ep96 あの時、篠原が見ていたものは
頬に、コンクリートに散らばる砂利の感触を捉える。熱を帯び、鈍い痛みを発する腹を抑えながらも、悠真は何とかこの場を離れようと、地面を這って進んだ。すると、今度は背中に鋭い痛みを感じて、腹から喉をせりあがって来るものに咳き込んだ。鼻から垂れた生ぬるいものが、必死に呼吸をつなごうと開いた口の中に入ってくる。鉄の味がした。
雨がひとしきり降り続く中、高架下に響くのは、須賀が悠真を殴る音と、須賀たちが騒ぐ声だけだ。激しさを増した雨音が惨状を覆い隠すように、ベールとなって彼らの声を外に漏らさないように隠していた。
悠真は、今にも途切れそうになる意識を必死につなぎとめて、目だけを動かして日下の姿を探した。日下の背中が、悠真から少し離れたところに転がっている。
髪の毛を掴まれ、地面に伏せていた顔を強制的に上げられる。頭皮ごと引き上げられる痛みに、悠真はうめき声を上げた。
「どう、イイ感じに潰れた?」
須賀が、悠真の顔の状態を確認した。
「あー、ダメダメ。もっとグチャグチャにしないと」
顔面に、鋭い打撃が入る。須賀の拳が、なんども、なんども、悠真の顔面を殴った。あまりにも殴られ過ぎて、顔は腫れ上がり、流れた血で真っ赤に染まっている。
あぁ、俺、死ぬのかな。
頭の中で、諦観の言葉がよぎる。たぶん自分は、ここで須賀に殺されるのだろう。さすがにこの状況で、生きて帰れるとは思えない。死ぬことへの恐怖はとうにない。死ぬのが怖かったのは、痛みを感じていた間だけだ。今はもう、その痛みすら感じない。
なんだか、薄っぺらい人生だったなと、走馬灯のように浮き上がる思い出を振り返ってみて悠真は思った。楽しいことがなかったわけではない。こんな自分によくしてくれた親にも申し訳ないとも思う。でも、自業自得だ。自分の人生は、あまりにも嘘にまみれていた。
日下が生きているかどうかだけが気になって、視界がぼやけて定まらないまま、必死に日下の姿を追う。息があるかどうかだけでも確かめたい。こんなことに巻き込んでしまったことに申し訳なさを感じた。日下は、たまたまあの場に居合わせただけだ。
あの古いテナントビルで日下だけでも帰らせておけばよかった。今更になって後悔する。自分は良いから、日下だけは無事に帰してやってほしかった。
「もうやめよーや。さすがに死んじゃうって」
仲間の一人が、怖気付いたように須賀を咎めた。まともな精神状態の奴が、須賀の仲間にもいたんだと呑気に考えてしまう。だけど、無駄だ。須賀は人が死ぬことを恐れるようなタイプではない。そのあとの遺体処理とか、刑事罰とか、後先考えて行動するタイプではないということは、たった今会ったばかりの悠真でも嫌と言うほどにわかる。
「なんかそのヘン棒ある? 手ェ痛くなってきた」
「もういいって、梗夜。彼女ちゃんだって、そこまで望んでないって!」
「何でお前が、さーちゃんのことわかったような口利いてンの?」
仲間の言葉が、須賀の神経を思わぬ方向に逆なでしたらしい。仲間が狼狽えたように、「いや、それは……。だって、普通に考えたらそうだろ」と、必死に言い訳を捲し立てていた。
「死なねーよこれくらいで。マジでビビりな、お前」
須賀の声色が若干上の空だ。近くで長物を探しているようだった。
しばらくして、遠くからエンジン音が近づいてくるのが聞こえてきた。すぐ近くにバイクが止まる。
悠真が痛みを堪えて顔を上げると、バイクからふたりの男女が降りた。運転していたのは男の方で、黒いフルフェイスのヘルメットに黒いレインウェアを着ている。そしてその後ろには、沙織が乗っていた。雨の中を走ってきて、制服も髪も全身びっしょり濡れている。沙織はヘルメットを外すと、くったりと貼り付いた前髪を手櫛で整えた。
「津田成海は?」
「木一くんが見つけたみたいだけど、バイクじゃ連れてこれないから諦めたって――て、ちょっと梗くん、やりすぎじゃない!?」
須賀の問いにこたえたあと、殴られてボロボロになっている悠真を見つけて、沙織が金切声を上げた。悠真の元へかけよろうとしたところを、須賀が腕を掴んで引き留めた。
「ダメだよ、さーちゃん。さーちゃんを振った男なんか、死んだ方がイイくらいなンだから、な?」
須賀に諭されるような口調で言われて、沙織は悠真に目を向けたままその場に立ちすくんだ。
須賀が再び、悠真の方へ近づく。そして再び胸倉を掴むと、顔面を殴り始めた。もうすでに血まみれになった顔に、さらに打撃が加わる。沙織は恐怖に足がすくんで、止めることもできずにその場に凍り付いていた。
永遠にも思える顔への衝撃に、悠真は薄らいだ思考の隅で沙織のことを考えていた。
小4の頃同じクラスになって、それからずっと同じグループの遊び仲間だった。別に付き合ってもいなかったのに、その頃から沙織は、周りの女子たちを牽制していたようだった。
悠真は、沙織からの好意に気付いてはいたが、顔は沙織よりも山口彩美の方が好みだった。しかし、さすがに中学生になると、発育のいい彼女に惹かれ始め、放課後、教室でふたりきりになる瞬間があって、なんとなくそういう雰囲気になり、どちらともなくキスをした。
その後、すぐに付き合うことになったのだが、悠真的には、彼女くらいはいてもいいかという軽い気持ちだった。
良い彼氏でいる努力はそれなりにしていたつもりだ。付き合っていた3年間、浮気はしなかったし、彼女の誕生日を忘れたこともなかった。記念日以外にもプレゼントも欠かさなかったし、LINEのやりとりだって、自分から積極的に送るタイプではなかったものの返信はまめな方だった。甘い雰囲気を作るのは、さほど苦労はしなかった。それなりに、沙織にとっては理想的な彼氏だっただろう。そんなもの、全て悠真が作り上げた幻想でしかなかったのに。
一般的に理想とされる彼氏像を模しただけの、うすっぺらく、心のない、空っぽの幻想。彼女と付き合っている間、沙織のことを本気で想っていたことは一度もなかった。悠真の頭にあったのは、その後の見返りのことばかりだった。
自分が沙織に本気じゃなかったのを自覚していたのに、彼女の好意を良いように利用していた。今思えば、ひどい彼氏だったと思う。
なんだかいろんなことが滑稽に思えてきた。自分の人生のすべてが。自分を囲う人間全てが、うすっぺらいハリボテばかりだと、まるで自分はそのハリボテに囚われた悲劇のヒーローであるかのように周りを見下してきたのに、自分が何よりも、中身のないうすっぺらなハリボテだったなんて。
可笑しくなってきて、思わず笑ってしまった。殴られながら笑うなんて、さすがに自分でもイカれたんじゃないかと思う。
あぁ、そう言えば、あの時もそうだった。
廃ボウリング場の地下駐車場で、悠真が咲乃を殴っていた時、咲乃はあの時、嗤っていたのだ。あの時はただ、激情にかられてまともな判断もできずにいた悠真を滑稽に思って嘲笑っていたのだと思っていたが、違ったのかもしれない。あの時咲乃は、悠真を見て嗤っていたわけではなかったのかもしれない。
突然笑い出した悠真に呆気に取られて、須賀の手が止まった。須賀の、驚きと困惑の混ざった表情を見て、それがなんだかいい気分だった。あの時の自分も、今の須賀と同じ顔をして咲乃を見ていたのだろう。
悠真はひとしきり笑った後、なんとか首をひねって沙織を見た。血が目の中に入って上手く開けられなかったが、それでも、沙織がどんな表情をしているかは、ありありと想像が出来た。
「沙織、お前マジで男見る目ないわ」
「……え……?」
沙織の震える声に、怪訝な響きが籠った。悠真は、口内に溜まった血のにじんだ唾液を吐き出し、言葉を続けた。
「須賀、やめた方がいいよ。沙織を幸せになんか、絶対にできない」
最後に強い打撃を顔面に受けて、悠真の意識はそこで途絶えた。