完全無欠のお嬢様は学校に行きたくない
連休明けで仕事や学校に行きたくない全ての方へ。
「行きたくない行きたくない行きたくなぁいぃぃぃ!」
由緒正しきエングレイブ公爵家に仕えるセバスチャンは、お嬢様の大声にため息をついた。
彼が仕えるレティシアお嬢様は、御年14歳。日頃は立てば芍薬座ればなんとやら、のどこに出しても恥ずかしくない完全無欠の淑女である。
「どうして休暇というのはこんなにもあっという間なの!」
その美貌と併せて当代一の高嶺の花、行く末は王太子妃との呼び声もあるが、毎回休暇の最終日にはこうして駄々をこねるのが恒例となっているのであった。
「言葉には魂が宿ると申します。いっそ、行きたい、と仰ってみたらお気持ちも前向きになるやも…」
自信なさげに取りなすのは専属メイドのエマだ。
「行きたい行きたい行きたい…行きたくないわ!」
…言われたことは素直に試すものの効き目はないようだ。
エマよ、そんな縋るような目で私をみないで欲しい。
夜も更けて、そろそろ寝なければならない時間だ。
入浴や寝支度のために控えているメイドたちは彼女を寝かしつけなければ仕事を終えられない。
そんな事情もきちんと理解するお嬢様だ。
早く寝ないとみんなの迷惑になる、そんな焦りも、整理できない気持ちを余計にややこしくさせているのだろう。
「時にお嬢様。」
「なぁに、セバス?」
「無事之名馬、ということわざをご存知でしょうか?」
「ぶじこれめいば?」
「はい、遠く東の国に伝わるお話でして…」
競走馬を指して、多少能力が劣っていても、怪我せず無事に走り続ける馬は名馬である、と言う話だ。
じゃあ怪我をしたら名馬じゃないのか、など突っ込みどころはあるものの、私はこの言葉が嫌いではない。
要は、無事に息を吸って吐くだけでも大したものだ、と言う話だ。
「つきましてはお嬢様、本日は湯を浴びてお布団に入ることができたら万々歳。そこまでで拍手喝采と致しましょう。」
「はくしゅかっさい…?」
「そこまで終えられましたら、お風呂上がりには特別に、蜂蜜入りのミルクをご用意いたします。」
「いいの!?」
「はい、試練を乗り越えたお嬢様へのご褒美です。」
「エマ!バスルームへ行くわ!…待たせてごめんね?」
ソファに根っこが生えていた我らがお嬢様は、軽やかに立ち上がると、部屋を出て行った。
エマも慌てて後を追う…かと思いきや。
「毎度お見事です。」
おや、褒めていただけるとは。
「ああいう「行きたくない」は、真面目な努力家の証ですからね。明日はあれをしなければいけない、これの準備は万全だろうか、と想像しなくて良いことまで想像して疲弊してしまう。
だからひとまず、考えるのはここまで、という線を引いて差しあげるんです。」
お風呂に入ってスッキリして、穏やかな気持ちで眠りについてくれればそれでいい。学校に行かずとも、朝元気に目覚めてくれればそれでよいのだ。
ひとつ山を越えてしまえば嫌悪感は軽減されるものだが、それでも行きたくないのならそれでいい。
なんせ生き物なんて、息を吸って吐いているだけで上等なのだから。
「さて、私はホットミルクの準備でもしますか。」
エマを促しつつ扉へと向かうと、彼女のまぁるい瞳と視線がかちあう。
「それでは私は、頑張り屋さんのあなたに、とっておきのブランデーを用意してお待ちしておりますわ。」
…彼女のあの上目遣いには敵わない。
扉の向こうへ消えていくエマを見送る敏腕執事の耳はほんの少し赤かった。
連休明けというのはどうしてこう気が進まないのでしょうか。
無事之名馬、とはもともと禅宗の名言「無事之貴人」をもじったものだそうです。意味も少し違うそうですが、私は、元気なら万事おっけー!という意味で使わせていただきました。
息を吸って吐けば満点!寝て起きただけで大したもの!