ep23 きみは**しい人だから①
神谷が居なくなってからの教室が、心の無しか活気がないように感じるのは男子たちだけではない。あんなに神谷をウザがっていた女子たちでさえ気落ちしているようで、それは、彩美にとっても同じだった。
人の迷惑などは考えない、騒がしくて、バカで、幼稚で、とにかく迷惑なヤツだと思っていたけど、今思えば神谷の底なしの明るさはこの教室を明るく照らしていたように思う。少なくとも退屈はしなかった。
彩美は、教室でひとり読書をして過ごす咲乃へ目をやった。神谷が居なくなってから、咲乃はひとりで過ごすようになった。重田たちが時々会話に誘っているようだが、断っているのを見たことがある。そのたびに重田や他の男子たちは、心配そうに遠目から咲乃を窺っていた。
神谷が居なくなった咲乃は、どこか近寄り難い。ひとりで本を読んだり物思いに耽る様子は、とても静謐で穏やかでいて、そしてどこか張り詰めていて。それはまるで、転校したばかりの頃の彼に戻ってしまったみたいだ。
彩美自身に負い目があるから、余計に話しかけづらい。それでも彩美は勇気を振り絞って、ある日の放課後ようやく咲乃を呼び止めた。
「篠原くん、ちょっといい、かな?」
「なに?」
いつものように柔らかく微笑む彼を見て、彩美はどきりとした。きちんと話したのは久しぶりだ。ずっとギクシャクしていたから、こうして面と向かって話すのは緊張する。
「篠原くんと話がしたいの。少しの時間で、いいから……」
だんだん言葉尻が弱々しくなっていって、彩美は唇を噛んだ。
咲乃は少し考えるような間を開けた後、穏やかに頷いた。
「ここじゃ何だから、別の場所で話そうか」
咲乃と共に廊下の人気のない場所に来ると、彩美は改めて、咲乃と向かい合った。
「話したい事って何?」
咲乃が尋ねる。彩美は自分の手が震えているのを感じて、息を吸い込んだ。
「篠原くんに謝りたいの。中本さんの事とか、この前すれ違ったとき無視した事とか……。私、このまま篠原くんと何も喋れないなんてイヤ。篠原くんと話すの、すごく好きなの。篠原くんの事もっと知りたいし、もっと仲良くなりたい。だって、折角同じクラスになれたから……!」
もし、咲乃が結子を特別だと思っていたら、仲直りなんかしたって、しょうがないのではないか。もし、既にふたりが特別な仲だったら。友達止まりの自分がいたところで、何になるんだろう。
そんな考えが頭に過って、言葉は喉の奥で詰まってしまった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。もし、篠原くんが誰かのものになってしまったら、そんなのきっと耐えられない。だったらいっそのこと、ここで好きだと伝えてしまったほうが――。
「ありがとう、山口さん」
柔らかい言葉が降りて、瞼を開く。目の前で咲乃が微笑んでいた。
「ごめん、俺もそっけなさ過ぎた」
頭を下げる咲乃に、彩美は驚いて見つめた。
「山口さんの気持ち、嬉しいよ。これからも、よろしくね」
「う、うん! こちらこそ!」
咲乃と握手をして仲直りする。彩美は心から、ほっとした。
本当は、咲乃は結子のことが好きなのかすごく聞きたかった。しかし、今はこれ以上拗れさせたくはない。たとえ、彼に好きな人がいたとしても、彩美は咲乃のことが好きだから。
「もしよかったら、山口さんに付き合ってほしい事があるんだけど、これから用事ある?」
「な、無いよ! すっごく暇!」
「良かった。一緒に神谷のお見舞いに行かない? 今日手術の日なんだ」
「あ、そっか……、今日だっけ……」
骨折部にプレートを埋め込む手術があるのだと、担任が朝礼の時に言っていたことを、彩美は思い出した。
「俺たちが行く頃には、もう手術は終わった頃だと思うから、麻酔が効いていて寝ているかもしれないけれど……」
「行こう、篠原くん! 私も行く!」
彩美が答えると、勢いが良すぎたのか、咲乃はくすくす笑った。彩美は照れて笑いながらも、けして悪い気はしなかった。最近、元気が無いようだったから、咲乃が笑顔になってくれたことが嬉しい。
「だめっ!」
突然別の声が割り込んで、彩美は驚いて声の方を見た。そこにいたのは、結子だった。
「……篠原くんは、山口さんと行っちゃだめ!」
結子の叫び声は、擦り切れるほどに震えている。こんなふうに感情を露わにしている結子を、彩美は見たことがない。
彩美は、結子の登場に怯んだ。きっと咲乃は、結子を優先させてしまう。そしたらもう、彩美は咲乃といられない。
そう思った矢先、咲乃の口から出たのは、予想もしていなかった言葉だった。
「なぜ?」
「えっ……?」
「なぜ中本さんは、俺が山口さんと行ってはダメだと思うの?」
静かに尋ねた咲乃の言葉が意外で、彩美は息を呑んだ。咲乃は無条件に、結子の気持ちを受け入れるだろうと思っていたから。
「……そ、それは……」
結子にとっても、咲乃の言葉は予想していなかったのだろう。顔を上げた表情には、戸惑いの色がある。
結子は胸の痛みを抑えるように胸元で両手を握って、咲乃をまっすぐに見据えた。
「し……篠原くんのことが好きだから……っ!」
悲痛に滲んだ声に、いつもの弱々しい響きはない。
結子は決意するように、真っ直ぐ咲乃を見つめた。
「篠原くんが転校してきて、初めて会った時から。ずっと、ずっと――篠原くんのことが好きだった、から……」
結子の膝が震えている。本当は怖くてたまらないのだ。
「私、ずっと篠原くんと話したかったの。篠原くんとは、一生関わることなく卒業するんだって、思ってた。なのに、篠原くんは私に気付いてくれた。こんな私に優しくしてくれて、山口さんからも守ってくれて……。せっかく仲良くなれたのに、それなのに、山口さんなんかに取られたくない! 山口さんと行っちゃイヤ!!」
結子は力の限り叫んだ後、その場にしゃがみ込んで泣いた。
咲乃が結子の方へ行ってしまう。彩美はどうしたら良いのか分からずに立ちすくんだ。
咲乃を引き止めるために伸びた手が、宙を彷徨う。だが、彩美に咲乃を止めることなんて出来ない。結子をなだめられるのは、彼だけだと分かっていたから。
いつも彼は、他の女子と違う態度で結子に接していた。結子のことが好きなのかと勘繰ってしまうほど。それは結子を侮っていた彩美には、思いもよらないことだった。
恐れていた事が現実になってしまう。この瞬間に終わってしまう。自分の気持ちが、彼への想いが――。
「山口さん」
咲乃は振り返ることなく、彩美に言った。
「先に校門の前で待っていてくれる?」
本当は二人きりにしたくない。しかし、ここにいても自分が出来ることは何もない。
「……わかった。外で待ってるね」
彩美は悲しみを押し殺して、笑顔で頷いた。
*
結子の傍で、咲乃が膝をついたのがわかった。収まらない感情に嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる結子の頭に、暖かい温もりが載る。小さな子供をなだめるように優しく頭を撫でられる感触がして、結子は自分でも、気持ちが落ち着いてくるのが分かった。
篠原くんが、私を選んでくれた。結子の心に喜びが湧き上がる。勝ったのだ、山口彩美に。恋愛小説の主人公みたいに、美人で意地悪な敵役に勝ったのだ。
「中本さん、本当に俺が好き?」
静かに尋ねる咲乃の声がして、結子は顔を上げた。美しく穏やかな彼の顔が、結子の顔を覗き込むようにして見つめている。結子は、咲乃の静かに揺らめく瞳を見つめて頷いた。
「うん……好き、大好き」
改めて言うのはすごく照れた。それでも、咲乃に伝えらえることが嬉しかった。
結子は頬を赤らめて、視線を下げた。窓から降り注ぐ光を背負って光り輝く彼を見つめ続けるのは、流石に恥ずかしかったのだ。
結子の頬に咲乃の指が触れる。強制されたわけではないのに、逸らした顔は直され、自然と咲乃の方へ向いた。心臓がうるさいほどに高鳴っている。身体が熱い。結子の瞳に、淡く熱が灯る。
「中本さんが俺を好きでいてくれている理由って、俺が中本さんの理想の王子様みたいだったから?」
「……えっ?」
咲乃から出た言葉は、結子の想像もしていない言葉だった。
確かに咲乃を好きになった切っ掛けは一目ぼれだったし、王子様みたいだと思っていた。だが、まさか咲乃の口から、そんな風に聞かれるとは思っていない。
結子は困惑して、咲乃を見つめた。どうしてこんな時に、そんなことを聞くのか理解できなかった。
「いつも優しくしてくれて、ありのままの自分を愛してくれて、自分のことを守ってくれて、いつまでも永遠に愛してくれそうだったから?」
「……え……えっ……?」
なんでそんなことを言うんだろう。篠原くんは、私のことを受け入れてくれたわけじゃなかったの?
結子は、思わぬ展開に思考が止まったまま、咲乃を見つめ続けた。




