ep91 疑念の真相②
床に散らばった紙屑を一枚拾う。
「本田さんに、やれって言われたんだよね?」
指に挟んだ紙屑を眺めつつ、咲乃が言う。彩美は耳を疑った。
本田稚奈が、芦輪実生にやらせていた? それでは今までの嫌がらせは、全て自作自演だったのか。
「本田さんが転んだのも、転んだふりをしただけで、本当はどこも痛めてなんかいなかったんだ。後ろに山口さんがいることに気付いた、本田さんの嫌がらせだったんだと思う。自分たちがやっていた嫌がらせの全てを、山口さんに擦り付けるためのね」
「……どうして」
小さな声で、実生が囁く。どうして知っているのかと聞いたのだろう。咲乃は柔らかく目を細めて、実生を見た。
「実はあの時、本田さんがキミを脅しているのを聞いてたんだ」
咲乃はそう言うとスマホを取り出して、ある音声を流し始めた。それはまぎれもなく、稚奈と実生の声だった。
『――このこと、篠原くんに教えちゃおっかな』
『……やめて! 篠原くんには言わないで!』
『えー、でも、稚奈すっごく傷ついたんだよ? まさか、実生がこんなことするなんて思わなかったもん。信じてたのに裏切ったの、実生のほうじゃん』
『……』
『でも、嫉妬しちゃうのはしょうがないよね。だって実生、ずっと篠原くんのこと好きだったもんね?』
音声を聴く実生の顔が、絶望のものに変わる。その表情を見るだけで、実生は本当に咲乃が好きだったのだと彩美にも分かった。
『じゃあさ、篠原くんには内緒にしてあげる! そのかわり、実生はこれから、稚奈の言いなりね?』
咲乃が音声を切ると、実生は力が抜けたように膝から崩れ落ちた。泣きじゃくる実生を、彩美は信じられない気持ちで見つめる。
「初めの頃の嫌がらせは、芦輪さんがやったものだった。でも、嫌がらせをしている現場を、たまたま本田さんに見つかってしまい、それ以降は、本田さんの指示で続けるはめになったんだ」
「篠原くんの気を引くために……?」
信じられない気持ちで、彩美が呟く。
嫌がらせを受けると、稚奈はまるで庇護欲を誘う小動物のように怯えて、咲乃に助けを求めていた。あれが全て演技だとしたら、本田稚奈は男が守らなければならないようなか弱い少女などではない。性根は強かで、庇護欲とは程遠い。
「篠原くん……ごめんなさい……。私、どうしても篠原くんに嫌われたくなくてっ……!!」
子供のように泣きじゃくる実生に、咲乃は静かに手を差し伸べる。驚いた実生の瞳が、咲乃を見上げた。咲乃は柔らかく目を細めて、泣いている実生を優しく見つめ返した。
「正直、どうでも良かったんだ。自作自演の嫌がらせなんて、ふたりで勝手にやっていればいいと思っていた。でも、山口さんを貶めようとしたのは、さすがにやり過ぎだったね」
実生は唇を噛み締め、咲乃の手を掴んで立ち上がると、おずおずと彩美の方に向き直った。
「……嘘をついて、ごめんなさい」
彩美に頭を下げる実生を、彩美は複雑な気持ちで見つめていた。
朝一番の校庭には、運動部の下級生が朝練に励んでいるのが見える。彩美は教室の窓から校庭を見下ろし、深々とため息を付いた。3年2組の教室には現在、彩美と咲乃以外に誰もいない。
咲乃は固く絞った濡れ雑巾で、黒板をきれいに拭いている。彩美は、不貞腐れた気持ちで、咲乃の方に視線を移した。
「いつも本田さんと学校に来るのに、今日は良かったの?」
彩美が膨れた声を出すと、咲乃は静かに笑って彩美の方を振り向いた。
「これから生徒会で手伝わなきゃいけないことがあって、今日は早めに来たんだ。ちょっとした雑用を頼まれただけだけどね」
「篠原くん、そんなことまでやってるんだ……!」
一般生徒が生徒会のヘルプなど聞いたことがない。彩美が感心していると、「最近はあえて忙しくしてるんだ」と、咲乃は悪戯っぽく笑って、雑巾を片付けに教室を出て行ってしまった。
忙しくしている理由が稚奈を避けるためだとしたら、少しずるいんじゃないかと思ってしまう。しかし、悪戯っぽく笑った咲乃の表情が新鮮で、不貞腐れていたのに、彩美は不覚にもどきりとしてしまった。
咲乃がいなくなった後、彩美はため息をついて窓の外を見下ろした。咲乃とふたりきりの、誰もいない朝だ。いつもだったら、舞い上がっているはずの状況なのに、今はそんな気分になれない。
雑巾を片付け終えた咲乃が戻ってきた。彩美は、あらためて聞きたかったことを聞くために、咲乃に向き直った。
「本田さんの嫌がらせが全部自作自演だったって知ってたのに、どうしてずっと黙ってたの?」
あれだけ学年中の騒ぎになって、先生に集会まで開かせたのだ。咲乃の気を引きたいだけで、なんて人騒がせなのだろうと、彩美は心の中で憤慨した。それを放置していた咲乃も咲乃だ。まさか、稚奈の自作自演に気づいていたのに何もしなかったなんて信じられない。
「本当に、どうでもよかったんだ。他人に危害さえ加えなければね。でも、俺が思った以上に山口さんが首を突っ込んでくれたみたいで、さすがに止めざるを得なくなった」
穏やかにそう話す咲乃の口ぶりには、彩美を咎める響きはなかったが、彩美としてはどうしても揶揄されているように聞こえてしまう。
「だって篠原くん、本田さんといても幸せそうじゃなかったんだもん……」
実際は、彩美が一方的に稚奈に嫉妬していただけなのだが。
彩美が苦々しく思いながら俯いていると、咲乃は彩美の隣に移動して窓枠に腰かけた。
「タイミングを見ていたんだ。全てを終わらせるタイミングを」
「……タイミング?」
彩美が復唱すると、咲乃は静かに頷いた。
「本田さんを追い詰める決定的なもの、それを突き付けるタイミング。全ての条件が揃った時に、全て終わらせるつもりだった」
咲乃の曖昧な説明に、彩美はよくわからずに混乱する。すべての条件とはなんなのか、咲乃は一体、何を目的としているのか。彩美は何もわからなかったが、ひとつだけ、はっきりしたことがあった。
「やっぱり本田さんのこと、好きで付き合ってたわけじゃなかったんだ」
彩美が確信していたものは、間違っていなかったのだ。
彩美の言葉に咲乃は曖昧に笑うと、躊躇うように視線を落とした。
「ひとつだけ、山口さんに頼みたいことがあるんだけど、いい?」
「なに、篠原くん!」
はじめて咲乃が頼ってくれることが嬉しくて、彩美は不機嫌だったことも忘れて、ぱっと顔を輝かせた。
*
ファイとの散歩から帰ると、神谷は靴下を床に投げ捨ててベッドの上に寝転がった。ファイが靴下の臭いをかいで、小さくくしゃみをしている。
「あ゛ー、疲れた」
腹の上に乗っかってきたファイの体温を感じながら、背中を撫でる。このあと風呂に入って夕食を取って、その後はまた勉強をしなければならない。受験生とは忙しいものだ。
「そう言えば今日、とんちゃん来なかったな。なにやってんだろーな、トンちゃん」
「クゥン」
勉強会を休むなんて、桜花咲を受けるのにそんなことで大丈夫なのだろうか。咲乃は課題を与えたから問題はないと言っていたが、成海のためにも厳しく言うべきことはびしっと言うべきだと神谷は考えていた。
滑らかなファイの身体を撫でていると、満足そうに鼻を鳴らしながら、ファイは亮の手のひらをなめた。
「ひと眠りすっから、30分経ったら起こしてくれよな、ファイ」
「クゥン?」
受験生は忙しいとはいえ、脳には休息も必要だ。
成海には厳しいくせに自分だけは都合のいい理由を付けながら、豆柴に無理難題を押し付けて、さっそくすやすや寝息を立て始める。しかし、いい気持ちで寝落ちかけたところを、階段をバタバタかけ上がってくる騒がしい足音のせいで、目が覚めてしまった。
「んだよ、うるせーな」
目をこすりながら文句を垂れつつ、ベッドから身体を起こした。兄弟妹が多いと、静けさとは無縁だ。特に神谷家は雑な人間しか居ないため、何かと騒がしい。
一言文句を言ってやろうと腹立ちまぎれにドアを開けると、高校の制服を着た将に出くわした。
「おう、亮」
「なんだよその怪我。平成のヤンキーやってんの?」
“喧嘩上等”は死滅したと思っていたが、ここに絶滅危惧種がいたようだ。口の端が若干切れている将の顔を見て、亮は呆れた。神谷家の三男は、反抗期なだけのただのバイク好きだと思っていたが、思っていたよりバイオレンスな気質だったらしい。
「るせーな。受験生は黙って勉強でもしてろ」
肩で亮をおしのけながら、突き当りの自室に向かう。
兄貴が部屋に入るのを見届けると、亮はファイを連れて、一階のキッチンへ急いだ。戸棚からスナック菓子とオレンジジュースを手にすると、階段を上がって兄貴の部屋に向かう。
「入ってくんじゃねー、出てけ!」
断りもなく部屋に入ってくる弟に、将は枕を投げつけた。
亮が持参したスナック菓子をちらつかせる。持って来た菓子のおかげか、一度好奇心に駆られると誰にも止めることのできない弟の性分に諦めたのか、将は嫌な顔をしつつ入室を許可した。
「で、何で喧嘩なんかしたんだよ」
亮はお菓子の袋を開けながら、さっそく将に何があったのかを尋ねた。
「別にしたくてしたわけじゃねぇよ」
将は、面倒臭そうに顔をしかめた。
「スガの野郎が中学生のガキに絡んでんのを止めてやったんだろーが」
言いながら、床に寝転がってポテチをつまみながらゲームをはじめる。
「スガってだれ?」
「うちの学校の後輩」
聞くところによると、過去に万引や暴力騒ぎを起こして何度か警察に厄介になっているらしい。栄至市はけして治安の悪い地域ではないのだが、小中高と学校が多いためか、そういう問題児も中にはいるようだ。
「テメーも気を付けろよ。あいつ、今、手あたり次第、中学生のガキに絡んでるらしいから」
「なんで?」
「探してる奴がいるらしい」
「探してる奴?」
「栄至中の女子だってさ」
一体、何をしたら高校生に狙われるようなことになるのだろう。亮は心の中でその女子のことを憐れみつつ、好奇心に目を輝かせた。
「その女子の名前は聞いてねぇの? もしかしたら俺、知ってるかも!」
亮が尋ねると、将はゲームの画面から目を離し、記憶を探るように上を向いた。
「あー、たしか。津田成海つったと思うけど――」
ジュースを吹きかけて、むせ込んだ。
「なんで、トンちゃんが!?」
亮は、急いでファイを抱きかかえると、部屋を出て咲乃のスマホに通話をかけた。