのまま起き上がらずに時間が過ぎるのを待ってたら、どうなるんだろうって。


 きっと、お母さんがいつまで寝てるんだと怒鳴り込んで来るだろう。怒られるくらいなら学校に行った方が良いのかなって、本当は嫌で嫌で仕方がない学校へ通うことに多少の意味が出来る。

 こんな葛藤を毎朝繰り返すのも、最早起き上がるための儀式みたいなものだ。毎日学校をさぼった時の想像をしては、サボる程の勇気がなくて起き上がる。

 身支度を済ませて一階へ降りると、お父さんはとっくに食事を終えて家を出ていた。


「成海、アンタいつまで寝てるの! 早く朝ごはん食べて支度しなさいよ。一番支度が遅い癖にいつもギリギリまで寝てるんだから!」


 のろのろと食卓に着くわたしを、お母さんが怒鳴った。お母さんのガミガミ声を聞きながら食パンにかじりつく。眠くてぼーっとしたままもごもご食べてると、身なりを整えたお姉ちゃんがリビングに入ってきた。


「今更起きたの? あと10分で家を出ないと遅刻するわよ」 


「言われなくても間に合うもん」


「頭ぐらい整えなさいよブス」


 お姉ちゃんは素っ気なく言うと家を出て行った。


 お母さんに叱られながら支度を終えて家を出た。家を出ると、学校へ行きたくない気持ちがまた大きくなって足取りが重くなった。朝からお腹の調子が悪い。呼吸も心なしか苦しくて、頭がぼーっとする。


 通学路に同じ制服を着た学生達の姿が増えてきた。あくびをしつつ気怠げに歩く人、歩きながらスマホをいじる人、朝から友達に会えてはしゃいでいる人、道端で友達と悪ふざけをする人――。同じ制服の中に紛れながら、わたしは一人で黙々と歩いた。


 昇降口に入り、下駄箱で上履きに履き替える。廊下を走る男子と肩がぶつかった。男子は、まるでわたしが悪いんだと言いたげに舌打ちして、友達のもとへ走って行った。


「ちゃんと前を見てないアンタが悪いんじゃん」


 益々嫌な気持ちになって廊下を歩いた。


 教室に入り、自分の席に着いた。かばんの中からスマホを出して、Web漫画を読んで時間をつぶす。

 周囲の話声や笑い声が混ざり合って形の無い雑音に変わっていったころ、突然漫画の世界から引き剥がされるように現実世界に戻された。教室中が華やいでいる。

 転校初日からクラスのアイドルとなった篠原くんの登場に、教室中の女子たちが篠原くんを取り囲んだ。


 篠原くんは困ったような優しい笑顔を浮かべて周囲からの挨拶を受けると、静かにわたしの隣の席に座った。朝からみんな、彼と話したくて仕方がないらしい、机の周りを取り囲むクラスメイトたちに、篠原くんは静かに彼らの話を聞いて、笑ったり相槌を打ったりしている。

 傍目から見ても篠原くんは素敵だと思う。それはもう否定しようのない事実だと思う。篠原くんの見目麗しい容姿は勿論の事、他の男子たちと違って優しいし、うるさく騒いだりしないし、席のとなりがわたしでも、嫌そうな素振りは一切しないんだもん。わたしの行動ひとつひとつに過剰に反応して、安い笑いを取るようなことだって一切しないのだ。


 だから余計に、申し訳ないと言うか。否応なく視界に入ってしまって、不快な気持ちにさせていないか心配になるんだけど。


「お前らいい加減にしろよな、篠原が困ってんだろ。こいつと話していいのは俺だけだ。モブはどいてろ」


「はぁ!? 何言ってんのこいつ。うざすぎるんですけど」


「神谷くんに何の権限があるわけ!?」




 傍で聞いていれば、勘違いが起こりそうのことを言いつつ、女子達のブーイングを受けながらも、ケロッとして聞き流している。篠原くんに群がる女子達を雑に蹴散らし、クラスでもお調子者で目立つ男子、神谷くんが教室に入ってきた。


「はよー、トンちゃん。ちゃんと朝飯(アサメシ)食ったか?」


「……オ……オハヨウゴザイマス……」


 神谷くんは通り過ぎざまにわたしに挨拶すると、篠原くんの前の席に座った。そこが神谷くんの席だ。


 神谷くんは篠原くんとは全くタイプが異なる。凄く子供っぽい男子だ。歳相応と言えばそうなんだろうけど、要はバカなのだ。わたしの事も「(トン)ちゃん」なんて呼んでくる。本当に失礼なやつ。

 わたしは神谷くんが苦手だ。声が大きくて煩いし、デリカシーが無いんだもん。


「よっ、篠原」


「おはよう、神谷」


 篠原くんが柔らかく微笑んだ。


「お前、朝から大変だな」


 神谷くんは苦手だ。だけど、神谷くんは目がクリクリしていて、意外にもかっこよかったりもする。

 イケメンお調子者のムードメイカーと、耽美系優等生男子。最高だ。薄い本も分厚くなる。日頃の失礼な行いは特別に許してやろう。よかったな、篠原くんの友達で。


 わたしは寛大な腐女子です。


「重田、テストどうだった?」


「やっぱ俺、数学がだめだなー」


「平均点より上だから良いじゃん。俺なんかギリギリだぜ」


「神谷はどうだった?」


 休み時間になり、周りでは先ほど届いたばかりのテスト結果を互いに見せあっている。


 わたしの数学のテストは10点だった。相変わらずの平均値以下の点数。クラスで3本の指に入るバカだ。まぁ、こんなもんだろうとはわかってたけど。


 突然、胸の奥がざわりとした。なんというか、違和感を感じたのだ。

 この問題だったら解けたような気がする。でも、いくら考えても解き方が浮かばない。


 ……何考えてるんだろう。こんなの解けるわけないじゃん。わたしは数学が苦手なんだから。


 がっくり肩を落として溜息を吐いた。


 これが現実なんだよなぁ。どうせ生まれるなら、美人になりたいなんて贅沢言わないから、もう少し頭のいい人に生まれたかったよ。


「篠原くん、テストはどうでした?」


「え?」


 ……え?


 篠原くんの顔を見たまま固まった。本当に時が止まったのかと思った。自分の言動が信じられなくて、頭の中が真っ白だ。篠原くんが驚いた顔をして反応に困っている。


「……マ……チガエ、マシタ……」


 隣に向けていた顔を、手持ちのタブレットにもどした。


 や……。


 やってしまっっったぁああああっ!!!!!????????


 何やってんだよバカ?! なんで今、篠原くんにテストの点数聞いたの?! なんで?!! 全然喋ったことない人に、普通テストの点数聞く??!! 何で普段絶対やらないようなことやっちゃったの???!!! しかもよりによって篠原くんに!???? もう泣きそうだよ!!!! 逃げ出したい!!!! お腹痛い!!!! おうち帰りたい!!!!!!!


「篠原くーん、テストの結果どうだったぁ??」


 女の子の声が聞こえたときには、わたしは教室から抜け出していた。




 今日は何か変だ。


 分からない数学が分かるような気がしてるし、篠原くんに気安く気に点数聞いちゃうし……気を抜くと、何をしでかすかわからない……。


 教室を出たはいいものの、行く宛もなくトイレの個室に入って気持ちを落ち着けた。水道で手を洗ったあと、疲れと共に大きなため息を吐く。未だにやってしまった失態が、頭の中にぐるぐる渦巻いて離れない。


 これからどんな顔をして教室に入ったらいいんだろう。絶対、篠原くんに気持ち悪がられてるよ……。別に、篠原くんはさっきのことを誰かに面白おかしく話すような人じゃないだろうとは思うけど、でも、わたし自身が恥ずかしい。これはもう、全く関係の無い時に不意に思い出して、全身を掻きむしりたくなるやつだ。一生残る黒歴史決定だ。



 最後にひとつ大きなため息をついて、しぶしぶ教室へ戻った。






 体育の授業は100メートル走だった。


 男女に分かれて100メートルのタイムを記録していく。別にタイムなんか計らなくたって、わたしのタイムがクラス最下位であることはわかり切っている。このデブは予想を裏切ってくれないから本当に安心するよ。


 わたしが走ると、周囲からくすくすと忍び笑いが聞こえてきた。お調子者でバカな神谷くんが「トンちゃんガンバ―!」と囃し立てるせいで、笑い声が無遠慮なものに変わる。


 汗ダラダラにして、最後尾でようやくゴールを切った。ぜいぜいと膝に手をついて荒い息を繰り返していると、肺の奥でふひぇふひぇと変な音がした。わたし、死ぬんじゃないだろうか。


 体育の目玉と言えば、篠原くんと神谷くんの100メートル走。篠原くんは細身の体型に似合わず、意外に運動神経が良い。このふたりは、いつも何かと競い合っている。一方的に神谷くんが勝負を仕掛けに行って、篠原くんは相手にしてないんだけど。でも何だか楽しそう。男同士のライバルは至高だ。



 ふたりが位置に着いた。クラウチングスタートのポーズをとって、スタートの合図を待つ。先生のホイッスルが鳴り響く。力強い脚力で風を切る様に、篠原くんと神谷くんが走った。


 女子達の黄色い声と、男子の熱い声援が混ざって盛り上がる。ゴールまでは一瞬で、いつの間にかふたりともゴールを切っていた。


 勝負に勝ったのは篠原くんだった。それでもたったの3秒差。学年平均を見てもふたりの速さはダントツで、周囲が凄い凄いとふたりを褒めたたえている。


「自分の人生の主人公は自分だ」って言葉があるけれど、この世界の主人公は、きっと篠原くんなんだと思う。


 わたしはあくまで脇役(モブ)に過ぎない。主人公の記憶にすら残らない、名前すら出てこないモブ。


 わたしはぼんやりと、周囲に囲まれて笑っている篠原くんを眺めて、そう思った。

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