ep68 今年の夏は、きっと今年にしかないから②
「ううん、たまには休息も必要だから。それに、津田さんにとって今年の夏は特別なのかもと思って」
「特別?」
わたしが聞き返すと、篠原くんは頷いた。
線香花火の小さな玉から僅かに火が飛び出して、徐々に弾ける火が大きくなった。躍るように火粉を散らし、花が咲き、瞬間の命を燃やす。
「部屋の外に出てから久しぶりに過ごす夏を勉強だけして終わらせるのは、もったいないような気がしたんだ」
「確かに、そうですね」
こうして、誰かと過ごせるなんて思いもしなかった。家族以外と過ごす夏なんて。
青春って、こう言うことを言うんだろうか。マンガやアニメを観ていた時は、これが青春! って感じでキラキラして見えたけど、いざ自分が同じようなことをしていると、あまりにも日常に溶け込んでいて、気付かないもんなんだな。
今が青春だっていう実感はない。だけど、今はただ、ただこの時間が楽しい。
「今年が受験じゃなかったら、こうしてみんなで花火なんてやってなかったんですかね」
「そうだね。夏休み中、こうしてみんなで集まって、一緒に勉強して、夕飯食べて――。今年が受験じゃなかったら、きっとやっていなかったと思うよ」
篠原くんの黒い瞳の中で、小さな花が咲いている。目の前の線香花火を愛おしむように眺めているその表情を、すごくきれいなものを間近で見て、わたしは思わず魅入られてしまった。
今年が受験でよかった。今年が今年でよかった。今年の夏は、きっと今年にしかないから。
「篠原ぁ、トンちゃーん、見て見て―! ライトニングフレイムスピン!!」
「わわっ! 神谷くん、花火持ったまま回ったら危ないですよ!」
*
花火も無くなって、後片付けを済ませると、もう帰らなきゃいけない時間になっていた。
今日は本当に楽しかったから、楽しかった時間はもう終わりなのかと思うと、少しだけ寂しく感じてしまう。
「じゃあな、トンちゃん。気をつけて帰れよ」
「神谷くんは帰らないんですか?」
篠原くんと神谷くんが、玄関まで見送ってくれた。神谷くんは帰る側だろうと首をかしげていると、神谷くんは腰に手を当てて胸を張った。
「俺は今日、泊りだからな!」
それを聞いた篠原くんが、神谷くんを嫌そうな顔で睨む。
「聞いてない」
「言ってないからな!」
「誰も許可していないよね」
「おじさんが良いって」
うわぁ、神谷くん、篠原くんに言ったら絶対断られるの分かってておじさんに聞いてる……。
当のおじさんは、微笑ましいものを見るように笑顔を浮かべていた。おじさん、篠原くんが迷惑そうなのに気づいてないのかな。
「そんなにやる気があるなら、今夜はたっぷり勉強ができるね」
やられたらやり返すの篠原くんはにっこり笑い、無慈悲な宣告に神谷くんの表情が固まる。たった今、神谷くんの勉強合宿が決まった。
篠原くんと神谷くんに別れの挨拶をしつつ、家の門を閉める。帰りは、篠原くんのおじさんに送ってもらった。
ぽつりぽつりと、夜道を照らす家の明かりはいつもより少ないような気がして、なんとなくいつもより暗く感じた。みんなお祭りに出かけているから、家の明かりが少なく感じるのだろうか。きっと商店街の方は、ここよりも明るくて賑やかだろう。
「亮くんみたいな子がいると、咲乃が楽しそうで助かるよ」
おじさんは穏やかな口調で言うのを、わたしは不思議な気持ちで見上げた。
「篠原くん、神谷くんのこと面倒臭いって思ってますよ?」
いつも神谷くんと喧嘩しているし、扱いも雑だ。楽しそうなんて言ったら、篠原くんは嫌がるんじゃないだろうか。
「咲乃がそんなふうに扱える相手も珍しいから。いいんじゃないかな、刺激になっていて」
確かに、誰に対しても丁寧に接する篠原くんにしてみれば、珍しい事なのかもしれない。篠原くんにとって、神谷くんは、本当に気兼ねなく接することのできる悪友みたいなものなのだろう。
「もちろん、成海ちゃんと過ごしている咲乃も、楽しそうだけどね」
「そうですか? 神谷くんと比べたら、面白いことなんて何もないと思いますけど」
篠原くんとの共通の話題といえば、勉強と食べ物の話くらいだしな。時々、アニメとか漫画の話もしたりするけど。その時は、主にわたしが一方的に喋っていて、篠原くんは聞いてるだけ。推しの話を語るのは楽しいけど、きっと、篠原くんにとっては興味もないし退屈に感じているだろう。
「そうだ、成海ちゃん。少しだけ、お祭りを覗きに行っちゃおうか」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。咲乃には内緒で、ね?」
ぱちりと軽やかにウィンクする。あまりにも篠原くんのおじさんが素敵すぎて、危うくわたしの心臓が止まりかけた。
*
彩美にとって今年の夏は、大切な夏だった。受験が控えているという意味でも大切な時期ではあるが、それ以上に大切なことがあったのだ。
今年の夏は、篠原くんとの思い出を作る。
それが彩美の目標だ。同じ学校にいられるのは今年だけ。チャンスは今年で最後だ。彩美はどうしても咲乃との距離を縮めたかった。だから、神谷に何度もお願いしたのだが、神谷からはまったく返信がない。今夜の夏祭りだって、神谷からの返信が来ることはなかった。
「彩美ー、大丈夫?」
彩美の親友である、橋本愛花が気を使って声を掛けた。
先程から彩美は、公園のベンチに座ったままピクリとも動かない。両手でスマホを握り締め、ただ項垂れている。
神谷のことだ。気まぐれに遊びにくるかもしれない。その時にはきっと、篠原くんも連れて来てくれるはず。返信がないからって、絶対に来ないとはかぎらないし、神谷のことだから、返信するのを面倒臭がってしないだけだ。
きっと神谷は、篠原くんをつれて来てくれる。そう信じて、今日のために浴衣を新調し、髪型も可愛くまとめて来た。だけど――。案の定、神谷が咲乃を連れて、お祭りに来ることなんてなかった。
「足、まだ痛いか? 絆創膏買ってこようか?」
重田がなだめるように声を掛ける。俯いたまま何も返事がない彩美の様子に、愛花と重田は困って顔を合わせた。さっきまで順調に屋台を巡っていたのに、突然足が痛いと言い出したから、こうして休憩を取ったわけだが、30分経っても動こうとしない。
愛花と重田は、彩美の心境を察して、互いにため息をついた。
要は不貞腐れているのだ、咲乃がいない事に。