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ep31 始まる、ドキドキ相談室登校

「シ……シツレイ……シマス……。ツッ、ツダナルミ……デス」


「あなたが津田さんね! どうぞどうぞ、遠慮しないで!」


 相談室で迎えてくれたのは、50代前半くらいの細身の女性だった。おかっぱ頭で丸い眼鏡をかけ、薄いピンクのフリル付きブラウスに、膝丈までのタイトスカートを履いている。


 先生は目尻のしわを寄せて微笑むと、入口のすぐそばにあるテーブル席にわたしを案内した。


「はじめまして、私はスクールカウンセラーの日高豊子(ひだかとよこ)です」


「ヨ……ヨロシクオネガイシマス……」


 目尻のしわとほうれい線を深くして微笑む先生に、わたしは冷や汗をかきながら、おずおずと頭を下げた。怖い人ではなさそうだけど、大人と喋るのはどうしても苦手だ。初対面の人ならなおさら緊張してしまう。


「津田さん、久しぶりの学校はどう?」


「……ナ、懐カシイ……デス……」


 震える声で小さく答えると、日高先生はうんうんと何度もうなずいた。


「そうねぇ。殆ど1年ぶりだもんねぇ。今日は初日だから、津田さんの事をもっと知りたいと思っているのよ。普段どんなことをして過ごしているのか、色々聞いてもいいかしら?」


「ハ……ハイ……」


 小さな声で答えると、先生はにこにこ笑って頷いた。


 さっそく先生は、わたしに普段何をして過ごしているのかを尋ねた。

 わたしが普段、篠原くんと勉強していることを伝えると、先生は、どんなふうに勉強しているのかと聞いてきた。わたしは、あらかじめ持ってきていた問題集やノートを先生に見せた。


「へぇ、大したものねぇ。自宅学習だけでこれだけやれるなんて。津田さん、頑張ったのねぇ!」


 先生は驚いた様子でノートを捲った。


「シ……シ……篠原くんノ、オカゲ、デスカラ……」


 感心したように言う先生に、わたしは小さくなって答えた。

 勉強を続けられたのは、全部篠原くんのおかげだ。わたし自身は、何もすごいことをしていない。


 先生はノートを閉じると、ゆっくりと首を振った。


「例えそうだとしても、続けた事実は変わらないわ。2年生の範囲は、これから冬休みにいくらでも取り戻せるし、この様子なら進学だって、難しくないんじゃないかしら」


「進学……」


 来年には3年生だってことはわかっている。それでも、ずっと、考えないようにしていた。

 胸のあたりに、押し付けられるような重みを感じる。苦しくて、息を吐くのもやっとだ。


「津田さんは、将来やりたいこととか、考えたことない?」


「ナイ……デスネ……」


「じゃあ、好きなこととかは?」


「トクニ……ナニモ」


 わたしが好きなことは、漫画を読んだり、アニメを見たり、ゲームをしたり、動画投稿サイトで動画を見るだけ。生産性のあることは、なにもしていない。


「あら、そう? 興味があることとか、何もないの? 本当に何も?」


 俯いたまま、首を横に振った。

 BLが好きだなんて、初対面の人には絶対に言えない。アニメや漫画の話をしても、先生わからなそうだし……。


 何も言えずに困っていると、先生は気にしていないというふうに微笑んだ。


「こんなおばさんじゃ嫌かもしれないけれど、先生、津田さんとお友達になりたいの。もう少し仲良くなったら、教えてくれるかしら?」


「……エッ……。マァ……ハイ……」


 先生、じゃなくて、お友達? しかも、相手は大人だ。"友達”というのは無理があるような気がするのだが……。わたしが困ったまま頷くと、先生は明るく笑って、パンと切り替えるように両手を叩いた。


「それじゃあ、これから相談室でどうしていくのか話していきましょうか」


 先生は戸棚に近づくと、長方形の箱をとりだした。何語かわからない筆記体の文字と、白地にブラウンで植物のツタを模した、シンプルかつ上品なデザイン。箱の蓋を開くと、中には個包装されたいろんな種類のクッキーが、区分けされた仕切りの中で礼儀正しく並んでいる。わたしが普段食べている、スーパーの安物クッキーじゃない。明らかにこれは、デパ地下の高級クッキーだ!


 先生は、電子ケトルからカップにお湯を注ぎ始めた。カップに沈んでいたティーバッグから緩やかに赤橙色が広がる。十分、お湯と紅茶が馴染んだころ、わたしの前に紅茶が差し出された。


「どうぞ、クッキーは好きなものを取ってね。美味しいわよ」


「ド、ドウモ」


 緊張して、食べ物が喉を通らない。なんてことはわたしに限ってはない。どんな状況でも、美味しいものは美味しくいただけてしまう。わたしは、ココアとバニラが市松模様状になっている、チェッカークッキーを選んだ。

 濃厚なバニラとココアの香り。くどすぎない豊かな甘みの中に、ほのかに広がる苦味。くちのなかでほろほろ崩れる食感に、緊張が解けていくのを感じた。デパ地下のクッキーって、口の中に入れた時のバターの香りがすごいんだな。


「津田さん、甘いものが好きみたいで良かったわ。せっかくだから、食べながらいろいろお話ししましょ。その方が、緊張も和らぐでしょう?」


 先生はにこにこ笑いながら言った。


 その日は、今後相談室でどんなことをしていくのかの説明を受けた。今は週に1度のペースで、慣れてきたら日数を増やそうと言われた。相談室では、担任から出された課題をやって提出する。相談室に来れば内申点がもらえるらしい。


 カウンセリングなんて聞いてたから、言いにくいことを根掘り葉掘り聞かれるのだと思っていたけれど、こちらが言いにくいことや、不登校の理由などは一切聞かれなかった。先生も気さくで気のいいおばちゃんという感じで、親しみやすい感じだし、これなら相談室に通えそうだ。






 相談室に通い始めて5回目にもなってくると、相談室の雰囲気にも、先生にも慣れてきた。


 わたしはいつも、相談室の窓際にある、長テーブルで課題のプリントをした。課題を終えると、先生がスイーツと紅茶を淹れてくれる。


 今日のスイーツはマカロンだ。一口サイズほどのマカロンが、小箱のなかにころんと転がっている。美味しそう。相談室にはほとんど甘いもの目当てにきていると言っても過言ではないほど、この時間が楽しみだった。


 マカロンの砂糖菓子の甘さにほほを緩ませていると、先生は向かいの席でティーカップを持ち上げながら、感心したように微笑んだ。


「津田さんは、ほんとうに美味しそうに食べるわよねぇ。見ていて、こっちが幸せになってくるわ」


「ほぉうれふは?」


「そうよ。だって、食べてるときの津田さんの顔、とても幸せそうだもの。津田さん、本当に食べるのが好きよね」


 食べるのはもちろん好きだ。とくに美味しいものを食べているときは、心から満たされる。わたしは、紅茶でのどを潤すと、もうひとつマカロンを取った。


「そういえば、篠原さんに言われたわ。あまり、津田さんに食べさせ過ぎないでくださいって」


「篠原くんはお節介なんですよ。好きなものくらい食べさせてほしいですよ」


 勉強をみてくれるのはありがたいが、おやつのことまで口出しされたくはないな。わたしにとって、食べることは生きがいそのものなのだから。


「お菓子が好きなら、将来はパティシエなんてどう? 自分で好きなお菓子を作れるし、楽しいんじゃないかしら?」


 わたしは、紅茶をのんで口の中を潤した。


「いえ、わたしは食べることが好きなので」


 前にちなちゃんと篠原くんの3人で一緒にお菓子作りをしたことがあったけど、お菓子作りって大変なんだよなぁ。わたしはやっぱり市販のプロが作ったお菓子を食べる方が好きだ。


「そう? じゃあ、グルメ評論家になるのはどう? グルメ雑誌で、食べたものを評論するの。SNSから初めて見てもいいでしょうし、話題になれば、そこからお仕事が広がるかもしれないわ」


「食べるのは好きですけど、味覚に自信はないですね」


 スーパーに売られているものとデパ地下に売られているもの。どちらを食べても美味しいと思えてしまう自分の味覚を、はたして信用していいのだろうか。多分、目隠しされてどっちかを当てろと言われても、当てられる自信はない。


「津田さん、出されたものならなんでも美味しく食べてしまいそうだものね」


 先生は、何かを思いついたように両手を叩いた。


「だったら、絵を描くお仕事なんてどう? 津田さん、この前見せてくれた絵、上手だったじゃない」


「簡単に言わないでくださいよ。イラストレーターなんて、大変じゃないですか」


 絵を書くのは確かに好きだ。でも、プロになれるのはほんの一握りだ。わたしの絵でプロなんて難しいんじゃないだろうか。


「あら、大変じゃないお仕事なんてどこにもないわよ」


 先生は、当然でしょと言いたげに肩をすくめた。


「そ、そうかも、しれませんけど……」


 そもそも、まともに学校に行けていないわたしが、将来大人になって普通に働けるのかさえわからないんだよな……。


「津田さんの絵はすてきよ。向いてることは、突き詰めて伸ばすべきだと思うわ」


 先生は、元気付けるように言った。


「高校選びもそうよ。好きなことから考えて選ぶのも大事だと思うわ」


「……好きなことから……?」


「そう。興味のあることをとことん突き通す。そんな人生、素敵じゃない?」


 先生は、朗らかに言った。


「せっかく一度きりの人生だもの、"なりたい自分”になりたいじゃない」


 明らかに難しいことを、簡単に言ってしまう先生にわたしは困惑する。


 なりたい自分? なりたい自分ってなんだろう。そもそもそんなもの、なれるんだろうか。


 わたしはいつも、毎日を耐える(・・・・・・)ことで精一杯だった。辛いことから耐えて、日々がただ流れていくのを待っているので精いっぱいで、”なりたい自分”を考える余裕も余力も無かったのだ。

 好きなこと、興味のあること、やりたかったこと……。なかったわけじゃない。小学生の頃、わたしは漫画家になりたかった。でも、当時のクラスメイトの男子に、描いていた漫画を朗読されて、笑いものにされてから、その夢も諦めてしまった。


「……やっぱり、無理だと思います。絵を描く仕事だなんて」


 こんなわたしが、“なりたい自分”になんてなれるわけがない。


 先生に、箱の中に一個だけ残ったマカロンを勧められて、わたしは、最後のマカロンを味わうように口に含んだ。砂糖菓子の甘さに、すこしだけ心が救われる。


「高校選びは、絵を描くことと直結しなくても良いかもしれない。でも、自分で自分を諦めてしまうのはもったいないわ」


 先生は、香りを楽しむようにティーカップに口をつけた。


「ただ、毎日を耐えていく人生なんて、自分で自分の心を壊しているようなものだもの。自分の心を救うのは、本当に好きなことだけよ」


 何も言えなくなっているわたしに、先生はにこりと笑った。


「しばらく、考えてみて。津田さんの”なりたい自分”。最初から無理だと決めつけずにね。不安や悩みなら、先生がいくらでも聞くわ」

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